
私が本当に欲しかったのは、褒め言葉でも共感でもなく"尊重"だった。
リビングの床に散らばったおもちゃと
シンクに溜まったお皿達を横目に、
スマホで育児情報サイトやブログを読み漁る。
「こんな時はこう声をかけましょう。」
「まずは共感しましょう。」
そんな情報を集めるのがすきでした。
何もかも中途半端な自分が、
"子供のために必死に母親をしている証"、のような気がして。
でも、読めば読むほど、心がすり減っていきました。
“正解”を知れば知るほど、それができない自分が浮き彫りになる。
本に書いてある通りの言葉を掛けてみても、どこか取ってつけたようで、
別の場面になるともう応用もできない。
「今度は何て言えばいいんだろう。」
私はいつも、その場その場の”正解”を探していました。
私の中で、
子どもや相手の気持ちに寄り添うこととは、
"共感すること"
だと思っていました。
だから、
「まずは共感しなきゃ。」
「何て言えば相手は安心するんだろう。」
そんなふうに、言葉ばかり探していました。
でも、なぜかモヤモヤしていました。
共感しようとしているのに、心の中ではイライラしている。
寄り添う言葉を口にしても、自分でもどこか不自然だと感じる。
なぜだったのか、今なら分かります。
私は”共感すること”を目的にしていたから。
本当に必要だったのは、
共感という行動ではなく、
"相手を尊重すること"だったんです。
そんな私が、大きく考え方を変えるきっかけがありました。
ある日、自尊心が大きく揺らぐ出来事があったんです。
私にはとある身体的なコンプレックスがあり、
他人にバレないように、20年以上隠してきました。
が、とうとう親友に知られました。
それは、自分で想像していた以上に、
恥ずかしくて居た堪れなくて、涙が止まりませんでした。
自分がずっと目を背けていた"自尊心"が剥き出しになって
その小さな一点をピンポイントで刺されたような感覚でした。
『"恥ずかしい"という感情は、私にとってこんなにもしんどいものなんだ』
『"自尊心が傷つく"というのは、こんなにも苦しいものなんだ。』
私は初めて、それを体で知りました。
でも、不思議なことが一つありました。
その出来事の中で、
私はとても傷ついたのに、
『自分を否定された』とは感じなかったんです。
むしろ親友は、
私の気持ちを尊重しながらそれを伝えようとしてくれていました。
確かに傷は負いました。
でも、その傷が少しでも浅く済むように
刺し方や刺す物をとても丁寧に選んでくれていたように感じたんです。
だから、
めちゃくちゃ痛かったし涙も出た。
でも、相手を恨むことはできませんでした。
その時初めて思いました。
『傷つくこと』と『否定されること』は同じじゃないのかもしれない。
じゃあ、
人を尊重するって、どういうことなんだろう?
そこから私は、
これまでの知識や視点で、もう一度、自分の人生を振り返りました。
親との関わり。
夫との関わり。
子どもとの関わり。
そして、自分自身との関わり。
それらに共通していたのは、
傷ついた出来事ではありませんでした。
その出来事の中で、
私の気持ちや存在がどう扱われていたか。
そこに目を向けた時、一つの共通点が見えてきました。
これまでの人生で、私が苦しかったのは、
叱られたことでも、
注意されたことでもありません。
自分の存在や感情、起きた出来事を、そのまま扱ってもらえなかったこと。
つまり、
尊重されていなかったことだったのかもしれない。
そう思うようになったんです。
そんな時、毒親育ちだというある人の投稿を目にしました。
「自己否定が止まりません。
自分を褒めようにも、『そんなの当たり前』だとしか思えません。」
私もそうだったな。
そう思いながらその投稿を読んでいるうちに、私はハッとしました。
これは自己否定というより、
自分に起きた事実そのものを認められなくなっている状態なんじゃないか、と。
そこで、自分の中で整理してみたものがこの図です。

事実を評価に変えて、自分を打ち消してしまう仕組み。
この図を見ながら、私は確信しました。
自己否定は、
自分が自分を嫌っているから生まれるのではなく、
自分の事実や感情を無かったことにする積み重ねから生まれていくのではないか。
それに気付くと同時に、
自分の育児が少し変化していました。
「共感しなきゃ」と言葉を探すことが減り、
子どもの気持ちや事実を、そのまま受け止められる場面が増えていたんです。
そうしていくうちに気づきました。
小さいころ、
私が本当に欲しかったのは、
褒められることでも、
甘やかしてもらうことでもなく、
尊重されること。
それは、
私の感情や、私に起きた出来事を、
「たかがそんなこと」と片付けず、
事実として扱ってもらうことでした。
きっと、私は子どもを尊重するのと同じように、
自分自身のことも尊重してあげなきゃいけなかったんです。
そう考えた私は、もう一つの図に辿り着きました。

尊重から始まり、自己受容、そして自己肯定へと繋がる土台です。
"自己受容"とは、
自分を好きになることではありませんでした。
自分に起きた事実や感情を、
無かったことにしないこと。
「嬉しかった。」
「悲しかった。」
「今日は休んだ。」
「仕事に行った。」
そんな事実を、
「当たり前。」
「大したことない。」
と打ち消さず、そのまま認めること。
その積み重ねが、
"自己受容"なのかもしれません。
そして、その土台にあるのもまた、
"尊重"なのだと思います。
私はずっと、正解を探していました。
正しい褒め方。
正しい叱り方。
正しい共感。
でも、本当に欲しかったのは、
その場ごとの正解ではなく、
どんな場面でも立ち返れる、一つの軸でした。
私にとって、その軸が"尊重"です。
だからこれからも私は、
正解を探すより先に、
目の前の人や自分自身の事実や感情を、無かったことにしない。
そんな関わりを大切にしていきたいと思っています。