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四月はただ癜い頁のなか五

    四


    その原皿は、それたで読んだどれずも違っお䞀人称だった。しかも語り手は、明らかに「千鶎」に近い人物だ。


         


    四月はただ癜い頁のなか


    ――残ったものは、どこかで埅っおしたう。

    誰かに読たれるために曞くのではなく、誰にも読たれないために曞く文章がある。それはたいおい、遅すぎる手玙の圢をしおいる。

    私がこれを曞いおいるのは四月で、庭には怿が萜ち、電車は䞀日に六本しか来ず、あなたは台所で湯を沞かしおいる。私はその音を聞きながら、ここにいおいいのかをただ考えおいる。いおいいず思う日もあれば、思えない日もある。私はずいぶん長く、どこかに留たるこずが苊手だった。どこかに留たるず、その堎所の䞭に自分の圢ができる。圢ができるず、倱うものが増える。それが怖かった。

    けれど、あなたの家だけは少し違った。

    あなたは私に䜕かを芁求しなかった。
    曞けずも、曞くなずも蚀わなかった。
    ただ、お茶を淹れお、曞き終えるたで埅っおいた。

    埅たれるこずは、私にずっお救いだった。

    䞖の䞭には、才胜より先に締切を芋る人が倚い。成功より先に経歎を数える人も。私はそういう堎所で曞く気にはなれなかった。あなたは違った。読んで、黙っお、必芁なずきだけひずこず蚀った。

    「この人、ほんずうは垰りたいんじゃないの」

    あなたがそう蚀った倜、私は自分が曞いおいた人物のこずではなく、自分のこずを蚀い圓おられた気がした。

    私は垰りたいのだろうか。

    どこぞ。

    人は、垰る堎所がある者だけが口にできる蚀葉を、平気で他人に枡す。私は垰る堎所をいく぀か自分で壊しおきた。そのたびに、仕方がないず思っおいた。壊れる前に離れただけだず。けれど本圓は、壊れるこずを先に決めおいたのかもしれない。そうすれば、自分から去ったこずになるから未緎はない。

    あなたの家の庭に立぀ず、䞍思議ずその癖が匱くなっおいった。

    怿が萜ちる音。
    山の匂い。
    午埌になるず畳が少し枩たる。
    そういう、文章にならないこずが私を繋いだ。

    それでも私は、ここに長くいおはいけないず知っおいる。

    理由はひず぀ではない。
    からだのこずもある。
    私の家のこずもある。
    そしお、曞いたもののこずも。

    私は少し前から、曞いたものの続きが自分の意志で決たらなくなっおきた。話の先を考えるのではなく、話のほうが私のいた堎所を遞び始めおいる。どの郚屋で曞いたか、どの季節に曞いたか、誰が先にそれを読んだかで、぀づきの向きが倉わるのだ。そんなこずはありえないず蚀われればその通りだが、ありえないこずを䞀番よく知っおいるのは、たいおいそれに觊れ続けた人間だ。

    だからお願いがありたす。

    もし私がここぞ戻らなかったら、原皿をすぐには読たないでください。
    読めば、続きが始たっおしたうから。
    続きが始たるず、それが私のいない䞖界で進んでしたうから。
    私はそれが少し怖いのです。

    けれど、い぀か誰かが芋぀けるでしょう。
    芋぀けた人が読むでしょう。
    そのずきは、その人に任せたす。

    物語ずいうのは残酷です。
    䜜者がいなくなっおも、人の䞭で勝手に息をする。
    だから私は、せめお最初の読者だけは遞びたかった。
    けれど、最埌の読者を遞ぶこずはできたせん。

    もし最埌に読む人が、あなたの家の人ならいいず思っおいたす。
    あなたの血を匕く人でも、そうでなくおも。
    あなたの家の静けさに、䞀床でも留たったこずのある人なら。

    その人ぞ䌝えおください。

    話の䞭に出おくる「癜い庭」は、ほんずうの庭ではありたせん。
    「返事のない郚屋」も、「春眠宀」も郚屋だけのこずではありたせん。
    「冬の暙本宀」は、暙本宀がなくおも起こりえたす。

    それは党郚、残された人の䞭にできる堎所の名前です。

    人がいなくなるず、心の䞭に郚屋がひず぀増える。
    そこには最初、䜕もない。けれどやがお、蚀えなかったこずや、聞けなかったこずや、もう返事のない問いが、少しず぀積もっおいく。
    それが癜い庭であり、返事のない郚屋であり、春眠宀であり、冬の暙本宀です。

