同じロンドンで学んだ二人──南方熊楠氏と夏目漱石氏
南方熊楠氏のロンドン留学時代を調べているうちに、ふと夏目漱石氏のことが浮かんできた。
同じ1867年生まれ。
同じロンドンで学んだ二人。
けれど、その道は驚くほど対照的だった。
実は、南方熊楠氏と夏目漱石氏は1867年生まれの同学年です。ただし、ロンドンにいた時期は重なっていません。
🔸南方熊楠氏
1892年~1900年ごろまでロンドンを拠点に滞在(約8年)
🔸夏目漱石氏
1900年~1902年に文部省派遣の留学生としてロンドン滞在(約2年)
つまり、熊楠氏が帰国する頃に、漱石氏がロンドンへ到着したという形になります。
🔸南方熊楠氏は私費留学で、生活費を切り詰めながら大英博物館に通い、世界的な学術誌『Nature』へ論文を投稿。
🔸夏目漱石氏は文部省の国費留学生として渡英しましたが、ロンドンで深い孤独と神経衰弱に苦しみ、その体験が後の文学につながりました。
ですから、決して「優雅な留学」と単純に言い切ることはできません。
経済的には熊楠氏より恵まれていましたが、漱石氏はロンドン生活を「人生でも不愉快な二年間」と振り返っているそうです。
熊楠氏は「自然科学」と世界へ向かい、
漱石氏は「人間の心」と文学へ向かった。
同じ時代、同じロンドンという都市が、この二人の天才をまったく異なる方向へ育てたことが興味深いです。
※南方熊楠氏の生活は、国費で学問を修めた夏目漱石氏とは対照的に、文部省からの支援もなく、大英博物館での過酷な独学と雑草のような生活でした。
熊楠氏は抜群の語学力でイギリスの科学雑誌『ネイチャー』に多くの論文を寄稿し、のちの孫文ともロンドンで友情を育みました。
💡漱石氏と熊楠氏のちがい
🔸夏目漱石氏
国費の留学生として余裕を持ち、文学の本質や英語教育に悩みながらロンドンで暮らしました。
🔸南方熊楠氏
自費(のちに困窮)で渡英し、学校に属さず大英博物館の図書室でひたすら本を読み、植物や民俗学の知識を身につけました。
熊楠氏のロンドンでの実績
・大英博物館での研究
毎日朝から晩まで本を読み、膨大な知識を頭に叩き込みました。
・『ネイチャー』への寄稿
生物学や民俗学に関する論文をイギリスの科学雑誌に何度も投稿して高い評価を得ました。
・孫文との出会い
のちに中国の指導者となる孫文とロンドンで親交を深めました。
・破天荒なエピソード
大英博物館でトラブルを起こして逮捕されるなど、強烈な個性と人間味を発揮しました。
夏目漱石氏と南方熊楠氏の略歴について
夏目漱石氏と南方熊楠氏は、
ともに慶応3年(1867年)生まれの同い年であり、一時期は東京大学予備門の同級生として同じ学び舎に席を置いていました。
しかし、その後の人生の歩みは対照的です。
📌夏目 漱石氏(1867年 〜 1916年)
エリートの道を歩み、のちに国民的文豪となった英文学者
🔹誕生と不遇な幼少期
江戸(現在の東京都新宿区)の町方名主の家に生まれました。
生後間もなく里子や養子に出されるなど、複雑な家庭環境で育ちました。
🔹予備門と大学時代
東京大学予備門に入学し、優秀な成績を収めます。
ここで正岡子規氏と出会い親交を深めました。
その後、帝国大学(現在の東京大学)英文科を卒業します。
🔹教師生活とロンドン留学
松山や熊本で英語教師を務めたのち、1900年から2年間、文部省の命でイギリス・ロンドンへ留学しました。この留学中に孤独から激しい神経衰弱を患いました。
🔹文豪への転身と晩年
帰国後、気晴らしに書いた『吾輩は猫である』が大ヒットします。
その後は教職を辞して朝日新聞社に入社し、『坊っちゃん』『三四郎』『こころ』など数々の名作を執筆しましたが、胃潰瘍のため49歳で急逝しました。
📌南方 熊楠氏(1867年 〜 1941年)
世界を驚かせた「歩く百科事典」にして在野の天才博物学者
🔹誕生と神童時代
紀伊国(現在の和歌山県和歌山市)の商人の家に生まれました。幼少期から驚異的な記憶力を持ち、他人の家で読んだ膨大な百科事典などを暗記して家で筆写していました。
🔹中退と海外放浪
東京大学予備門に入学しますが、学校の試験勉強を嫌って落第し、退学します。
19歳から約14年間アメリカやイギリスへ渡り、学校には通わず独学で動植物学や考古学を研究しました。
🔹世界的評価と孫文との親交
ロンドンの大英博物館で膨大な文献を読み漁り、イギリスの科学雑誌『ネイチャー』に多くの論文を寄稿して脚光を浴びました。
また、ロンドン滞在中に革命家の孫文と深い友情を結びました。
🔹帰国とエコロジー運動
帰国後は和歌山県田辺市に定住しました。粘菌(変形菌)などの新種を次々と発見し、日本民俗学の草分けとしても活躍しました。
