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29歳、箱根にきた。

    箱根にきた。

    なぜ箱根なのかというと、ブックホテルというのがあったから箱根なのだが、なぜブックホテルかというと1人こもって静かに過ごし、内省や読書をしながら創作に耽るという行為に憧れがあったからだ。

    本当は「本を読む時間を取るためです。最近本が読めてなくて」とかそれっぽくてカッコいい、耳障りのいいことを言っておきたい。

    しかし、私がなぜ箱根のブックホテルに?と聞かれて何も飾らず正直ベースで話すとしたら、休暇を取り、1人静かな場所で読書や創作に耽るという行為が羨ましくて自分でもやってみたかったからということに他ならない。

    こうやって書くと少し恥ずかしい。

    29歳にもなった良い大人が、羨ましいな自分もやりたいなというなんとも自分本位な理由で動いていることに少しだけ周りの視線が気になってしまうのだ。

    緑ゆたかで自然に囲まれた場所に来れば、きっとゆっくりリラックスできる。そう思っていた。けれど実際に出てきたのは、もうすぐ30になる自分への負い目だった。

    29歳。

    私は独身で子どももいないが、周りの友達は結婚して子どもを持っている人も多い。

    私は結婚をすることも子どもを産むことも大して興味がないし、今このタイミングで何かしらのきっかけがあり結婚したり子どもを持つとなってしまっても少しばかり未来後悔しそうであるという予感がある。

    自分では結婚も子どもも今じゃないと心では思っている。

    しかし、そのことに後ろめたさを感じずにはいられない。

    周りは子どもを持ち自分ではなく誰かのために生きている。
    それはすごく立派なことだと思う。心から。
    でも自分はその土俵に立っていない。
    29にもなってまだ自分のためだけに生きている。

    その事実にどうしようもない後ろめたさを感じているのだ。

    25の時はまだそんな感覚はなかった。
    自分のために生きることに対して何の疑問も抱かなかった。
    けれど今はどうだろう。

    この前旅行に行ったんだとかこの前こんなものを買ってねと人に伝えるのが少し怖くなった。
    あなたはまだそこにいるんですね。と頭の片隅で常に誰かが囁くようになった。

    正直言ってめちゃくちゃ鬱陶しい。
    私の人生に口を出さないでくれよと思う反面、そろそろ自分のためだけに生きるのやめたら?とも思う。

    これが俗にいう結婚への焦りかとも思った。

    せっかく箱根にきたのに、なぜこんな後ろめたさを感じなきゃいけないんだ。

    でも30歳を前にして焦るというのはこういうことなんだろうとも思った。

    30も近くなると自分のことがなんとなくわかってきて、社会のこともなんとなくわかってくる。

    いつもはおっかないあの人も家に帰ったら子どもがいて家族がいて守るべき人がいる。
    そう思うとあの人がおっかないのも頷けてくるというか、おっかなくならざるを得ないんだろうと想像できちゃう。
    そんなこともわかってくる年頃だ。

    子どもを産みたいからという焦りは全く感じられないが、30にもなって自分のためだけに生きるの?という焦りは生まれるらしかった。

    なぜこんな感覚が生まれるのだろう

    1つは、自分のためだけに生きてるのってなんか微妙だよなという価値観が芽生えつつあるのだろう。

    それは、家族のために頑張ってる人を見たことがあったり、自分を犠牲にしてでも何かをやっている人を素直にカッコいいと思っていることもあると思う。

    そしてこの羨望のような感情は自分が誰か他人のために頑張れた経験がないから生まれているのだろう。

    29年生きてきて、この人のために頑張ろうと思って頑張りきった経験が一度もない。一瞬でもこの人のためにという思いが芽生えた経験自体はあるような気もするが、持続しなかった。 この人のためにやり遂げたいんだという強い気持ちを持って何かを成し遂げた経験がない。そのことが猛烈にコンプレックスなのかもしれない。

    もう1つは、自分が受け取っているものの多さに気づき始めているからだろう。

    箱根のブックホテルは、当たり前のように綺麗だった。 本は綺麗に棚に並べられ、温泉は使える状態に保たれ、食事は時間通りにサービスされる。

    私はそれを「いい場所だな」と思って受け取っていたけれど、当然ながらそれは勝手にそうなっているわけではない。
    誰かが整えている。

    それは仕事で客は対価としてお金を払っているのだから当たり前だと言えばそうかもしれない。でも、だからといって、当たり前だという感覚で享受するのも違うと思う。

    私は、自分が気持ちよく過ごせる場所や、当たり前のように綺麗に整えられている空間を、かなり無自覚に受け取っている。 それを受け取っているのに、自分は何を返せているのだろうか。

    自分のために休みを取り、自分のために箱根に来て、自分のために本を読もうとしている。
    それ自体が悪いとは思わない。
    悪いとは思わないのだが、なんか、受け取ってばかりいる感じがする。

