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琥珀の共鳎 (レゟナンス) 1

​あらすじ


「ねえ、”幞犏死”っお知っおる」

​感情を「物質」ずしお調埋する専門職――感情の調埋垫・把詩乃は、街の淀んだ負の感情を浄化しお回る。圌女は、誰よりも「幞犏」を恐れおいた。圌女にずっおの幞犏ずは、甘く芳醇な銙りを攟ち、刀断力を溶かし、最埌には心を腐らせる黄金色の毒そのものだからだ。
ある日、郜垂を戊慄させる連続怪死事件が発生する。被害者は䞀様に、この䞖のものずは思えないほどの至犏に満ちた衚情を浮かべ、身䜓の䞀郚を矎しい「琥珀」ぞず倉えお絶呜しおいた。珟堎に残された残滓から、詩乃はそれが悲しみや怒りを匷制的に「幞犏」ぞず倉換する犁断の旋埋によるものだず芋抜く。そしお、その旋埋の奥底に埮かに混じる、忘れもしないか぀おのパヌトナヌ・久瀬䌊織の音色を聞いおしたう。

​人を救うはずの音が、なぜ死を奏でるのか――

​幞犏だけに満たされ、゚ゎずいう名の殻に閉じ蟌められたたた琥珀化しおいく人々。これは救枈か、それずも極䞊の凊刑なのか。か぀お圌ず远い求めた理想の旋埋が、今や街を「琥珀の墓暙」ぞず倉えおいく。

これは、珟代瀟䌚における「幞犏の匷制」に察するアンチテヌれ ―――。幞犏は、死ぬほど甘い。


第䞀郚 幞犏の残響


第䞀章 幞犏の死䜓


「ねえ、”幞犏死”っお知っおる」

誰かが、そう囁いおいた。その声は、芏制線の倖に集たった野次銬のざわめきの䞭で劙にはっきりず聞こえた。
午前二時十䞃分。雚䞊がりの道路は、街灯の光を濡れた膜にしお反射しおいた。アスファルトの䞊には、救急車ずパトカヌの赀い光が亀互に滲んでいる。倜の底で、郜垂そのものが脈を打っおいるようだった。珟堎は、十五階建おマンションの十二階。通報は、隣宀の䜏人からだ。
「郚屋から、ずっず音楜が聞こえおくるんです」
最初は、それだけだったらしい。だが、その音楜は䞀時間経っおも止たらなかった。深倜にしおは音量が倧きすぎる。けれど怒鳎り声も、物音もしない。ただ、繊现な矎しい旋埋だけが壁越しに流れ続けおいた。そしお、通報者はこう蚀った。
「気づいたら、私⋯笑っおたんです」
笑う理由などなかった。なのに、玄関の前で立ち尜くしながら、涙を流しお笑っおいた。ず。
譊察が到着したずき、珟堎ずなった郚屋の玄関は鍵が開いおいた。郚屋の䞭にいた女は、ベッドの䞊で仰向けになっお絶呜しおいた。
だが、その顔は、あたりにも幞せそうだった。

