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『きみの朝を、生きた』(全文無料)

       プロローグ

     最初に諦めたのは、いつだったろう。

     物心ついた頃から、私は言葉が好きだった。
     ノートの端に詩を書いた。
     授業中、先生の話を聞くふりをしながら、窓の外の雲を言葉に変えた。
     うまく変換できたとき、胸の中で何かが鳴った。
     小さくて、でも確かな音だった。

     中学のとき、初めて短編小説を書いた。
     四百字詰めの原稿用紙に、二十枚。
     登場人物は三人。
     物語はひどく拙くて、結末も曖昧だったけれど、書き終えたとき、私はしばらく動けなかった。
     自分の手が、こんなものを作れるとは思っていなかった。

     高校になって、文芸部に入った。
     顧問の先生は無口で、部室にいつもコーヒーの匂いが漂っていた。
     部員は私を含めて四人。
     誰も饒舌ではなかったけれど、それぞれが黙って何かを書いていた。
     あの静けさが好きだった。
     鉛筆の音と、紙をめくる音と、たまに誰かが小さく息をつく音。

     書いたものを、見せ合うこともあった。

     褒め合うわけではなかった。
     ただ読んで、少し話した。
     それだけだったけれど、誰かに読まれるということが、私には嬉しかった。
     言葉が自分の外に出て、別の人間の中に入っていく。
     その感覚が、書くことの意味だと思っていた。

     だから、あの言葉が刺さったのだと思う。

     大学に入って最初の文学サークルの合評会。
     私が三ヶ月かけて書いた短編を、先輩の一人が読んだ。
     読み終えて、少し黙って、それからこう言った。

     「悪くはないけど、誰の心にも届かない文章だね。薄いというか、上滑りしてるというか」

     笑いながら言った。
     悪意はなかったのだと思う。
     ただの感想だったのだと思う。

     でも私には、それが全部だった。

     その日から、書けなくなった。
     正確には、書こうとするたびに、あの声が聞こえた。
     誰の心にも届かない。
     ペンを持つと手が重くなった。
     画面を開くと、カーソルだけが点滅し続けた。

     半年後、サークルをやめた。

     一年後、ノートを捨てた。

     それからは、ただ生きていた。
     生きているというより、時間が過ぎていた。
     朝が来て、夜が来て、また朝が来た。
     誰かと話して、笑って、でも何も鳴らなかった。
     胸の中で、あの小さな音が鳴ることは、もうなかった。

     諦めるというのは、案外静かなことだと知った。

     爆発するわけでも、泣き崩れるわけでもない。
     ただ少しずつ、手放していく。
     夢を手放して、言葉を手放して、最後には自分自身を手放そうとしていた。

     あの夜、私は橋の上にいた。

     風が強かった。
     川の匂いがした。
     欄干に手をかけて、下を見た。
     水面は暗くて、どこまで深いのかわからなかった。

     怖くはなかった。
     ただ、疲れていた。

     諦めることに、疲れていた。

     その瞬間、意識が遠くなった。

     橋でも、川でも、風でもない場所に、気づいたら立っていた。
     白かった。
     白いというより、色がなかった。
     音もなかった。
     匂いもなかった。

     靄の中に、誰かがいた。

     声が聞こえた。

     穏やかで、でも掴みどころのない声だった。
     何かを言っていた。
     私も何かを答えていた。
     でも靄が濃くて、言葉の輪郭が溶けて、何を話したのか覚えていない。

     ただ最後に、その声が言った気がした。

     ——それが聞きたかった。

     それから、暗くなった。

     完全な暗闇の中で、私は落ちていった。
     落ちているのか、浮いているのか、もうわからなかった。

     そして——

     見知らぬ天井が、あった。

    再生局

     天井には、照明がなかった。
     それなのに、白かった。
     空間全体が均一に発光しているような、光源のない光。
     目が痛くなるほど明るいわけではなく、かといって薄暗くもない。
     ただ、白かった。

     私は立っていた。
     いつの間にか、立っていた。
     足の下に床があるのかどうかもわからなかったが、沈みはしなかった。

     靄があった。

     さっきよりも薄い。
     輪郭が少し見えた。
     自分の手が見えた。
     体があった。
     橋の上にいたときと同じ体が、ここにもあった。

     そして、靄の向こうに、誰かがいた。

     二人、いた。

     一人は先ほどの声の主だとわかった。
     靄越しでも、佇まいでわかった。
     背が高いのか低いのかもはっきりしない。
     男なのか女なのかも判然としない。
     ただそこにいて、こちらを見ていた。

     もう一人は——

     小さかった。
     小さいというより、縮こまっていた。
     膝を少し曲げて、肩を丸めて、存在を小さくしようとしているような立ち方だった。
     靄のせいで顔は見えなかったけれど、その輪郭から、若いとわかった。
     おそらく私より、ずっと若い。

     三人で、しばらく黙っていた。

     最初に口を開いたのは、声の主だった。
    「久しぶり」

     私に言ったのか、もう一人に言ったのか、わからなかった。
     どちらにも言ったのかもしれない。
    「ここは」と私は言った。「どこですか」
    「さあ」

     あっさりした答えだった。
    「さあ、って」
    「どこだと思う?」

     質問を質問で返された。
     私は周囲を見回した。
     白い空間。靄。光源のない光。
     答えようがなかった。
    「わからないです」
    「そう」
     声の主は特に気にした様子もなく言った。
    「まあ、そんなもんだよ」

     そんなもんだよ、と言われても困った。
     私は橋の上にいたはずだった。
     風が強くて、川の匂いがして、欄干に手をかけていた。
     それからここにいる。
     その間に何があったのか、うまく思い出せなかった。

     縮こまった人影が、小さく動いた。
    「あの」
     その人影が言った。
     声は若かった。
     女の子の声だった。
    「私は、なんでここにいるんですか」
    「同じ理由だよ」
     声の主は言った。
    「諦めかけてたから」

     女の子は黙った。
     否定しなかった。

     私も黙った。

     諦めかけていた。
     そうだ。
     私は諦めかけていた。
     橋の上で、欄干に手をかけて、下を見ていた。
     それは確かだった。
    「二人とも」
     声の主が続けた。
     のんびりとした口調だった。
     まるで天気の話でもするように。
    「同じタイミングで来たね。珍しい」
    「珍しいんですか」と私は聞いた。
    「まあね。

     でも、だから面白い」

     面白い、という言葉が妙に引っかかった。

     この状況のどこが面白いのか、私にはわからなかった。

     声の主が、女の子のほうを向いた。
     気配でわかった。

     「ちょっとお願いがあるんだけど」

     女の子が顔を上げた。
     靄越しでも、その動きが見えた。

     「なんですか」

     「隣で、見ててくれないか」

     沈黙があった。

     「……見てる、というのは」

     「そのままの意味だよ。
     隣で、見てるだけでいい。
     何もしなくていい。
     ただ、見てて」

     女の子はしばらく黙っていた。
     考えているのか、戸惑っているのか、靄の向こうからではわからなかった。

     やがて、小さく言った。

     「……わかりました」

     その瞬間、靄が動いた。

     白い空間が揺れた。
     女の子の輪郭が薄くなった。
     私の体が、何かに引っ張られる感覚があった。

     声の主が、私に向かって言った。
     最後に、一言だけ。

     靄のせいで、聞き取れなかった。

     それから、すべてが暗くなった。

     そして——

     見知らぬ天井が、また、あった。

    一章 目覚め

     天井には、染みがあった。

     うっすらとした染み。
     雨漏りか何かの跡だろうか。
     不規則な形で、見ようによっては鳥にも見えるし、ただの汚れにも見える。
     私はしばらくその染みを見ていた。
     頭が動かなかった。
     体が動かなかった。

     自分が誰なのか、わからなかった。

     いや、正確には——自分が誰なのかは、わかっていた。
     でも自分がどこにいるのかがわからなかった。
     この天井に染みがあることも、この枕の匂いも、この布団の重さも、何一つ知らなかった。

