
満月の夜話(35) - 光、満ちる -
太陽を直接見つめると白く潰れて見えるように、人の目は強すぎる光の中で物の輪郭を正確には捉えられない。
僕の彼女は特殊な体質の持ち主だ。
彼女の目はわずかな光でも過剰に反応してしまう。陽光はもちろん、蛍光灯や電灯、スマホやテレビの光、蝋燭の火であっても視界は白く潰れ、その光が彼女の目に激しい痛みを与えてしまうのだ。
そのため、窓は季節や昼夜を問わず暗幕のようなカーテンで閉ざされている。部屋は暗闇、僕には彼女の顔を見ることができない。
暗闇の中で、彼女の明るい声が聞こえる。決して溌剌な声ではないが、静かなのに強く、張りはなくとも声には豊かな表情が滲んでいた。
彼女の側はいつも温度が少し低く感じる。そして、少しみずみずしい。まるで初夏の夜に深い山奥の沢辺にいるような。彼女の纏う静謐で清涼な空気、そして暗闇。僕の恋人の空気。
僕は彼女を見たくなって、彼女の顔のある方へと手を伸ばす。
髪に触れる、彼女がびくりとした。僕は彼女の長い髪を指で漉いた。
流れのままに彼女の顔を両手で包む。頬に触れ、彼女の輪郭を指で確かめていく。滑らかな頬、細い首、繊細で高い鼻筋、薄い唇へと辿っていく。少しだけ開いた唇、その奥の歯先が僕の指先に触れたとき、彼女は小さく息を呑んだ。僕は彼女が微笑んでいることに気付く。
彼女が身体をひねり、静かな暗闇に衣擦れの音が立った。
僕は手を引いた。何度触れても、それでは満ち足りなかったから。
満月は、彼女を傷つけない唯一の光。
彼女に世界を見せてくれる夜。
僕は真っ暗な部屋の中で彼女を求め、彼女の薄い声がする方へ泳ぐように手を伸ばした。指が彼女の身体のどこかに触れた。僕はそれを辿り、ようやく彼女の手を見つける。彼女も僕の手を握り返した。手はわずかに震えていた。
僕は内緒話をするように囁いた。
「目を閉じて」
彼女は指先で小さく返事をした。僕はスマホを取り出し、その薄い光が作った足元の道をゆっくり進む。ベッドに躓かないように、リビングの家具に当たらないように、そっと彼女をベランダへ誘ってゆく。
ベランダに続く窓に掛かる重々しいカーテンを開ける。一斉に満月の青白い光が部屋に流れ込んだ。ベランダへの鍵を開け、僕は彼女に囁く。
彼女の目が開いた。
僕は薄明りに浮かんだ美しいその横顔を見た。彼女の瞳は光に満ち、まるで揺れる湖面のように輝いていた。
一ヶ月ぶりの夜風は、彼女の顔を長い髪で隠そうとする。
僕は彼女に向き合い、顔に掛かる髪をかき分け、満月が描き出した彼女の輪郭を正面から見つめた。
僕はいつの間にか微笑んでいた。
やがて、彼女は恥ずかしそうに唇を動かした。
「顔、見えた?」
「うん。一ヶ月ぶりだね」
「恥ずかしいな」
「僕は、嬉しいよ」
「どう?私、変な顔してない?」
「全然。可愛いし、すごく綺麗だ」
「本当?」
「うん。だけど……」
「だけど?」
「いや、老けたなぁって」
途端、彼女は目を見開き、目尻に刻まれた皺が伸び上がって消えた。
一拍の後、彼女は破顔し、笑いをこらえるような声で答えた。
「お互い様でしょ、老けたのは」
「そうかな?」
互いの顔を見つめ合い、やがて彼女は僕の唇へ手を伸ばした。
「私だって、見たかったんだから」
(了)
お読みいただきありがとうございました。
内容はもちろんフィクションです。
次回の満月は、7月29日(水)らしいです。