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その違和感は、誰かの文脈だった|第5話


    休んだ人が戻ってきた日

    火曜日の朝になっても、澪庭葵のメモアプリには、前の夜に書いた一文が残っていた。

    戻ってこられる場所には、誰かが覚えてくれている文脈があるのかもしれない。

    大きく言いすぎている気がして、何度か消そうとした。

    けれど、消せなかった。

    自宅のワークデスクには、淹れたばかりのコーヒーが置かれている。窓際の小さな観葉植物の葉には、朝の光が薄く当たっていた。低いベッドの上には、週末に取り込んだシーツが畳まれたままになっている。

    整っているようで、少しだけ生活の残りがある部屋。

    葵はカップに手を伸ばしかけて、先にノートPCを開いた。

    社内チャットの通知が、画面の右上に出ている。

    藤野遥からだった。

    来週、数日間お休みをいただく予定です。
    関連案件の引き継ぎ資料をまとめました。
    念のため、判断が必要になりそうな論点も追記しています。

    添付された共有ドキュメントを開く。

    担当タスク。関連リンク。過去の議事録。判断が必要になりそうな論点。想定質問。休暇中に確認すべき相手。戻った後に見る予定のもの。

    項目はきれいに並んでいた。

    丁寧な資料だった。

    助かる資料でもあった。

    けれど、更新履歴に残った時刻だけが、画面の端で小さく光っていた。

    二十三時四十八分。

    葵は、その数字を見たまま、少しだけ手を止めた。

    これは、休むための準備なのだろうか。

    それとも、休むことへの申し訳なさを埋めるための作業なのだろうか。

    そう思いかけて、葵はすぐにその言葉を閉じた。

    まだ、そう決めていいものではない気がした。

    藤野はいつも丁寧だった。

    進捗を出していないわけではない。仕事を止めたい人でもない。ただ、前提が見えないまま進むことに慎重だった。

    最初の整理会議で、藤野は小さく言った。

    「何を前提に進めていいかが、分からないだけで」

    その言葉は、葵の中にまだ残っている。

    だからこそ、藤野が休む前に前提を置いていこうとすることは、自然だった。

    自然だったからこそ、葵はすぐには引っかかれなかった。

    休む前に、自分の不在を消そうとする

    朝九時半。

    いつものビデオ朝会に、藤野は少し早めに入っていた。

    画面の左上に、藤野遥という名前が表示されている。背景は自宅の壁だった。いつもより少し明るい照明の下で、藤野は小さく会釈をした。

    佐伯真琴が画面越しに言う。

    「藤野さん、来週お休みでしたよね。引き継ぎ資料、見ました。かなり丁寧にまとめてくれてありがとうございます」

    藤野は少し笑った。

    「いえ、念のためです。私がいない間に探す時間が増えると申し訳ないので」

    チャット欄に、高瀬陽介からリアクションがつく。

    助かります!

    数日続いていた別案件の対応が落ち着き、高瀬はこの朝会にも戻っていた。

    金曜日、三浦律が代打で北川商事の確認に入ったこと。月曜日に、三浦が次回アポに向けた資料を作りながら、高瀬の未整理メモを受け取ったこと。そこから資料の順番が少し変わったこと。

    それらは、まだ葵の中で静かに続いていた。

    けれど、今日の画面に三浦はいない。

    高瀬は戻っている。
    次に離れるのは、藤野だった。

    高瀬がマイクを入れた。

    「ここまであれば、かなり追いやすいと思います。藤野さん、休み中は見なくて大丈夫ですからね」

    「ありがとうございます」

    藤野はまた笑った。

    その場に、冷たい言葉はひとつもなかった。

    佐伯も高瀬も、本当に藤野を休ませようとしている。誰も休むことを責めていない。休暇理由を細かく聞く人もいない。

    けれど葵は、画面越しの藤野の声が少しだけ早くなっていることに気づいた。

    藤野は共有画面で引き継ぎ資料を開く。

    「大きく三つに分けています。ひとつ目が、休暇中に進めていただいて大丈夫なもの。二つ目が、判断が必要になった場合に仮で見てほしい優先順位。三つ目が、戻ってから私が確認するものです」

    画面がスクロールする。

    「CS側から追加要望が出た場合は、初期版の範囲が広がるかどうかを見てください。開発側の工数に影響するものは、基本的には次期以降に回す想定です。ただ、顧客説明に影響する場合は、高瀬さんと葵さんに一度見ていただけると助かります」