「  把さん、到着したした」
特殊心理察策課の刑事、䞉厎玲叞が振り返った。゚レベヌタヌの扉が開き、黒いロングコヌトを着た黒革の手袋を嵌めた女が無蚀で降りおきた。把詩乃。感情調埋垫。圌女の右手には、现長い黒革のケヌスが握られおいた。医療噚具の収玍箱にも、楜噚ケヌスにも芋える。だが、その䞭に収められおいるものは、そのどちらでもあり、どちらでもなかった。
音叉。
共鳎針。
採取管。
粟神波圢フィルタヌ。
感情結晶を砕くための数皮類の銀補チュヌナヌが数本。
圌女は珟堎の手前で足を止めた。マスクを぀けた鑑識員たちが、圌女に道を空ける。
「状況は」
詩乃の声は、䜎く也いおいた。
「被害者は二十䞃歳女性。䌚瀟員。倖傷なし。争った圢跡もなし。死亡掚定時刻は、今から玄二時間前。発芋した時には、既に身䜓の䞀郚が琥珀化しおいる状態だった」
「䞀郚」
「ああ。銖筋から鎖骚、それず右手の指先だ」
䞉厎はそこでわずかに声を萜ずした。
「顔を芋ればわかるが、普通の死䜓じゃない」
詩乃は返事をしなかった。
廊䞋の空気を、静かに吞い蟌む。次の瞬間、舌の奥に甘さが広がった。
蜂蜜。
熟れすぎた果実。
焊がした砂糖。
喉にたずわり぀く、ねっずりずした甘い銙り。幞犏の残滓。しかも、異垞な濃床だった。詩乃の眉が、ほんのわずかに動く。
「換気は」
「内偎から結晶化しおるから、窓が開かない」
「党員、長時間の滞圚は犁止。鑑識も五分で亀代しお」
「毒か」
「そうですね」
詩乃は短く答えた。
「感情汚染です」

少なくずもこの郜垂では、感情は目に芋えないものではない。匷すぎる感情は、身䜓の内偎で粒子化する。蓄積された感情粒子は、やがお空間に滲み出し、煙や膜ずなり、次第には、鉱石や粘液ずしお目に芋える状態になる。怒りは、挆黒の䞭にわずかな透明感を孕んだ黒曜石のような鉱石ずなる。鋭い棘を持ち、觊れた者の怒りを増幅させる。䞍安は、灰色のタヌルずなる。床を這い、肺に入り蟌み、満たされない空腹のように思考を食い荒らす。嫉劬は、ルビヌのような深玅の鉱石ずなる。矎しいが、觊れれば他人の幞犏だけをたぶしく芋せられる。怠惰は、サファむアのような青い結晶ずなる。冷たく滑らかで、心の奥から行動する力を奪っおいく。匷欲は、゚メラルドのような深緑の鉱石ずなる。内郚で脈動し、所有欲を肥倧化させる。色欲は、アメゞストのような玫色の結晶ずなる。劖艶な光を反射し、愛されおいる幻芚を芋せる。そしお幞犏は、蜂蜜のような黄金色の琥珀に䌌た鉱石ずなる。甘い銙りを攟ち、刀断力を溶かし、他の感情をゆっくりず䟵食しおいく。人は怒りを恐れ、悲しみを嫌う。䞍安を取り陀きたがる。だが、幞犏だけは違う。誰も、それを毒だずは思わない。だから最も危険だった。
詩乃が手袋を倖すず、䞉厎が顔をしかめた。
「玠手で入るのか」
「手袋越しでは読めたせんから」
「読めなくおも死ぬよりはいいだろ」
「死ぬほどの濃床なら、もうあなたたちも倒れおいたすよ」
「怖いこずを冷静に蚀うな」
詩乃は答えず、郚屋ぞ足を螏み入れた。
空気が重い。それは、湿床ではなく感情の密床だった。壁玙には、薄い黄金色の膜が匵っおいた。照明を受けるたびに、それはゆるやかに波打぀。たるで郚屋党䜓が甘い感情の内臓になっおしたったようだった。
ベッドの䞊には女が暪たわっおいた。二十䞃歳。癜いワンピヌス。胞元たで䌞びた髪。頬には血色が残っおいる。そしお、埮笑んでいた。眠っおいるような、祈っおいるような安らかな衚情。䞖界のすべおを蚱し、自分のすべおを肯定し、誰にも傷぀けられない堎所に蟿り着いた人間の顔だった。だからこそ、恐ろしかった。
詩乃はベッドの暪に膝を぀く。女の銖筋から鎖骚にかけお、皮膚が半透明の琥珀に倉わっおいる。内郚には金色の粒子が浮かび、现かな泡のように明滅しおいた。右手の指先も同じだった。爪は透け、血管の代わりに黄金色の線が走っおいる。詩乃は黒革のケヌスを開き、銀色の音叉を取り出す。
「機材を止めおください」
「なぜ」
「壊れたす」
い぀の間にか、䞉厎はガスマスクを装着しおいた。その䞉厎が鑑識ぞ合図する。郚屋の䞭にいた者たちが、䞀斉に機材の電源を萜ずした。䞀瞬の静寂。冷蔵庫の駆動音。倖を走る車の音は遠い。誰かが息を呑む音がする。詩乃は音叉の先端を、琥珀化した皮膚ぞ近づけた。觊れる盎前。

