
言葉をなくした魔王と、心を読む少女 第10話 月の下で、君の名を
夜の城は静かだった。
窓の外には、雲ひとつない深い群青の空が広がっている。
リアナは胸元でそっと手を握りしめた。
今日は、約束の日だった。
地下書庫へ向かう足音が、石畳に小さく響く。
胸が苦しいほど高鳴っているのに、不思議と恐怖はなかった。
ただ、会いたい。
その想いだけが、リアナを前へ進ませていた。
最奥の扉を開いた瞬間、銀色の光が視界いっぱいに広がる。
「……っ」
思わず息をのむ。
部屋の中央に刻まれた巨大な魔法陣は、今までで最も強い光を放っていた。
淡い月光のような輝きが地下室全体を包み込み、空気そのものが震えている。
その中心に、ルシアンが立っていた。
黒い衣をまとい、紅い瞳で静かにリアナを見つめている。
けれど今日は、どこか違った。
その表情は、孤独を抱えた魔王ではなく――。
大切な人を待っていた、一人の男の顔だった。
「リアナ」
低く優しい声が響く。
名前を呼ばれただけで、胸が熱くなる。
リアナはゆっくりと彼の元へ歩み寄った。
「……来ました」
「ああ」
ルシアンは小さく微笑む。
「待っていた」
その言葉だけで、泣きそうになる。
こんなにも誰かに会いたいと思ったことが、今まであっただろうか。
ルシアンはそっと手を差し出した。
「こちらへ」
リアナがその手を取った瞬間、魔法陣の光が強く脈打つ。
空気が震え、地下室全体に風が吹き抜けた。
長い銀髪が揺れる。
リアナは思わず目を閉じた。
けれど次の瞬間、頬を撫でた風が変わった。
冷たい地下の空気ではない。
夜の匂い。
草木の香り。
そして――月の光。
「……え?」
ゆっくり目を開いたリアナは、息を止めた。
目の前に広がっていたのは、城の外の世界だった。
高い塔の上。
夜風が吹き抜け、満月がすぐそこに浮かんでいる。
銀色の光が二人を優しく照らしていた。
「ここ……」
「封印が一時的に開いた」
ルシアンは月を見上げながら静かに言う。
「長くはもたない。だが……お前との約束を守りたかった」
リアナの瞳から涙があふれた。
「本当に……月が見える」
「ああ」
「一緒に……」
声が震える。
ルシアンはそんなリアナを見つめ、そっと頬に触れた。
「泣くな」
その指先は、どこまでも優しい。
「私は今、ようやく願いを叶えられた」
リアナは涙をぬぐいながら笑った。
「私もです」
こんな未来が来るなんて、思っていなかった。
地下書庫で出会った時。
冷たい瞳をした、孤独な魔王。
最初は怖かった。
けれど彼は、本当は誰よりも不器用で、優しかった。
誰かを傷つけることを恐れ、自分の心すら閉じ込めていた人。
リアナはゆっくりとルシアンの胸元に額を寄せた。
静かな鼓動が聞こえる。
生きている音。
温かな存在の音。
「ルシアン」
「……なんだ」
「あなたに会えてよかった」
その瞬間、ルシアンの表情がわずかに揺れた。
長い沈黙。
やがて彼は、リアナを強く抱き寄せる。
「私の方こそ」
低い声が耳元に落ちる。
「お前が現れなければ、私は永遠に心を閉ざしたままだった」
リアナは彼の衣をぎゅっと握った。
離れたくない。
この温もりを失いたくない。
ルシアンはゆっくりとリアナの髪を撫でる。
「リアナ」
「はい」
「私はずっと、言葉を失っていた」
月明かりの下、紅い瞳が静かに細められる。
「だが、お前と出会ってから……心だけは、何度もお前の名を呼んでいた」
リアナの胸が苦しくなるほど満たされる。
ルシアンはそっと額を寄せた。
「愛している」
その言葉に、リアナの涙が再びこぼれ落ちた。
ずっと聞きたかった。
きっと、これから先も忘れない。
「……私も」
声が震える。
「ルシアンを、愛しています」
夜風が二人を包み込む。
遠くで鐘の音が鳴った。
封印の光が、少しずつ揺らぎ始める。
別れの時間が近づいていた。
けれど不思議と、もう怖くなかった。
離れても、この想いは消えない。
ルシアンも同じように感じていることが、伝わってくる。
「また月を見よう」
リアナは微笑む。
「はい」
「今度は、もっと近くで」
ルシアンの瞳が優しく揺れる。
「ああ」
そして彼は、静かにリアナの名前を呼んだ。
「リアナ」
それは呪いでも、封印でもない。
ただ、大切な人を想う声だった。
月明かりの下。
孤独だった魔王は、ようやく言葉を取り戻した。
その最初の言葉は、愛する少女の名前だった。
――終わり。