     ゆっくりと、起き上がった。

     部屋だった。
     六畳ほどの、こぢんまりとした部屋。
     窓から朝の光が入っていた。
     カーテンは薄いピンクで、光を通して淡く輝いていた。
     机の上に教科書が積まれていた。
     棚には小さなぬいぐるみが並んでいた。
     床には脱ぎかけのまま放置されたソックスがあった。

     私の部屋ではなかった。

     当然だった。
     ここは私の部屋ではない。
     でも、だとしたら——

     立ち上がって、ふらつきながら、部屋の隅に置かれた鏡の前に立った。

     知らない顔があった。

     黒くて少し長い髪。
     目は二重で、少し眠そうな形をしている。
     肌は白くて、頬に小さなほくろがひとつ。
     唇は薄い。
     全体的に、整ってはいるけれど、どこか存在感を消そうとしているような顔だった。

     私の顔ではなかった。

     右手を上げた。
     鏡の中の顔も、右手を上げた。
     左手を上げた。
     鏡の中の顔も、左手を上げた。
     頬を触った。
     たしかに触れた。
     温度があった。
     皮膚の感触があった。

     これは、私の体だった。
     今この瞬間、この体が、私のものだった。

     ——誰、あなた。

     声が聞こえた。

     部屋の中に、他に誰もいなかった。
     でも声は確かに聞こえた。
     頭の中に直接響くような、不思議な感覚だった。
     女の子の声。
     若い、少し低い声。

     鏡の前で何してるの。

     私は鏡から目を離して、部屋の中を見回した。
     誰もいない。

     「……誰ですか」と私は言った。

     返事はなかった。

     代わりに、どこか呆れたような沈黙があった。
     沈黙にも種類があるとしたら、これは明らかに呆れの沈黙だった。

     私はもう一度、鏡を見た。
     知らない顔が、こちらを見ていた。

     白い空間を思い出した。
     靄の中の、縮こまった人影を思い出した。
     若い、女の子の声を思い出した。

     ——隣で、見ててくれないか。

     そういうことか、と思った。
     理解したわけではなかった。
     ただ、そういうことなのだろうと、なんとなく思った。

     気づいたなら、さっさとしてよ。

     また声が聞こえた。
     今度は少し焦っているような色があった。

    「さっさと、とは」

     学校。遅刻するから。

     机の上の教科書の横に、スマートフォンが置いてあった。
     画面を見ると、七時四十二分と表示されていた。
     壁に貼られた時間割を見ると、一限は八時半からだった。

     私は深呼吸をした。

     状況を整理しようとした。
     でも整理できるような状況ではなかった。
     私は知らない体の中にいて、頭の中で誰かの声が聞こえて、見知らぬ部屋で朝を迎えていた。

     それでも、学校には行かなければならないらしかった。

     制服がどこにあるのかわからなかった。

     クローゼットを開けた。
     服がぎっしり詰まっていた。
     どれが制服なのか、一瞬わからなかった。

     右側の一番上。

     声に従って、右側の一番上を見た。
     紺色のブレザーが、きちんとハンガーにかかっていた。
     スカートも隣にあった。

    「ありがとうございます」

     別に。

     そっけない返事だった。
     でも教えてくれた。

     着替えながら、私はこの体の持ち主のことを考えた。
     この部屋の主。この顔の持ち主。
     あの白い空間にいた、縮こまった人影。

    「名前を、教えてもらえますか」

     少し間があった。

     ……桐嶋奏。

     桐嶋奏。
     私はその名前を、頭の中で繰り返した。

    「奏さん」

     さん付けしなくていい。

    「奏」

     ……なに。

    「よろしくお願いします」

     また、呆れの沈黙があった。
     今度は先ほどより長かった。

     あなた、変な人ね。

     そうかもしれなかった。

     朝食はトーストだった。

     キッチンに降りると、テーブルの上にトーストが一枚置いてあった。
     バターが塗られていた。
     隣にオレンジジュースのコップがあった。
     家族の姿はなかった。

     お母さんは仕事が早い。お父さんは単身赴任。

     聞いてもいないのに、奏が教えてくれた。

    「一人暮らしみたいなものですね」

     そう。

     短い返事だった。
     それ以上は何も言わなかった。

     私はトーストを食べた。
     バターの味がした。
     オレンジジュースを飲んだ。
     甘かった。
     この体がいつもこれを食べているのだろうと思った。
     慣れた味なのだろうと思った。
     でも私には初めての味だった。

     食べ終えて、鞄を持った。
     鞄がどこにあるかは、奏が教えてくれた。
     玄関で靴を履いた。
     靴のサイズは私の感覚と少しずれていたけれど、履けないことはなかった。

     ドアを開けると、外の空気が入ってきた。

     五月の朝の空気だった。
     少し湿っていて、でも清々しかった。

     空は高くて青かった。
     遠くで鳥が鳴いていた。

     私は一歩、外に踏み出した。

     通学路がわからなかった。

     当然だった。
     私はこの街を知らない。
     この家がどこにあるのかも知らない。
     学校がどの方向にあるのかも知らない。

     左に曲がって、まっすぐ。

     奏の声に従って歩き始めた。
     商店街を抜けて、住宅街を進んだ。
     朝の街は静かで、時折、同じ制服を着た生徒が前を歩いていた。

     五分ほど歩いたところで、奏が言った。

     そこ、右。

     私は右を見た。
     細い路地があった。
     どう見ても近道には見えなかった。

    「ここですか」

     そう。近道だから。

     私は路地に入った。
     薄暗くて、少し湿った匂いがした。
     突き当たりを左に曲がると——

     行き止まりだった。

     古いアパートの壁があった。
     向こうに道はなかった。

     あ。

     奏の声が、小さく漏れた。

    「……行き止まりです」

     知ってる。

    「知ってるんですか」

     忘れてた。昔は通れたんだけど、去年アパートが建って。

    「それを先に言ってください」

     ごめん。

     謝られた。
     素直な謝罪だった。
     私は苦笑いをしながら、来た道を引き返した。

     次の角を右。そのまままっすぐ。それが正しい道。

    「確かめましたか」

     ……確かめた。

     少し間があったのが気になったけれど、私は従うことにした。

     結局、学校には三分遅刻した。

     ごめん。

     校門をくぐりながら、奏がもう一度言った。

    「いいですよ」と私は言った。「初日ですし」

     初日って何が。

    「いろいろと」

     奏は黙った。
     否定しなかった。

     教室に入ると、視線が集まった。

     三十人ほどの生徒が、一斉にこちらを見た。
     遅刻してきた生徒を見る、あの独特の視線だった。
     私は——奏として——軽く頭を下げて、自分の席を探した。

     窓際の、後ろから三番目。

     窓際の席に向かって歩いた。
     途中、隣の席の女子生徒が声をかけてきた。

    「桐嶋、遅刻? 珍しいじゃん」

     明るい声だった。
     屈託のない笑顔だった。

     私は奏の知り合いだろうと判断して、軽く笑い返した。

    「ちょっと、道を間違えて」

     女子生徒が目を丸くした。

    「道を間違えた? 家から学校まで間違えるとこある?」

     ない。

     奏が頭の中で言った。
     その通りだと思った。

    「まあ、いろいろあって」

     女子生徒はしばらく私を見てから、「大丈夫?」と言った。
     心配しているのか、からかっているのか、判断できなかった。

    「大丈夫です」

     「です」はやめて。奏はそんな話し方しない。

     そうか、と思った。
     私の話し方が出ていた。

    「大丈夫」と言い直した。

     女子生徒は「ならいいけど」と言って、前を向いた。

     私は席に座った。
     窓の外を見ると、五月の空が広がっていた。

     あの子、田中さん。クラスで一番話しかけてくる。

    「仲がいいんですか」

     普通。悪くはないけど、特別仲がいいわけでもない。

    「他のクラスメイトは?」

     ……普通。

     みんな普通らしかった。

     私は教室をそっと見回した。
     三十人の生徒。

     それぞれが話したり、スマートフォンを見たり、ノートを広げたりしていた。

     この中で、奏のことを本当に知っている人間は何人いるのだろうと思った。

     あまりいない。

     聞いていないのに、奏が答えた。

     私は何も言わなかった。
     ただ、そうか、と思った。

     存在を消そうとしているような顔、と思ったのを思い出した。
     鏡の前で、そう思った。
     この子は、消えようとしていたのかもしれない。
     少しずつ、時間をかけて。