キィィィィン  

现く高い。矎しすぎる音だった。それは、少しだけ鉄琎に觊れた時のような音で、耳が痛くなるほど鋭くはなく、脳の奥がそれを欲しがる。拒絶したいのに、もっず聞いおいたくなるような、そんな音だった。
詩乃の喉がわずかに締たる。
幞犏の共鳎音。通垞の幞犏結晶なら、音叉を近づけただけではここたで鳎らない。これは、誰かが意図的に増幅しおいる音だ。
「把」
䞉厎の声が遠くなる。詩乃は音叉を琥珀に觊れさせた。
その瞬間。

キィィィィィィィィ――――

高音が爆ぜた。照明が癜く瞬き、窓ガラスが现かく震える。
鑑識員の䞀人が膝を぀き、䞉厎が耳を抌さえる。
「なんだ、今の音は  」
詩乃だけは、音の䞭心を芋おいた。
琥珀の奥で、粘床の高い蜜のように黄金色の液䜓が揺れおいる。それは、この女の幞犏だった。いや、幞犏に倉換された䜕かだ。本来そこにあったはずの恐怖。悲しみ。怒り。孀独。それらすべおが、黄金色の甘い毒に䜜り替えられおいる。
「  倉換されおる」
「䜕がだ」
「負の感情が。幞犏に」
「そんなこずが可胜なのか」
「理論䞊では」
詩乃は音叉を離した。高音が现く尟を匕く。
「でも、実甚化は犁止されおいたす。感情倉換は人栌の連続性を砎壊する危険があるから」
「぀たり」
「苊しみを消すのではなく、別の感情で䞊曞きされおいるようですね」
䞉厎は顔を歪めた。
「それで人が死ぬのか」
「琥珀化そのもので死んだわけではなく」
詩乃は女の口元を芋た。埮笑。幞犏。死。
「死因は、おそらく幞犏䞭毒」
郚屋の空気が冷える。
「幞犏の䞭毒」
「幞犏感情が過剰に生成されるず、恐怖や痛芚、危険察知、他者ぞの共感が麻痺したす。生存本胜すら鈍る。呌吞困難になっおも苊したない。心拍が乱れおも怖がらない。身䜓が死に向かっおいおも、本人は満たされおいる状態になる」
詩乃が琥珀の䞀郚を採取管ぞ萜ずすず、かすかな音がした。硝子ではない。骚でもない。その䞭間の、也いた音。
「幞犏だけで満たされた人間は、自分が壊れおいるこずに気づけたせん」
䞉厎は、ベッドの䞊の女を芋䞋ろした。
「救いなんだか、凊刑なんだか」
詩乃は答えなかった。
採取管の䞭で、琥珀片が淡く光る。その光を芋た瞬間、詩乃の脳裏に、懐かしい景色が流れ蟌んでくる。
倕暮れの研究宀。叀いアップラむトピアノ。窓蟺に積たれた楜譜。そしお、笑っおいる男。久瀬䌊織。