    藤野は一度、画面の右側に視線を落とした。

    おそらく、別のメモを見ている。

    「それから、北川商事向けの説明資料は、月曜日に高瀬さんが共有してくださったメモの反映版が最新版です。比較グラフそのものを入れる話ではなく、社内説明に使える材料をどう出すか、という観点で見ていただければ」

    そこまで言って、藤野は少しだけ息を吸った。

    「あと、判断に迷ったら、無理に決めなくて大丈夫です。戻ったら確認します」

    佐伯が頷く。

    「ありがとうございます。休み中は本当に見なくて大丈夫ですからね」

    「はい」

    藤野は短く返した。

    その返事は、きちんとしていた。

    けれど、軽くはなかった。

    葵はミュートのまま、画面の中の藤野を見ていた。

    休むなら、迷惑をかけないようにしてから休む。

    休む前に、自分の仕事はできるだけ片づけておく。

    自分がいない間に誰かが困らないようにする。

    戻ったら、止まっていたものを自分で回収する。

    誰かがそう言ったわけではない。

    けれど、たぶん多くの人が、少しずつそう思っている。

    その考えは、特別に厳しいものではない。

    むしろ、普通の職場にある普通の感覚だった。

    普通だからこそ、誰もそれを問い直さない。

    朝会の終盤、佐伯が言った。

    「では、藤野さんの休暇中は、基本この資料を見ながら進めましょう。判断に迷うものは無理に決めず、戻り後確認で」

    画面の中で、何人かが頷いた。

    藤野も頷いた。

    葵も、少し遅れて頷いた。

    ここまでしたら、私がいなくても

    朝会が終わったあと、葵は藤野に個別チャットを送った。

    資料、かなり丁寧でした。
    少し詰め込みすぎていないかだけ、気になりました。

    送ってから、少し迷う。

    余計なことだったかもしれない。

    藤野から返信が来たのは、数分後だった。

    ありがとうございます。
    自分でも少し多いかなとは思ったんですが、私がいない間に前提が分からなくなるのが怖くて。

    葵は、その文を見つめた。

    怖くて。

    藤野にしては、少しだけ素の言葉だった。

    続けて、藤野からもう一文届く。

    ここまで書いておけば、たぶん私がいなくても大丈夫だと思います。

    葵は、そこで手を止めた。

    私がいなくても大丈夫。

    休む前には、必要な言葉のはずだった。

    その人がいなくても、仕事が完全には止まらない。
    その人が休んでも、周囲が困りすぎない。
    それは、良いことのはずだった。

    けれど、藤野の文字には、ほんの少しだけ別の響きが混じっている気がした。

    私がいなくても大丈夫。

    それは、安心の言葉のようでいて、少しだけ藤野自身の輪郭を薄くする言葉にも見えた。

    葵は返信欄に文字を打つ。

    “大丈夫にするために、藤野さん自身まで薄くしなくていい気がします。”

    そこまで書いて、消した。

    重すぎる。

    今ここで送る言葉ではない。

    代わりに、短く返す。

    ありがとうございます。
    でも、休み中に全部を藤野さんの資料だけで解こうとしなくてもいいと思います。
    必要なものは、こちらでも残します。

    藤野から、少し間を置いて返信が来た。

    ありがとうございます。
    そう言ってもらえると、少し安心します。

    その一文を見ても、葵はすぐには安心できなかった。

    藤野は、誰かを信頼していないわけではない。

    チームを疑っているわけでもない。

    ただ、自分がいない間に、前提が見えないまま誰かが進んでしまうことを恐れている。

    それは、藤野が仕事を抱え込みたいからではなかった。

    前提が見えないまま進む怖さを、藤野自身が知っているからだった。

    葵は、朝のコーヒーにようやく手を伸ばした。

    カップは、少し冷め始めていた。

    いつもの時間に、いないこと

    その夜、葵は配信アプリを開いた。

    開始ボタンの前で、一度だけ指が止まる。

    今日は、休んでもいい日だった。

    誰かに約束したわけではない。会社の予定でもない。休んだからといって、誰かに怒られるわけでもない。

    むしろ、休んだ方がいいのだと思う。

    朝から藤野の資料を読み、ビデオ朝会に出て、北川商事の資料確認に入り、午後には別のプロジェクトの進捗整理もあった。頭の奥が、少し熱を持っているようだった。

    それでも、画面の向こうに、いつもの時間を覚えている人たちがいる気がした。

    “今日も少しだけ来ました。”

    “寝る前に声だけ聞きに来ました。”

    “ここ、落ち着きますね。”