    なんだろう、社会に生かし生かされている人間として不誠実な感じがするのかもしれない。

    たぶんこの感覚が、箱根まで来て出てきた後ろめたさの正体なのかもしれない。

    回収されないゴミは誰が回収しているのか

    ゴミは種類ごとに曜日が決まっている。そして曜日を間違え、種類の違うゴミを捨てると回収されない。

    私は色付きペットボトルが資源で回収されないことを知らなくて、うっかり捨ててしまったことがある。気づいたのはずっと後のことだが、そういえばあれって回収されたのだろうか。多分回収されていない。

    曜日を間違えて捨て、回収されないゴミ。週に2回、回収がある燃えるゴミならまあ放置でもいいかもしれないが、隔週でしか回収されないものをうっかり別の曜日に捨ててしまったとき、そのゴミは放置される。

    実際に捨てた人がちゃんと回収するかというと、多分回収しない。

    じゃあ誰が回収しているのか。

    それは近所の心優しい人だったり、近所の衛生や景観を大事にしよう、守ろうと思っている人が誰に言われるでもなく気づかれるでもなくひっそりと、地域の環境を良くしたいという気持ちだけで回収してくれているんだ。

    そう考えると、自分はなんて利己的なんだと、とてつもなく思うわけである。

    社会の中で善意で色々やってくれる人や、仕事としてかもしれないが、道路を整備してくれている人、常にインフラが正常に機能するようにメンテナンスをしてくれる人、会社。

    そういう人たちのおかげで私は生きている。

    そう考えた時に社会にとって何も還元しないというのは、なんて不誠実なんだろうと、とてつもなく罪悪感が襲うわけである。

    親孝行してみた

    話は変わるが、ちょうど先日、母が教会で堅信式というものを受けていた。 来てくれないかとのことだったので、ミサに参加し堅信式を見守ったわけだが、私は行ってよかったと思うのだ。

    これを世間一般では親孝行というかもしれないが、私は親孝行という側面も、もちろんそうなのだが、人のために何かをする社会貢献ができていない罪悪感を、母への親孝行で埋めようとしている側面が自分にあるなと思う。

    自分のためだけじゃない時間やお金の使い方。
    かつ、他者が喜んでくれること。

    それを考えた時に、一番自分にとって実行に移しやすい手段が親孝行だったのだと思う。

    じゃあボランティアとか参加すれば?とも思うが、それはなんか違うのだ。

    多分、自分にあまり関係ないからだと思う。

    いや、ボランティアに意味ないと言いたいわけではない。 むしろ社会的には親孝行よりボランティアの方が直接的に役に立っているのかもしれない。

    でも、私が「やってよかった」と感じられるかは別の話だった。

    私にとっては、喜んでくれる対象がはっきりとわかっていることが重要で、かつ、私でなければいけないことが重要なのだと思う。

    母の堅信式に行くことは、別に大きな社会貢献ではない。
    でも、母が来てほしいと言っていて、私が行くことに意味があった。

    だから私は、行ってよかったと思えたのだと思う。

    余裕があればできるのだろうか

    そもそも、平日に休みを取って、ひとりで箱根に来て、本を読んで温泉に入る。 それができている時点で、私はたぶんかなり時間に余裕のある側にいる。

    ゴミ捨ても親孝行も、何か人のためになることをいつどうやったらできるのか。

    もしかしたら自分のことで精一杯ではないから、できることがあるのかもしれない。

    多くの人は自分のことで精一杯。周りを気にする余裕なんてない。もちろん住環境も。なので自分にとって不都合じゃなければ、たとえ、曜日違いのゴミが捨ててあっても見てみぬふりをするだろう。

    子どもが2人、3人といて日々子育てや家事、仕事に追われている人は近所の景観や衛生まで気が回らないかもしれない。

    そうすると、こういう風に周辺環境を綺麗に保とうと人知れず努力をできるのは独身で子無しができることなのかもしれない。

    周りのことも考えられる余裕があることが、独身子無しのいいところかも。

    独身子無しは他の人よりも余裕があるから、その余裕を使って、地域や社会のためになることを子育てや家庭のことで忙しい人の代わりにひっそりとやっておくとかがいいのかもしれない。

    こうやって支え合って社会は成り立っているのかも。

    そう考えると、見える範囲で自分のできることをやるというのは案外悪くない選択のように思える。

    誰もやろうとしないけど、自分はやってもいいと思えるもの。

    それを大小関係なく見つけていくことが、今の自分にできる精一杯の社会貢献なのかもしれない。

    結局ここまで悩んで何をしたかったのか、自分でもよくわかっていなかったが、自分が自分のためにする行為に自分のためだけじゃない理由も欲しかったのだと思う。

    自分のためだけじゃなく他者のためでもあるのだという免罪符が欲しかったのだ。

    箱根に来た理由は、最初はただ自分のためだった。
    静かな場所で本を読み、温泉に入り、創作に耽るような時間に憧れていた。

    でも、ひとりで箱根に来られるくらいの余裕があるなら、その余裕を全部自分のためだけに使わなくてもいい。

    誰もやろうとしないけれど、自分はやってもいいかと思えるもの。
    見える範囲で、少しだけ拾っていく。

    自分本位だけど、結果的に誰かのためにもなっている。
    今の自分には、そのくらいの形が一番しっくりくる。

     
     
    モヤモヤを自分なりに噛み砕いてnoteにまとめてます。ノウハウ記事もたまに。

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