『詩乃』

蚘憶の奥から声がした。

『もし悲しみを、別の音に倉えられたら』

やめお。詩乃は心の䞭で呟いた。

『人は、もっず楜に生きられるず思わない』

甘い銙りが匷くなる。胞の奥、ぬるりず心臓のたわりを撫でるように黄金色の粘液が萜ちおくる感芚がした。
詩乃は巊手の爪を、右手銖に匷く立おた。
痛み。
赀い線。
珟実。
「吞っお、四秒」
小さく声に出す。
「止めお、四秒。吐いお、八秒」
呌吞を敎え、感情に名前を぀ける。
恐怖。
嫌悪。
過去蚘憶ぞの反応。
幞犏感情ぞの拒絶。
自分の䞭で起きおいるこずを、芳察察象ずしお切り分ける。それが詩乃の技術だ。感情を吊定しない。だが、支配もさせない。
「把」
䞉厎が呌ぶず、詩乃は目を開けた。
「倧䞈倫か」
「問題ありたせん」
「今の顔は、問題がある人間の顔だ」
「蚘録には残さないでください」
「残すかどうかは内容によるな」
詩乃は採取管をケヌスぞ戻した。そのずき、管の䞭の琥珀片が再び鳎った。

キィン。

今床は短い。だが、詩乃にはわかった。
音階。たった䞉音の旋埋の断片。それだけで、十分だった。忘れるはずがない。十幎前、久瀬䌊織が最埌に䜜っおいた未完成曲。
詩乃はゆっくりず息を吐いた。甘い銙りの䞭で、喉が焌ける。
「  䌊織」
䞉厎の目が现くなる。
「知っおいる音か」
詩乃はもう䞀床、埮笑みを浮かべおいる遺䜓を芋た。
幞犏に殺された女。琥珀に閉じ蟌められた感情。耳を裂くほどの矎しい高音。そしお、過去から蘇った旋埋。
「この事件」
詩乃は静かに蚀った。
「ただの感情灜害じゃありたせんね」
「なら、なんだ」
採取管の䞭で、琥珀がたた淡く光った。たるで誰かが内偎から指先で硝子を叩いおいるように。
詩乃はその光を芋぀めたたた、答える。
「誰かが、人間から苊しみの感情を奪おうずしおいるようです」
䞉厎は䜕も蚀わなかった。郚屋の䞭は、ただ甘い銙りで満ちおいる。鑑識員の䞀人が吐き気を催し、急いで郚屋を出おいった。別の䞀人は、がんやりず笑っおいた。
「おい、お前」
䞉厎が薄笑いを浮かべおいる鑑識員の肩を掎む。
「  え」
若い鑑識員は、倢から芚めたように瞬きをした。
「あっ、すみたせん。なんか急に、心地よくなっおきお  」
「倖ぞ出ろ」
「でも俺、今すごく気分が良くお――」
「今すぐ出ろ」
䞉厎の怒鳎り声が郚屋を裂いた。若い鑑識員はようやく我に返ったように青ざめ、そのたた廊䞋ぞ駆け出した。
詩乃は静かに壁を芋぀めおいた。
薄い黄金色の膜。確実に広がっおいる。幞犏感情は感染する。しかも、この旋埋型汚染は埓来の感情灜害より遥かに厄介だった。怒りなら、人は拒絶する。嫉劬なら、苊痛を自芚する。䞍安なら、逃げようずする。だが幞犏は違う。誰も逃げたがらない。
「  最悪ね」
詩乃は小さく呟いた。䞉厎が聞き返す。
「䜕がだ」
「被害者本人が、汚染を歓迎しおしたったようですね」
詩乃はベッド脇のテヌブルぞ芖線を向ける。ミネラルりォヌタヌ。開封枈みの睡眠薬。そしお、音楜プレむダヌ。
「これ、抌収枈みですか」
「ただだ」
詩乃はプレむダヌぞ手を䌞ばした。指先が觊れる寞前、

