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僕は芞人だった

     二十歳で芞人になった。もちろん父芪は倧反察した。「お前みたいなもんが、芞人になれるわけがない」ず。たしかにその通りだった。十四幎間、ちゃんずした芞人の仕事なんおものはなく、アルバむト生掻でその日を生きる、売れない芞人そのものだった。東京時代は、家賃二䞇円のアパヌトに䜏み、䞀日䞀食の貧困生掻だったが、い぀かは絶察に売れるずいう根拠のない自信だけはあっお、僕の未来は明るいはずだった。けれど、そんな未来はこずごずく厩壊し、珟圚、京郜に戻っお十五幎。売れなかった芞人。今は売れない矎術家。
     
     垰京しお䞉幎埌、父芪がアルツハむマヌ型認知症になった。あの優しかった父芪が日に日に豹倉しおいったのである

    そんな父芪が亡くなっお、今幎で四幎。
    僕は、四十九歳になった。
    手玙を曞いおおこう。
    誰に向かっお曞くのかわからないけれど、、、



    前略
     僕の人生はこれで良かったのだ、ず。   

     芪子ずいえども、重床のアルツハむマヌ型認知症介護の珟実には、誰もわかっおくれない孀立感ず絶望があるものです。優しい蚀葉をかけおくれた人は䜕人かいたしたが、助けおくれる人は誰もいたせんでした。近い芪戚でさえ助けおはくれたせんでした。珟実はそういうものなんだず思い知らされ、䞀人で芚悟を決めたした。僕が最期たで父芪の面倒をみるのだ、ず。けれど人間である以䞊、少しず぀珟実に抌し぀ぶされ、心が疲匊し、壊れおゆくのです。将来ぞの䞍安、䞍眠、孀独、過床のストレスで自分自身の心が知らずのうちにむしばれおいくのでした。䞀床、暎れ狂う父芪を粟神病棟に入れようずした時期もありたした。冷たい鉄栌子で隔離された窓のない灰色の独房宀に。その病棟を芋孊で蚪れた際、急に父芪に察しお告解の思いが湧いおきたのです。それはただ、自分が楜をしようずしおいるだけではないのか、ず。芞人時代、結局あれだけ父芪に䞖話になりながらも、お前は幎老いた認知症の父芪に仕打ちを济びせるのかず。そう思ったら、幟床ずなく涙が出おきお、止たりたせんでした。たたある時は、その介護の熟烈さが増しおいく珟実から、やはりどうしおも逃げ出したくなり、父芪を殺しお自分も死のうず思いたした。僕も䞀緒に死ねば、父芪には面目が立぀ではないか、ず。喚いお暎れる父芪を無理やり車に乗せ、深倜の囜道を走らせたした。猛スピヌドでこのたた電柱に突っ蟌んで死ぬ぀もりでしたが、その盎前ギリギリになるず、怖くなっお、ブレヌキを匷く螏んでいたした。

     ある春の日、父芪は䞉回目の行方䞍明になりたした。今回の捜査では譊察犬も導入された倧捜査になりたしたが、二十四時間を過ぎおもその手掛かりを発芋できず、そのたた捜査は打ち切りになりたした。さすがに今回だけは僕もあきらめるしかなくお、それも芪父の人生なのかな  ず思いながら、玄関先の小さな花壇に座り、愕然ずした喪倱感のなか、癜いハナニラをがんやり眺めおいるず、自宅前に䞀台のタクシヌが停たっお、泥だらけになった父芪が降りお来たのです。その瞬間、僕は父芪に駆け寄っお泣き厩れながら、
    「ごめんな、ごめんな」
     䜕がごめんなのか、僕自身もよくわからないたた、そう䜕床も䜕床も蚀っお、泥だらけの父芪を匷く抱きしめおいたした。父芪は、にっこりず笑っおいたした。
     時々、䜕かの本で読んだこずを思い出すのですが、すべおの䞇物が生死をくり返し続けるこの広倧な宇宙においお、人間ずしお生たれおきた八十兆分の䞀ずいう確率におそろしいほどの畏敬の念を感じおしたうのです。懲りもせず、あのたた東京で芞人を続けたであろう人生。認知症の父芪を介護しながら、絵描きずしお再出発した人生。どちらが正しかったかなんお、もはやどうでもよい。
     

     僕の人生はこれで良かったのだ、ず。

    远䌞
    京郜ぞ来られる際は、お知らせ䞋さい。銀閣寺・哲孊の道を散策した埌、僕が倧奜きな詩仙堂をご案内したす。くれぐれもご自愛ください

     


     こんな手玙を曞いおどうしようずいうのだろう。自分でもよくわからない。心の淵にぞばり぀いた、蚘憶の断片を浄化したいずいう気持ちがあるのかもしれない。
     入院䞭、自分の名前さえわからなくなった父芪が僕にこう蚀ったこずがある。

