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敬語が日本版デモクラシーってどういうこと!?

    ※これは、第7回デモクラシーフェスティバルへの出展をきっかけに、敬語と民主主義の関係性について考えたことを創作大賞向けに文章化したものです。※

    こんにちは。Aru-surUです。
    敬語や電話応対研修の講師をしています。
    敬語のベースとなる一番大事な言葉が「ある」と「する」なので、それをくっつけて名前にしました。
    敬語は単なるマナーではなく、先人たちが培った対人スキルの集大成であると考え、これを敬語メソッドと名付けて広めたいと思っています。

    「ある」を受け入れ
    「する」で関わり
    「あう」につながる
    をキャッチコピーに、
    敬語の心を伝えてまいります。

    敬語は要る?要らない?

    皆さんは、敬語なんて面倒くさいし堅苦しいし、要らないと思うことはありませんか?
    しかし、令和6年度の「国語に関する世論調査」を見ると、実に94.9%の人が、敬語を「必要だ」もしくは「ある程度必要だ」と思っていると答えています。
    そして、敬語が必要な理由として一番多い回答が、「相手を尊敬する気持ちを表せるから」というもので、73.2%ありました。2位が「表現がやわらかく、人間関係を円滑にすることができるから」で59.3%。3位が「相手と自分の立場をはっきりとさせて、けじめを付けることができるから」が40.2%でした。

    もちろん、尊敬する人に対して、その気持ちを表すために敬語を使うというのは正しい使い方の一つではありますが、別に尊敬していない人であっても、敬語を使うことにより表現がやわらかくなり人間関係を円滑にすることができますし、なんなら嫌いな相手や距離を取りたい相手と否応なく働かなければいけないようなときには、相手と自分の立場をはっきりとさせて、けじめを付けることもできます。
    それらは個々人の関係性ですが、もっと大きく、社会における敬語の役割について考えたとき、敬語は日本版デモクラシーを具現化しているといっても過言ではないと思います。
    いやいや随分大きく出たなと思われるかもしれません。

    まずは、敬語の前提として、個の領域を確立していることと、確立した個でありつつも他者とつながる感覚を持てていることが必要です。
    その上に3つの敬語が積み重なっていくことを説明してまいりましょう。

    敬語を使うための2つの前提

    日本語は、個の領域が大事

    まず日本語は、自分のことと事実についてしか語れず、他者については語れません。簡単にいうと、「彼女は悲しい」とは言えない言語だということです。

    いや「彼女は悲しい」って言ったっていいじゃないかとうそぶくことはできますが、実際に使うと、まるで日本語を習いたての外国人が話しているように聞こえます。日本語を母語とする人が話すなら、「きっと彼女は悲しいだろう」「そりゃ、悲しいよね」などと、自分が想像でものを言っているんだということを明示しなければなりません。主語も、なんなら述語だって省略できる日本語で、推測である、もしくは推察であるということが省略できないのは、かなり強い制約と言えるのではないでしょうか。

    逆に言うと、「私は悲しい」というなら、他者はそれを否定できません。(否定する人がいたら、自他の境界がかなり曖昧な人なので、要注意です)だから、敬語の前に、まず日本語を正しく使うためにも、自分が何を感じ、何を考えたのかを自身で認められるようにならなければいけません。そのためには、まだ自他が不可分の頃から行われる家庭での育児がどれだけ大切かという話になってくるのですが、それはまた別の機会にいたしましょう。

    ただ、敬語の使い方でいうならば、上述の通り、敬語は尊敬できる人だけに使うものでもなければましてや自然と使いたくなるような人に対して使うものでもありません。嫌いな人にも尊敬できない人にも使います。そのとき、自分の感情に無自覚では、好きな人の前では笑顔で優しい言葉が出てくるけれど、イライラしたら言動もぞんざいになってしまうということが起こりがちです。ならば、感情を気取られないよう、その自然な気持ちを押し殺して敬語を使うのだとしたら、なんとも不健全ですし、そんな敬語の使い方を推奨したくはありません。
    それよりも、自分の気持ちはしっかりと認めつつ、自分の選んだ目的のために言動をコントロールする、そのような敬語の使い方をしてほしいと思いますし、それが本来の敬語の使い方であると思っています。つまり、自分はここで何をしたいのか、そのためにこの人間関係の中で、自分にはどのような位置が与えられているのか、それを踏まえて適切に対応するために、役立つツールのうちの一つ、それが敬語であるということです。