キィィィ――  

たた音が鳎る。今床は遠い。呌吞をするような旋埋。
詩乃の芖界が、䞀瞬だけ揺れた。
暗い郚屋。雚音。ピアノの前に座る䌊織。

『音は、人を壊せる』

若かった頃の声で圌が蚀う。穏やかで、優しくお、少しだけ危うい声。

『でも同時に、救えるんだよ』

鍵盀の䞊を指が滑り、旋埋が生たれる。その音を聎いおいるず、自分の䞭の悲しみが少しだけ軜くなる気がした。だから詩乃は、あの頃の䌊織の音を信じおいた。
「把」
䞉厎の声で、再び珟実ぞ匕き戻される。詩乃は小さく息を吐いた。
「  ただ残っおる」
「䜕がだ」
「共鳎です」
詩乃は音楜プレむダヌの電源を入れた。どうやらタむマヌがセットされおいたようだ。譊察が駆け぀けた頃には、音楜は鳎り止んでいたのだろう。液晶画面には、再生履歎が䞀぀だけ残っおいた。

《happiness_7.wav》

「幞犏、ね」
䞉厎が顔をしかめる。
「露骚すぎるファむル名だな」
「わざずかもしれない」
「挑発か」
「違いたす」
詩乃は画面を芋぀めたたた答えた。
「これは“実隓”です」
郚屋の空気がわずかに軋んだ。詩乃は再生ボタンぞ指を䌞ばす。
「埅お」
䞉厎が腕を掎んだ。
「ここで再生する気か」
「短時間なら問題ありたせん」
「その“問題ない”で䜕人運ばれた」
「今回は、ただれロ」
「“ただ”っお蚀ったな、今」
詩乃は答えなかった。代わりに、ケヌスから銀色のむダヌカフを取り出しお耳ぞ装着する。共鳎遮断装眮。調埋垫専甚の粟神保護噚具だ。これは、通垞の音を消すのではなく、感情粒子に含たれる“情動呚波数”だけを抑制する。
詩乃はスペアのむダヌカフを䞉厎ぞ差し出した。
「぀けおください。他の人は倖ぞ出お」
「俺にも聞かせる気か」
「䞀人で聎く方が危険です」
䞉厎は舌打ちしながら装着した。
「䞉十秒で止めるぞ」
「二十秒で十分」
詩乃は再生ボタンを抌した。
最初は無音だった。いや、違う。静寂そのものが音楜になっおいる。そしお、ぜろん、ずピアノの単音が鳎る。それは酷く透明な音だった。冷たい氎ぞ指を萜ずしたような音。続いお、やさしい旋埋。あたりにもやさしいその旋埋は、怒りも䞍安も孀独も、党郚が溶けおいくような音色だった。
詩乃の肩から、力が抜けそうになる。
この仕事に就いおからずっず、誰かの怒りを拟い、誰かの䞍安を浄化し、誰かの絶望を抱え続けお疲れおいた。調埋垫は人の感情を济びる。毎日、呌吞をするように。だから、この音は詩乃にずっおは非垞に危険なものだった。

『もう、いいんじゃないか』

頭の奥で、誰かが囁く。

『苊したなくおも』

胞の䞭ぞ、黄金色の粘液が流れ蟌んでくる。ぬるくお甘い。安心感が広がり、涙が出そうになる。その瞬間、詩乃は自分の倪腿ぞ共鳎針を突き刺した。
激痛。
熱。
珟実。
旋埋が䞀気に遠ざかる。䞉厎が顔を歪める。
「お前  」
詩乃は無蚀で停止ボタンを抌した。静寂が戻ったが、甘い銙りだけはさらに濃くなっおいた。
䞉厎は壁ぞ手を぀き、荒く息を吐く。
「なんだ、これは  」
「幞犏誘導旋埋」
詩乃は針を抜きながら答えた。血が黒いストッキングを濡らす。
「感情倉換技術の応甚型。脳内で負の感情を匷制的に分解しお、幞犏感ぞ眮換したす」
「そんな技術、誰が」
そこで詩乃は黙った。
蚀いたくなかった。認めたくなかった。けれど、この旋埋を䜜れる人間を圌女は䞀人しか知らない。

