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『肩が下がる日まで』

    〈冒頭〉

     幼い頃から、緊張をうまく解けずに24年半生きてきた。
    ずっと緊張の中に居た。
    なぜなのか、何に怯えているのか、よくわからなかったけれど、
    人前で緊張するのとは違った。

     子どもの頃の私は、とにかく外の世界が怖かった。
    一人っ子で、親以外の誰かと話す機会を多く持っていなかった私は、
    その理由で、自分は人見知りなんだ、と思うことにして、
    あまり気にしないで居た。

     でも、中学にあがった頃には、

    『普通にならなきゃ…』

    そればかり考えていた。

    そんな焦りはあったものの、その頃は、

    『家に帰れば大丈夫になる。とりあえず、楽になる。』

    そうは思っていた。

    『靴を脱いで、鞄を置いて、
     「ただいま」と帰れば、一日が終わる。
     だから、もう少しだけ、もう少しだけ、この時間に耐えよう。』

    そう思っていた。

    そうやって、一日一日を確実に乗り越えることだけ、精一杯やっていた。

     だけど、不思議だった。

    緊張で上がってしまう肩は、家に帰っても、下がらなかった。
    上がったままの肩にランドセルを背負って、「行ってきます。」
    と言わなきゃいけない朝がまた来る。

    家でずっと泣いているとか、そんなんじゃない。
    笑うこともあるのに、おいしいごはんも与えてもらって、
    幸せだと思えるはずなのに、

    『帰ってきた』と思える場所は、どこにも無かった。

    〈第一章〉
    「外でも苦しい」

     私は、周りよりも、

    『ちゃんとしなきゃ。』

    が強すぎる子どもだった。

    『ちゃんとしなきゃ。』

    そう思えば思うほど、私の中の、
    “ちゃんと”の条件は増えていった。

    この不安や焦りは、
    高校生になっても、大学生になっても消えなかった。

     大学受験を意識し始める高校生になった時、
    みんなと一緒に私も、
    進路について真剣に考えてはいた。

    だけど、頭と心の大部分を占めていたのは、

    『私が就活?正社員?企業に勤める?
     そもそも普通に働ける気がしない。やばいよなぁ…。』

    だった。

     学校では、過緊張で普通じゃないという自分の弱さを隠していた。
    完璧主義だった私は、
    次の日のための予習や復習を夜中までたくさんやった。

    勉強のためではなく。

    無駄な努力の仕方だとわかっていながら、
    授業中当てられた時に答えられるようにするために、
    恥をかかないために、緊張を緩和するために、がんばった。

    結果、“超真面目”、“努力家”などの好印象で、大学生まで隠し通せた。

    でも、この自分で作り上げた外からの自分のイメージが、
    さらに自分を追い込んでは、
    隠すものが増える、偽りが増えていく。

    そんな毎日だった。

    私が集中していたのは、いつだって目の前の事じゃなくて、
    自分の鎧を守ることだった。

    『何をするにも、自分を隠さなきゃ、私は私をやれないのかな。』

    そう思うと、

    未来に先に疲れてしまった。
    次の日が来ることが、嬉しくなかった。

     学校という社会の中で、うまく息ができない。
    アルバイトをしても、うまく息ができない。頭痛が止まらない。

    時間だけが過ぎていく。焦る。

    『これじゃ、社会人になれない…。』

    それでも、

    とりあえず家に帰れば、スイッチをオフにできる、と奮い立たせて、
    なんとか耐えてきた。

    なのに、帰宅しても、身体はなんだか固まったまま。

    狭い空間で、脳が何かを警戒したままのような、
    重い身体の感覚がいつも残っていた。

    “緊張しいな人間”から、いつしか私は、
    “何処に居ても緊張を解けない人間”になっていた。

    帰る家はある。

    その家は、
    “一人っ子の私のことだけをいつも見てくれている、愛のある家。”