    加えて大事なことは、他者が自分に対して敬語を使うときも、目的に沿って敬語を使っているという事実です。自分を尊重する敬語を使うその人の目的は自分の目的と本当に合致しているのか、使われている敬語という言葉とその人の自分に対する行為は矛盾していないか、そんなことも判断しなければなりません。当然のことながら、「あなたは私に敬語を使っているけれど、それは本当に敬意から来るものですか?」と質問して本心を答えてもらえるならそもそも敬語は必要ありません。他者の言動を見て、自分で判断するのです。そのためには、自分で見聞きしたこと、考えたことをしっかりと自覚し、それを材料に自分で考えることができなければなりません。

    いかがでしょうか。和を以て貴しとなす国民性から、主体性に乏しく個の領域が曖昧などと思われがちな日本人ですが、敬語から見えてくる日本人の印象は違います。敬語を使うために、個の領域がしっかりしていることが大事であるということが伝わったでしょうか。

    ここで、皆さんがよく知っている寓話を使って、もう少し説明してみましょう。

    <群盲象を撫でる>でたとえると
    「群盲象を評す」とも言いますが、目の見えない人に象を触らせ、それが何であるかを尋ねたところ、ある人は柱だと言い、ある人は壁だと答え、また別の人はウチワだと譲らず喧嘩になってしまったという話です。

    この寓話で言うならば、個の領域が大事であるとは、まずは自身が「柱だ」「壁だ」「ウチワだ」感じたならば、私は「柱だ」「壁だ」「ウチワだ」と感じたと認めることができることが大事であるという意味です。
    自分としては柱だと感じたのに、他の人に壁だと言われて、「あぁ柱じゃなかった。これは壁だ」と自分の感覚を否定してしまうようではいけないし、自分が感じたものを認めようともせずに、他人の出方を見て、それに乗っかって良しとするのも違います。
    人は、それぞれ置かれた状況も、それまでに培ってきた感性も経験も異なるのですから、人によって見方が異なって然るべきです。その、一人ひとり違う見方をまずは自分自身で大切にしないと、それは簡単に消えてしまいます。

    確立された個が、他者とつながる

    個の領域が明確であるのはいいのですが、自他が全く別物であるとなると、協力して社会を作り上げていくことが難しくなってきます。こういう人が紛れていると、サイコパスかマニピュレーターと呼ばれるのではないかと想像します。
    例えば、職場の同僚を見て、「へぇ、こいつら上司の指示ならなんでも言うこと聞くんだな、だったら、上司の口から俺に都合のいいことを言わせりゃ、会社ライフなんて楽勝じゃん!」と考えて何食わぬ顔で上司に取り入り、同僚にはそんな様子をおくびにも出さないなら、周りの人をゲームの駒くらいにしか思っていないのかもしれません。

    どの職場にも、こういう人が一人ぐらいはいたりしますが、私はこういう人を見ると、小さい頃に見たロボットアニメを思い出します。ロボットの中に人が収まり、ロボットを操縦して敵と戦う、あれです。こういう人にとっては、コミュケーションが生身の人間と生身の人間の相互作用ではなく、自身はコックピットの中にいて、笑顔も冗談も優しい言葉をも自在に操り、他者に影響を与え、自身はカメラを通した情報を緻密に分析している、そんな印象です。
    「あいつ邪魔だな。かわいそうだけど、失脚してもらうかぁ」と、裏工作ができるのは、かわいそうという感情もあり、相手が受ける被害もわかっていても、蚊かハエに対する思いと変わらないように思われます。「俺さまの血を吸おうなんて百年早いぜ。かわいそうだけど、悪く思うなよ」という感じです。別の言い方をすれば、自分がやりたいことがあり、やれる算段がついたなら、やる以外の選択肢はないという感じ、でしょうか。
    そういう人は人当たりが良く、話が面白くて自信に満ちているように見えるので、周りから慕われたり、憧れられたりする人もいるけれど、それは操縦しているロボットを見て慕われ、憧れられているだけなのに、それを分かっていて、本人はさみしくないのだろうか、そんな風に思うことがあります。

