
35歳なんて、遠い未来だと思ってた私達が、リプトンのレモンティー味を思い出した日
今年で35歳になる。
バブル期に両親が購入した集合マンションで、バブル景気が終わった直後の1991年の夏に、私は生まれた。
いわば私は、“失われた30年”のなかで、子どもから大人になった。
日本経済のことなんて意識することはなかったけれど、時代の空気の変化だけは肌で感じながら育った。
幼稚園の頃に流行り始めた『プリクラ』は、近所のスーパーの横にも並び、弟と小さな画角に顔を押し込みながら、決まったフレームで撮っていた。その小さな切手サイズのプリクラは、今もシール手帳に残っている。
『たまごっち』は欲しかったけれど、母に「育てるのが面倒だからダメ」と言われて、買ってもらえなかった。大人になって試しに買ってみたら、その通り。すぐダメにしてしまった。
小学校低学年の頃には、『1999年のノストラダムスの大予言』や『2000年問題』が話題となり、どこか本気で信じていた気がする。
そして2000年。
私は『ミニモニ。』に夢中になった。
当時、小学生女子の間で流行っていたカラフルでポップな『ANGEL BLUE』や『DAISY LOVERS』の洋服が、どこか『ミニモニ。』の世界と重なって見えて欲しかったけれど、なぜか母には「買って」と言えなかった。
でもその後、同じような服を着た子どもたちを街で見かけることが増えた頃、母が「欲しい?」と聞いてくれた。とても嬉しかった。
そして2004年。
中学生になった私は、周りが『嵐』や『NEWS』『KAT-TUN』の話で盛り上がっていた頃、ひとり【SMAP】に夢中になった。
テレビをつければ、当たり前のようにそこにいたから、小学生の頃から好きだったけれど、遅ればせながら、いつしか彼らの出演するテレビやラジオを欠かさず、追いかけるようになっていた。
2006年、単独アーティストとしては初めてだった旧国立競技場で行うコンサートへ、土曜日の学校帰りに制服のまま向かった。ちょうど私が生まれた年と同じ1991年にデビューした彼らの、15周年の記念日だった。小岩駅から千駄ヶ谷駅まで、総武線に揺られながら見た車窓の景色と、胸の高鳴りは今でも覚えている。そして、今も、あの瞬間と変わらない想いで好きなままだ。
―あれから20年。
時間だけが静かに積み重なるだけで、私は何も掴めていないまま、変わらずにいる。生活費を稼ぐために惰性で働き、溺れないように月曜日から金曜日までをやり過ごす。 楽しみといえば、食べること、寝ること、そして週末。
狭い部屋だと寂しくなりそうで、広さを求めた結果、子育て世代か高齢者しか住んでいない下町の、独り身には少し広い1LDKで自由気ままに暮らしている。
朝は、保育園に向かう子どもたちの声で目が覚める。夏になると、あちこちでお祭りが開かれる。冬になると、「火の用心」の夜回りが聞こえる。昨年、初めて聞いた時は、まだこんな街があるのかと驚いた。
小さな幸せに感謝することができないのか、毎日どこか「つまらない」と思いながら生きている。「熱意を持って、何かに夢中になりたい」と、もう何年も言い続けているが、結局、何も変わっていない。
今年で35歳。
私は、何をしてきたのだろう。
***
そんなある日、中高時代の親友から、久しぶりにLINEが届いた。
「この間、○○先生とご飯食べたんだ!