    そう信じようとしていた。

    でも身体は嘘を付けない。

    家に着いて、玄関のドアを開ける時、
    リビングに向かうドアを開ける時にはいつも、
    一瞬、息を止めているみたいだった。

    〈第二章〉
    「お家も苦しい」

     家に帰っても、

    『ここも、居にくいな…。』

    と心の中で感じていることに、
    何となく気づき始めたのは小学生の頃。

    ただ、その理由が、まだはっきりと、わからなかった。

    なぜなのか、わからない中で、感じ取っていたのは、
    “窮屈さ”だった。

     私の家族は、私が小さい時から礼儀作法に厳しかった。

    「いつも見られていると思って行動しなさい。」

    と教えられていた。

     祖父母の家に行くのも嫌だった。
    子どもの私にとって、祖父母の家は、遊びに行く場所ではなく、
    緊張して評価される場所だった。

    “おじいちゃん と おばあちゃん” なのに。

     親に負けたくない父は、名誉やステータスに執着した人で、

    家族みんなして、私を、

    賢くて良い子に、良い学校に、良い会社に、良い役職に、
    という期待を持っていた。

    隠そうとしていたとは思うけれど、
    幼い私にも全然隠せていなかった。

     親の、大人の言うことを聞いて、自我を持たないようにして、
    その不自由さをずっと抱えながら、早くも高校生になった。

    私の自由は、無くなっていった。

    自我が育つほど、自分の世界がどんどん狭く、
    小さくなっていくように思えた。

    高校生になっても、改札通過時刻と学校を出た時間の2つが
    親に通知されるサービスが、
    私には、中学の時からそのまま付いていて、

    放課後に寄り道をする自由も、
    おしゃべりしながら、
    ゆっくり帰ろうと思える余白も無かった。

    守られている安心ではなく、
    見張られている息苦しさだけが残った。

    思い出した。

    まだ両親のことが好きだった小さい頃、

    “いつも自分を見てくれてる”

    そう思い込もうとしていたモノは、

    『違う。そうじゃない。いつも見られているんだ…。』

    に変わった。

     両親の状態を見て、
    今日はどんな自分で居るべきかを探るのに、毎日必死だった。

    家の玄関のドアを開ける前、
    リビングへ向かうドアを開ける前に、

    一瞬息を止めるような感覚があったのは、
    きっとその不安のせいだったんだろう。

    積み重なっていく、なんとも言えない違和感が少しずつ、
    大きく、硬く、重くなって、
    抱えきれない悩みになっていった。

     そんなある日、私はいくつかの言葉を知った。

    毒親。アダルトチルドレン。機能不全家族。

    私は気づいてはいけないものに気づいてしまった。
    そう思った。

    でも、もう後戻りはできなかった。

     自分の家族が、機能不全家族だということを知るまでは
    気づかずに済んでいた、
    家庭環境の異常さに、親たちの異常さに、
    沢山気づいてしまう自分にも苦しんだ。

    『私は普通じゃないけれど、私がおかしいというわけでもなかったんだ。』

    そう思えたことには、随分ほっとした。

    でも、心の痛みにちゃんと、充分に気づいているその心が、
    また同じような、大きくて深い傷を迎えに行くのは、
    あまりにも痛すぎた。

    何度も揺れた。何度も立ち止まった。

    大事に持ちたい自分の軸を、自分の手で守りたい。

    何のためにそれをやっているのか、わからなくなったりもした。
    でも、彷徨いながらも、やめることはできなかった。

     自分のやりたいことよりも、
    しなければいけないことをずっと考えてきたから、
    自分の趣味や好きなモノさえも、よくわからなかった。

    そんなところから、自分は、
    本当は何をしたいのか?どんな風に生きたいのか?
    どんな人と一緒に居たいのか?
    自分を知るために自分にいろいろ聞いた。