    これは、普通なら、”人”にそんなことできない、とストッパーになるはずのものがない、ということなのだと思います。仲間、友人、家族、そんな特別なつながりも大切ですが、その前提として、私もあなたも同じ”人”であるという感覚、これが”つながり”だと考えます。例えば、人が扉に指を挟んだのを見て、見ている人が「痛っ!」と言ってしまう感覚です。

    この感覚が育っていないと、人への敬意を持つのは難しいだろうことは、誰でも想像に難くないのではないでしょうか。ここでいう”人への敬意”とは、基本的人権と同様、相手が誰であれ、どのような人間であれ払う最低限の敬意という意味です。怒らせたら自分がやられてしまうような権力を持った相手だから恐れおもねる、ということとは違います。

    この”つながり”を、再び「群盲象を撫でる」の寓話でもう少し説明しましょう。

    <群盲象を撫でる>でたとえると
    互いを”自分とは関係ない人”と見てしまうと、自身が感じたこととは違うことを言われて、あたかも否定されたかのような気分になってしまうかもしれません。否定されたと感じたら、自分のことを否定した相手は味方か敵かで言えば敵とみなしてしまいがちです。
    一方で、これを”この大きな物が何かを共に確認する仲間”と考えることができたらどうでしょう。「これは壁だ」「いや、ウチワだ」と言い争う以外の関係性が持てそうに思えませんか?

    さて、個の領域の確立と、他者とつながっている感覚、この2つを前提条件として、3つの敬語を三層に積み重ねると日本版デモクラシーともいえるものが見えてきます。その3つの敬語を順に説明してまいりましょう。

    3つの敬語

    敬語は、立てる対象を、3つに分けます。それが、聞き手と主体と受け手です。
    そして、冒頭でも述べた通り、敬語は必ずしも尊敬する相手に使うとは限らないので、この3つを立てる敬語を、それぞれ「主体尊重」「受け手尊重」「聞き手尊重」と呼ぶことにします。

    「主体尊重」とは「話される」「お話になる」「おっしゃる」などのように、動詞の行為をする人(ここでは、話す人)を立てる敬語です。

    「受け手尊重」とは「お見せする」「ご覧にいれる」などで、先ほどとは逆に動詞の行為をする人(ここでは、見せる人)を立てない敬語です。では誰を立てるのかというと「見せる」という動詞が表す行為の受け手である「見る人」を立てています。行為主体を立てずに受け手を立てるので、「受け手尊重」です。

    「聞き手尊重」とは、「です」「ます」「参ります」「申します」「拙著」「弊社」などのように、会話であれば聞き手、文章であれば読み手を立てる敬語です。聞き手のいない独り言や、誰にも見せない日記であれば、使う必要のない言葉です。

    「主体尊重」と「受け手尊重」は「素材敬語」、「聞き手尊重」は「対者敬語」とも呼ばれます。「素材」とは、話題の素材という意味であり、「素材敬語」とはつまり、話の中に出てくる登場人物に対して使われる敬語という意味です。一方の「対者敬語」とは、話題にかかわらず、会話の聞き手や文章の読み手に対して使われる敬語という意味です。


    なぜ、通常の「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」という用語を使わないのか、「尊敬語」「謙譲語」「丁寧語」とはどう違うのかなど、以下の記事で説明しておりますので、詳細はこちらも併せてご確認ください。