“●●●(私)”は元気かな~って話してさ、久しぶりに会いたいな!」
五年ぶりの連絡だった。
彼女とは社会人になってからも定期的に会っていて、宮益坂の居酒屋で、よく朝まで飲んでいた。でも、ある時を境に、ぱたりと会わなくなった。私には私の理由があり、彼女には彼女なりの理由があったのだと思う。
連絡をもらってから二週間後、渋谷のメキシコ料理店で再会した。
目じりに少しだけ増えたであろう皺が、これまでの空白の時間を感じさせたけれど、昔と変わらず綺麗で、元気だった。
ただ、メニューを持つ手が、わずかに震えていたように見えた。―なぜだろう。私が距離を置いていたことに気づいていたのかもしれないし、あるいは、再会そのものに、少し緊張していたのかもしれない。でも、一度話し始めれば、すぐにあの頃の距離感に戻れた。
彼女とは物事の捉え方がよく似ている。
変に現実的で慎重だからなのか、昔から、結婚や子供を持つことに憧れはなく、どこか人生を斜に構えて見ている。それなのに、妙に感傷的で、CMひとつで泣いてしまう。
「いちいち説明しなくていいの、最高だよね」
それが、口癖だった。
中高時代の友達のなかで、社会人になってからも会い続けていたのは彼女だけだった。
料理を軽くつまみ、一本目のビールを飲み終えたころ、彼女が「実は、いろいろあってさ」と切り出した。私は思わず「え、なに?なに?」と興味津々で身を乗り出した。
「私、難病になって、脚が動かなくなったんだよね」
「え?なんで?」
お酒が入っていたからか、心配を案じる言葉をかけるより先に、驚きと興味から、矢継ぎ早に質問を投げかけてしまった。
いろいろ話してくれた。
・一生車いすか、大手術を受けるかという二択を突きつけられたこと
・結果的に、二度の大手術を受け、脚の付け根にボルトを入れたこと
・リハビリをして、なんとか歩けるようになったこと
・仕事を辞めざるを得なくなったこと
・実家に戻り、祖父の介護を手伝っていること
・歩けなくなっても働けるように、司法書士の勉強をしていること
何年も連絡を取らなかったことを後悔した。
―ごめんね。
***
振り返ると、彼女は昔から、いつも少しだけ先を歩いている人だった。
出会ったのは、中学の入学式。そこは、私が滑り止めとして入った学校だった。 出席番号が前後だった私たちは、その日、駅まで一緒に帰った。彼女は、今でもその時、私が言ったことを覚えていると言う。
「こんな学校、入りたくなかった。
せめて、学年一位くらい取らないと無理」
今思えば、プライドが高くて、イキってる嫌なやつ。でも、それくらい悔しかった。私は、本気で難関校に受かるつもりでいたのだ。しかし結果は、全滅。ギリギリでこの学校に滑り込んだ。
だから、ここでは学年一位になると決め、中間・期末試験の二週間前になると、彼女とはつるまず、死に物狂いで勉強して、なんとか一位を取っていた。普段は遊んでいても試験では結果を出すことに、妙な誇りを感じていた。今振り返ると痛々しいけれど、それが当時の自分なりの“かっこよさ”だった。
一方、彼女はというと、勉強が嫌いだった。というより、勉強に意味を見出していなかった。「将来、古典なんて何のためになるの?」と。
大人になって思うと、その通りだ。ただ、一応、進学校に属していた私たちの学校では、大学受験に必要な科目をきちんとこなすことが前提だった。
そういう空気は、彼女には窮屈だったと思う。いつも赤点ギリギリだった。
でも私は、そんな彼女に憧れていた。
寄り道禁止の学校だったのに、放課後は錦糸町でよく遊んでいたし、彼氏の話もたくさん聞かせてくれた。女子校だったから、彼氏持ちなんて学年に一人か二人。だからこそ、彼女の話は別世界だった。休み時間に、レモンティー味のリプトンをストローで飲みながら、自分の知らない青春を覗き見するような気持ちで、昨日の放課後の続きを聞いていた。
話を聞くたびに、
「夜遅くまで遊んでみたい」
「少し悪いことをしてみたい」
「バイクに乗ってみたい」
実際は、怖くて何もできないくせに、そんな願望ばかり抱えていた。
だから私は、自分には踏み込めない青春を生きていた彼女に、強く惹かれていたのだと思う。私なんてせいぜい、ケータイ小説の『恋空』を読むことくらいしかできなかったのだから。
成績ばかり気にしていた私と、そんなことには無頓着な彼女。先生や同級生からすれば、一見すると違うタイプの私たちがつるんでいるのは、不思議に見えていたようだった。
でも、無理に誰かと歩幅を合わせようとしないところや、人に流されないところなど、彼女とは似ている部分がたくさんあった。たとえば、駅から学校まで一緒に登校する約束をしたり、連れ立ってトイレへ行ったり。そうした、四六時中べたべた行動することで“仲の良さ”を確認し合うような女子学生特有のノリが、私たちは嫌いだった。