     窓の外で、鳥が鳴いた。

     授業が始まった。

    二章 再構築

     一日目が終わった。

     帰り道、私は正しいルートを歩いた。
     今度は奏が丁寧に教えてくれた。
     朝の失敗を反省したのか、角ごとに「次は左」「そのまままっすぐ」と律儀に案内した。

     「ありがとう」

     別に。

     そっけない返事だったけれど、声のトーンは朝より少し柔らかかった気がした。

     家に帰って、制服を脱いで、ベッドに倒れ込んだ。
     天井の染みを見た。
     鳥に見える染み。

     疲れていた。

     体を動かした疲れではなかった。
     知らない人間として一日を過ごす、その緊張の疲れだった。
     誰かに話しかけられるたびに、これは奏の知り合いか、どの程度の距離感で接するべきか、を瞬時に判断しなければならなかった。
     授業中も、教科書のどこを開けばいいか、ノートはどのように取っているか、細かいことが積み重なった。

     お疲れ様。

     奏が言った。

     労われるとは思っていなかったので、少し驚いた。

     「あなたも疲れましたか」

     私は見てただけだから。

     「見ているのも、疲れるでしょう」

     奏はしばらく黙った。

     ……少し。

     正直な返事だと思った。

     二日目は、名前を間違えた。

     昼休み、田中さんと一緒に食堂に向かっていたとき、向こうから男子生徒が歩いてきた。
     奏と同じクラスらしく、田中さんと話し始めた。
     私にも話しかけてきた。

     「桐嶋、昨日の数学の宿題やった? 」

     私は愛想よく笑いながら、奏に確認した。
     心の中で。

     (この人、誰ですか)

     佐々木くん。
     数学が得意で、よく奏に宿題を見せてって言ってくる。

     (わかりました)

     「やったよ」と私は言った。
     「でも自信ない」

     佐々木くんが苦笑した。

     「桐嶋がそれ言う? いつも合ってるじゃん、鈴木」

     鈴木、と呼ばれた。

     私は一瞬、止まった。

     (奏の名前は桐嶋ですよね)

     そう。
     佐々木の名前は佐々木。
     鈴木じゃない。

     (つまり私が間違えた)

     そう。

     佐々木くんが、私の顔を見て首を傾げた。

     「桐嶋? 」

     「ごめん」私は言った。「ぼーっとしてた」

     「大丈夫? 最近なんか変じゃない? 」

     「変? 」

     「なんか、こう……」
     佐々木くんは言葉を探すように宙を見た。
     「いつもと違う感じがする。うまく言えないけど」

     田中さんも頷いた。

     「わかる。なんか、桐嶋らしくないというか」

     桐嶋らしくない。
     当然だった。
     私は桐嶋ではないのだから。

     「ちょっと寝不足で」と私は言った。

     二人は納得したような、していないような顔をした。

     佐々木の名前は健太。

     でも健太とは呼ばない。
     佐々木って呼んでる。

     (なぜ今それを)

     覚えておいてって思って。

     (ありがとうございます)

     だから「ます」はやめて。

     三日目は、音楽室の前で止まった。

     放課後、帰ろうとして、なぜか足が止まった。
     意図したわけではなかった。
     ただ、通りかかったとき、足が勝手に止まった。

     音楽室の扉は閉まっていた。
     すりガラスの向こうに、誰かいる気配があった。
     ピアノの音が漏れていた。
     誰かが練習しているのだろう。

     私はその音を聴いた。

     上手くはなかった。
     でも、一生懸命だった。
     何度も同じフレーズを繰り返して、間違えて、また繰り返して。
     その必死さが、扉越しに伝わってきた。

     奏が黙っていた。

     いつもは何か言う奏が、黙っていた。

     (奏?)

     返事がなかった。

     私はもう少しだけ、その場に立っていた。
     ピアノの音を聴いていた。
     下手だけど、一生懸命な音を。

     やがて、声がした。

    「桐嶋、また音楽室の前にいるじゃん」

     振り返ると、女子生徒が立っていた。

     田中さんでも、佐々木くんでもなかった。
     初めて見る顔だった。
     いや、見たことはあるかもしれない。
     でも話したことはなかった。

     静かな印象の子だった。
     背はあまり高くなくて、髪を一つにまとめていて、制服の袖が少し長かった。
     軽音部のバッジが胸についていた。

     ……澪。

     奏が、小さく言った。
     さっきまでの沈黙が嘘のように。

     (知り合いですか)

     同じクラス。
     あまり話したことない。

     (でも名前は知ってるんですね)

     奏は答えなかった。

    「また、って」
     私は澪に向かって言った。
    「私、いつもここにいるの?」

     澪は少し目を丸くした。
     それから、小さく笑った。
     笑うと、印象が変わった。
     静かなのは変わらないけれど、少し柔らかくなった。

    「最近、よく立ってるよ。扉の前で、じっと」

    「そうなんだ」

    「うん」

     澪は軽音部のバッジを軽く触りながら言った。

    「気になるなら、入ればいいのに、って思ってた」

    「入る?」

    「音楽室」

     私は扉を見た。
     ピアノの音はまだ続いていた。

    「入っていいの?」

    「放課後は開放してるから」

     澪はそう言って、少し間を置いた。

    「私は用があるから行くけど」

     それだけ言って、澪は歩き去った。
     引き止めるでも、一緒に行くでもなく、ただそれだけ言って。

     私はその背中を見送った。

     ……あの子、昔から。

     奏が、途中で止まった。

     (昔から、何ですか)

     返事はなかった。

     私は音楽室の扉を見た。
     それから、澪が去った方向を見た。

     扉を、開けた。

     音楽室には、ピアノを練習していた一年生が一人いるだけだった。
     私が入ってきたのに驚いて、練習をやめてしまった。
     申し訳なかった。
    「続けていいよ」と言ったけれど、その子は荷物をまとめて出て行ってしまった。

     広い音楽室に、一人残された。

     窓から西日が入っていた。
     埃が光の中で漂っていた。
     楽器が並んでいた。
     ピアノが二台あった。
     壁に楽譜棚があって、古い楽譜がぎっしり詰まっていた。

     奏の体の記憶が、少しだけ疼いた。

     そういうことが、時々あった。
     この体が覚えていることが、不意に動き出す瞬間。
     足が自然と慣れた道を歩こうとする。
     手が自然と慣れた動作をしようとする。

     今も、足が自然と、部屋の奥に向かって動いた。

     ロッカーがあった。
     名前のシールが貼られていた。

     桐嶋奏、と書いてあった。

     鍵がかかっていた。
     (鍵、持っていますか)

     奏が黙っていた。
     (奏?)