    相対敬語の基となる、聞き手尊重

    普段は他者とつながっているという感覚を持っている人であっても、それを感じづらい状況があります。それが、SNS上での不特定多数とのやりとりや、店員などの役割を持つ人や、外国人やLGBTQなどのように”私たちとは違う”と考えてしまいやすい対象です。車を運転すると人が変わるというような現象も、それと似ているかもしれません。

    いわば、生の個人としての顔が見えない関係性における”つながり”感をどう持つかというのが、現代の問題なのかもしれません。そんなとき、実際には聞き手がいなくても使える聞き手尊重が役に立つのではないでしょうか。

    あれ?「聞き手のいない独り言や、誰にも見せない日記であれば、使う必要のない言葉」だとさっき言ったばかりじゃなかったっけ?と思ってくださった方、ここまでの文章をしっかり読んでくださってありがとうございます。

    聞き手尊重についても、下記の記事に書きましたが、ここが相対敬語の基であり、日本版デモクラシーの基となる部分なので、再掲します。既に読んだという方は飛ばしてください。


    聞き手尊重の代表格は「です」や「ます」です。これらは、主体尊重や受け手尊重の敬語から生まれました。「です」は「~で候ふ」が変化したものではないかとも言われており、「ます」は「~参らす」が変化したものと考えられています。
    ちなみに、「候ふ」とは「お仕えする」「おそばにいる」などの意味を持つ古語で、「参らす」とは「献上する」「差し上げる」などの意味を持つ古語です。両方とも偉い人に対して使う言葉です。
    しかし、現在「です」や「ます」を使うときに、そのような意味を込めて使う人はいません。つまり、本来の意味内容は抜け落ちて、「偉い人の前にいるような気持ちであなたに話していますよ」というニュアンスだけが残ったのです。参考までに『歴史語用論入門』からの引用を載せておきます。

    古代日本語には当初素材敬語しかなく、最初の聞き手敬語は、素材敬語の対人場面への転用によって成立した。

    『歴史語用論入門』森山由紀子・鈴木亮子 大修館書店(p.175)

    素材敬語とは、ここでいう主体尊重と受け手尊重のことですが、これは誰か特定の人に対して使います。誰か特定の人とは、少なくとも人間関係がある人です。上司、お客さま、先輩、お世話になった人など「あの人のことを話している」と言える人です。誰か知らないけど道ですれ違った人のことを話題にするときには使えません。

    一方の聞き手敬語は、その制限を外すことに成功しました。3つの敬語の中で唯一、相手が誰かわからなくても、もしかしたら存在すらしなくても、使える敬語です。例えば、私はこの文章を聞き手敬語である「です」「ます」を使って書いています。それは、読者に敬意を払っていますよという意思表明です。しかし、この文章を誰か読んでくれるかどうかは、今の私にはわかりません。もしかしたら、こんな長い文章は誰一人読んでくれないかもしれないのです。それでも、そのまだ見ぬ読者に敬意を払うことができるようになったのは、この聞き手尊重のおかげかもしれません。

    それまでの絶対敬語では、対象が帝だから、目上だから、力があるからこそ敬語を使っていました。しかし、この聞き手敬語の出現によって、身分は下であっても思いを寄せる人に対して使い、相手が誰であれ聞き手への敬意を払うために使うことができるようになりました。相対敬語の誕生です。しかも、その聞き手は実際にいなくてもいいのです。

    それでは、実際にはいない対象に敬意を払うとは一体どういうことでしょうか。私は、権威ある人におもねることから離れ、現実の前に謙虚になり、自分の中に基準ができることだと考えます。
    事実と違うことを言わないようにしよう、誰にもわかるように論理的に話そう、自分が知らないこともあるということをいつも覚えておこう、私の言葉が誰かを傷つけたり惑わしたりしないように注意しよう。
    聞き手に敬意を払うとはそういうことではないでしょうか。
    天罰があるからでもなく、帝のご機嫌を損ねるからでもなく、各人が自分の在り方として考えるとき、相互尊重が成り立つのだと思います。

