
世界に憧れて日本を飛び出したら、待ってたのは地方言語の壁だった
YouTubeのサイトに入ると、外国語学習の動画が次々とお勧めで表示される。英語の学習法から、なぜか英語話者ユーチューバーのフランス語上達法、10ヵ国語をマスターしたという強者の外国語勉強法……。
自分がこうした動画を観ているから、アルゴリズムで出てくるわけだけど、なぜそんなものを観ているのかというと、私は数年前から外国語学習に苦しんでいるから。それが、カタルーニャ語だ。
バルセロナに住みはじめて、もう今年で9年目になる。それなのになぜいまさらと思うかもしれないが、まずは簡単に私の外国語との関係を説明したいと思う。
私は、12歳のとき「めざましテレビ」のインタビューに答えていたダニエル・ラドクリフ(映画『ハリー・ポッター』の主役の彼。実は同い年)に恋に落ちた。以来、彼と結婚するために英語を猛烈に勉強し、果ては、自分は日本人じゃなくて英国人なのではないかと謎の妄想に取り憑かれて悩んだ。そして、英国に“戻る”ためには留学必須の早稲田大学の国際教養学部に行くしかないという、これまた謎の強迫観念に追われて大学に合格した。
この期間、日本に暮らし(というか私は思いっきり純ジャパニーズです)友達もいたし、普通に生活していたはずなのに日本でどんなドラマが流行っていたかとかいう記憶ががっぽりない。家では、(英国人ではない)カーペンターズなどを聞いてしんみりしては、涙をこぼして母国の英国に思いを馳せていたからだ。
というわけで、一応英語は文字通り一心不乱に勉強していたので、できるといってもいいと思う。では、次にスペイン語。
こちらは大学のときから第二外国語で勉強し、例の留学強制の制度でスペインのサラマンカという学生街に1年弱留学(なぜ英国にしなかったのか。大学入学とともに自分が英国人ではないことに気がついたからです)。その後も断続的に勉強をしていて、去年やっとC1の試験に受かった(遅いけど)というレベル。
何が言いたいかというと、一応2ヵ国語を上級レベルまでにした経験はあるということ。それなのに、カタルーニャ語が自分でもびっくりするくらい定着せず、勉強する代わりに延々と他人の「ハウツー」動画を見続けて無駄な時間を過ごして逃げ回っているということだ。
ちなみにカタルーニャ語とは、バルセロナのあるカタルーニャ州で話されている言語で、いわゆる「方言」ではない(バレアレス諸島やバレシアではカタルーニャ語の方言が話される)。
その昔、アラゴン王国時代は現在のギリシャやイタリアのサルデーニャまで統治していたので、それらの地域でもカタルーニャ語は話されていた。しかし、その後アラゴン王国は衰退、さらにフランコの独裁政治でカタルーニャ語やバスク語、ガリシア語といったスペイン語以外の言語の使用が厳しく禁止され、話しているところを見つかったものなら拷問にあったり、運が悪ければ殺害されたりすることもあった。だから、カタルーニャの人々は家のなかだけでひっそりと彼らの言葉を使い続け、現在にまで繋げてきたというわけだ。
なので、彼らはすごく自分たちの言葉と文化を大切にしている。それは素晴らしいことなのだけど、彼らのアイデンティティーがあまりにも強すぎて、最初は疲れてしまったことも確かだ。
5年前くらいに、2年ほど付き合っていた8歳年下のカタルーニャ人に突然振られた。青天の霹靂とはまさにこのことで、理由を聞いたところ、いろいろあったものの、そのなかの一つに私が「カタルーニャ語を学ぼうとしない=彼の友達ともつるめない」というのがあった。まさか、それがネックだったとは……!