     ……鞄の中。内ポケット。

     鞄の内ポケットを探ると、小さな鍵があった。
     使われた形跡のない、新品に近い鍵だった。

     差し込んで、回した。

     ロッカーが開いた。

     中には、楽譜があった。

     一冊のノート。
     表紙に何も書いていない、普通のキャンパスノート。
     手に取って、開いた。

     五線譜が書かれていた。
     印刷されたものではなく、手書きで引いた線。
     丁寧だけど、少し歪んでいた。
     音符が並んでいた。
     途中まで書かれていて、突然止まっていた。

     最後のページに、余白があった。

     余白に、走り書きがあった。

     ボールペンで、少し力を込めて書いたような跡。

     これは薄っぺらいのかな。

     それだけだった。

     それだけが、書いてあった。

     私はその文字を、しばらく見ていた。

     誰かに問いかけているのか、自分に問いかけているのか、わからなかった。
     でもその問いの形が、どこか、知っている感じがした。

     誰の心にも届かない文章だね。

     あの声が、頭の中で鳴った。

     私は奏の書いた問いを、もう一度読んだ。

     これは薄っぺらいのかな。

     薄っぺらくなんかない、と思った。
     こんな問いを持っている人間の書くものが、薄っぺらいはずがない、と思った。
     でもそれは私の感想であって、奏に届けることができなかった。

     ノートをそっと閉じて、ロッカーに戻した。
     鍵をかけた。

     ……見たの。

     奏の声が、静かに言った。
     責めているわけではなかった。
     ただ、確認するように。
     「見ました」

     感想は。
     「薄っぺらくなんかないと思いました」

     沈黙があった。

     長い沈黙だった。

     ……あなたは、そう思うんだね。

     奏の声は、いつもより少し低かった。
     「思います」

     また沈黙があった。

     それから奏は、もう何も言わなかった。

     西日が、音楽室の床に長い影を作っていた。
     私はしばらくそこに立っていて、それから音楽室を出た。

     廊下は静かだった。

     帰り道、奏は一言も喋らなかった。
     でもその沈黙は、朝の呆れた沈黙とも、昼の素っ気ない沈黙とも、違う種類の沈黙だった。

     何かを、考えているような沈黙だった。

    三章 音楽室のノート

     祖父の話を、最初に聞いたのは四日目だった。

     放課後、田中さんと帰り道を歩いていたときだった。
     田中さんはよく喋る子だった。
     沈黙が苦手なのか、歩きながら絶えず何かを話した。
     私はそれを聞きながら、奏ならどう相槌を打つかを考えながら、適当に頷いていた。
     「そういえばさ」
     田中さんが言った。

     「桐嶋ってさ、昔ピアノやってたじゃん」

     私は少し慎重になった。

     「うん」

     「なんでやめたの? 上手かったのに。文化祭で弾いたやつ、すごかったよ」

     答えなくていい。

     奏が、静かに言った。

     「なんとなく」と私は言った。

     田中さんは「そっか」と言って、それ以上聞かなかった。
     聞かないでくれる子なのだと思った。

     でもしばらく歩いてから、独り言のように言った。

     「お祖父ちゃんと何かあったんじゃないかって、思ってたけど」

     私は田中さんを見た。
     田中さんは前を向いたまま歩いていた。

     「なんで」

     「なんとなく。あのあと桐嶋、急に変わったから。
     それがお祖父ちゃんのお見舞いから帰ってきた後だったから」

     関係ない。

     奏の声が、少し硬かった。

     「関係ない」と私は繰り返した。

     田中さんは「そっか」ともう一度言った。

     「ごめん、変なこと聞いて」

     「いいよ」

     それで、その話は終わった。

     でも私の中では、終わらなかった。

     その夜、奏に聞いた。

     ベッドに横になって、天井の染みを見ながら。

     「祖父と、何かあったんですか」

     奏はすぐに答えなかった。

     長い沈黙があった。
     窓の外で虫が鳴いていた。

     ……聞かないでほしい。

     「わかりました」

     それ以上は聞かなかった。

     でも奏が言った、聞かないでほしい、という言葉の重さが、部屋の中に残った。
     それは単なる拒絶ではなくて、触れられたくない何かがそこにある、という重さだった。

     楽譜の余白の走り書きを思い出した。

     これは薄っぺらいのかな。

     その問いと、祖父という言葉が、頭の中で静かに結びついた。

     五日目、澪とまた会った。

     今度は教室だった。
     朝のホームルームが始まる前、私が席に着いたとき、澪が近くを通りかかった。
     目が合った。
     澪は小さく会釈した。
     私も会釈した。
     それだけだった。

     でも昼休み、廊下で再び会ったとき、澪のほうから声をかけてきた。

     「音楽室、入ったんだね」

     「え? 」

     「昨日。入ったでしょ」

     澪は特に追及するでもなく、静かに言った。

     「窓から見えたから」

     「そう」私は言った。「少しだけ」

     「どうだった」

     「懐かしい感じがした」

     奏の体の記憶が言わせた言葉だったのか、私自身の言葉だったのか、わからなかった。
     でも嘘ではなかった。

     澪は少し考えるように間を置いてから言った。

     「そっか」

     それだけ言って、また歩き去ろうとした。

     「澪さん」

     私は呼び止めた。
     澪が振り返った。

     「軽音部? 」

     「うん」

     「ピアノ? 」

     「ギター」

     澪は胸のバッジを軽く触った。

     「ピアノは弾けない」

     「そっか」

     澪はまた歩き去った。
     今度は止めなかった。

     ……あの子、

     奏がまた、途中で止まった。

     (あの子、何ですか)

     ……ずっと、声をかけてくれてた。ピアノをやめてからも。

     (それは知ってます。同じクラスだから)

     違う。そういう意味じゃなくて。

     奏は少し黙ってから、続けた。

     私が音楽室の前で立ってるとき、いつも気づいてた。
     でも何も言わなかった。
     ただ、気づいてた。

     (それで、今日声をかけてくれた)

     ……うん。

     奏の声が、少し湿っているような気がした。
     気のせいかもしれなかった。
     でも気のせいではないような気もした。

     六日目、祖父のことを、少しだけ知った。

     きっかけは、奏の部屋の棚だった。

     夜、何気なく棚を眺めていたとき、小さな写真立てに気づいた。
     ぬいぐるみに半分隠れるように置かれていた。
     手に取って見ると、奏と老人が並んで写っていた。
     奏は小学生くらいで、笑っていた。
     老人は厳しい顔をしていたけれど、目は笑っていた。

     (この人が、祖父ですか)

     奏はしばらく黙っていた。

     ……うん。

     (仲が良さそうですね)

     昔は。

     昔は、という言葉が、重かった。

     (今は)

     ……入院してる。
     もう、長くないって。

     私は写真を棚に戻した。

     (お見舞いには)

     行ってない。
     行けない。

     (なぜ)

     奏はまた黙った。
     今度は長かった。
     虫の声が窓の外から聞こえた。

     あの人に言われたの。
     私の音楽は薄っぺらいって。

     私は何も言わなかった。

     コンクールの前日だった。
     自信を持って弾けるようになってきたって思ってたのに。
     あの人に聴かせたら、薄っぺらいって言われた。
     笑いながら。
     悪気はなかったと思う。
     ただの感想だったんだと思う。

     私は奏の言葉を聞きながら、自分のことを思った。

     合評会の夜。
     先輩の言葉。
     笑いながら言った、あの声。

     でも私には、それが全部だった。

     奏の言葉が、私の記憶と重なった。

     まるで、同じ人間が言った言葉みたいに。

     (わかります)と私は言った。

     え?

     (同じようなことが、私にもあったから。
     書くことを、諦めた理由)

     奏が黙った。

     私も黙った。

     二人で、しばらく黙っていた。

     ……あなたも、諦めてたんだね。

     (そうです)

     だからここに来たの?

     (そうだと思います)

     また沈黙があった。
     でも今度の沈黙は、不思議と苦しくなかった。
     同じ傷を持つ者同士の、静かな沈黙だった。

     祖父はね、

     奏が、ゆっくりと言った。

     若い頃、音楽をやってたらしいの。
     でも途中でやめた。
     理由は教えてくれなかった。
     だから私に言ったのが、本当にただの感想だったのか、それとも別の何かだったのか、今でもわからない。

     (別の何か)

     例えば、自分が諦めたから、私にも諦めてほしかったとか。
     そういう、醜い理由。

     (それは違うと思います)

     なんで言い切れるの。

     (言い切れないけど、でも違うと思う。
     あなたの音楽を聴いて、薄っぺらいと思った人間が、音楽室のロッカーの鍵を持ち続けていますか)

     奏が黙った。

     ……どういう意味。

     (鍵、ほとんど使われていなかった。
     でも捨てていない。
     鞄の内ポケットに、ずっと入れていた。)

