マイケルジャクソンチャレンジのこと。
実家の喫茶店のBGM用に父が買って来たレコードの中に、まず『オフザウォール』があった。やがて『スリラー』が来た。あの頃はジャスラックも今ほどでなかったので、父は経費計上できるのをいいことに洋楽のアルバムを買いまくっていたのだった。
高校時代は、『スリラー』のテープをダビングして一日中聴いてたものだった。忘れもしないな。同級生の家でみんなでお泊り会をした日、ちょうどMTVでマイケルのビデオクリップが初公開されたのを、みんなで見たんだ。
でも俺にとってマイケルが特別な存在になったタイミングって、そこじゃなくて……『BAD』に収録されてた『キャント・ストップ・ラヴィング・ユー』というデュエットも大好きだったけど、そこでもなくて。
やはり『ムーンウォーカー』ていう映画だったかな。あれはね、本当に素晴らしいものだった。俺はあれをレンタルビデオ屋で借りてきて、それはもう繰り返し見たんだ。だから、のちに『マイケルジャクソンズムーンウォーカー』というアーケードゲームがセガサターンに移植された時は、もう秒で買ったよ。映画そのまんまでやんの、ねぇ。このゲームへの個人的思い入れをどこかで原稿にしたためたのも懐かしい……あの頃発売されてたゲーム誌で俺以上の熱量であのゲームを語ってた人がいたってなら教えてほしいよ。
マイケルってさ。不思議な人と思われていたけど、無理もなくて。
幼いころから叩かれながらレッスンさせられて。幼少期も思春期もずっとスターとして注目され続けて、子ども時代なんて存在しなくて。
それで不思議じゃない人に育つほうがずっと不思議だもん。
『チャイルドフッド』という歌があるんだけど。
俺はこれを、本当に涙なくして見られない。
アダルトチルドレン気味の人ならみんなそうじゃない?
でもマイケルほど子ども時代を奪われてた人なんてそういないはず。
もちろん世界中を見渡せば、もっとひどい状況で生きてきた人はいると思う。だからこそマイケルは恵まれない人たちや病気の子どもたちのためにできることを精一杯やってたんだよね。生きてるあいだ、ずっと。
なのにマスコミにいろんなことを言われ。
うのみにした人たちにバッシングを受けていた。
つらかったけど。本人はもっとつらかったろうと思う。
2009年7月から2010年3月までの間に50公演することを予定していた「最後のツアー」を目前にマイケルが死んだのは17年前の今日。
2009年6月25日だった。
マイケルは、まだ、たった50歳だったんだよ。
誰かが言ったそうだ。
地球には50年間だけ天使がいたんだって。
俺もそう思う。
2009年のあの日、信じられない思いでニュースを見た。
そしてインターネットをあさり、同じくらい強くマイケルを信じ続けてた人たちの言葉を読み続けた。だってあの頃の世間はまだ、マイケルのことをちゃんと信じ直していなかったから。
俺は、50歳になった年に決めたんだ。
マイケルがこの星にいた50年間でどれだけのことをしたか、考えてさ。
ここからは毎年、マイケルより何年長生きできるか、挑戦しようって。
そして、マイケルが生きてたらできたことの、何万分、何百万分の1でもいいから、世界のために良いことをできるようにがんばろうってね。
今年の誕生日で9回目のマイケルジャクソンチャレンジを終えたとき。
俺はまるっきり世界のために良いことなんてできていなかった。
せいぜい生きていただけだった。
家族のために少し、何かできたくらいのことだった。
なにを書いたって世界には届かないし。
何も帰ってこなかった。
それでも俺は来年も再来年もマイケルジャクソンチャレンジをし続ける。
世界を信じるためにいてくれた人が死んでしまった。
だからそれから何年経ったか、ではなく。
その人の滞在期間を何年超えたかを考え続けているんだ。
出来なくて当たり前のことを、諦めずに頑張り続けないとさ。
マイケルにはずかしいもんね。
むかし。
このMTVの映像を見たとき、ぼろぼろに泣いたのを覚えてる。
これほど手放しに世界を愛し。
世界のために自分を使おうとした人がほんとにいたの。
俺はマイケルのことを考えると宮沢賢治の「銀河鉄道の夜」の。
このサソリの言葉を思い出します。
どうか神さま。私の心をごらん下さい。こんなにむなしく命をすてずどうかこの次にはまことのみんなの幸(さいわい)のために私のからだをおつかい下さい。って云ったというの。そしたらいつか蝎はじぶんのからだがまっ赤なうつくしい火になって燃えてよるのやみを照らしているのを見たって。いまでも燃えてるってお父さん仰(おっしゃ)ったわ。