
わたしたちは飽和している
たとえば夏。
しとしと雨が降る梅雨明け前、なんとなく友だちともあそぶ約束はしないで学校から帰り、おやつを食べて、夕飯ができるまでの間、宿題済ませるかとじぶんの机に座ってやりもせず、ひきだしの中の、お気に入りで使えないえんぴつやら、消しゴムやら、シールやらを出して眺めてきれいにまとめてまたしまう、やらなくていい整理整頓してみたり、交換日記を書いてみたり、じゆうちょうという白い紙がつづられたノートになにか描いてみたり。
たとえば冬の終わり。
ちょっと日差しが暖かくなってきているけど、まだ風は小寒いような日に、もうすぐ片付けてしまうだろうこたつの中に寝そべってマンガを読んだり、起き上がって手芸と呼べるかわからないけれどフェルトと刺しゅう糸でなにかコチョコチョ作ってみたり。
そういうじかんがすごくあった気がして、小学生の頃だから、じぶんのことだけを考えていればよかったからかもしれないけれど、たいしたことは何にもしてないのに、なんだかとてもいいひとときだった。
いま、まだ仕事はいそがしいけれど、子育てはほぼ終了し、以前よりだいぶ自分のじかんがもてるようになって、こうして何か綴ってみたり、じぶんの好きなお茶を入れてゆっくり何か読んだり、できるようになったのに、なのにあのときみたいな感覚が戻ってこない。
なにがちがう?
満足感。
かもしれない。
ひとつには「満足感」がちがうのかもしれないと思った。
いろいろ見ないといけない、読みたい記事も多い。
編み物も途中だけど、このレシピでおつまみも作ってみたい、あたらしい夏服をネットで見てみなくちゃ。この音楽好きだったから、お気に入りにしておこう。
わたしは、いつも散漫だ。
むかしより満足度を感じるセンサーがかなり鈍くなってしまった。
やりたいことや見たいものが多すぎて、ほんとうにじぶんが何をしたいのかよくわからなくなっている。
食べたいものすら、思い浮かばないくらいにわたしたちはもう飽和しちゃっていて、じぶんがどうやったら満足するかわからない。
だけど、ひきだしの中から出して、眺めて、それをまたしまって。
だけで、充実していたあのころにはもう戻れない。
なんだか「汚れっちまった悲しみに」の気分。
だから、とっ散らかっちゃってもしかたない。
ただただやらなきゃいけないことが増えていく感じは受け止めつつ、
ほんとうにじぶんの好きの純度を濃くして、満足度を高めていくしかないのだ。
Youtubeを流したTVを横目に、スマホでAIを開き、PCでこの記事を書きながら、そう思った。