    そういうコメントを、葵は何度も見てきた。

    「夜の余白部屋」と、自分の中でだけ呼んでいる時間。

    公式の番組名でも、誰かに約束した場でもない。けれど、何度か同じ時間に開いているうちに、いつもの人が少しずつ増えていた。

    だから、何も言わずに部屋を閉じることが、少し怖かった。

    葵は開始ボタンを押した。

    「こんばんは。少しだけ、開けますね」

    声に出してから、自分でその言い方に引っかかった。

    少しだけ。

    それは、配信時間のことなのか。

    それとも、今日の自分に残っている余力のことなのか。

    コメントがゆっくり流れ始める。

    “こんばんは。”
    “今日も来ました。”
    “あおちゃん、声ちょっと眠そう。”

    葵は小さく笑った。

    「少しだけです」

    また、同じ言葉を使っていた。

    無理しないでくださいね、というコメントが流れる。

    葵はそれを読んで、すぐに返事をした。

    「大丈夫です。今日は短めにします」

    大丈夫。

    その言葉も、少しだけ気になった。

    藤野の「私がいなくても大丈夫」と、自分の「大丈夫です」が、どこかで重なっている気がした。

    配信は荒れなかった。

    誰かが深夜のコンビニで買ったプリンの話をした。別の誰かが、明日早いから寝る前に少しだけ、とコメントした。葵は小声で返事をし、ときどき笑った。

    三十分ほどで配信を閉じる。

    「今日はこのへんで。来てくれてありがとうございました」

    画面が暗くなる。

    部屋は静かになった。

    けれど、葵の中では、まだ小さな通知が残っているようだった。

    休まなかったのだから、安心するはずだった。

    いつもの時間に穴をあけなかった。来てくれた人にも返事をした。短めとはいえ、部屋は開けた。

    それなのに、安心はあまり増えていなかった。

    葵はスマートフォンを伏せた。

    机の端には、朝から置きっぱなしのメモがある。

    戻ってこられる場所には、誰かが覚えてくれている文脈があるのかもしれない。

    その一文が、少し違う向きで見えた。

    戻れる場所があることと、そこに毎回いなければならないと思うことは、同じではない。

    まだ、うまく言えなかった。

    休み中、仕事は止まらない

    翌週、藤野が休暇に入っても、仕事は止まらなかった。

    朝会はいつも通り開かれた。

    藤野の画面がないだけで、ビデオ会議の枠はひとつ減る。けれど、議題は減らない。

    佐伯が進行し、高瀬が顧客向け説明資料を共有する。

    CSの森彩花は、顧客からの問い合わせが増えそうな箇所を気にしていた。開発側の長谷川直人は、初期版の範囲が静かに広がっていくことを警戒していた。

    どちらの懸念も、間違っていなかった。

    だからこそ、その場では決めきれなかった。

    佐伯が少し考えてから言う。

    「ここは、藤野さん戻り後確認にしましょうか」

    AI議事録には、すぐに一行が残った。

    藤野復帰後に確認。

    その文字は、整っていた。

    けれど葵には、藤野のいない画面の空いた枠に、黒い札がひとつ置かれたように見えた。

    決まっていないことが、きれいな言葉で畳まれていく。

    誰も悪くない。

    誰も藤野に連絡しようとはしていない。

    それでも、藤野がいないあいだに生まれた迷いは、少しずつ「戻ってきた藤野が見るもの」へ変わっていった。

    AI議事録には、すぐに要約が残る。

    CS側追加要望:藤野復帰後に確認。

    その一行を見て、葵は少しだけ手を止めた。

    便利な言葉だった。

    誰も無理に決めない。藤野に休暇中の連絡もしない。保留にすることで、乱暴な判断を避けている。

    それ自体は、悪いことではない。

    けれど、何を待っているのかまでは見えなくなる。

    待っているのは、藤野本人なのか。

    藤野の判断なのか。

    藤野が休む前に置いていた判断基準なのか。

    それとも、森と長谷川がそれぞれ何を気にしていたのかを、もう一度並べる時間なのか。

    別の朝会でも、同じようなことが起きた。

    顧客向け説明資料の表現について、高瀬が少し迷う。

    「この表現だと、初期版でできることが少なく見えすぎる気がします。ただ、期待を上げすぎるのも違うので」

    佐伯が言う。

    「ここも藤野さん戻り後に確認しましょう」

    AI議事録に残る。

    顧客向け説明資料:表現調整。藤野復帰後に確認。