そこで、私は猛烈に反省した。たしかにカタルーニャという土地に住んでおきながら彼らの言語を学ぼうともしないのは、よろしくないと。3度目の正直(一応その前に勉強しようとしたことはあったが続かなかった)で、本格的にカタルーニャ語に取り組みはじめたというわけだ。
で、いまどのレベルかというとB2の試験を控えている(A1が一番低いレベルで、A2、B1、B2、C1、C2と続く)。頑張ったでしょ? でも正直、一地域でしか話されない言葉を学ぶよりも、その時間で英語やスペイン語を極めたいという誘惑もある。しかも、A Iの時代にそもそも外国語を学ぶ意味なんかないという人もいるかもしれない。
でも、この土地で暮らしているなら、言葉ができたほうが断然暮らしやすい。「カタルーニャ語を勉強している」というだけで喜んでくれるし、受け入れられ方も違ってくる。A I時代だからこそ、生身の人間のコミュニケーションが大切にされるのではないかとも思っている。だから、モチベーションはあがっている。
とはいえ前途多難だ。たまに「もうコツが掴めているので、3ヵ国語目は余裕です」みたいな人もいるが、私にはどういうことなのか、まったく意味がわからない。余裕どころか、スペイン語と似ているところは混同するし、別物の単語はまったく脳に定着しない。正しい発音もいまだにできない。さらに大きな問題がある──恥ずかしい。
え、いまさら? とか思わないでほしい。本当に勇気が出ないのだから。
英語でもスペイン語でも、完璧に話せてなんていないことは承知している。でも、恥なんてものは顔を出さないし、それこそ間違えながら学んできた。それなのに、なぜかカタルーニャ語は恥ずかしい。「おはよう」「おやすみ」「ありがとう」くらいしか堂々と言えない。観光客レベル。
英語の学習法で「間違えることを恐れてはいけません」とよく言っているのを見るたびに、そりゃそうでしょと思っていたけれど、いまなら恐れる人の気持ちがよくわかる。
そして今日もその恐怖を克服するために、YouTubeのボタンを押す自分がいる。
ジョークを操れるようになりたい
言語を学ぶうえで、ユーモアを取得することほど難しいことはない。
スペイン語では、会話のなかにNGワードが頻発する。日本語でいう「クソ」とか「ふざけんじゃねぇ」とかそういうレベルではない。最低な男のことを罵りたいとき、人はその男のことを「hijo de puta」という。直訳すれば、「娼婦の息子」。「クソッ」と悪態をつくときも「mierda(文字通り糞の意)」「coño(女性器の部分です)」「joder(英語でいうファック)」とバリエーションが豊か。絶対に何かをやりたくないとき、拒否反応を示すのに使うフレーズは「Ni de coña. (これも女性器関連)」。もっとお上品ないい方もあるけれど、本当に絶対いや、ありえない、というのを強調するときに使われる(もちろん親しい人のあいだだけ)。
日本語に翻訳したらとんでもない会話になりそうだが、こうした暴言をうまく入れることで会話にパンチがきいて面白くなる。使いすぎるとただの品のない人になるので、そこは注意が必要。とはいえ、たぶんこのレベルくらいまでならできる。問題は、いかにすかさず気の利いたジョーク、もしくはツッコミを入れられるかということだ。
これはかなり難しい。2人だけで話しているときならまだしも、大人数でいるとなおさらだ。しかも、言葉の表現がで笑いをとりに行こうとする場合、それは至難の業。普段から、きっとこういう場面でこれを使ったら面白いだろうなという言葉を仕込んでおかなければならない。もはや芸人だ。
自分でいうのもなんだけど、私の視点はひねくれがちで、そこにユーモアを感じてくれる人もいる。こちらできた数少ない私の友人たちは、たぶんそれを理解してくれている。でももちろん、理解してもらえない人たちもたくさんいる。
その代表は私のパートナーだ。たぶん彼からすると、私は文句の多い皮肉屋でしかないと思われる。冗談が通じないのだ。だからといって、面白い話を即座にかます瞬発力は、私にはない。
パートナーの家族の集まりでもそうだ。彼の両親だけならまだしも、彼の兄弟とその妻や彼女までやってくると、もう無理。そもそも会話が主にカタルーニャ語で展開され、それを処理するのに時間を食うのに、そこで気の利いた冗談なんて飛ばせるわけもない。私は彼らにとってすごくつまらない人だと思う。
日本語だったら、絶対に黙っていられない。まさに、フラストレーションだ。
だから、『パストライブス/再会』という映画を観たとき、1回目は打ちのめされて、2回目に観たときは涙が止まらなかった。幼い頃に韓国から両親と共に米国へ移住した主人公のノラは、作家のアーサーと結婚している。ところが、オンラインで韓国に住んでいたときに恋心を抱いていたヘソンを見つけ、2人は12年ぶりの再会を果たすことに──。というあらすじで、私はこの映画を最初、パートナーと一緒に観た。
彼からすれば、ノラが故郷の初恋の人と会うなんてなんてひどい奴だという印象だったようだ。けれど、私からすれば彼女の気持ちが痛いほどわかる。子供のときに米国にきているわけだから、言葉や文化に対する壁はもはやないだろう。それでも、彼女はやはり韓国人で、自分の母語で話すことの安心感、同郷の人だから通じる話やその空気感に心がゆるんだ。それをどうして非難することができるというのだろう。
映画では名言されていないが、主人公は、もしかしたら米国という社会でアジア人であることに疎外感を覚えた部分もあったのかもしれない。幼い頃は成績が良かったという設定だが、母国では成功したかもしれないのに、米国という「異国」では、そこに辿り着けないというフラストレーションもあったのかもしれない。
この映画は単純に、過去に好きだった人と再会して恋心が復活したというチープなラブストーリーではない。そこには、母国ではない国で暮らす彼女の孤独や葛藤があり、懐かしさと安堵で心が動く。でも彼女にはこれまで築いてきた現実がある。そんな状況に自分の身を重ねてしまい、2回目は涙がボロボロでてきた(タイに向かう飛行機で観ていて、隣にはパートナーがいたがすでに1度観ている映画で号泣している私を理解できなかったようだ。当然だけど)。
同じ国で生まれ育っても、人と人が完璧にわかりあえることなんてない。それが、国や文化が違えばなおさらだ。そしてこの隔たりが完全になくなるとは思えない。それは、言葉を超えた何かだからだ。でも、ユーモアを理解することは、その障壁を少し低くしてくれるかもしれない。
そして、これはスペイン語で生活している場合の話。カタルーニャ語ではどうなるか? それは、想像にお任せします。