     奏は何も言わなかった。

     私も何も言わなかった。

     窓の外の虫の声が、少し大きくなった気がした。

     七日目の朝、奏が先に喋った。

     目が覚めて、天井の染みを見ていたら、奏が言った。

     昨日は、話しすぎた。

     「そんなことない」

     あなたに話すつもりはなかった。

     「それはわかってます」

     なのに話した。

     「人に話したかったんじゃないですか。誰かに」

     奏は黙った。

     ……かもしれない。

     「話してくれてよかった」

     なんで。あなたには関係ないのに。

     (関係ある)と私は思ったけれど、声には出さなかった。

     代わりに言った。

     「学校、行きましょうか」

     ……うん。

     今日の奏の声は、昨日より少しだけ、軽かった気がした。

     八日目、掲示板に張り紙があった。

     昇降口の掲示板に、文化祭の告知が貼られていた。
     来月の第三週。
     各クラス出し物を決めること。
     有志による発表も受け付ける。
     音楽、演劇、ダンス、その他。

     私はその張り紙を見た。

     奏は黙っていた。

     田中さんが隣に来て言った。

     「桐嶋、見てるじゃん。出るの?」

     「どうかな」

     「出ればいいのに。ピアノ、また聴きたいな」

     私は田中さんを見た。
     田中さんは屈託なく笑っていた。

     「また、って言うことは、前に聴いたことがあるんだね」

     「当たり前じゃん。去年の文化祭。すごかったよ。
     なんであれでやめちゃったの、って思ったもん」

     奏が黙っていた。

     黙っていたけれど、その沈黙の中に、何かが揺れている気がした。

     「考えてみる」と私は言った。

     田中さんは「ほんと?」と目を輝かせた。

     「楽しみにしてる」

     昇降口を抜けながら、私は奏に聞いた。

     (文化祭、出てみたらどうですか)

     無理。

     (なぜ)

     弾けない。もう、ずっと弾いてないから。

     (弾けるかどうかじゃなくて)

     じゃあなんだって言うの。

     (奏がここにいたって、証を残すために)

     奏は黙った。

     長い沈黙だった。

     ……考える。

     考える、と言った。無理、とは言わなかった。

     私はそれで十分だと思った。

    四章 逆転

     九日目の放課後、音楽室のピアノの前に座った。

     奏が、座っていいと言ったわけではなかった。
     ただ、足が自然とそこへ向かった。
     音楽室には誰もいなかった。
     西日が窓から斜めに入って、ピアノの黒い表面に反射していた。

     鍵盤に、指を置いた。

     奏の体の指が、鍵盤の感触を覚えていた。
     冷たくて、滑らかで、少し重い感触。

     やめて。

     奏の声が、すぐに飛んできた。

     私は指を離した。

     「ごめんなさい」

     ……弾かないで。まだ。

     まだ、という言葉が引っかかった。
     まだ、ということは、いつかは弾くかもしれない、ということだった。
     奏自身がそう思っているかどうかは、わからなかったけれど。

     私はピアノの前に座ったまま、鍵盤を見た。
     弾かずに、ただ見た。

     白と黒が並んでいた。
     規則正しく、静かに並んでいた。

     ……ねえ。

     奏が言った。

     (何ですか)

     あなたは、書くことをやめてから、何年経つの。

     少し考えた。

     (三年、くらいだと思います)

     三年。

     (そうです)

     長いね。

     (奏は)

     一年と少し。

     (まだ体が覚えていますよ。指が)

     わかってる。

     奏は短く言った。
     わかってる、という言葉の中に、それでも弾けない、という意味が含まれていた。
     私にはわかった。同じだったから。

     書けることと、書くことは、違う。

     体が覚えていることと、心が動くことは、違う。

     十日目、佐々木くんに呼び止められた。

     放課後、昇降口で靴を履き替えていたとき、後ろから声がした。

    「桐嶋、ちょっといい?」

     振り返ると、佐々木くんが立っていた。
     いつもへらへらしている佐々木くんが、珍しく真剣な顔をしていた。

    「なに?」

    「文化祭、出るって本当? 田中から聞いた」

    「考えてる、って言っただけ」

    「出ればいいと思う」

     佐々木くんは言った。

    「俺、去年の聴いてたから。桐嶋のピアノ」

     私は佐々木くんを見た。

    「よかったよ、本当に。
     なんであれでやめたのかわからない。
     もったいないと思ってた」

     ……健太がそんなこと言うとは思わなかった。

     奏が、小さく言った。頭の中で。

    「ありがとう」と私は言った。

     佐々木くんは少し照れたように頭を掻いた。

    「応援してるから。出るなら」

     それだけ言って、佐々木くんは行ってしまった。

     私は昇降口に立ったまま、その背中を見送った。

    (みんな、覚えてるんですね。奏のピアノを)

     奏は黙っていた。

    (聴いた人の中に、残ってる)

     ……そんなこと、ない。

    (ある。今、証拠を二人分聞いた)

     奏はまた黙った。
     否定しなかった。

     十二日目、書きたいと思った。

     突然だった。

     夜、奏の机に向かって、明日の授業の予習をしているふりをしていたとき、ノートの余白に何かを書きたいという衝動が、唐突に湧いてきた。

     三年ぶりの感覚だった。

     あの小さな音が、胸の中で鳴った。

     私は鉛筆を持って、ノートの端に、一行書いた。

     五月の朝は、誰かの体の匂いがする。

     書いてから、少し驚いた。

     こんな文章が、まだ自分の中から出てくるとは思っていなかった。
     三年間、枯れ果てたと思っていた。
     でも枯れていなかった。どこかに、まだあった。

     奏が、静かに言った。

     何、書いたの。

    (一行だけ)

     見せて。

    (見えるんですか)

     なんとなく。うっすらと。

     私はノートを少し持ち上げた。奏に見せるように。

     沈黙があった。

     ……いいじゃん。

    (そうですか)

     薄っぺらくない。

     その言葉が、思いがけず、胸に刺さった。

     奏の口から、薄っぺらくない、という言葉が出てくるとは思っていなかった。
     自分自身がその言葉で傷ついているはずの奏が。

    (ありがとうございます)

     別に。本当のことを言っただけ。

     そっけない言い方だった。
     でも本当のことを言っただけ、という言葉が、やはり胸に残った。

     私はもう一行、書いた。

     知らない体で、知らない朝を生きている。
     それでも朝は来る。それでも、何かが鳴る。

     十三日目、澪と、少し長く話した。

     昼休み、屋上への階段の踊り場に、澪が一人でいた。
     ギターの弦を張り替えていた。
     私が通りかかったとき、澪が顔を上げた。

    「桐嶋」

    「澪さん」

     さん付けしなくていい。奏は澪って呼んでた。

    「澪」と言い直した。

     澪は少し目を細めた。

    「珍しい。

     「名前で呼ぶじゃん」

     「そう?」

     「うん。いつも苗字で呼ぶから」

     しまった、と思った。

     でも澪は追及しなかった。
     弦を張り替える作業に戻りながら言った。

     「文化祭、出るの?」

     「考えてる」

     「出ればいいと思う」

     「みんなそう言う」

     「みんな思ってるから」

     澪は弦をつまびいた。
     まだ調律が合っていない、少し歪んだ音がした。

     「私も、桐嶋のピアノ聴いたことある」

     (この人も)

     ……うん。

     「どこで?」と私は聞いた。

     澪は少し間を置いた。
     弦を張る手を止めて、言った。

     「音楽室の廊下。去年の春。桐嶋が一人で弾いてた。放課後」

     「聴いてたの?」

     「偶然通りかかって。でも、止まれなかった」

     澪はまたつまびいた。

     「すごくよかったから。扉を開けたら終わりそうで、ずっと廊下で立ってた」

     奏が、黙っていた。

     完全な沈黙だった。
     さっきまでの静かな沈黙とは違う。
     何かに打たれたような、動けない沈黙だった。

     (奏)

     返事がなかった。

     「一人で聴いてたんだね」と私は澪に言った。

     「うん」澪は静かに言った。「誰にも言わなかった。桐嶋が知らないままでいいと思って」

     「なんで」

     「知ったら、弾けなくなりそうだから」

     私は澪を見た。澪はギターの弦を見ていた。

     「でも弾けなくなったね」と澪は言った。
     責めているわけではなかった。ただ、事実として。
     「だから今度は、言おうと思って。遅かったかもしれないけど」