    これを、日本版デモクラシーの萌芽と言ったら、大言壮語に過ぎるでしょうか。しかし私は、それくらい画期的なことだったと思うのです。


    ここまでが、前回の記事で書いたことです。

    基礎知識のない人が参加するのは難しい物理学の研究や、公にはできない国家機密を扱う公務員など、いろいろな目的のために様々な人々が集まっています。そのすべてについて、誰でも希望する人はその話し合いに参加できるというわけではありません。それでも、民主主義のためには、特権階級や一部のエリートだけではなく、子供も、大人も、詳しい知識を持っている人も、そうでない人も、賛成の人も反対の人も、誰でもが自分の問題について議論に参加でき、どんな意見も尊重されることが重要です。

    そう考えると、この、権力があるとか偉いとか、そういう他者の条件で敬うか敬わないかを決める絶対敬語の世界から解放された聞き手尊重の在り方は、民主主義の前提となり得るのではないでしょうか。

    この聞き手尊重の意味を一言で表すなら、「謙虚」ということです。謙虚は謙遜や、まして卑屈とは異なります。自己卑下は決して謙虚ではありません。

    それが自分には青く見えるなら、「自分には青く見える」と認め、他人が「いや、あれは赤だ」と言うのを聞いたなら、「自分には青く見えるのに、赤だと言う人もいるのか。いったいそれはなんだろうか」と、分かったふりをせずに分からないままにしておくことが、事実を受け入れる姿勢であり、謙虚ということだと考えます。
    もちろん、そこに推測や仮定は生まれるでしょう。
    ・もしかしたら、教わっている色の名前が違うんじゃないか
    ・どちらかが色眼鏡をかけているんじゃないか
    ・わざと違うことを言って、混乱させたいんじゃないか
    などなどです。
    しかし、これらはあくまでも推測や仮定に過ぎないという事実も忘れてはいけません。推測や仮定だったはずのものが前提になり、それをもとに行き過ぎた行動をすれば、簡単に意見の封殺にもなります。

    上記の例で言えば…
    ・ちゃんと色の名前を教えてやる! 日本の教育制度が間違っている!
    ・私は人と違う色眼鏡をかけているからもうダメだ ⇔ 他人が色眼鏡をかけているのだからそれを外すべきだ
    ・常識(=自分の意見)を揺るがすような悪意に満ちた言論は封殺すべきだ
    などなどです。

    自身が感じたことも事実、他人が感じたと言っていることも事実として受け入れ、簡単に結論に飛びつかず、自分の考えと思っていることも周囲の状況や他者の影響を受けていることは知りつつも、曖昧な状態の中で自分の言動を決め、責任を持つ。そんな姿勢が「聞き手尊重」であり、「謙虚」なのだろうと私は思うのです。

    これは大事なことなので、さらに言葉を換えて説明してみましょう。
    例えば世界が100だとして、自分には80が見えていたとします。他の人には10か20しか見えていないとしましょう。ならば、自分のほうが彼らより4倍8倍と優位なはずです。そう考えると、10や20しか見えていない人の意見など聞くよりも、自分ひとりで決めたほうがよほど効率もよく、正しい答えが出てきそうです。
    しかし、果たしてそうでしょうか。
    自分は多くを見て知っていたとしても、他の人が見ている10は、もしかしたら自分の知らない10かもしれないのです。しかも、もしかしたらそれは、とても大切な10かもしれません。
    だから、多様性が民主主義にとって重要ですし、多様性を受け入れ民主主義を実現するためには、聞き手尊重がベースとして必要なのです。

    それでは、ここでも再び「群盲象を撫でる」の寓話でもう少し説明しましょう。

    <群盲象を撫でる>でたとえると
    自分の感覚、考え、欲求などを自分自身で認めることができなければ、外界とのつながりは絶たれてしまいます。人間は、外界を五感を通して感知し、そうやって得た情報をもとに考え、欲求を持ちます。ですから、それらを否定してしまうことは、見えている目や聞こえている耳までも失うに等しいことです。これが、前提としての”個の領域が大事”ということでした。