    そして少しずつ、自分の大切を集めていった。

    自分だけは、自分を大切にしよう。
    そう決めた。

    私のその決意が、更なる試練を呼んだ。

     家族団らんの場と称される夕飯のテーブルで、
    私は、なんとか繕った笑みを浮かべてはいた。

    でも本当は、

    テレビをつけては、
    あらゆるCMや芸能人に対して文句や悪口を言い、

    人や物事を否定的にジャッジした言葉しか放てない父親に、
    自分の生き方をジャッジされるような夜ごはんの時間は
    面接のようで、身体の震えが止まらなかった。

     そんな彼に、自分の考えや決断を、
    何事も報告しないといけないことは、
    もう、ほんとうに地獄だった。

    初めから絶望することは目に見えているのに、
    それでも話すのだから。

    彼は、
    自分に話してもらえてない事があること、
    自分が何かを知らない状態であることが、
    何よりも許せないらしい。

    だから、言うしかなかった。

    見事にすべて否定。伝えろと言うくせに、
    黙って聴く、信じて聴く、ことはなかった。

    反抗するのが怖いんじゃない。
    怒られることが つらいんじゃない。

    素で居られるはずの家という場所で、
    自分を出せば出すほど、
    自分で居れば居るほど、
    自分が笑顔で居られなくなって、
    幸せを感じられなくなっていくような感覚に
    耐えられなかった。

    歪んだ愛情に、こんなにも傷ついて、
    やめてほしいと苦しみながら頼んでも、

    「俺も母さんもな、誰よりもお前を愛してんねん。
     それがわからんか。
     こんなに子どもを愛してる親、他におらんのやぞ。」

    と返ってくる。

    『どんなに伝えても、この人には私が見えないんだな。』

    と、絶望した。

     こんな生き方で2024年、
    とうとう、うつ病という形で、私は壊れた。

    その時、長い間、社会不安障害を患っていたことも知った。

    ほっとしてしまった。診断名があれば、
    流石に、私に配慮してくれるだろうと思ってしまったから。

    本当にそうなら、こうなっていないはずなのに。
    何度失望しても、
    親への期待を捨てきれずに居る自分自身にも失望した。


     病状を父に伝えた時、鼻で笑って、こう言った。

    「残念やけど、それは障がいじゃない。」

    『それくらいで、か弱い子ぶるな。』

    と言われているように感じた。

    普通は、つらい時に、そばに居てくれるのが家族。

    でも私の場合は、病気の原因が家族。

    療養が難しかった。悪化する一方だった。

    「今日、何のために生きてたん?」
    「生きてることへの反省が無い。」
    「寝て起きただけやのに、メシ食えるんや(笑)」

    父親から毎日のように投げられる言葉たち。

    居なくなってしまいたかったし、
    そうしようかなと考えた時も、あるにはあった。

    でも、私にはまだ、小さな光のかけらが残っていた。
    その光のかけらが、私を現在(いま)に連れてきてくれた。

    〈第三章〉
    「肩が下がった日」

     『自分以外の誰かを、また愛したい。』
    『本当の意味で、誰かに愛されてみたい。』

    という気持ちが、

    『生きていたくない。』と思ってしまう日々の中にも存在した。

    “死にたい”じゃなくて、“生きていたくない”だったのは、
    きっと、

    『このままはイヤ!希望を捨てないでほしい。』

    と願う、私の身体の叫びだった。

    親の束縛から逃れるのが困難で、病気で思うように動けない、
    最も手放したいエネルギーを持つ環境から離れられないと苦しむ私に、
    そんな希望が持てるはずもなかった。