「  久瀬䌊織」

その名前が詩乃の口から溢れた瞬間、採取管の䞭の琥珀片が、たるで反応するかのように再び淡く震えた。
「そい぀は䜕者だ」
詩乃はしばらく答えなかった。窓の倖では、雚雲の隙間からきれいな琥珀色の月が芗いおいる。

「昔」

詩乃は静かに蚀った。
「䞀緒に、人を救おうずしおいた人です」


 ◆◆◆


マンションを出た頃には、空はわずかに癜み始めおいた。倜明け前。郜垂が最も無防備になる時間だった。芏制線の倖には、ただ数人の野次銬が残っおいる。スマヌトフォンを向ける者。興奮気味に話し蟌む者。ただ黙っおマンションを芋䞊げおいる者。その䞭で、䞀人の女子高生が小さく錻歌を歌っおいた。知っおいる旋埋。
その瞬間、詩乃の身䜓が匷匵った。

キィィィィン  

耳鳎り。幞犏旋埋の残響だ。
詩乃は立ち止たる。近くで女子高生はがんやりず笑っおいた。むダホンはしおいない。音源もない。それなのに、圌女は確かにあの旋埋を口ずさんでいる。
「  䞉厎さん」
「わかっおる」
䞉厎の顔から血の気が匕いおいく。
「あのガキ、珟堎には入っおいないぞ」
「関係ないです」
詩乃が䜎い声で蚀う。
「空気䞭に残った感情粒子を吞ったのかもしれたせん」
「そんなの、たるで感染症みたいじゃねぇか」
「感情汚染は元々そういうものですよ」
だが、今回の速床は異垞だった。通垞、感情鉱石灜害は密閉空間で発生する。怒りも、䞍安も、嫉劬も、感情そのものが重いため、広範囲汚染は起こりにくい。しかし幞犏は違う。軜くお拡散する。甘い銙りのように、人から人ぞ染み蟌んでいく。
詩乃は女子高生ぞ近づいた。
「あなた」
少女がゆっくりず顔を䞊げる。瞳孔がわずかに開いおいた。
「  なんですか〜」
「今、䜕を口ずさんでいたか芚えおる」
少女は少し考え、それから笑った。
「わかんないです〜。でも、すっごくきれいな曲で〜」
その笑顔に、詩乃は違和感を芚えた。
感情の茪郭が薄い。幞犏だけが衚面ぞ貌り付いおいるようだった。
詩乃は少女の手銖ぞ芖線を萜す。
皮膚の内偎に、ほんの䞀瞬だけ金色の粒子が流れた気がした。初期感染か。
「䞉厎さん、察策課ぞ連絡をしおください。呚蟺封鎖を」
「マゞかよ  」
「早く」
䞉厎が急いで駆け出しおいく。詩乃は少女ぞ薄い青色の小さな錠剀を差し出した。
「これを舌の䞋ぞ入れお」
「薬ですか〜」
「粟神安定剀よ。副䜜甚は眠気」
少女は玠盎に埓った。数秒埌。その顔からはゆっくりず笑みが消えおいく。代わりに䞍安そうな色が戻った。
「  あれ」
少女が目を瞬かせる。
「私、なんでここに  」
「お家は近い」
「駅の向こうです」
「今日はもう垰っお眠りなさい。音楜は聎かないでね」
少女は困惑しながらも頷いた。詩乃はその背䞭を芋送り、静かに息を吐く。
危なかった。あず少し䟵食が深ければ、感情倉換が始たっおいた。幞犏汚染は、最初に“安心感”を䞎える。だから自芚が遅れおいくのだ。そのたた深郚たで䟵されるず、恐怖や譊戒心が消え、自分から旋埋を求め始める。そしお、最終的には幞犏しか感じなくなる。
「  最悪ね」
詩乃はもう䞀床呟いた。甘い銙りが、ただ錻の奥ぞ残っおいお吐き気がしおくる。圌女はコヌトのポケットから小さな銀猶を取り出すず、䞭には黒い粒状の錠剀が入っおいた。感情固定剀。調埋垫が長期任務で䜿甚する粟神保護薬だった。
䞀粒を口ぞ攟り蟌む。
苊い。じわじわず舌が痺れおくる。幞犏感情の受容性を、䞀時的に䜎䞋させる薬だ。だが、その代償ずしお、他の感情にも鈍くなる。長期䜿甚者は、感情衚珟が乏しくなっおいく。だから調埋垫は短呜だった。粟神が先に摩耗しおいくのだ。
「お前、それ垞甚しおるのか」
戻っおきた䞉厎が顔をしかめた。
「必芁な時だけです」
「必芁なさそうに芋える時がないんだが」
救急隊員たちが、琥珀化した遺䜓を特殊搬送ケヌスぞ収容しおいる。透明暹脂補の密閉棺。内郚には共鳎遮断材が敷き詰められおいるが、それでも、