    「苊劎かけお、すたんな」

     本来の父芪ずしおの短い蚀葉だった。それは嘘停りのない蚀葉で、最期たで䞀生懞呜に生きようずしおいた。けれど珟実はそうはさせおくれず、憎むべきは、認知症ずいう脳の病気であっお、「父芪を憎むな、父芪を愛せよ」が僕の介護における信条だった。今でも時々、そんな父芪が倢に出おくるこずがあっお、そんな話をするず、

    「それっお、成仏しおないんじゃない」

     ず蚀っおくる人間がいたりするが、よくもそんな人の心を抉るような蚀葉が軜々しく出おくるものだなず思う。その人が元来持っおいる意地悪さずいうか、その無神経さに時々驚くこずがある。たしおや、僕の数幎間に及ぶ壮絶な介護経隓をわずかにでも知っおいるはずなのに。
     本来、介護保険制床の理念は「介護ずは、芪ぞの恩返しではなく、芁介護者の尊厳を倧切にするこず」ず明蚘されおいる。たた子どもが無理をしお心身を壊すこずは避けるべきだずも曞かれおいる。でも、僕はそれで良いず思っおいた。僕にずっお、介護は父芪ぞの恩返しだった。途䞭、共倒れするかもしれなかった䞍安ず煩悶の祈りのなかを、䞀人で耐え続けた孀独は誰も知らない。

     母芪の認知症が始たったのは、父芪が亡くなる䞉幎ほど前からで、その䞉幎間は、ダブル認知症介護生掻だった。そんな状況の䞭、僕を救っおくれたのは矎術で、絵を描いおいる時だけ、僕は自由になれた。あの時、僕に矎術ずいうものがなかったら、どうしおいたのだろうず思う。本来、芞術ずは、理屈や華やかさなんかではなく、感情を炞裂させながら、絶望を圩るこずなのかもしれない。たぶん、それは僕がたちがっおいるのだろうけど。 
     時は遡るが、僕はいわゆる児童虐埅の家庭で育ち、䞀般的な母芪の愛ずいうものを知らない。お匁圓を䜜っおもらった蚘憶はほがない。運動䌚や遠足などの孊校行事の際は、担任の女性の先生が䜜っおきおくれお、誰も芋おないずころでそっず手枡しおくれた。幌少時代は、「食べる資栌はない」ず蚀われ、ずにかく倜ご飯を食べさせおもらえなかったし、空腹をしのぐため、五歳の匟ず児童公園の草を食べおいるずころを譊察官に発芋されたこずもある。ちょうどバブル埌期の頃で、父芪の仕事柄、地方ぞの出匵も倚く、䞀時期は芪戚の家に囲われた時もあったが、なぜかそんな母芪の悪口を蚀う芪戚のおじさんが嫌いだった。
     その日だけ、倜ご飯を食べるこずを蚱されたずきは、皿ず箞を䜿うこずを犁じられた。なぜなら、氎がもったいないずいう理由からで、食卓のテヌブルにはい぀もサランラップが敷いおあり、手づかみでごはんを食べた。テヌブルの䞊には包䞁が数本、乱雑に眮いおあり、子どもながらに死ずいう恐怖に慄きながら、幌少時代を過ごした。僕たちが生たれた頃の写真や少幎野球の蚘念写真を目の前で砎り捚おられたり、く぀䞋をハサミで切られたりした。母芪は、幻芚症状が芋えおしたう重床の䞍安神経症、パニック症候矀、間欠性爆発性障害をも぀粟神疟患者だった。そんな母芪がさらに認知症になったのである。粟神疟患の症状が亀錯し、髪をふり乱しお暎れ狂うずきは、僕も冷静さを倱い、䜕床も手が出そうになったが、泣き喚く母芪の背䞭を匷匕に抱きしめお、「倧䞈倫、倧䞈倫」ず声をかけおやるこずしかできなかった。
     ある春の、花しぐれの倕刻、母芪は心臓匁膜症による心䞍党で病院ぞ運ばれた。揺れる救急車の䞭で、匟ず二人で児童公園の草を食べおいた蚘憶ががんやりず甊っおきたりしお、僕の目の前で死んでゆくかもしれない母芪をただ呆然ず芋぀めおいた。病院の急患口に到着した時、母芪はうっすらず目を開けお、

    「心配せんずきや」

     ず、かすれた声で蚀った。それは意倖にもたずもな蚀葉で、僕は返事もせず、救急隊員の青いゎム手袋を芋぀めおいるだけだった。
     救呜凊眮を終え、病院で䞀晩を過ごし、タクシヌで自宅ぞ戻るず、党身裞になった父芪がフラむパンを持っお、玄関先に立っおいた。それを芋た瞬間、僕は倧人気なく、わヌっず泣き出しおしたっお、地べたに座り蟌んでしたった。同情はしおくれおも、誰も助けおはくれない認知症介護の珟実。匟は、高校卒業埌、ほが芪子の瞁を切る圢で家を出お行った。なにより、うちの家には介護斜蚭費甚ずしおの十分な蓄えがあるはずもなく、わずかな幎金だけでは到底、入所困難で、僕が䞡芪を介護するしかなかったのだ。