    『その希望は、もしかしたら、
     これまで自分なりに頑張ってきた努力を
     捨てられないだけの、ただの執着かもしれない。』

    そんなことも思いながら、その光のかけらだけを抱っこして、

    休まらない家で、ずっと休んでいた時、ふと、

    『やっぱり、絵、描きたい。』

    そんな自分の声が聞こえた。

    『文章も書きたい。』

    『誰かが安心できるようなメッセージを届けたい。』

    そんな声も聞こえてきた。

     小さい頃、お絵描きと読書が好きだったことを思い出した。
    誰かが笑ってくれることが好きだった。

    したいことが、ちゃんとあった。

     心の安心と自由を守りたくて、
    独りで生きていこうと考えていた私は、

    『まずは安定した仕事を探すべきだろう。』

    と、心の中の理性が、何度も私に言った。

    でも、そのとき私は、

    自分のすべきであろうことではなく、やりたいことを優先した。

    やりたいことだけやったのは、久しぶりだった。

    心がときめいた。夢中になった。
    自分に夢中になる時間が増えた。

     自分に夢中になった私は、遂に、自分の居場所も見つけた。
    帰りたいと思う自分のおうち、本当の愛を持った人に出逢った。

    「もう安心していい。そばに居るから。
     もっと自由に生きていいから。」

    そう伝えてくれるような人だった。

    私は、自分の両肩が下がるのを感じた。
    身体の力が抜けたのは、生まれて初めてだった。

    〈第四章〉
    「私だけは私の味方で居る」

     不安な時、つらい時、親にぎゅっと抱きしめてほしかった。

    抱きしめてもらったことなんてないけど、
    体だけじゃなくて、心をぎゅっとしてほしかった。

    “ここでなら力を抜いていい。”
    そう感じられる瞬間が、ずっと必要だった。

    良い悪い、合ってる間違ってる、
    成功か失敗か、裕福か貧乏か…

    そういったものさしで測らずに、
    ちゃんと人の心を見ようとしてほしかった。

    「愛してる」じゃなくて、
    私を見て、寄り添ってほしかった。

    社長じゃなくていい。
    お父さんで居てほしかった。

    「ただいま」「おかえり」が
    気持ちよく、飛び交う温かい空間を、家庭を、
    一緒に作ろうと、歩み寄ってほしかった。

    それが、私の心の中にずっとあった傷だった。

     だけど、アダルトチルドレンを知った時、
    私がまず、気づくことになったのは、

    自分が自分自身を雑に扱ってきたということだった。

    親からの扱いに慣れ、気づけば自分が、
    親と同じことを自分に対してやっていたんだと。


     確かに、頭の中は、常に不安でいっぱいで、
    自責の言葉ばっかりだった。

    『私は何もできない。』
    『社会で働きづらい特性を持つ私なんて価値無い。』
    『何をしたら、何ができたら、価値ある人間になれるかな。』

    本当は、父から投げられる酷い言葉に苦しんでいたんでもなくて、

    『やっぱり自分って、そうなんだな…。』

    と、父の言葉で、

    自分の内側との答え合わせになるような感覚がつらかったんだと思う。

     自分の抱える生きにくさが、
    たとえ親由来、家系由来であったとしても、

    普通じゃない自分を、生きにくい特性を、
    情けないと恥じて、責め続け、
    生きたい自分を生きることを、スルっと許可できなかったのは、
    他の誰でもない自分自身だった。

     今、私は、

    『こんな自分でも、好きで居よう。』

    という感じの、

    既に否定的な状態なのに、
    肯定しているかのような自分で居た頃よりも、
    自分に安心して生きられていると思う。

    善い部分だけを受け容れていた頃より、
    自分が好きになったという感じでもないけれど、

    ただ何となく、自分で居て大丈夫な心を、私は持てている。
    ずっと探していた本物の愛をくれる人に出逢って、そう気づいた。

    自分で居ることに安心できる。
    そんな愛を、ずっと大事にしたい。

    今だって、まだまだ苦しいし、実家暮らしはまだ続きそうだ。

    それでも、私はもう先を観ることが、とても楽しい。

     言ってあげよう自分に。

    「おかえり。」「ただいま。」





     
     
    ご覧いただき、ありがとうございます ♡ 機能不全家族を持つ私から皆さんへ、 AC・エンパス・不安障害の痛みへのヒーリングメッセージやアセンション・統合の本質、自分を迎えに行ったプロセス など、その時ピンときたモノを発信していく予定です✨ みなさんとご縁がありますように…🌱

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