
人に“ちゃんと”を求めるくせに、自分は全然ちゃんとしてない。
人って、案外ちゃんとしていない。
でも私たちは、どこかで「ちゃんとしていてほしい」と思ってしまう。
それで勝手にモヤモヤして、傷ついて、疲れていく。
私は、ずっとそうだった。
しかも、自分は丁寧な人間でもないのに、だ。
私、ちゃんとした人間じゃない。
忘れるし、雑だし、連絡も抜けることがある。
気を抜いたら、すぐに何かをうっかり落とすタイプだ。
でも――
そんな自分でも、「人からは丁寧に扱われたい」と思ってしまう。
名前を間違えられるとモヤっとするし、
話を流されたり、適当に扱われると悲しくなる。
要するに、自分はちゃんとしてないのに、
人にはちゃんとしていてほしいと思っている。
冷静に考えれば、かなり矛盾している。
たとえば、私の名前は少し読みづらい。
だから初対面で間違えられるのは慣れているし、仕方ないとも思ってる。
でも何度もやりとりしているのに、毎回間違えられると、
「ああ、この人、私のことちゃんと見てないんだな」と感じてしまう。
そして、その違和感のあとにやってくるのは、
「そもそも私は、この人に“ちゃんと見てもらえる”前提で接してたんだな」という、
なんとも言えない自覚だった。
そもそも人間の脳は、そんなに精密にできていない。
一日に処理する情報量は膨大で、
すべてに気を配って丁寧に振る舞える人なんて、ほぼいない。
だから忘れるし、雑になるし、抜け落ちる。
そして、私自身もまさにその一人だ。
それなのに私は、人にだけはちゃんとしていてほしいと思っていた。
私の名前を正しく呼んでほしいし、
私が送った言葉をちゃんと読んで、意味をくんで返してほしい。
私がした気遣いには、同じくらいの温度で返してほしい――。
でも、よく考えたら、私も全然そこまでできてない。
人の名前を間違えたこともあるし、
既読だけつけて返さなかったこともある。
そうやって、自分ができてないことを相手に求めすぎて、
そりゃ、うまく噛み合わないよな…と思うことがあった。
人って、たいてい適当だ。
ちゃんとしてるように見えても、完璧じゃない。
たぶん、みんな自分のことで精一杯で、
他人のことなんてフルスペックでは気にかけられない。
それが、普通なのかもしれない。
「ちゃんとしてほしい前提」をやめたら、意外と人との関係がスムーズになった。
自分の中にあった無意識のこだわりが、いちばんのノイズだったのかもしれない。
人に完璧を求めない。
自分にも求めすぎない。
それくらいが、ちょうどいい。