なぜ、「ビー玉」のおもちゃ作家なのか
おもちゃ作家を始めた頃、どんなおもちゃ作家としていこうか迷っていた時期はある。保育士をしながら、おもちゃ作家を志しつつあった時期に自分の今まで作ってきたおもちゃを見てみると、そこにはビー玉の要素が含まれているものが結果的に多かったというのも大きい。
しかしながら、現状の着地点は「ビー玉には動きの面白さがあり、見た目の美しさがあり、そして素材の多様性がある」と言う話でまとめてしまうことが多い。
、、確かにまとめてしまうとそうなのだけど、ビー玉をコンセプトにした潜在的な背景みたいなものを、今までちゃんと掘り下げて考えたことがなかったので、今回このコラムに落とし込んでいきたいと思う。

1:「老若男女が心に秘める、普遍的な愛着」
ビー玉には、老若男女を問わず、誰もが「潜在的に好き」という気持ちを心の奥底にはある。
僕の世代は「ビーダマン」が流行して、その前の世代では、屋外でビー玉遊びをしていた時代もある。
現代ではメディアを通し「ピタゴラスイッチ」のような、自宅の中でビー玉を使った遊びを作り出すコンテンツが主流になりつつあり、子どもたちはビー玉の仕掛けを面白がり、ビー玉を主役にしながら、様々な遊びへと応用していく。
そこには素材としてのシンプルで人間が能動的に取り組みやすい素材であることも大きいような気もする。
あと、「小さな球体」そのものが心理的に優しさや安心感のようなものであるのでは?と思い調べてみると、、、
「プレグナンツの法則(簡潔性の法則)」というものがあり、脳は複雑な形を認識するときにエネルギーを消費して疲労するが、球体は認知の負担が最も少なく、視覚的なストレスが一切かからない。
、、という話もあり、そうした背景もあって世の中はビー玉を無意識的に好きになっているのではないか?と考えたりもする。笑
今でこそある程度言語化できるが、
作家を始めた頃は直感的な感覚で進めていた。
この無意識的に感じる「好き」という
気持ちはなんだかんだ大事なんだろう。
2:「ビー玉」を使った教具としての側面

アトリエで日々様々なお客さんと関わっていると、そうした表面的な楽しさや人気の高さだけではなく、、ビー玉の遊びには発達にとって非常に肯定的な側面がいくつも隠されていることに気づかされる。
例えば、不規則なルートを転がっていくビー玉を目でじっと追いかける動きは、現代の教育や療育の現場でも注目されている「ビジョントレーニング(視覚機能の向上)」そのものである。
こうした遊びには動くものを正確に捉え、脳で処理する力を、子どもたちは遊びの中で自然と育むようなエビデンスも多く存在する。
また、よく特別支援の先生たちがビー玉を授業に取り入れており、参考のためにアトリエに来訪することも多い。
さらに、自閉症などの特性を持つ子どもたちの中に、ビー玉を好む子がとても多いというのも、年4000人ほどお客さんが来る中で実感することが多い。
刺激が強すぎるデジタル画面の光とは違い、自分の手で動かし、その確かな物理的因果関係を五感で受け止める世界は、彼らの心に強い安心感と、深い集中をもたらしてくれるのではないか。
ビー玉の遊びにはすべての子どもの脳と心を健やかに育む力があるように感じる。
3:つくり手の想像力を広げる、高い応用力

おもちゃを製作においては、ビー玉はこれ以上ないほど「応用が効く素材」であり、本当にコンセプトに選んでよかったと思う。
転がしても面白い、飾っても光を透過して美しい、ビー玉を素材として使ってアートな表現するのもまた良し、、。
たまに他の素材を軸に作家を進めていったら、どうなんだろうか?と思うことがあるが、いろいろな作家を見ていると、その素材の中で限定的に作品作りをしていくというのが基本である。
でも、ビー玉の場合は、その限定的な製作を超えた高い応用力でものづくりができる。世の中の様々なコンテンツを見ながら「どうしたらビー玉に応用できるか?」といった角度でものづくりを進めることができるのも、素材の自由度が高いことが挙げれるだろう。
シンプルであるということはどのジャンルでも強い。
4:生涯のモノづくりにおいて、飽きを遠ざける軸

おもちゃ製作を進めていく中で不安がよぎるのは、自分のおもちゃ作りに対する情熱に「飽き」が来るのではないか?という点にある。
これは、最初にどんな作家になろうか?と考え始めた時から考えていたことで、、世の中のおもちゃ作家という仕事を見ていくと、昔からあるような木のおもちゃ製作をしている方が多く、要は同じものをたくさん作って生業にするという仕事である。
作家を始めた当初から淡々と同じものを作る仕事の仕方は、僕にとって地獄の所業だろうと思っていたので、、作品ベースの仕事の仕方の方法を模索して、今のエンタメ打ち出すような「体験施設」としての方法を確立していく。
そして、これは10年前くらいから物が売れなくなった時代の中で、「コト消費」的な価値観の方が強いと感じるようになっていた点にも合致していた。
そうした背景もあり、体験型に踏み切り、ビー玉をコンセプトにしながらものづくりをしていくということは、ビー玉の素材としての応用力の高さからしても、飽きるということが起こりにくい仕事であるように思える。
一番大きな作品「mmw3」だって、色々なお客さんに「早くもっと大きくしたいんでしょう?」と聞かれることもあるけれど、、とんでもない、、!あれをずっと作り続けていくことは心身ともに体力を削る作業、、、というような例もある。
だから、そういう姿勢になってしまうような時期がある時にひたすら向きあうのではなく、ビー玉を軸としながら、逃げとしての他のものづくりに向き合うということがビー玉をコンセプトにする大きな意味の一つである。
おわりに:ビー玉をコンセプトにすることで見えてくる複雑的な世界

これはよく思うことだけど、、
こうしたものづくりの連続を毎年このペースで狂気的に作り続けたらどうなるのだろうか?と思う。
「面白さとは?」という問いがあるのだとしたら、、
僕は「複雑性」と答える。
アトリエにはそうした僕の人生の複雑的な想いを
詰めに詰め込んだ場所である。
単に「仕掛けがあって面白い」「子どもが面白がる」
そういうものづくりだけでない、社会全体を包括したようなそういうものづくりの断片をこのアトリエに注ぎ込み続けている。
あと、5年、10年したら
このアトリエはどうなる?
僕はどんなものづくりをしている?
自分でも想像が付かない
予測不可能な未来を楽しみにしたい。
