
寺の名前すら確認しない岐阜市の社会科副読本
過日。押し入れの奥に眠っていた、子どもが三年前に使っていた小学3年生向け社会科副読本『わたしたちの岐阜市』──著者は「岐阜市小学校社会科研究会」──を、なぜかふと取り出し、めくってみた。別に理由はない。掃除の途中で昔の写真を見つけて手が止まる、あのどうしようもない衝動と同じである。
ところが、その無意味な行為が、小生の心に激震をもたらした。正法寺──岐阜大仏の鎮座する、あの由緒ある寺の名が、よりにもよって「しょうほうじ」と記されておったのだ。

小生、思わず本を閉じ、深呼吸し、再び開き、もう一度確認したが、やはり「しょうほうじ」。これは小生の視力の問題ではなく、紙面のほうが堂々と間違っておる。
正法寺は「しょうぼうじ」である。寺の公式サイトの英語ページでは「Shoboji」と明記され、岐阜市の公式サイトでは「しょうぼうじ」、文化庁のサイトでも「しょうぼうじ」と記されておる。寺と市と国が揃って「しょうぼうじ」と言っておるのに、地元の教材だけが「しょうほうじ」と独自の読みを開拓しておる。糞が。
想像するに、編集室の片隅で担当者が「正法寺……ふむ、一般読みなら“しょうほうじ”であろう」と、辞書的な読みをそのまま採用し、確認もせずに原稿を流し込んだのだろう。そこへ校正者が現れ、「ここは“しょうぼうじ”では?」と指摘するはずの場面が、なぜか霧散してしまった。
こうして凡ミスが積み重なり、三年前の子どもたちの脳に「しょうほうじ」が刻まれてしまったのである。
そして小生は思う。三年経った今、この誤りは改訂されたのか。いや、小生には知る由もない。岐阜市のどこかで、いまだに「しょうほうじ」と信じて疑わぬ子どもが存在しておるのかもしれぬ。
文化とは、こうした細部の積み重ねで成り立つもの。そこを誤るのは、寺の屋根瓦を一枚だけ逆向きに載せるような、じわじわ効いてくる種類の損失である。
岐阜大仏は今日も静かに鎮座しておるが、もし声を発したなら、「誰じゃ、わしの寺を勝手に改名したのは」と嘆息するに違いない。
小生としては、もはや改訂の有無すらどうでもよい。ただ、三年前の紙片に潜んでいたこの間抜けな誤記が、小生の午後を台無しにしたという事実だけは、正しい読みとともに、静かに、しかし確実に積み上がっていくのである。