     奏がまだ黙っていた。

     私は奏の代わりに言った。「ありがとう」

     澪は小さく首を振った。「お礼を言われることじゃない」

     それから二人で、しばらく黙っていた。
     澪がギターの弦を張り替える音だけがした。

     やがて澪が言った。「桐嶋、最近変わったよね」

     「変わった?」

     「なんか、必死で生きてるっていうか」

     澪は少し考えてから続けた。

     「前は、ここにいるんだかいないんだかわからない感じがしてた。でも最近は、ちゃんとここにいる感じがする」

     私は何も言えなかった。

     ここにいるのは私であって、奏ではなかった。
     でも澪には、奏がここにいると見えている。

     それはつまり——

     (奏)

     今度は、返事があった。

     ……聞こえてる。

     (あなたがここにいると、見えているそうです)

     奏はしばらく黙っていた。

     ……そっか。

     それだけだった。
     でもその二文字の中に、何かが溶けていく音がした気がした。

     その夜、奏が言った。

     文化祭、出ようかな。

     私は天井の染みを見ていた。鳥に見える染みを。

     (本当ですか)

     本当かどうか、まだわからない。でも、出ようかなって思った。それは本当。

     (それで十分です)

     ……一年以上、弾いてないのに。

     (弾けますよ)

     なんでそう思うの。

     (指が、覚えてるから。ピアノの前に座ったとき、感じました)

     奏は黙った。

     あなたが座ったときのことは、私も感じてた。

     (そうですか)

     鍵盤の冷たさとか、重さとか。久しぶりなのに、全部覚えてた。
     体って、正直だね。

     (そうですね)

     しばらく沈黙があった。

     ねえ。

     (何ですか)

     あなたも、また書けると思う?

     私は少し考えた。

     十二日目の夜に書いた一行を思い出した。
     五月の朝は、誰かの体の匂いがする。
     あの衝動を思い出した。
     三年ぶりに鳴った、あの小さな音を。

     (思います)

     根拠は。

     (今夜、また書きたいと思っているから)

     奏が、小さく笑った気がした。
     声ではなく、気配として。

     じゃあ書けばいいじゃん。

     (奏のノートに書いていいですか)

     教科書の間に、新しいノートがある。
     それ使えば。

     私は起き上がって、教科書の間を探した。
     新しいノートがあった。
     一度も使っていない、白いノート。

     鉛筆を持った。

     書き始めた。

     止まらなかった。

     翌朝、奏が言った。

     どのくらい書いたの。

     「十ページくらい」

     十ページ。

     「止まらなかった」

     奏はしばらく黙っていた。

     よかった。

     その一言が、静かに、胸に落ちてきた。

     よかった、と言ってくれる人間が、こんな近くにいた。
     名前も知らない、体だけを貸してくれている、この子が。

     私はそのとき初めて、自分が奏を救いに来たのではないかもしれない、と思った。

     あるいは——

     お互いが、お互いを救っているのかもしれない、と。

     文化祭まで、三週間だった。

     奏は少しずつ、ピアノの前に座るようになった。
     最初は鍵盤を見るだけだった。
     次の日は一音だけ弾いた。
     その次の日は一小節。

     私はそのたびに、何も言わなかった。

     ただ、隣にいた。

     奏も、何も言わなかった。

     ただ、弾いた。

     音楽室に、少しずつ音が戻ってきた。

     ある放課後、田中さんが言った。

     「桐嶋、最近楽しそうじゃん」

     私は田中さんを見た。

     「そう? 」

     「うん。なんか、前より顔が明るい。目が違う」

     佐々木くんも頷いた。

     「わかる。なんか、生きてる感じがする」

     生きてる感じ、という言葉が、胸に刺さった。

     奏が、頭の中で黙っていた。

     でもその沈黙は、もう、縮こまった沈黙ではなかった。
     何かを、受け取っているような沈黙だった。

     ……私が、そう見えてるんだ。

     奏が、静かに言った。

     (見えてます)

     私じゃないのに。

     (あなたの体です。あなたの顔です。あなたの声です。
     だから、あなたが生きてると見えてる)

     奏は黙った。

     長い沈黙があった。

     それから、小さく言った。

     ……ありがとう。

     私に言ったのか、田中さんたちに言ったのか、わからなかった。

     たぶん、両方に。

    五章 文化祭

     文化祭の一週間前、奏が初めて最後まで弾いた。

     放課後の音楽室。
     西日が窓から入って、床に長い四角形を作っていた。
     私は——奏の体で——ピアノの前に座っていた。
     奏のロッカーから出した楽譜を、譜面台に置いていた。

     あの未完成の楽譜だった。

     余白に、これは薄っぺらいのかなと書かれた、あの楽譜。

     途中で止まっていた音符の続きを、奏は少しずつ書き足していた。
     夜、ベッドの上で、鉛筆を持って。
     私は邪魔しなかった。
     ただ、手を貸した。

     奏が心の中で音を鳴らすとき、指がその音を探した。

     楽譜が、完成していた。

     弾き始めた。

     最初の数小節は、指が震えた。
     一年以上弾いていなかった体の、正直な反応だった。
     でも止まらなかった。
     震えたまま、続けた。

     中盤、指が滑らかになってきた。

     奏の体の記憶が、戻ってきた。
     ただの記憶ではなかった。
     体の奥から湧いてくる何か。
     音楽を愛していた人間の、消えていなかった熱が。

     最後の音を、弾いた。

     余韻が、音楽室に広がった。

     静かだった。

     西日が、少し傾いていた。

     ……弾けた。

     奏が言った。
     声が、少し掠れていた。

     (弾けました)

     最後まで。

     (最後まで)

     しばらく、二人で黙っていた。
     余韻の中に、いた。

     薄っぺらくなかった?

     奏が、静かに聞いた。

     私は少し考えた。
     薄っぺらい、という言葉の意味を考えた。
     上滑りしている、誰の心にも届かない——あの言葉の意味を。

     (全然)

     本当に?

     (本当に。ちゃんと届きました。私に)

     奏はしばらく黙っていた。

     あなたに届いても、意味あるの。
     あなたは私の体の中にいるんだから、聴こえて当然じゃない。

     (そんなことない。体が同じでも、聴く耳は私のものです。私が、薄っぺらくないと思った。それは本当のことです)

     奏はまた黙った。

     やがて、言った。

     ……出る。
     文化祭、出る。

     (本当ですか)

     本当。怖いけど。でも出る。

     怖いけど、という言葉が、胸に温かく落ちてきた。
     怖くない、ではなかった。
     怖いけど、だった。
     それが正直で、だからこそ本物だと思った。

     (怖くて当然です)

     あなたは怖くないの。

     (怖いです)

     何が。

     (あなたが弾いている間、私はどこにいるのかと思って)

     奏が、少し笑った気がした。

     一緒にいればいい。
     最後まで、一緒に。

     文化祭の三日前、澪に声をかけた。

     放課後、軽音部の練習が終わって、澪が部室から出てきたところを待っていた。

     「澪」

     澪が振り返った。
     ギターケースを背負っていた。

     「文化祭、出ることにした」

     澪は少し目を細めた。
     それから、静かに笑った。

     「そっか」

     「聴きに来てほしい」

     「行く」

     澪は即座に言った。
     迷わなかった。

     「絶対行く」

     「ありがとう」

     澪は首を振った。

     「お礼を言われることじゃない」

     いつもそう言う、と思った。
     お礼を言われることじゃない、と。
     でも澪がそう言うたびに、私は——奏は——救われていた。

     ……澪に、伝えてほしいことがある。

     奏が、静かに言った。

     (何ですか)

     廊下で聴いてくれてたこと、知ってたって。

     (知ってたんですか)

     うん。気づいてた。でも怖くて、声をかけられなかった。
     だから、伝えてほしい。

     「澪」と私は言った。
     「去年の春、廊下で聴いてたこと——知ってたよ」

     澪が、止まった。

     ギターケースの肩紐を持ったまま、止まった。

     「知って、た? 」

     「うん。気づいてた。でも声をかけられなかった。ごめん」

     澪はしばらく黙っていた。
     それから、目を伏せた。

     「謝ることじゃない」

     「でも」

     「桐嶋が気づいてたなら、それでいい」

     澪は顔を上げた。
     目が少し赤かった。

     「それだけで、十分」

     奏が、頭の中で黙っていた。

     でもその沈黙は、温かかった。

     文化祭の前日、夜。

     私はベッドに横になって、天井の染みを見ていた。

     鳥に見える染み。
     最初に目覚めた朝から、毎日見てきた染み。

     (奏)

     なに。

     (明日、うまくいくといいですね)

     うまくいかなくてもいい。

     「え?」

     声に出ていた。

     うまくいかなくてもいい、って思ってる。
     完璧に弾けなくてもいい。
     間違えても。
     途中で止まっても。
     ただ、弾きたい。
     それだけ。

     (それだけで十分です)

     あなたは、また書ける?