    一方で、梅干を思い浮かべただけで口の中が酸っぱくなって唾液が出てしまうように、実際には無いものを感じたり、過去の経験からの思い込みが実際とは異なる現実を見せてしまったりすることもあります。

    だから、「これは柱だ」と決めつけそうになったときに、事実に立ち返り、「柱のように私には思われる、実際には何か分からないもの」と捉え直すのです。
    分からないというのは、曖昧な状態です。そして子どもの頃テストで赤点を取ったときを思い出してみればすぐ分かるように、分からないというのは恥ずかしいことです。自分が間違っているかもしれない、他人からその間違いを指摘されるかもしれないと思うのは、人によっては到底耐えられないことかもしれません。
    しかし、この状態に耐えられること、できればもう一歩踏み込んで、間違っていたら教えてほしいと思い、自分を改めることにやぶさかでない心持ちでいられることこそ、私は本当の自信なのではないかと思うのです。

    他者をありのまま受け入れる、主体尊重

    それでは、聞き手尊重を土台として、主体尊重を積み重ねてまいりましょう。

    主体尊重は、対象となる他者の有様をありのまま受け入れ、批判したり、操作して変えようとしたりしないことです。ましてや傷つけようとしたり、見下したりはしません。
    ただし、既に述べたように、必ずしも尊敬をする必要はありませんので、対象は尊敬に値する人物である必要もありません。尊敬に値しない上司や顧客に対しても、言葉の上で立てる必要があるなら敬語を使い、その人たちを尊重する振る舞いをすべきです。
    また、聞き手尊重とは違って、特定の人物に対して尊重するのですから、誰でも彼でもお構いなしに尊重するわけではありません。偶然すれ違っただけの人を尊重する必要はありませんし、誰か分からないまだ見ぬ人を尊重することはできません。
    また、尊重と無関心は、似て非なるものです。たとえば、自分の子どもが泥遊びをしていたら、ばい菌で病気になるのではという心配から𠮟りつけてやめさせるのに、他人の子どもであれば気にもならないというのであれば、これは尊重ではなく無関心なだけでしょう。自分の子どもであればつながりを感じるけれど、他人の子どもにはつながりを感じないということであれば、いくら言葉の上で「上手にお城が作れたわねぇ、すごいわ」とほめようとも、これは尊重とは言えません。
    尊重するとは、前提としてつながりがある対象に対して、自身の考え方にかかわらず、その人のありのままを認め責めないことですから、自分の子どもであればこそ、やってほしくない泥遊びをしていても、子どもが自ら進んでやっているのであれば見守るということです。ばい菌については遊び終わってからきちんと手洗いをさせればよいのです。

    また、自分自身が、泥遊びなんてつまらないしやりたくないし、なんの意味も感じないから、自分の子どもにとってもなんの意味もないと考えるなら、聞き手尊重にも反しています。
    絶対敬語の考え方なら、子どもは親の考え方を受け入れ、親の指示に従うべきである、ということになるかもしれません。しかし相対敬語の世界観ならば、たとえ相手が自分の子どもであったとしても、親である自分のものの見方が絶対正しいわけではなく、子どもは子どもの人生を生きていると考え、親の考え方を押し付けたり、一方的に禁止したりすることに控えめになるでしょう。

    閑話休題、また「群盲象を撫でる」の寓話でもう少し説明しましょう。

    <群盲象を撫でる>でたとえると
    主体尊重
    を群盲象を撫でるのたとえで言えば、共に協力してこれが何かを明らかにする仲間だから尊重するのであって、頭がいいから、人格が素晴らしいから、お金持ちだから、人脈が広いからという理由で尊重するわけではありません。
    そして、自分には柱に思えるものを壁だ、ウチワだと言われたときに、「なるほど、あなたには壁のように感じられるんですね」「ウチワのようだと表現する人もいらっしゃるんですね」と受け入れることです。

    ここで勘違いしてほしくないのは、自分には柱に思えるものを壁だ、ウチワだと言われたときに、あの人が言うんだから壁に違いない、そうだウチワが正しいのだと結論に飛びついてしまうことです。
    他者を尊重することは、他者を絶対視することではありません。それでは絶対敬語の世界に逆戻りしてしまいます。