だから、気が合った。
席替えの日には、同級生と強引にくじを交換してまで、窓際の後ろの席を並んで確保していたくらい。
いつの間にか、一部の同級生からは、“2TOP”なんて呼ばれるようになっていた。当時の私は、その特別感をどこか誇らしく感じていた。今思えば、気恥ずかしいけれど。
そんなふうに毎日一緒にいた私たちも、高校二年生になる頃には、進路のために、別々のクラスへ分かれた。
私は、入学式初日に口にした「一位を取らないとダメ」という言葉を、ずっと自分に課し続けていた。大学受験に失敗したら終わり。そんな焦りに追われながら、勉強だけの日々を過ごしていた。一方、彼女は家族の事情から、学費を稼ぐために夜のバイトを始めていた。
私は、追い詰められるほど神経をすり減らし、ついにはノイローゼになってしまった。彼女もまた、昼は学校、夜は朝までバイトという生活を続けながら、心と体を削っていた。
同じ学校にいながら、その中身はまったく違っていたけれど、それぞれ、もがいていた。
一度だけ、人前では泣かない彼女が、校内のベンチで泣いている姿を見たことがある。○○先生が、彼女の背中をさすりながら話を聞いていた。でも当時の私は、自分のことで精一杯だった。だから、横目でその光景を見ながら通り過ぎ、そして、ほんの少しだけ安心してしまった。「ああ、苦しいのは私だけじゃないんだ」と。
今思えば、私は学費の心配もないまま、受験という一点に追い詰められ、心をすり減らしていたけれど、彼女は、生活そのものを背負いながら、まったく違う現実と向き合っていたのだと思う。あの頃の私には、まだ見えていない世界だった。
それでも二年後。私たちは、なんとか卒業した。
卒業式の日、ふと周りを見渡すと、気軽に話せる友達が誰もいないことに気が付いた。あまりに勉強にのめり込んでしまった結果、一人、孤立していたようだ。そんなことを思っていたとき、遠くに彼女がいるのを見つけた。二年もの間、話をすることはなかったけれど、私は反射的に駆け寄り、抱きついた。後から聞いた話では、○○先生はその様子を見て、泣いていたらしい。
―あの卒業式から、16年。
私は、大学卒業後、映画『プラダを着た悪魔』に憧れて、出版社を目指したが叶わず、“滑り止め”で受けた会社に入社し、そのまま十年以上勤めている。
その十年、いろいろなことがあった。
同棲をした。二度、休職をした。心をリセットしたくて、実家に戻った。その直前、16歳から飼っていた愛犬が亡くなった。「もう少し早く帰っていれば、また一緒に暮らせたのに」と、後悔したのは昨日のことのよう。
そして、忙しく働いているうちに、気づけば、青春時代の心の拠り所だったものも少しずつ消えていた。【SMAP】もその大きなひとつだった。一度も会ったことはなかったけれど、ずっと私を支えてくれていた存在。いなくなる日が来るなんて、思ってもみなかった。
***
彼女と再会した帰り道、そんな学生時代から今までの時間が、ゆっくりと蘇ってきた。
気づけば、もう三十代後半。でもまだ、十代の頃と変わらないまま、もがいている。将来は相変わらず見えなくて、本当に何をしたいのかも分からないまま、時々、その場に立ち尽くしてしまう。
まだ世間を知らなかった中学生の頃、毎日1時間30分もかけて通勤していたサラリーマンの父を見て、私はただ会社に勤めるだけの人生は嫌だと思っていた。そんな私も気づけば、同じように満員電車で通勤し、家賃を払い、貯金を増やすために働いている。
「働きがい」なんて、十年以上経った今もわからない。探そうと頑張っていた頃もあったけれど、最近は、「もういいや」と自分を甘やかさないと、やっていけないことも多くなった。
学生の頃には分からなかった、【全てが思うほど、うまくはいかないみたいだ】という歌詞が、今になるとよく分かる。
でも今日、彼女と再会できてよかった。
お昼の12時に会って、気づけば夜9時。いつもの宮益坂で、九時間近く飲んでいた。高校を卒業してから十数年、彼女にもいろいろあった。私にも、いろいろあった。普段、心の奥に置いている思い出が溢れて、泣いて笑った。
たぶん、時々こうやって「よく頑張ってきたよね」と口にしないと、やっていけないのだと思う。だからこそ、何年経ってもこうして、昔のことを笑いながら話せる相手がいることは、とても幸せなことだと感じた。
あの頃に見ていた景色は変わってしまったけれど、その時間は今も私の中に残っている。
そんなことを考えていたら、胸の奥がじんわり温かくなり、気持ちが軽くなった。人は案外、つらかったことよりも、楽しかった記憶のほうを先に思い出すのかもしれない。「自分の人生も、そんなに悪くなかったのかもしれない」と。
明日もきっと、同じように働き、同じように疲れて、同じようにイライラすると思う。
それでも、なんとかやっていける気がした。