    葵は、共有ドキュメントに補足を入れようとして、手を止めた。

    決まったことだけでなく、なぜそう判断したのかを残せば、次の人の見え方は少し変わる。

    葵は、この数日のやり取りの中で、それを何度か感じていた。

    けれど今回は、一行では少し足りない気がした。

    藤野が戻ってきたときに必要なのは、「保留になった」という情報だけではない。

    なぜその場で決めなかったのか。

    誰が何を気にしていたのか。

    藤野が何を見れば判断できるのか。

    それが戻ってこなければ、藤野はまた、全部を自分で追うことになる。

    葵は、共有ドキュメントの保留欄に一行だけ追記した。

    森さんは問い合わせ増を懸念。長谷川さんは初期版の範囲拡大を懸念。判断基準に戻して確認が必要。

    書いてから、まだ足りない気がした。

    けれど、その場ではそれ以上を書けなかった。

    戻ってきた人が見ている画面

    数日後の朝、藤野はいつものビデオ朝会に戻ってきた。

    画面の中に、藤野遥という名前が表示される。

    入室は少し早かった。

    藤野はカメラをオンにして、小さく会釈する。

    「お休みありがとうございました。今日から戻ります」

    チャット欄に、すぐスタンプが並ぶ。

    佐伯が笑って言う。

    「おかえりなさい。まずは無理なくで大丈夫です」

    高瀬も手を挙げた。

    「おかえりなさい。議事録、かなりまとまっているので、見てもらえれば追えると思います」

    藤野は笑って頷く。

    「ありがとうございます。朝のうちに追います」

    その言葉に、葵は少しだけ引っかかった。

    追います。

    休んだ人は、戻ったら追う。

    未読を追う。議事録を追う。保留を追う。自分がいなかった時間を、自分で追いかける。

    それもまた、普通のことだった。

    普通だから、誰も立ち止まらない。

    朝会はいつものように進む。

    佐伯が今日の確認事項を読み上げる。

    「まず、CS側の追加要望ですが、これはいったん藤野さん戻り後確認にしています」

    高瀬が共有画面を出す。

    AI議事録の要約が映る。

    CS側追加要望:藤野復帰後に確認。
    開発側実装優先度:次回判断。
    顧客向け説明資料:表現調整。

    藤野は画面の下に視線を落とした。

    おそらく、別タブで資料を開いている。

    マイクのアイコンが一度オンになり、すぐにオフになった。

    葵はそれを見た。

    藤野は、何かを言おうとして、やめた。

    少しして、もう一度マイクがオンになる。

    「すみません」

    藤野の声は、いつもより少し小さかった。

    「保留になっていることは分かるんですけど……」

    画面の中で、藤野が眉を寄せる。

    「これ、私は何を見れば判断できるんでしたっけ」

    会議が、一拍だけ止まった。

    誰かの通信が切れたわけではない。

    画面は動いている。チャットも開いている。資料も共有されている。

    けれど、場の流れだけが少し止まった。

    藤野が困っているのは、情報がないからではなかった。

    情報はあった。

    記録もあった。

    保留事項も見えていた。

    けれど、判断できる場所まで、文脈が戻ってきていなかった。

    葵はミュートを外した。

    「すみません。その前に、五分だけいいですか」

    佐伯が画面の中で頷く。

    「はい。お願いします」

    葵は少しだけ言葉を探した。

    「藤野さんに全部追ってもらう前に、休み中に保留にしたものの背景を、先に戻した方がいい気がして」

    藤野が画面越しに葵を見る。

    葵は続けた。

    「これは、藤野さんが一人で決める話というより、休む前に置いていた線に、みんなで戻す話かもしれません」

    保留の文脈

    葵は共有画面を引き継いだ。

    保留事項の一覧を開く。

    最初に、CS側の追加要望。

    「これは、追加要望を入れるかどうかだけを見ると、少し判断しづらいと思います」

    葵は、会議中のメモを見ながら話す。

    「森さんが気にしていたのは、問い合わせが増えそうなことでした。長谷川さんが気にしていたのは、初期版の範囲がまた広がることです。どちらも反対ではなくて、気にしている場所が違っていました」

    藤野は頷きながら聞いている。

    「なので、まず見るのは、追加要望を入れるかどうかではなくて、休む前に藤野さんが置いていた『初期版では範囲を広げすぎない』という判断基準を変えるほどの話かどうか、だと思います」