    たとえば、医者のようなその道の権威もいます。自分はガンではないと思っていても、医者がガンと言うならその可能性のほうがはるかに高いでしょう。しかし、たとえガンだとしても、医者の目指す治療方針と自分が目指す今後の生き方は合わないかもしれません。
    その道の権威を無視するのは自分の得にもなりませんが、権威だからという理由だけで全ての判断を委ねてしまうのは違います。その道の権威を尊重するのは、その道において、という限りです。相手が政治家であろうと、大学教授であろうと、それは変わりません。主体尊重の範囲を意識し、その範囲内においては、あなたと関わりある他者を尊重します。

    逆から見れば、何の権威を持っていなくても、子どものように経験や知識が少なくても、その人が当事者であるならば主体として尊重されるべきということですから、ここでも民主主義の考え方と通底するものがあるのではないでしょうか。

    対象に、責任をもって働きかける、受け手尊重

    「お見せする」「ご覧に入れる」などの敬語は、学校では謙譲語と習います。「謙譲」を辞書で引いてみると、以下のように書かれていました。

    へりくだりゆずること。自分を低めることにより相手を高めること。また、控えめであるさま。謙遜。

    デジタル大辞泉  

    たしかに、「お見せする」と言う場合、見せられている側を立てています。見せる側は立てないので、全く違うとも言いづらいのですが、辞書の説明から受ける印象と、私がこの敬語に対して持つ印象とはかなり違います。

    どう違うのか、先ほどの主体尊重と、この受け手尊重を対比したほうが分かりやすいので、対になる2つの動詞、「話す」「聞く」を使って説明します。

    自分が話す立場だったとしましょう。そのとき、聞くという行為を行う人は、話す主体から見て受け手になります。

    ※紛らわしいのですが、ここに出てくる”聞くという行為を行う人”、つまり”聞く人”は、聞き手尊重の対象となる聞き手とは違います。こちらは、素材敬語、すなわち話題の中に出てきて任意の動作をしている人であり、その任意の動作の一つとして、”聞く”という動詞を使っているだけです※

    したがって、受け手としての聞く人を立てるなら、「お話しする」と受け手尊重で表現します。このとき、同じ”聞く人”を直接的に表現して立てるなら、「お聞きになる」と主体尊重で表現できます。
    「お話しする」と言っても、「お聞きになる」と言っても、尊重されているのは聞いている側であって、そこにはどのように聞こうともその人の自由であり、聞いている側に責任はありませんよ、責めたりしませんよという意味になります。
    ただし、「お話しする」には話す主体を立てないという意味もあります。これが、辞書にある、「自分を低めることにより相手を高めること」につながるのでしょうけれど、「立てない」ことは、低めることとは違うように感じるのです。
    「お話しする」と敬語を使って言うとき、聞いている側に責任がないなら、誰が責任を負うのかといえば、話す側が責任を負うわけです。聞く側にとって、話す内容が分からないし興味も持てないなら、その責任は話す側にあるというわけです。
    これは、果たして話す側を低めているでしょうか。私には、偉そうにするでもなく、卑屈になるでもなく、凛と胸を張っているように思われます。

    では、主客を入れ替えてみましょう。
    今度は、自分が聞く立場だとします。そのときは、話す側が、聞くという行為から見て受け手になります。この話す人を受け手として立てる敬語が「お聞きします」です。このとき、同じく”話す人”を直接的に表現して立てるなら、「お話になる」と主体尊重で表現できます。「お聞きする」と言っても「お話になる」と言っても、尊重されているのは話している側であって、そこには、どのように話そうともその人の自由であり、話している側に責任はありませんよ、責めたりしませんよという意味になります。
    ただし、「お話になる」が話す主体を尊重する意味しかないのに対し、「お聞きする」には聞く主体を立てないという意味もあります。
    「お聞きする」と敬語を使って言うとき、話す側に責任がないなら誰が責任を負うのかといえば、聞く側が責任を負うわけです。せっかく話してくれているのだから、一生懸命聞きますよ。もし分からなくても、それは話し方のせいではなく、私の聞き方が悪かったんですよ。だからどうぞご自由にお話ください……。それが「お聞きする」ということです。
    これは、たしかに「へりくだりゆずること。自分を低めることにより相手を高めること。」ということなのかもしれません。しかし、やはり「低める」というよりも、そこには親が子に奉仕するような、主体が受け手を包み込み一体化するような感覚があるように思われ、これが「謙譲」という言葉の持つニュアンスには違和感を生むのです。

