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まだ名前のない気持ち

    【あらすじ】
    母の訃報を受け、三年ぶりに故郷へ帰った友姫。生前の母とは折り合いが悪く、葬儀を終えて東京へ戻っても、生活は何も変わらないように思えた。そんなある夜、公園で出会ったのは、人間そっくりのゴシックドール型アンドロイド・ヒナ。感情を知りたいという彼女のまっすぐな問いかけは、友姫が目を背けてきた母との関係や、自分自身の本当の気持ちを少しずつ揺さぶっていく。さらに、一人の少年との出会いは、友姫に「伝えること」の難しさと大切さを改めて考えさせる。すれ違う親子や新たな出会いを通して、二人がたどり着く答えとは――。




    1週間前にお母さんが死んだ。
    一人暮らしだった。パート先の同僚が、無断欠勤のうえ連絡がつかないのを心配して、家まで来てくれて発見されたらしい。

    「無断欠勤なんてする人じゃないから。心配で」 
    涙を流しながら、同僚の国見さんは教えてくれた。

    「もう29歳なんだから、身体に気をつけて生活してね」なんてお母さんが私に言ったのは、先月のことだ。人のことを心配している場合ではなかったのに。

    東北の田舎で、まだ4月。夜は冷える。 なのに、お風呂上がりで体が温まっていたからなのか、母は半袖姿だったそうだ。部屋には晩酌の用意があったらしい。

    父親は私が小さい頃に家を出た。それ以来、お母さんと私は二人だけの家族だった。けれど、不仲とまではいかないものの、折り合いは良くなかった。

    「そういうことじゃないんだよな」
    中学生くらいから、お母さんと話すたびによくそう思った。 

    それに、お母さんは私の交友関係を細かく知りたがった。
    「誰と仲が良いの?」
    「今日は何をしたの?」

    小学生のころは、それが当たり前だった。けれど、中学、高校と進むうちに、「どうしてお母さんは、私の交友関係をこんなに知りたがるんだろう」と疑問を抱くようになったし、正直言って疎ましかった。

    大学進学を機に上京し「これでやっとお母さんから詮索されなくなる」そう思って安心していた。だけど、お母さんは変わらなかった。というか、前よりひどくなった。

    電話やメッセージでの質問攻めに真面目に答えるのも、「答えたくない」と言って悲しそうにされるのも面倒だった。だから、自然とお母さんと話す機会は減っていった。

    ここ数年は、月に1.2回、10分にも満たない電話をするだけだった。変わり映えしない近況報告。盛り上がらない電話。

    「体に気をつけてね」 
    「落ち着いたら帰るね」

    全く気持ちのこもっていない、聞き心地の良い言葉を挨拶みたいに言っていた。

    電話をしたあとは、どっと疲れて、「ああ、一仕事終わった」そんな感想を抱く。

    そんな調子だったので、実家へ帰る足は遠のいた。

    お母さんの訃報を受けて田舎に帰ったのは、3年ぶりだった。葬儀では、お母さんの学生時代からの友人が涙を流し、「まだ62歳なのに。早すぎるよ」とその死を悲しんでいた。

    お母さんの友人の話なんて聞いたことがなかったし、お母さんが友人と遊びに行っていた記憶もない。たぶん私にとってお母さんは、「母親」でしかなかった。

    葬儀を終え、その足で帰る私に、「もう帰るのか?」と親戚たちは非難するような口調で言ったが、私はそそくさと帰ってきた。

    実家から帰って数日。お母さんがいなくなって、まだたった一週間。 

    私の生活は……何も変わらない。

    月に2回の電話。それだけがお母さんとの接点だった。だから普通に生活しているぶんには、お母さんが生きていた頃と何も変わらない。

    仕事を終え、ぎゅうぎゅうの満員電車に揺られて帰る。電車の窓には、黒髪を一つに結び、メガネをかけた疲れた自分が映っていた。

    いつも通りスーパーに寄って、値引きされた惣菜とビールを二本買う。

    春の夜風が気持ちいい。スーパーの袋を揺らしながら、人通りの少ない道でビールを一本開ける。ぐびぐび飲んでいると、家に帰るのが少し面倒になった。

    急ぐ理由もないし、なんとなく近くの公園へ入る。公園の真ん中には、一本の八重桜が咲いていた。

    (こんなところに桜なんてあったっけ) 
    そう思って花を眺めながら歩いていると、

    「え……」

    桜の下のベンチに、ゴシックドールがぽつんと座っていた。思わず足を止める。横顔からでも分かる、すっと通った鼻筋。 きらきらしたエメラルドグリーンの瞳。金髪のくるくるしたツインテールに、ふわふわしたギンガムチェックのスカート。

    (かわいい) 

    思わず見とれてしまう。誰かの忘れ物だろうか。人形にしてはかなり大きい。小学一年生くらいの背丈はありそうだ。

    これを忘れることなんてある?じゃあ、一旦置いているだけ?こんな高級そうな人形を、夜の公園に?