明治末期には、自然と文化を守るため国の「神社合祀(ごうし)」政策に猛反対し、日本初のエコロジー(自然保護)運動を展開しました。
昭和天皇に粘菌の進講(講義)を行ったことでも知られ、74歳で亡くなりました。
同じ年に生まれ、同じ学校を経験しながら、
一方は「言葉と心」の内面世界を掘り下げ、
もう一方は「自然と世界」の森羅万象を追い求めたという、非常に興味深い関係でした。
💡夏目漱石と南方熊楠の正確な誕生日
夏目 漱石氏:1867年2月9日
(旧暦:慶応3年1月5日)
南方 熊楠氏:1867年5月18日
(旧暦:慶応3年4月15日)
漱石氏の方が約3か月早く生まれています。
夏目漱石氏と南方熊楠氏は、まったく同じ学年(同期生)で、2人は明治17年(1884年)9月に、そろって東京大学予備門に入学しています。
当時の成績表(明治18年3月期)には、漱石氏の本名である「塩原金之助」と「南方熊楠」の名前が並んで残っているそうです。
しかし、同じ教室にいたものの、2人の「学生としての過ごし方」はまったく違いました。
📌学校生活のちがい
🔸夏目漱石氏(塩原金之助)
真面目に授業に出席し、優秀な成績を収めるエリート学生でした。
🔸南方熊楠氏
学校の授業を「くだらない」と嫌い、ほとんど出席しませんでした。
代わりに上野の帝国図書館(現在の国際子ども図書館)に朝から晩まで通い詰め、独自の勉強や遺跡発掘、植物採集に没頭していました。
📌結末のちがい
この出席率と勉強スタイルの差は、すぐに進級試験の結果として表れます。
🔸夏目漱石氏
順調に進級し、帝国大学へと進みます。
🔸南方熊楠氏
明治18年(1885年)12月の試験で、苦手だった「代数(数学)」で落第が決まり、そのまま明治19年(1886年)2月に退学してしまいました。
ちなみに、このクラスにはのちに名作俳句を遺す正岡子規氏もいましたが、子規氏も熊楠氏と同じ試験で落第しています。
南方熊楠氏の場合、数学への「苦手意識」というよりも、「自分の興味のないことには1秒も時間を割きたくない」という極端な偏食ぶりが落第の原因と言われています。
彼が予備門の数学(代数)を放り出した背景には、以下のような熊楠らしい理由があります。
数学を無視した理由?
・単なる興味の欠如
熊楠氏は自然界の動植物、歴史、言語、民俗学には異常な情熱を注ぎましたが、抽象的な数式にはあまり興味が湧きませんでした。
・授業へのボイコット
学校のカリキュラムに従うことを嫌い、数学の授業時間は上野の図書館での読書や、考古学の遺物・植物の採集に費やしていました。
・試験の白紙答案
試験の日もまともに勉強せず、答案用紙に数式ではなく「カエルの絵」を描いて提出したという破天荒な伝説まで残っているそうです。
・記憶力は人類最高峰
彼が「勉強ができなかった」わけではないことは、その怪物的な記憶力が証明しています。
幼少期に、全105巻もある百科事典『和漢三才図会』を他人の家で読んでは暗記し、家に帰ってから一言一句違わずに書き写していました。
英語をはじめ、ラテン語やギリシャ語など多くの言語の文献を読みこなし、その数は20前後の言語に及んだとも言われています。
驚異的な記憶力で、大英博物館の膨大な蔵書を読み込み、自らの知識として蓄えていきました。
つまり、脳のキャパシティはありましたが、「他人に強制される勉強」を脳が完全に拒絶してしまったと言われています。
この極端な性格があったからこそ、学校の枠に収まらない「世界的な博物学者」が誕生することになったと言われています。
AIによる西洋占星術の視点から
🔸夏目漱石氏(2月9日生まれ)
♒ 水瓶座の特徴
論理的、個人主義、先見の明がある、ユニークな視点。
・漱石氏との共通点
国費留学というエリート街道を歩みつつも、国家に縛られない「自己本位」という個人主義の思想を確立しました。
英文学者としての冷徹な観察眼で、近代日本の歪みや人間のエゴイズム、孤独な内面をロジカルかつ繊細に描き出しました。
🔸南方熊楠氏(5月18日生まれ)
♉ 牡牛座の特徴
五感が鋭い、粘り強い、自然を愛する、こだわりが強い(頑固)
・熊楠氏との共通点
「大地の星座」である牡牛座らしく、和歌山の深い森を歩き回り、粘菌やキノコなど「地を這う生物」を生涯愛し続けました。
自分が納得いくまで徹底的に文献を調べ尽くす、圧倒的な粘り強さと職人気質な探求心を持っていました。
🔸「風の星座(水瓶座)」で言葉や思想を巡らせた漱石氏
🔸「地の星座(牡牛座)」で世界の物質や自然と一体になった熊楠氏
西洋占星術から、星座の性格、特徴を当てはめてみると、二人の生き様や才能のあり方に重なる部分もあります。
次回は月星座についてもまとめたいと思います。
読んでいただきありがとうございます☘️