    さて、ここで現状を振り返ってみましょう。SNS上では、論破合戦が熱を帯び、過激な言葉がアテンションエコノミーを牽引しています。逮捕され、有罪にならない限りは言論の自由なんだと自身の権利を振りかざす人がいる一方、まるでプロレスでも見るかのようにそれを見て応援している人がいます。違うのは、プロレスはリングを下りれば終わりますが、SNSは日常生活まで脅かし、時に人を追い詰めてしまうということです。

    こんな時代だからこそ、敬語の考え方をもう一度検討してほしいと思うのです。

    まとめ~<群盲象を撫でる>のたとえを使って、2つの前提と3つの敬語を説明する

    ここでまた「群盲象を撫でる」の寓話でもう少し説明しましょう。
    これが最後のたとえになるので、重複するところもありますが、最初からのまとめも兼ねてまいりたいと思います。

    <群盲象を撫でる>でたとえると
    まずは、それを撫で感じたことを自分で否定せずに受け入れる。(個の領域の大切さ)
    自分と同じようにそれを撫で、何かしら感じている他者について、自身と全く関係ないと捉えるのではなく、同じものを撫でている仲間である、同じ人間であるというように、つながりを感じている。(つながりの大切さ)

    この2点を前提として、なるべく完全であろうとする努力を怠らない一方で、どれだけ努力をしても自分は完全ではないという自覚を持つ。象に触れ、なるべく自分が撫でて得た情報を正確に表現しようと努めつつも、それが必ずしも正解とは限らないことを覚えておく。同時に、このとき他人も完全ではないから権威を無自覚に受け入れず、他者がそれを撫でることで得た情報について、どれだけ声高に叫んでいたとしても、絶対視はしないという、「聞き手尊重」を意識する。

    なるべく多くの情報を集め、これが何であるかを知るために、情報を持っている各人を尊重する。出てきた情報は否定せず受け取る。あり得ない情報だと思っても、その人を見下したりしない「主体尊重」の実践。もちろん、「ウチワだ」と言っているものを力づくで変えようとするのは尊重とは真逆の行為です。

    自分の情報を話すときは、人に伝わるように、責任を持って話し、人の情報を聞くときには、その人の話を理解しようと努める。自分の話が伝わらなかったときは自分の話し方が悪かったと反省し、人に話してもらうときには見えていないし知らないものについて話し合っているのだから間違っていてもいいんですよ、と相手の責任を軽くしてあげる「受け手尊重」を心がける。

    本来の、「群盲象を撫でる」の寓話では、建設的な話し合いができずに喧嘩になってしまいますが、このような相互尊重に基づいて話し合いをすることができれば、喧嘩になることはありません。
    能力に限界のある人間ですから、必ずしも象と分かるかどうかは分かりませんが、平和を維持することは、象かどうかがわかることよりも大切ではないでしょうか。

    2つの前提と3つの敬語を積み重ねていく考え方を、敬語メソッドとして紹介してまいりました。
    敬語メソッドが民主主義にとって役に立つと思っていただければ幸いです。

    #創作大賞2026 #ビジネス部門 #敬語 #デモクラシー


     
     
    「ある」と「する」は敬語の一番基本になる言葉です。 【あるを受け入れ、するでかかわり、あうにつながる】 という想いを込めてネーミングしました。 人間関係を、敬語をもとに考える、「敬語メソッド」を提唱。敬語と敬語メソッドを広める活動をしています。

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