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英雄

     「人生の主役とは、自分自身である」。よく聞く教育文句である。幼少の頃の私は、この言葉に感化された。自分こそがこの人生の主役格であるのだ、と。
     しかし、ある種のロマンチストである私には、この言葉は同時に、いわば安直な表現、呪いとして翻った。私の知る「主役」というのは、どれも、運命的な出会いや再会に、人生を変革されるのである。私は、潜在的な洗脳として、「自分は主役である」という観念を植え付けられ、そして私にとっての主役とは「運命の当事者」。つまり、能動性に欠いた、受動的英雄であり、私はここに書いていながら尚のこと、その運命的な瞬間を待ち侘びているのである。

     しかし、振り返れば、私には運命的な場面がいくつもあっただろうと思う。それは、例えば、小さな助言を雑事と片付けた幼少期。あるいは、最も親しくなった異性に、心の内を自白することのなかった学生期。多くの異性が私に関する好色的話題をもたげていることを、風の噂に耳にした同時期。その当時、私は運命の岐路に立たされていることを、どこかで承知しながら、だけれど断ったのである。断ったとしても、それが本当の意味での運命であるのなら、私の裁量を凌駕する影響力を持ってして、私に襲いかかるだろう、と。

     きっと、彼らの言う「主役」の意味するところが、詰まるところ「主体性の当事者」であった可能性を、私は了解する。しかし、だとするなら、「主役」「主人公」という表現が、土台から間違っている。その表現において最も適切なものを挙げろ、と言われれば、いくらでも、例えば「著者」「作者」「創作者」「創造主」「監督」などと、挙げられるのだから。であるなら、私側に手落ちはないだろう。

     「運命は掴み取れ」、そう陳腐な革命家がほざく。けれど私は主役であり、主役とは受動的英雄なのである。どれだけ岐路を断ろうと、いずれ、私の選択をすら覆す、大きな珍事が、人生を決定づけるのである。

     運命の可能性的事件を振り返って、私は、いや、だけれどこの先に、さらに大きなものが待ち構えているのだ、と。雑事と片付けた助言が、あるいは成熟したのちの私を洗脳し、私を導く天啓となり得る可能性を。最も親しくなった異性と再会し、あるいは劇薬として私の人生に投下され得る可能性を。そう、信じなければならない。
     なぜなら、私はこの世に生まれたのであり、生まれた私は人生というものを所持するのだから。人生を所持するものは、その一切が「主役」であるのだと、多くの大人が、私に語って聞かせたのだから。

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