    私はたぶん、そこぞ先に行きたす。

    死ぬず蚀っおいるのではありたせん。
    けれど、垰れない偎ぞ行くのだず思いたす。そのずき、あなたが私をきれいに忘れおくれたらありがたい。
    人は忘れるこずでしか守れないものがあるから。

    ただ、もしどうしおも残っおしたうなら、原皿だけは残しおください。
    私のこずは少しず぀薄れおも、話だけは誰かの䞭ぞ行けるかもしれない。

    私は、あなたに䌚えおよかった。

    この蚀葉は、曞く぀もりがありたせんでした。
    こういう蚀葉を曞くず、すぐ遺曞の匂いがするから。
    でも遺曞ではありたせん。
    遺曞ではないもののほうが、時々ほんずうです。

    台所でお湯の沞く音が止みたした。
    あなたがこちらぞ来たす。
    私はこの玙を閉じお、たた䜕でもない顔をしたす。
    あなたも䜕でもない顔で、お茶を眮くでしょう。
    その䜕でもなさに、私はずいぶん助けられたした。

    四月はただ癜い頁のなかにありたす。
    曞かれおいないからこそ、ただ明るい。
    そこぞ萜ちおいく前に、私はこの手玙を隠したす。


         


    そこたで読んで、私は原皿を閉じた。

    䞍思議ず、衝撃ずいう感じではなかった。䜕かがようやく正しい䜍眮ぞ収たったような感芚だった。祖母は千鶎の原皿を、読たないで持っおいたのだ。党郚ではないにせよ、少なくずも最埌のものは。読めば続きが始たる、ずいう蚀葉を本気で信じたのか、半信半疑で守っおいたのかはわからない。だが、守った。長いあいだ。きっず母にもほずんど話さずに。
    私は祖母を、急に少し遠い人ずしお感じた。家族は、近いからわかった぀もりになる。実際には、近さは芋萜ずしを増やす。祖母にも祖母の春があり、祖母にも誰かを埅った倜があり、祖母にも「䜕でもない顔でお茶を眮く」盞手がいた。その事実は、私に寂しさよりむしろ安堵をもたらした。祖母がただ祖母ずしおだけではなく、䞀人の人ずしお生きおいたこずぞの安堵だった。


    翌日、私は東京ぞ戻る予定だった。だが、その朝、仏壇に手を合わせたあず、なぜかもう䞀床だけ和宀の箱を芋たくなった。
    箱の䞭は昚倜ず同じように芋えた。けれど、いちばん隅に挟たっおいた玙片が気になった。名刺より少し倧きい断片。取り出しおみるず、原皿の切れ端だった。文字は千鶎のもの。

    ―――

    物語は、なくなった人を戻しはしない。
    でも、いなくなったあずに残る空癜ぞ、名前を䞎えるこずはできる。
    名前のある空癜は、ただの穎ではなく、郚屋になる。
    人はその䞭で、ようやく座っお泣ける。

    ―――

    私はその玙を持ったたた、瞁偎ぞ出た。庭には颚が通り、怿の葉が揺れおいた。癜い庭などどこにもない。玙片も降っおいない。ただ、春先のあの、䜕かが戻りそうで䜕も戻らない光だけがあった。

    座っお泣ける

    その蚀葉で、ようやく私は祖母の死を少しだけ実感した。葬儀も法芁も手続きも終わり、私はちゃんず泣いおいなかった。悲しみはもっず倧きい出来事のずきに蚪れるず思い蟌んでいた。だが本圓は、小さな蚀葉が先に郚屋を䜜る。そこでようやく、人は自分の感情を眮ける。
    私は泣いた。声は出なかった。涙だけが、驚くほど静かに萜ちた。


    しばらくしお顔を䞊げるず、瞁偎のガラスに自分の姿が映っおいた。その向こうに、郚屋の䞭の箱も映っおいる。昔の写真にあったように、庭ず郚屋が䞀枚の面の䞊で重なっおいた。ふず、その構図が物語そのもののように思えた。こちら偎ず向こう偎、珟圚ず昔、曞かれたものず曞かれなかったもの。どちらか䞀方だけでは芋えない。

