
月曜日も、悪くない。 ― 瀬川ひよりのIT日和 ― 番外編3
#新社会人は、ネクタイが苦しい。
四月。
社会人になって分かったことがある。
朝は早い。
メールは怖い。
ネクタイは、思っていたより首をしめる。
瀬川陸は、洗面所の鏡の前で固まっていた。
「……また曲がってる」
結び目が、少し右に寄っている。
直そうとすると、今度は左に寄る。
真ん中という概念を、ネクタイが拒否している。
「姉ちゃん」
リビングに向かって声を出すと、姉のひよりが味噌汁を飲みながら顔を上げた。
「何?」
「ネクタイ」
ひよりは陸の首元を見た。
「曲がってる」
「知ってる」
「じゃあ聞かないで」
「直し方を聞いてる」
母が近づいてきて、手早くネクタイを直した。
「はい」
「ありがとう」
一瞬で直った。
母はすごい。
社会人より強い。
父が新聞をたたんだ。
「陸」
「何?」
「社会人はな、最初が肝心だ」
出た。
朝から父の社会人論。
「分からないことは、何でも聞け」
ひよりが父を見た。
「お父さん、それ自分でできてる?」
父は少し黙った。
「プリンター以外なら」
「範囲狭いな」
陸は笑った。
でも、少しだけ笑いきれなかった。
新社会人二週目。
正直、毎日ちょっと疲れていた。
仕事そのものより、
分からないことを、分からないと言うのが疲れる。
こんなこと聞いていいのか。
同じことを聞いていないか。
メモを取っているのに、なぜか分からないことが増える。
社会人、思ったより難しい。
夜。
陸はリビングのテーブルでノートパソコンを開いていた。
明日の研修で使う資料の下書き。
画面には、それっぽい文章が並んでいる。
それっぽい。
つまり、自信がない。
「何してるの?」
帰ってきたひよりが、バッグを置きながら聞いた。
「資料」
「えらい」
「えらくない。分からない」
「何が?」
「これ、先輩に見てもらいたいんだけど、どう聞けばいいか分からない」
ひよりはコートを脱ぎながら言った。
「普通に聞けば?」
「それが難しいんだよ」
言ってから、少しむっとした。
姉ちゃんには分からない。
そう思った。
でも、ひよりは普通にうなずいた。
「分かる」
「分かるの?」
「分かるよ」
「姉ちゃんでも?」
「失礼」
陸は画面を見たまま言った。
「分からないって言うと、仕事できない奴だと思われそうで嫌なんだよ」
言ってから、しまったと思った。
少し本音が出た。
ひよりは、しばらく黙っていた。
それから、テーブルの向かいに座った。
「分からないって言うのは、仕事できないってことじゃないよ」
「そう?」
「分からないまま進める方が、あとで大変になる」
「正論」
「白鬼に鍛えられたから」
「誰?」
「怖いけど、ちゃんと見てる人」
「会社に鬼いるの?」
「いる」
社会こわ。
ひよりは、陸の画面をのぞき込んだ。
「確認したいこと、分けたら?」
「分ける?」
「内容が合ってるか。言葉が分かりやすいか。提出形式が合ってるか」
陸は画面を見る。
たしかに、困っていることは一つではなかった。
ぐちゃっとしていただけだった。
ひよりはメモ帳に短く打った。
『お疲れさまです。明日の研修資料について、三点確認させてください。内容の方向性、表現の分かりやすさ、提出形式に問題がないかを見ていただけますでしょうか。』
陸はそれを見た。
「仕事っぽい」
「仕事だからね」
「これ、使っていい?」
「いいよ」
「ありがとう」
少し間が空いた。
陸は、画面を見たまま言った。
「姉ちゃん、ちゃんと社会人なんだな」
「今さら?」
「家だと全然そう見えない」
「失礼二回目」
そのあと、陸は先輩にメールを送った。
送信ボタンを押しただけなのに、手が少し冷たくなった。
社会人は、メール一通で体温が下がる。
翌日。
先輩から返事が来た。
『早めに確認してくれて助かります。方向性は問題ありません。表現だけ少し直しましょう。』
怒られなかった。
むしろ、助かったと言われた。
陸は画面をしばらく見た。
分からないと言っても、
世界は終わらなかった。
夜、家に帰ると、ひよりが先にリビングにいた。
「どうだった?」
「普通」
「普通?」
「先輩、見てくれた」
「よかったじゃん」
「まあ、当然だけど」
「強がり方が下手」
「うるさい」
ひよりはバッグから小さなチョコを取り出した。
「はい」
「何これ」
「新人チョコ」
「姉ちゃん、それ会社の誰かのやつだろ」
「安かったから」
陸はチョコを見た。
その言い方には、たぶん元ネタがある。
姉ちゃんの会社には、鬼もいるし、チョコを配る人もいるらしい。
やっぱり社会はよく分からない。
でも。
「食べる?」
「食べる」
陸はチョコを受け取った。
「ありがとう」
言ってから、少し照れた。
ネクタイはまだ苦しい。
メールはまだ怖い。
分からないことは、明日もたぶん出てくる。
でも、聞けばいいこともある。
見てもらえば、少し進むこともある。
チョコをもらえば、少しだけ笑えることもある。
社会人生活は、まだ始まったばかりだ。
正直、思っていたより大変だ。
でも陸は、チョコの包みを開けながら思った。
まあ、
二週目にしては、悪くない。
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