気づけばポロリ。
ワケも分からず次から次へとこぼれ落ちてゆく粒の数を、数えてみようとは思わなかった。そこへ意識を全集中するよりも、ただただ流してあげたかった。
悲しい時は、一人で泣けばいい。真っ暗な部屋の隅で膝を抱えて、誰も聞いていないし見てもいないのに声を抑えて泣いたり、泣ける映画や小説に触れてわんわんと泣いたりとか。スタイルは自由。泣くことは浄化だし、笑うことと同じくらいの癒し効果がある。元気の素は、笑うことと泣くことの二つともを我慢しないことなのかもしれない。
だが、それがどうしてもできない期間というか、「いつの間にかできなくなっちゃった」というのってあると思う。私の場合、幼い頃はすぐに泣く子で、うまく感情表現ができない上に言葉も出ない、声が小さいというトリプルパンチ。涙の種類は感情の数だけ存在しているのに、それを誰も分かってはくれなかった。
大人になり、あまり泣く機会もなくなってきたと思っていたが、それは完全なる思い込みだった。泣かないようにしていた。つまり、あらゆる感情を押し殺していた。これはもう、致命的でかなり危険な行為のハズなのに、まるでそれが当たり前でみんなもそうしていて、むしろ泣かないとか感情表現しないのがカッコイイぜぐらいの時代を迎えてしまったとさえ感じる。
まぁそれはちょっと言い過ぎとしても、個人的に「感情表現しなさすぎ問題」が勃発していて、これをどうにかしてやらないと、マジのガチで心身ともにキケン!なトコに今いる。かと言って、「涙活」みたいなことをしようとも思わないのだが、ある日突然始まったのが「いきなりポロリ」だ。
30年くらい前にテレビでよく見た水着のお姉さんの話ではなく、何の脈絡もなく本当に突然、ポロリ…と涙が落ちる。え?なに?と自分でも驚いた。どーした?なんかあった?と問うても、心の中から返ってくる言葉は何一つない。涙の理由が、全くわからない。とりあえず、ヤバそうだなと思った。「心療内科」「精神科」「カウンセリング」の3つのキーワードをひたすらにポチポチと検索の窓に打ち込み、Google先生に頼った。25歳の時にメニエール病とうつ病を患ったので、再発したかなと思って専門家の力を借りるために探したのだが…急にイヤになって、スマホを置いた。何がしたいんだろう?診断されたいのか?原因を知りたいのか?知ってどーする?
私の涙の理由は、例えば「嬉しかった」だったり「悔しかった」だったり「辛かった」だったり「びっくりした」だったり、いわゆる感情の揺れが眼球を濡らし、下瞼が抱えきれずに溢れ出る状態だ。感情がそのまんま、涙というカタチとなって表出される。それが、ワケも分からず突然ポロリとなると、その状態に陥っていることそのものに混乱してしまう。おかしくなっちゃったのかなって、思ってしまう。
でもきっと、おかしくなんてないんだ。私もあなたも、絶対おかしくなんかない、って思ってる。抱えきれないほどの愛を感じて、嬉しくて幸せで「なんでそんなことしてくれるんだろう」って感激して泣くこともある。逆に、大きすぎる愛に戸惑い、不安が増長されてしまって泣くこともある。
過去にどんな経験をしたとしても、「今」と「これから」なんだよって話は散々聞いてるし、それもちゃんと分かってるし、幼少期にどれほど孤独の中で生き抜いてきたとしても、結局は周りの人から愛を注がれていたというのももちろん理解してる。それでも、複数人の中で感じる「独り」の瞬間ってしょっちゅうあって、一人で部屋で過ごすそれとは全く毛色が違う。だから私のことを癒して!だなんて微塵もなく、愛について語ろうとか歌おうとも思わない。
自分の感情の揺れ幅があまりに大きいと、いつまでこの状態が続くのか不安になったり、何の役にも立てていないような気持ちになったり、「生きてるだけで丸儲け」って心から思えなくなったりする。そんな自分のことなんて誰も興味がないだろうし、自分のことを好きになろうなんて思えないし、自分責めをやめたくても気づいたらやっちゃってるし、「自分責めしてる自分のことを許そう」とさえも思えなくなっちゃってる。そんな状態まで行き着くって、一体どんな人生を送ってきたんだよって笑っちゃうんだけど。
最近分かったのが、涙には温度があり、味があり、割と左目から落ちることが多いってこと。目が痒い!って時は右目からポロリだけど、感情をそのまんま表出してる時は大抵、左目からポロリなんだなってことに気がついた。だからどーしたってレベルのことだけど、それこそ何十年も感情を押さえ込んで生きてきて涙の出番がなくなって、「いい加減、出してよぉ!」ってドーーーン!!って出てきたものに対してこんな冷静に分析してるのも、なんか可笑しい話だ。