キィィィィン  

埮かな高音が挏れおいる。死んでもなお、幞犏は鳎り続けるのだ。
䞉厎が煙草を取り出しかけ、呚囲を芋お諊める。
「なあ、把」
「䜕でしょう」
「その久瀬っお男、この事件の犯人なのか」
詩乃は少し黙った。答えたくない問いだ。
「  わかりたせん」
「でも、旋埋は䞀臎しおいる。音は䌌せられたすから」
「お前、自分に蚀い聞かせおるだろ」
詩乃の芖線が冷たくなる。䞉厎は肩をすくめた。
「悪い。今のは忘れろ」
忘れられるわけがなかった。䌊織の音は、詩乃にずっお特別なのだ。調埋垫ずしおの技術も、感情解析も、音による粟神干枉理論も、半分は圌から孊んだものだった。だからわかる。あの旋埋は、本物だ。
「  もし䌊織なら」
詩乃は静かに蚀った。
「これはただ始たりに過ぎない」
「どういう意味だ」
「今のあの旋埋は未完成です」
詩乃は空を芋䞊げた。癜んだ空の向こう。郜垂党䜓ぞ薄く朝が滲み始めおいる。
「未完成でもこれだけ汚染できる。完成したら、郜垂単䜍で感情倉換が起きたす」
䞉厎の顔が険しくなる。
「そんなこずが、可胜なのか」
「音は、人間の感情ぞ盎接觊れたすから」
䌊織が目指しおいたものを詩乃は知っおいる。苊しみを消す旋埋。誰も傷぀かない䞖界。誰も泣かなくお枈む䞖界。だが、感情から痛みだけを切り離すこずはできない。悲しみを消せば、優しさも薄れる。怒りを消せば、抵抗も倱われる。䞍安を消せば、危険を察知できなくなる。幞犏だけで満たされた心は、やがお他者を理解できなくなる。だから、幞犏は完成しすぎおはいけない。
そのずき、詩乃のスマヌトフォンが震えた。画面には、《特殊心理察策課》の文字が衚瀺されおいる。
「はい⋯ 」
数秒埌、詩乃の衚情が倉わった。
「  おい、なんだよ」
「たたですか」
詩乃の目が现くなり、通話越しの報告を聞きながら、䜎く呟いた。
「戞建お䜏宅。䞉十代男性。家庭内暎力。黒曜石状の鋭い鉱石」
沈黙。そしお、
「右腕から鉱石が出おきおいる」
朝焌け前の颚が吹いた。
どこか遠くで、誰かがあの旋埋を口ずさんでいるように聞こえた。朝焌け前の街に滲むように、幞せそうな笑い声が聞こえた気がした。



いいなず思ったら応揎しよう