     (書けます。もう、書いてます)

     そっか。

     しばらく沈黙があった。

     ねえ。

     (何ですか)

     あなた、いつまでここにいるの。

     私は少し考えた。

     (わかりません)

     でも、いつかいなくなるんでしょ。

     (そうだと思います)

     そのとき、私はどうなるの。

     (あなたの体に、あなたが戻る。それだけです)

     奏は黙った。

     ……怖い。

     (何が)

     あなたがいなくなったら、また一人になる気がして。

     私は天井の染みを見た。

     (一人じゃないですよ。田中さんがいる。佐々木くんがいる。澪がいる)

     でも、あなたみたいに、頭の中で話せる人はいない。

     (それはそうですね)

     少し間があった。

     (でも、頭の中で話せなくても、ちゃんとそこにいる人たちです。
     あなたが見ていなかっただけで、ずっとそこにいた)

     奏は黙っていた。

     やがて、小さく言った。

     ……うん。

     それだけだった。
     でもその一音の中に、たくさんのものが入っていた気がした。

     おやすみ。

     (おやすみなさい、奏)

     文化祭当日。

     体育館の袖で、出番を待っていた。

     体育館の中は騒がしかった。
     他のクラスの出し物が続いていた。
     笑い声が聞こえた。
     拍手が聞こえた。

     私は——奏の体で——手のひらを見た。

     震えていた。

     震えてる。

     (わかってます)

     私も震えてる。

     (一緒に震えましょう)

     奏が、小さく笑った。

     司会の声が聞こえた。
     次の出し物を告げる声。
     桐嶋奏、ピアノ独奏、という言葉が聞こえた。

     袖から出た。

     体育館の中に、入った。

     視線が集まった。
     ステージの上から見る体育館は、広かった。
     たくさんの顔があった。
     知っている顔も、知らない顔も、全部がこちらを向いていた。

     ピアノの前に座った。

     鍵盤を見た。
     白と黒が、静かに並んでいた。

     怖い。

     (私も)

     弾けるかな。

     (弾けます)

     根拠は。

     (一週間、弾いてきたから。それと)

     それと?

     (薄っぺらくないから)

     奏が、黙った。

     それから——

     指が、鍵盤に触れた。

     最初の一音が、体育館に広がった。

     静かな音だった。
     でも確かな音だった。
     消えない音だった。

     二音目。三音目。

     指が、動いた。
     震えていたけれど、動いた。
     止まらなかった。

     音が、重なった。

     私は弾きながら、思った。

     この音は、薄っぺらくない。

     一年以上、音楽室のロッカーの中に眠っていた音が、今、体育館の空気を震わせている。

     誰かに届いている。

     届いてしまっている。

     中盤、指が滑らかになってきた。

     体の奥から、何かが湧いてきた。

     そのとき、感じた。

     奏が、戻ってこようとしていた。

     押し出されたのではなかった。

     引き戻されたのでもなかった。

     奏が、自分から、戻ろうとしていた。

     私は邪魔しなかった。

     指を、委ねた。

     奏の指が、奏の音を、弾いた。

     私はその音を、内側から聴いていた。

     薄っぺらくなかった。

     全然、薄っぺらくなかった。

     ちゃんと届いた。私に。そしてきっと、体育館の中の誰かにも。

     最後の音を、弾いた。

     余韻が、体育館に広がった。

     静寂があった。

     一秒。二秒。三秒。

     拍手が、一つ鳴った。

     最初の一つは、澪だった。

     それから、また一つ。また一つ。

     やがて体育館全体が、拍手で満たされた。

    「かっこよかった」

    「すごかった」

    「桐嶋——」

     声が、あちこちから聞こえた。

     奏は、ピアノの前で、俯いていた。

     肩が、震えていた。

     泣いていた。

     笑いながら、泣いていた。

     私は、その内側で、静かにいた。

     もう、私の役目は終わりに近かった。

     それでも最後に、一つだけやることがあった。

     舞台袖に引っ込んで、奏のロッカーから取り出したノートを開いた。
     余白に走り書きされた言葉のそばに、鉛筆で、一行だけ書いた。

     薄っぺらくなんかなかった。

     それだけ書いて、鉛筆を置いた。

     奏が、頭の中で言った。

     ……読んだ。

    (よかった)

     ありがとう。

    (どういたしまして)

     少し間があった。

     名前、教えてくれなかったね。

    (教えられなかった。知らないから)

     自分の名前を知らないの?

    (ここに来てから、ずっと知らないままです)

     奏は黙った。

     それから、小さく言った。

     そっか。じゃあ、名前も知らないひとに、ありがとう。

     私は何も言えなかった。

     代わりに、胸の中で、あの小さな音が鳴った。

     三年ぶりではなかった。もうずっと、ここに来てから、鳴り続けていた音が。

     意識が、遠くなった。

     白くなった。

    六章 再生局

     白かった。

     今度は、靄がなかった。

     空間の輪郭が、はっきり見えた。

     広さがわかった。果てがないような、でも閉じているような、不思議な広さだった。
     足の下に床があることも、わかった。自分の手が見えた。自分の体が、ここにあった。

     そして、天使が、いた。

     初めて、はっきり見えた。

     普通の人間と変わらない見た目だった。背は中くらい。髪は短くも長くもない。
     男なのか女なのか、やはりわからなかった。年齢も、わからなかった。
     若いような、老いているような、どちらにも見えなかった。