    藤野は少し考えた。

    「それなら、まず森さんには問い合わせ影響の見込みを確認して、長谷川さんには初期版の範囲を変えない前提で代替案を聞く、ですかね」

    「はい。たぶん、その順番がよさそうです」

    葵は次の項目に移る。

    顧客向け説明資料:表現調整。

    「これは高瀬さんが気にしていました。できることが少なく見えすぎるのも違うし、期待を上げすぎるのも違う、と」

    高瀬が頷く。

    「そうですね。三浦さんが月曜日に作ってくれた資料の流れを引き継いでいるんですが、言い切りすぎるとまた期待値が上がりそうで」

    葵は藤野を見る。

    「なので、ここは藤野さんが全部直すというより、まず高瀬さんの修正案を見て、期待を上げすぎていないかだけ確認するのがよさそうです」

    藤野は少し表情を戻した。

    「それなら見られそうです」

    その声は、さっきより少しだけ軽かった。

    藤野は、全部の履歴を読んだわけではない。

    休み中のすべてのチャットを追ったわけでもない。

    けれど、どこから考えればよいかが、少し見えた。

    戻るとは、すべてに追いつくことではないのかもしれない。

    どこから判断すればよいかが、もう一度見えることなのかもしれない。

    朝会は、予定より十分ほど長くなった。

    誰かが大きな感動を口にしたわけではない。

    藤野も、劇的に晴れやかな顔をしたわけではない。

    ただ、最後に短く言った。

    「これ、助かります」

    その一言で足りた。

    戻りの10分

    朝会が終わる前に、葵は共有ドキュメントの下に小さくメモを足した。

    戻ってきた人がいる朝は、朝会を少しだけ延ばす。
    全部の履歴ではなく、判断できる場所まで戻す。

    佐伯がそれを見て、チャットで反応した。

    これ、次から朝会の運用に入れてみましょうか。
    毎日ではなく、誰かが戻ってきた日だけ。

    葵は少しだけ考えて、返信する。

    それくらいがよさそうです。
    戻ってきた人に、決まったことだけでなく、保留にした理由も返せるとよさそうです。

    高瀬が続ける。

    戻りの10分、みたいな感じですかね。

    葵は、その言葉を見て、少し笑った。

    戻りの10分。

    制度の名前にするほどではない。

    でも、今日の朝会で起きたことには、ちょうどいい言葉だった。

    休む前に全部を置いていかなくていい。

    休んでいる間に全部を止めなくていい。

    戻ってきた日に全部を一人で追わなくていい。

    それくらいの短い時間なら、日常の中に置ける気がした。

    藤野が最後にチャットへ投稿した。

    今日最初に見るもの、だいぶ絞れました。ありがとうございます。

    その一文を見て、葵はようやく少しだけ息をついた。

    葵は閉じかけたスマートフォンの画面に、配信アプリのアイコンが並んでいるのを見た。

    夜になれば、またあの開始ボタンがある。

    いつもの時間に、配信中を示す小さな表示が点く。

    それを、誰かが待っている気がしていた。

    毎晩、消えないように点けておかなければならないランプのように。

    でも、本当に待たれているのは、点き続けることなのだろうか。

    それとも、一度消えても、また戻ってこられる場所なのだろうか。

    藤野が戻ってきた朝の画面を思い出す。

    名前が表示され、マイクが一度だけ点いて、また消えた。

    戻ってきた人に必要だったのは、ずっとそこにいた証明ではなかった。

    どこから話し始めればいいかが、もう一度見えることだった。

    葵は、スマートフォンを伏せた。

    今日は、少し考えすぎている。

    そう思った。

    けれど、考えすぎたまま配信を開けば、また「少しだけ」と言いながら、自分の余力を削ってしまう気がした。

    休める制度があることと、安心して休めることは違う。

    引き継ぎ資料があることと、安心して戻れることも違う。

    戻ってきた人に必要なのは、全部の履歴ではなく、判断できる場所まで戻るための文脈だった。

    葵は、メモアプリを開く。

    戻りの10分。
    決まったこと。
    保留にしたこと。
    その場で決めなかった理由。
    誰が何を気にしていたのか。
    今日、最初に見ればいいもの。

    その下に、もう少し小さく書く。

    戻るために必要なもの。
    全部の履歴ではなく、最初に見る場所。

    書いてから、少しだけ見つめる。

    まだ、言葉にすると硬い。

    葵はその一文をメモの下の方に置いたまま、画面を閉じた。

    今日は、休むつもりだった

    その夜、葵は配信を休むつもりだった。

    自宅のワークデスクには、ノートPCが閉じたまま置かれている。スマートフォンには、いくつかの通知が届いていた。社内チャットも、配信アプリも、開こうと思えばすぐ開ける。