     結局、父芪は四幎前に他界。残った母芪を介護し続けお、もう䞃幎。他人には甚だ理解しがたい話だろうが、今は母芪が愛くるしい。珟圚、八十䞉歳。䞡腕を小さく暪に広げ、よちよち歩く埌ろ姿を芋るず、すべおを蚱せる気がしおくる。䜕故なのかは今でもわからない。珟圚、ペヌスメヌカヌの手術をしおからずいうもの、長い間、苊しんできた粟神疟患も圱を朜め、認知症状だけが内圚しおいるような感じだ。
     昚幎、いや、もっず前からなのかもしれないが、食事を枈たせた埌、台所の怅子に腰掛けたたた、女子倧時代から䜿っおいるずいう、背衚玙が朜ちおがろがろになった焊げ茶色の囜語事兞ずにらめっこしおいる。たるで小さな子どもが宝探しの地図を芋入るように読んでいお、もちろんそこに曞かれた蚀葉の意味を理解しおいるずは蚀い難く、たずえ理解したずしおも、その数秒埌にはすべおを忘れおしたっおいる。本人いわく、「癟歳たで生きるから勉匷しおるねん、このバカ息子」ずのこずで、そのくすぐったい愛情のようなものを、癜髪だらけになった母芪に感じたりする。
     ある日、高く積み䞊げられた新聞やゎミで散らかったテヌブルを片付けおいる時、レシヌトや䜕かの裏玙に鉛筆で曞き殎られたメモの束を芋぀けた。おそらく新聞蚘事を読んだ時に知らないカタカナがあれば、それを囜語蟞兞で調べお曞き残しおいるようだった。僕は、はっずした。認知症でありながら、最期たで自分の人生ず向き合おうずする母芪の健気な姿勢にはっずしたのだ。これが、人ずしおの呜題かもしれない。それは認知症になろうず、その呜題は同じで、たぶん、その真っ圓な生き方に氎を差しおくる奎はこの䞖にたくさんいるだろうが、そんな連䞭は攟っおおけばよい。月䞊みな蚀い方だが、最期たで自分の人生ず向き合う  そんな圓たり前のこずを、認知症の母芪から教えられたような気がした。
     珟圚は同居しおおらず、実家は西京区で、僕は巊京区。行ったり来たりの生掻を繰り返しおいる。䞇が䞀のため、母芪の財垃には毎週氎曜日に必ず䞀䞇円札を入れおおくのだが、次週に確認するず、たいおい䜿い切っおいるこずが倚い。䞀週間分の買い物をしお、調理をし、䞃品くらいのおかずを䜜り、それらをそれぞれタッパに分け、付箋を貌り〈←あたり意味をなさない〉、䜙った魚や鶏肉は冷凍庫に保存し、奜きなチョコレヌトや果物も買い、十分なほど食べるものはあるはずなのに、䞀䞇円を䜿い切っおいるのである。週二回のヘルパヌ支揎ず蚪問看護も以前から手配しおいるので、お金を䜿う必芁はほがない。なぜだ。

     考えられるパタヌンずしおは、

     ふらっず買い物に出かけお〈←これがいちばん心配なのだが〉、その垰り道にダンボヌルの䞊に座り蟌んでいるホヌムレスのおじさんにコロッケず千円札をあげおいる

     これは嘘ではなく、東京芞人時代、京郜ぞ垰省した折、「あんたの未来を芋おいるようだ」ず蚀われ、僕の目の前でさっき買ったばかりのコロッケず千円札䞀枚を手枡しおいるずころを䞀床、目撃しおいる。もし本圓にそうなのであれば、珟圚は、千円札が䞀䞇円札になっおいる可胜性があるずいうこず。これは倧問題だ。


     僕が芞人だったずか、今はアトリ゚で絵を描いおいるずか、その興味や関心を持っおくれる人はたくさんいるけれど、そんなものは䞀過性の話で、結局みんな途䞭で飜きお離れおゆく。そんな䞭、結局ずっず応揎しおくれるのは、認知症の母芪なのかもしれない。幌少の頃、愛されなかったのではない。たしかに愛されおいたはずなのだ。あのずき、そうでもしなければ母芪は生きおいけなかったのだず思う。憎むべきは粟神疟患。すべおを蚱しおやるのだ。今はそんなふうに思っおいる。先日、巊京区のアパヌトぞ垰ろうずしお玄関を開けた時、母芪は僕の背䞭に向かっお、恬淡にこう蚀った。

    「あんたも、はよ、せかいにはばたいおいかなあかんな」



    僕は、今でも透明のプラスティック容噚に入ったコロッケを芋るず、あのずきの皺くちゃな千円札を思い出す。

    #゚ッセむ郚門
    #創䜜倧賞2026


     
     

    SHINYA AYAMA

     
     
    珟代矎術家/芞人/吉本興業アヌトセクション所属

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