     ただ、目だけが、はっきりしていた。

     穏やかな目だった。何もかも見えているような、でも何も押しつけないような、静かな目だった。

     天使は私を見て、言った。

    「おかえり」

     その一言が、胸に落ちてきた。

     おかえり、という言葉を、どれくらい聞いていなかっただろう。

     橋の上に立っていた夜、私に帰る場所があると思っていなかった。

     でも今、この白い空間で、おかえり、と言われた。

     「ただいま」と私は言った。

     天使は少し笑った。

     笑うと、少しだけ人間らしく見えた。

     「どうだった」

     「いろいろありました」

     「そうだね」

     天使は言った。

     「見てたよ」

     「全部?」

     「全部」

     私は少し恥ずかしくなった。

     通学路を間違えたことも、名前を間違えたことも、全部見られていたということだった。

     「ずっと見てたなら、助けてくれてもよかったのに」

     「助けたら、つまらないだろう」

     やはりそういう天使だった。

     私は天使を見た。

     天使は私を見た。

     「聞いてもいいですか」

     「どうぞ」

     「最初に、私に何を言ったんですか。靄の中で。あの夜に」

     天使は少し間を置いた。

     それから言った。

     「覚えてないの?」

     「靄がかかってて、聞き取れなかった」

     「そっか」

     天使は静かに言った。

     「じゃあ、もう一度言おうか」

     天使が、口を開いた。

     今度は、はっきり聞こえた。

     あの夜、橋の上で、お前は何かを諦めようとしていた。

     でも諦める前に、一つだけ聞かせてくれ。

     帰りたいか。

     私は、その言葉を聞いた。

     橋の上の夜を思い出した。

     風の匂い。川の音。欄干の冷たさ。

     そして意識が遠くなる直前、どこかで声が聞こえた気がした、あの瞬間を。

     帰りたいか。

     あのとき、私は何と答えたのだろう。

     靄の中で、何を言ったのだろう。

     「私は、何と答えましたか」

     天使は少し笑った。

     「覚えてないの?」

     「聞き取れなかった」

     「じゃあ、今答えてくれればいい」

     天使は静かに言った。

     「帰りたいか」

     私は天使を見た。

     帰る、という言葉の意味を考えた。

     帰る場所。私の体。私の人生。

     書きかけのまま、三年間放置していた原稿。

     諦めたと思っていた、あの小さな音。

     奏の体の中で、その音が戻ってきたことを思い出した。

     鳴り続けていた音を。

     「帰りたい」と私は言った。

     迷わなかった。

     「やり直したい」

     天使が、静かに微笑んだ。

     「——それが聞きたかった」

     白い空間に、その言葉が広がった。

     あの夜から、ずっと待っていた言葉だった。

     靄の中で聞き取れなかった言葉が、今、完全な形で、私の中に落ちてきた。

     天使が、続けた。

     「聞こえたか、あの演奏」

     「聞こえました」

     「どうだった」

     「薄っぺらくなかった」

     天使は頷いた。

     満足したように。

     「あの子も、聞こえたと思うよ。自分の音が、ちゃんと届いたって」

     「届いてました」と私は言った。

     「私に、ちゃんと届いた」

     天使はまた笑った。

     今度は、さっきより少し大きく。

     「お前も、届いたよ」

     「え?」

     「お前の言葉が、あの子に届いた。楽譜の余白に書いた一行が」

     天使は静かに言った。

     「薄っぺらくなんかなかった、って」

     私は何も言えなかった。

     「お互い様だったね」

     天使は言った。

     のんびりとした口調で。

     まるで天気の話でもするように。

     「諦めかけた者同士、助け合って」

     「助け合ったつもりはなかった」

     「そういうものだよ」

     天使は言った。

     「助けようとしてやることより、助けようとせずにやることのほうが、たいてい届く」

     私はその言葉を、胸の中で繰り返した。

     助けようとせずにやること。

     奏の楽譜の余白を読んで、薄っぺらくないと思ったこと。
     澪の存在に気づいて、教えたこと。
     ピアノの前に座って、一音だけ弾いてみたこと。
     夜中に十ページ書いたこと。

     どれも、奏を助けようとしてやったことではなかった。
     ただ、そうしたかったから、した。

     「ありがとうございました」と私は言った。

     天使は首を振った。

     「お礼を言われることじゃない」

     澪と同じことを言った。
     私は少し笑った。

     「その言葉、知ってます」

     「そう?」

     天使は笑った。

     「誰かに言われたか」

     「はい。大事な人に」

     天使は頷いた。

     それから、少し真剣な顔になった。
     真剣、というより、静かな顔になった。

     「行くか」

     「はい」

     「怖くないか」

     私は少し考えた。

     怖い、と思った。

     三年間諦めていた人生に戻ること。
     書くことをやめていた自分に戻ること。
     橋の上に立っていた夜の続きから、やり直すこと。

     怖かった。

     でも。

     (怖いけど、帰りたい)

     奏の言葉が、頭の中で鳴った。

     文化祭の前夜、奏が言った言葉。
     怖いけど、出る、と。

     私も同じだった。

     「怖いけど、帰ります」

     天使は静かに笑った。

     「それでいい」

     白い空間が、少しずつ、薄くなっていった。

     天使の顔が、遠くなっていった。

     その前に、奏の声が、どこか遠くから聞こえた気がした。

     頭の中ではなく、もっと遠くから。

     ありがとう、名前も知らないひと。

     私は何も言えなかった。

     代わりに、胸の中で、あの音が鳴った。

     小さくて、でも確かな音が。

     それから——

     すべてが、白くなった。

    エピローグ

     窓の外から、鳥の声がした。

     奏は音楽室にいた。

     放課後の音楽室。
     西日が窓から入って、床に長い四角形を作っていた。
     ピアノが二台、静かに並んでいた。

     手の中に、ノートがあった。

     楽譜のノート。
     未完成だったはずの楽譜が、完成していた。
     自分が書き足した覚えのない音符が、後半のページに並んでいた。
     でも不思議と、違和感はなかった。
     この続きは、こうあるべきだった、という自然さがあった。

     余白に、見知らぬ筆跡で、一行書かれていた。

     薄っぺらくなんかなかった。

     奏は、その一行を見ていた。

     昨日の文化祭のことを思い出した。
     ステージの上で、震えながら弾いたこと。
     最後の音を弾いたとき、体の中から何かが溢れてきたこと。
     泣いていたこと。
     笑いながら、泣いていたこと。

     拍手が、聞こえた気がした。

     澪の拍手が、一番最初に聞こえた気がした。

     扉が開いた。

     澪が入ってきた。
     ギターケースを背負って、静かな顔をしていた。

     「いた」

     澪は言った。

     「また音楽室にいると思って」

     「うん」

     澪は奏の隣に来て、ノートを覗いた。

     余白の一行を見た。

     「これ、誰が書いたの」

     「わからない」

     奏は言った。

     「でも、ありがとうって思ってる」

     澪は少し間を置いた。
     それから、小さく頷いた。

     「そっか」

     二人で、しばらく黙っていた。

     西日が、少しずつ傾いていた。

     「また弾くの?」

     澪が言った。

     「弾く」

     奏は言った。
     迷わなかった。

     「また書く。続き」

     澪は静かに笑った。

     「聴きたい」

     「聴かせる」

     それだけだった。
     それだけで、十分だった。

     奏はノートを閉じた。

     余白の一行を、最後にもう一度だけ見てから。

     薄っぺらくなんかなかった。

     その言葉を書いた人間のことを、奏は知らなかった。
     名前も、顔も、声も。
     でもその言葉が、本物だということは、わかった。
     届いたということは、わかった。

     ありがとう、と奏は思った。

     声には出さなかった。
     でも、届くといいと思った。
     どこかにいる、名前も知らないひとに。

     どこかで、朝が来ていた。

     カーテンの隙間から、光が入ってきた。

     見慣れた天井だった。

     見慣れた部屋だった。

     私は、ゆっくりと起き上がった。
     体が重かった。
     でも確かに、私の体だった。
     橋の上に立っていた夜と、同じ体。
     同じ手。
     同じ部屋。

     机の上に、原稿があった。

     書きかけのまま、三年間放置していた原稿が。

     最後に書いた行の続きに、カーソルが点滅していた。
     いや、カーソルではなかった。
     鉛筆が、置いてあった。

     私はゆっくり立ち上がって、机に向かった。

     椅子に座った。

     原稿を見た。
     三年前の自分が書いた言葉が、そこにあった。
     拙くて、でも一生懸命な言葉が。

     薄っぺらくなかった、と思った。

     誰かに届かなかったのではなく、届ける前に諦めていただけだった。

     鉛筆を持った。

     書き始めた。

     止まらなかった。

     窓の外で、鳥が鳴いた。

     五月の朝の空気が、カーテンの隙間から入ってきた。
     少し湿っていて、でも清々しい空気が。

     胸の中で、あの音が鳴った。

     小さくて、でも確かな音が。

     ずっとそこにあった音が。

     私は書き続けた。

     どこかで、奏が弾いているような気がした。

     会ったことはない。
     声も知らない。
     顔も知らない。
     でもどこかで、同じ朝に、ピアノを弾いているような気がした。

     二人は出会わない。

     でも同じ朝に、同じ方向を向いて、歩き出していた。

     それで、十分だった。

     それで、十分すぎるくらいだった。

            了

     
     

    アル

     
     
    頭の中に住む人たちの話を、小説にして届けています。 |ファンタジー/SF/感情の機微—— あなたの好きな世界観がここにあるかもしれません。 創作好きな方、ぜひのぞいていってください。

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