    開けてしまう気がした。

    藤野の資料。

    朝会のメモ。

    戻りの10分。

    昼間に書いた一文。

    それらが、まだ机の上に残っているようだった。

    このまま自宅にいると、見なくていいものまで見てしまう。

    配信アプリも、たぶん開いてしまう。

    葵は少し迷ってから、ノートPCをバッグに入れずに立ち上がった。

    配信は、休むつもりだった。

    仕事もしないつもりだった。

    ただ、何もしないために、外へ出ることにした。

    薄いカーディガンを羽織り、スマートフォンだけを小さなバッグに入れる。傘を持つほどではないが、外には細い雨が残っていた。

    駅前の明るい通りを避け、少し路地に入る。

    深夜カフェの灯りは、いつものように控えめだった。

    ドアを開けると、小さな鈴の音が鳴る。

    店内には、数人の客がいた。カウンターに一人。窓際に二人組。奥の壁際の席は空いていた。

    店員は、特別なことは言わず、水のグラスをいつもの位置に置いた。

    葵は小さく礼を言い、コーヒーを頼んだ。

    今日は、PCを開かない。

    メモも開かない。

    配信も開かない。

    そう思って来たのに、席に座ると、何もしないでいることが思ったより下手になっていることに気づいた。

    スマートフォンを伏せる。

    手が、少し落ち着かない。

    雨音が、店の外で細く続いている。

    カウンターの中で、店員が静かにカップを並べている。隣の席の二人組は、小さな声で話している。奥の壁には、低い照明がやわらかく当たっていた。

    コーヒーが運ばれてくる。

    葵は、礼を言って、すぐにカップへ手を伸ばした。

    今日は、冷める前に飲んだ。

    口の中に、苦味と温度が残る。

    それだけのことなのに、少しだけ体が戻ってくるような気がした。

    何もしないでいることが、思ったより下手になっている。

    そう気づいて、葵は少しだけ笑った。

    少しだけ、話したくなりました

    しばらく、葵は何もしなかった。

    スマートフォンは伏せたまま。

    コーヒーをもう一口飲む。

    雨音を聞く。

    誰かの話し声が、意味を持たないまま耳に入って、すぐに消えていく。

    そのうち、不意に、誰かの声が少し恋しくなった。

    画面の向こうで、いつもの時間にぽつりと置かれるコメント。

    “今日も少しだけ来ました”

    “寝る前に声だけ聞きに来ました”

    “ここ、落ち着きますね”

    それを思い出しても、胸の奥が急かされる感じはなかった。

    今日も開かなきゃ、ではなかった。

    穴をあけたら流れが切れるかもしれない、でもなかった。

    ただ、少しだけ、話したくなった。

    葵はスマートフォンを手に取った。

    休むつもりで来たのに。

    そう思って、また少し笑った。

    イヤホンをつける。周りが映らない角度にスマートフォンを立てる。画面には、カップの端と、テーブルの木目だけが少し映った。

    開始ボタンを押す。

    「こんばんは」

    声は、いつもより小さかった。

    少し間を置く。

    「今日は、休むつもりだったんですけど」

    そこまで言って、葵は自分で少し笑った。

    「少しだけ、話したくなりました」

    コメントが、ひとつ、ふたつと流れる。

    “こんばんは!”
    “無理しないでねー”
    “声聞けてうれしい♡”
    “今日は短めで大丈夫”

    その中に、一つだけ、短いコメントがあった。

    “おかえりなさい”

    葵はその言葉を見て、すぐには返事をしなかった。

    おかえりなさい。

    どこへ戻ってきたのかは、まだよく分からない。

    配信へ、なのか。

    この店へ、なのか。

    自分の生活へ、なのか。

    たぶん、そのどれでもあるのだと思った。

    葵はカップに手を伸ばす。

    配信を始めても、コーヒーはまだ冷めていなかった。


    休める制度の先に、戻れる文脈はありますか

    休める制度があることと、安心して休めることは同じではありません。

    休む人が、自分の不在を消すように引き継ぎ資料を整えていないでしょうか。

    戻ってきた人が、全部のチャット履歴や議事録を一人で追いかける前提になっていないでしょうか。

    保留事項だけでなく、なぜ保留にしたのか、誰が何を気にしていたのかは、戻ってきた人に返されているでしょうか。

    休める制度の先に、人が一度離れても、また戻ってこられる文脈はあるでしょうか。


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