涙の分析をすると、ホロリとポロリとツーッ…ていうのがある。ホロリは、あったかい系。離れ離れで生活してた親子が再会、みたいなの。ツーッてのは、最近だと映画の「鬼滅の刃」を観た時。作品に共感した時に流れるっぽい。
で、ポロリってのが結構、大事な涙なのかもってことを勝手に思ってて。(超個人的な見解)
「あー、泣きそう」ってのが分かって、鼻がツンとしたあとに、視界がぼやけてきて、涙が溜まってゆく。下まつげに沿ってポロッと、球体が落下する。1粒が大きい。私の場合だけど、このポロリ涙のパターンは「矛盾」とか「相反するもの」を感じた時に表出されるっぽい。
例えば、外はお天気が良くて爽やかな気候なのに、自分は部屋に一人で伏せってて未来に希望を見いだせずにいるみたいな、「対比」を感じた時にポロリ。あとは、どんな自分のことも全て受け入れてくれる存在の大きさを実感するとともに、絶対にいつか消えゆくその存在(有限の命)の儚さを同時に感じてポロリ。可愛さと醜さ、どちらか片方だけのものではなく両方が存在してるものこそが美しい。その「美しさ」を捉えた瞬間にポロリが発動する。
ポロリの場合、しばらく泣き止まない。永遠と儚さ、絶望と希望、可愛くて醜いもの、つまり美しい存在に触れると、夕陽を見た時のような気持ちになって体温が1.2度上昇する。微熱のあのボンヤリ感の中で、「もう少しこのままでいたい…」なんて、まるで遠距離恋愛中の恋人と会えたみたいな感覚に陥る。宇宙レベルの愛に包まれているような、でも自分という存在はたった一つ。いつか消えゆくこの命。どんなに愛されても、結局その証拠は残らない。期間限定のこの旅路をどう愉しむのかをいつもいつも考えているクセに、最終的には「終わり」にフォーカスさせてしまう。「今」が何より大事。過去は関係ない。でも、「今」があるのは過去を生き抜いた軌跡があるからで、そこは自分だけの宝物。ダイヤモンドの輝きでさえ、自分の歴史に比べたらくすんで見える。
「どうしちゃったんだろう」「おかしくなったかな」と心配しつつ、「おかしくもなるでしょう、このご時世」と少し笑い、「おかしいままでも生きていける」と、強い人のフリをする。そんなこんなで数ヶ月が経ち、心療内科にも精神科にもカウンセリングにも行っていない私は、また理由の分からない涙を落とす。「泣きたい時は泣けばいい」と、推しの曲の歌詞にもあったし、尊敬するあの人も言ってくれたし、世の中に出回る書籍にもそのフレーズはあるし、TikTokにもYouTubeにもInstagramにもXにもThreadsにもある。きっと、ある。noteにもあるだろう。
それでもね、「泣きたい」と思う前にポロリしてることの方が多かったりとか、気づいたらあれれ?今、泣いてる?ってことが日常茶飯事だったりとか、そんな状態でもがき苦しんでそれでも「生きる」を選び続けてる人間が、きっとたくさんいるんだ。だからと言って、そんな人たちと手を組んで仲間になって「共に生きようぞな!」「この時代を生き抜こうぜぃ!」と声を高らかに上げようとは思わない。そこは、独りでいいし独りがいい。
誰かの胸で流す涙は、安心という海の中でチカラを抜いてプカプカ浮いて、泣きやんだら泳ぎ始めるためのパワーチャージタイムだと思ってる。部屋で一人のポロリタイムは、「これからどうする」という脳を使う時間は不要で、「さぁ、元気になってきたぞー」とかがなくて、ただひたすらに「今ココ」を感じ切るものだ。明日の口座引き落としに間に合わなくても、来週の予定が未定でも、未読のLINEが50件でも、パートナーからの一言にひどく傷ついていても、今日から1週間1000円で暮らさなきゃいけなくても、「大丈夫だよ」って言葉が全く効果なしでも構わない。「だいじょばないし!」って思っててイイ。涙が出るくらい、懸命に生きてるんだもの。世界中が敵に見えてしまう時もある。それでも、自分だけは自分の味方だし、最高の親友だし、「サイテー!」って何回何百回と責めまくっても絶対に許してくれる存在って、自分以外にいないんだよね。そんな自分が、泣いてるんだよ。とても美しいと思う。もちろん笑顔も最高に可愛いし、ずっと笑ってて欲しいなとも思うけど…私は自分が一人で泣いてる時が、周りに見せるどんな自分よりも可愛くて醜くて儚げで色気があって、情熱的で素直でじれったくて、つまり美しいって感じてる。
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