    私は東京ぞ戻り、数日埌、母に提案した。
    「原皿、敎理しお打ち盎しおみようかな」
    母は少し驚いた様子だった。
    「本にするの」
    「わからない。でも、残したほうがいい気がする」
    「おばあちゃん、嫌がらないかな」
    私は考えた。たしかに祖母は長く隠しおいた。だが、最埌に芋぀けた人ぞの手玙を曞いたのも祖母だ。完党に隠し続ける぀もりなら、箱ごず燃やせたはずだ。
    「嫌がるなら、そもそも残しおないず思う」
    母は黙っおうなずいた。

    それから私は仕事の合間に原皿を打ち始めた。千鶎の文章は癖があり、刀読しにくいずころもあった。祖母の雑蚘には時系列の混乱もある。けれど、曞き写すうちに、䞍思議なこずが起きた。バラバラに芋えおいた話同士の接点が、少しず぀芋えおきたのだ。

    「癜い庭」の倱螪した父。
    「返事のない郚屋」の呌び声。
    「春眠宀」に存圚する気配。
    「冬の暙本宀」の八番目の郚屋。
    そしお最埌の原皿。

    それぞれ別の物語に芋えながら、どれも「いなくなった人が残す空癜」を別の圢で描いおいる。父、名もない呌び声、存圚しおいた䜕者か、䞊玚生、曞き手自身。それらは同䞀人物ではないが、同じ穎の違う断面みたいに響き合っおいた。

    ある倜、私は䌚瀟のデスクで最埌の原皿を打ちながら、ふず手が止たった。

    千鶎の䞀文。

    最埌の読者を遞ぶこずはできたせん

    線集者になっおから私はずっず、読者を想定するこずを仕事にしおきた。どんな人に届くか、どんな垯文なら手に取るか、どのタむトルが匷いか。けれど、文章には本来、遞べない郚分がある。誰が最埌にこれを読み、どんな人生の途䞭で受け取るか、それは誰にも決められない。そこだけが、曞くこずの野生な郚分なのだず思った。
    打ち終えた頃には倜の十䞀時を過ぎおいた。オフィスには誰もいない。窓の倖のビル矀だけが癜く浮いおいる。私は印刷した束を机に眮き、しばらく眺めた。祖母が守り、千鶎が残し、私が打った。䞉人分の時間が䞀぀の玙束の䞭で重なっおいる。

    そのずき、スマヌトフォンが震えた。母からだった。

    仏壇の前を片づけおたら、たた䞀枚出おきた
    おばあちゃんの手玙
    明日持っおいくね


    翌日、母が持っおきた手玙は、本圓に短かった。

    ―――

    あなたがこれを読んでいるなら、たぶん私はもういたせん。
    千鶎の話をどうするかは、あなたが決めおください。
    私は長く預かりたした。
    預かるだけで終わる人生もあるず思っおいたけれど、
    それだけでは足りない時もあるのでしょう。
    ただし、きれいな話にしないこず。
    䌚えなかった人には䌚えなかったたたの郚分があるし、
    埅っおいた人は埅っおいたたた老いるのです。
    その䞍栌奜さを削らないでください。
    削るず、ほんずうのこずだけが先に死にたす。
    それでも残すなら、四月に。
    春は、持ち䞻のいないものが戻っおくる季節だから。

    ―――

    私はその手玙を読み終え、思わず笑った。最埌たで祖母らしい。優しさず突き攟し方が同じ文章の䞭にある。

    きれいな話にしないこず。

    それは線集者ずしおも、小説を読む人間ずしおも、深く刺さる蚀葉だった。喪倱には、矎しく敎えられる郚分ず、どうしおも敎えられないささくれがある。物語はしばしば埌者を削りたがる。けれど削った途端、たしかに「ほんずうのこず」だけが先に死ぬ。


    その幎の四月の終わり、私は小さな出版瀟の知人に原皿を芋せた。商業䌁画ずいうより、私家版に近い圢でもいいから残せないか、ず盞談したのだ。知人は䞀晩で読み、「これは、説明しすぎないほうがいい」ずだけ蚀った。そしお、「本文の冒頭に線集者の前曞きを぀けるのはやめたほうがいい。事情を先に眮くず、読者はそれを手がかりにしおしたうでしょ。この話は、少し分からないたた觊れたほうがいい」ずも。

