
私の知らない人生の灯火
本日もピラティスに行ってきました。えらい。
ピラティススタジオへ向かう道の途中、マンション群を見渡せる場所がある。
夜には、遠目に各戸の窓の明かりや外廊下の照明が規則的に並んでいるのが見える。その数10棟以上。
最初見たとき、何故かゾッとした。
コピーしたかのような画一的な棟。規則正しく並ぶ光。
そこに私の知らない人たちの暮らしがある。
あの時の感情はうまく説明できない。
あえて言うならば、私以外の人もちゃんと生きてるんだ、という唐突な気づき。
あたりまえだし、こうやって文字にすると不遜、というよりは幼すぎる感覚かもしれない。
でも、普段は主観(自分目線)で生活しているから、他人の人生を考えるということがほぼない。他人の人生というのを、像が結ばないぼんやりとした背景情報として追いやってしまっている。
だから、
この目に見える光景はとても無機質なのに、そこには千差万別の感情が渦巻いているわけで、その得体の知れなさが怖かったのかもしれない。
ちなみにこの気づき、数年おきに繰り返している。
こういうあたりまえのことが理解できていない、何なら未だに腑に落ちていないのは、自分の未熟さを露呈していて、とても恥ずかしい。
だけど、「両親にも子どもの頃はあったんだとハッとしました」的なセリフをよく見かけるので、それなりの数の人が、他人の人生を意識していないんじゃないかと思う。むしろ、大多数がそうなのでは?と思っている。
自分のことを未熟と思うのは、そうなりたい、の裏返しで、一人ひとりがそれぞれの人生を歩んでいることを忘れずにいたいんだと思う。
私はそれなりに懸命に生きている。私以外の人もきっとそうでしょう。なかったことにされるのはさみしい。
最初にあのマンション群の明かりを見てゾッとしたのが3、4年前。
今夜も私と私以外の世界というものを不思議に思いながら通り過ぎてきた。
うーん、やっぱりまだちょっと怖いかもしれない。
できればあの明かりの下にいる人たちが、幸いであれ、健やかであれと思う。
知らんけど。
そんな無責任なくらいが、今の私にはちょうど良いのかもしれない。
蛇足。
高橋克彦著の『総門谷』のラストを面白く感じたのは多分この感覚のせい。
最初、ああそういう世界観ね、ってなった後に、え?は?それはやりすぎでは?おかしいのでは??という展開が続く(雑でごめん)Amazonの概要欄曰く、SF伝奇超大作。
気になった方はぜひご一読あれ!
(ちなみに私はシリーズ一作目しか読んでいない)