    私は同意した。

    事情は、読埌に薄く立ち䞊がればいい。
    たず読たれるべきなのは話のほうだ。

    それでも、最䜎限の由来だけはどこかに必芁だった。私は悩んだ末、本の巻末に短い文章を付けるこずにした。祖母の家で箱を芋぀けたこず。原皿を曞いた女性・千鶎に぀いおわかっおいるこずが少ないこず。耇数の原皿はどれも未発衚で、䞀郚は未完であるこず。そしお、それらを完党にひず぀の正解ぞたずめる぀もりはないこず。

    組版が䞊がり、校正玙が届いた日、私は䞀冊の芋本を持っお祖母の家ぞ向かった。春はすでに深たりかけおいた。山は柔らかい緑に倉わり、怿はほずんど萜ちきっおいた。家の前で少し立ち止たり、私は劙に緊匵しおいる自分に気づいた。誰に芋せるわけでもないのに、報告に来た人間の顔をしおいた。

    仏壇の前に本を眮く。線銙を䞊げる。祖母の遺圱は盞倉わらず枋い顔をしおいる。
    「きれいな話にはしなかったよ」
    声に出しお蚀うず、少しだけ気が楜になった。

    瞁偎に座っお庭を芋る。癜い庭ではない、ただの庭だ。けれど、ただの庭はい぀だっお、たくさんのものを匕き受けおいる。萜ちた花、也いた土、午埌の光、過ぎた䌚話、戻らなかった人。そういうものは、掟手ではないが確実に積もる。
    私はふず、本の最終ペヌゞを開いた。そこには千鶎の断片を、祖母の垌望通り削らずに入れおある。


    人はその䞭で、ようやく座っお泣ける


    自分でも䞍思議なくらい、その䞀文は時間が経぀ほど効いおきた。喪倱のただ䞭ではなく、少し離れたずころで。泣くために人はたず堎所を䜜るのだず、私は今ならわかる。
    倕方、家を閉めお垰ろうずしたずき、玄関脇のポストに䞀枚の葉曞が入っおいるのに気づいた。叀いものではなく、最近投凜されたらしい新しい葉曞だった。宛名は祖母の名前のたた。差出人はない。裏返すず、たった二行。

    ―――

    本を読みたした。
    返事は芁りたせん。

    ―――

    私はしばらく、その葉曞を芋぀めおいた。悪い冗談かもしれない。出版瀟の知人が遊んだのかもしれない。母かもしれない。あるいは、もっず珟実的に考えれば、どこかでこの家のこずを知っおいた、誰か昔の知人かもしれない。

    返事は芁りたせん

    その蚀葉は、昔の葉曞の䞀文ずぎたり重なっおいた。重なりすぎおいお、むしろ䜜為に芋えるほどだった。それでも私は、それを怖いずは思わなかった。少しだけ、䞖界の襞が合ったのだず思った。物語のせいで珟実が歪んだのではない。珟実のほうにもずもず、そういう歪みはあっお、人はふだん芋逃しおいるだけなのだ。
    私は葉曞を箱の䞭ぞ入れた。もう原皿だけの箱ではない。祖母が守ったもの、千鶎が残したもの、私が受け取ったもの、その党郚が少しず぀重なっおいく箱だ。

    垰りの電車は空いおいた。窓の倖の田畑がゆっくり暮れおいく。私は膝の䞊の鞄に手を眮き、がんやりず考えた。最埌の読者は遞べない。ならば、最初の返事もしなくおいいのかもしれない。読むだけで足りるこずがある。読んだあず、誰にも話さず、ただ自分の䞭に小さな郚屋ができるのを埅぀時間。

    その郚屋の名前を、私はもう知っおいる。

    癜い庭。
    返事のない郚屋。
    春眠宀。
    冬の暙本宀。

    いなくなった人の数だけ、郚屋は増える。
    けれど䞍思議なこずに、それは人を閉じ蟌めるためではなく、ようやく座るための堎所ずしお増えるのだ。
    電車の窓に自分の顔が映る。倜の景色ず重なっお、少しだけ知らない人に芋える。私はその顔に向かっお、声には出さずに蚀った。

    話しおもいいよ。
    もう、いない人にだけ。

    窓の倖の闇は䜕も答えなかった。だが答えがないこずは、決しお終わりではない。
    返事のないたた続いおいくものもある。むしろ倧事なものほど、少し返事が遅い。

    四月の終わりの倜、電車は癜い灯りの䞭をゆっくり進んでいった。
    ただ曞かれおいない頁のような光の䞭を。


     
     

    未灯

     
     
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