    警察に届ける?あぁ、でもそれは面倒だな。

    迷っていると、
    「ふふふ」
    小さな笑い声が聞こえた。

    え、どこから?周りに人の姿はない。え、これ……人形から?(やばい)背中がぞわっとした。今まで観たホラー映画が一気に脳内で再生される。

    ぐりん。
    人形の顔が私の方を向いた。

    「ぎゃー!!」

    ここ数年で一番大きな声が出た。持っていたビールを地面に落とし、尻もちをつく。

    あぁ、もうダメ。私はこういう時、さっと逃げられない人間なんだ。この妖怪……?に捕まって、霊界か何かに連れて行かれるんだ。

    「待って、ごめんなさい。
    そこまで怖がらせるつもりはなかったのよ」

    甘い香りまで漂ってきそうな、艶のある声。
    私の目の前には、微笑む美しいドールが立っていた。 

    *

    「え、え、え……」

    人形が、立ってる。
    しかも 、喋ってる……。

    落ち着け、落ち着け。ドッキリ?いや、なんで私に。

    「いったん落ち着いてちょうだい」 
    ドールは優雅に首を傾げた。
    「怖がることはないのよ」
    いや、あるだろ。
    「ねぇ、聞いたことはない?」
    「……」
    「人型人工知能。AI、アンドロイド、ロボット。富裕層の間で普及しているの」
    「ああ……」

    ニュースで見たことはある。でも、こんなに流暢に喋っていたっけ。

    「そろそろ、話してくれないかしら?」
    少し困ったように笑う。その仕草が自然すぎて、余計に怖い。

    「えっと……あなたはアンドロイド、なのね」
    「よかった。話せるのね。口がきけないんじゃないかと心配していたの」
    「いや、話せるけど……」
    「どうしてこんな所に? 持ち主は?」

    そう聞いてから、少しだけ引っかかる。持ち主って言い方、失礼だったかな。でも、アンドロイドなんだから間違ってはいないか。ドールは気にした様子もなく言った。

    「亡くなったのよ」
    「……え?」
    「だいぶご高齢でね。私は”おじいさん”と呼んでいたの」
    どこか楽しげな声だった。

    「亡くなったら、自由に暮らさせてほしいって——お願いしていたの」

    お金持ちのおじいさんが、ゴシックドールのアンドロイドを持っていた。……なんというか、ロリコンだったんだろうか。
    すると、私の考えを見透かしたようにドールは言った。

    「おじいさんは、お孫さんが欲しかったみたい。現れたのがゴシックドールだったから、最初は驚いていたけれど」
    ふふっと小さく笑う。

    「それなら……まぁ、分かる。のか?」
    お金持ちの娯楽というやつだろうか。

    「で、自由になりたくて、公園に?」
    「そう。おじいさんと暮らしていた頃から、夜に出歩いてみたいなって思っていたの。夜風が気持ち良かったわ」
    「アンドロイドも風とか感じるんだ」
    「皮膚感覚はあるのよ。痛みは感じる前に感覚が遮断されるんだけれど……通常は」
    「通常は?」
    「痛みを感じさせたい部類の人に買われなければ、ね」
    急にホラーだ。

    「ねぇ……」
    もう怖い話はやめてほしい。

    ドールは私の手をそっと握った。
    「あなたについて行ってもいいかしら?」
    ひやり。体温がない。 

    *

    三年住んだ1LDKの部屋は、ベージュと白でまとめられた無難な部屋だ。見慣れている。嫌というほどに。

    そこにあるーー異物。

    ドールは、部屋に上がるとキョロキョロして
    「趣味の良い部屋ね」
    と微笑んだ。

    「ありがとう」(お世辞も言うんだ)

    公園で家に着いてきたいと言われて
    「ダメ、ダメ!ウチに来たって何も楽しくないから」
    と断ったけど

    「いいの。何かして欲しいわけじゃないのよ」
    「少しだけでいいから」

    そう言われて「じゃあ、少しだけなら」とつい承諾してしまった。

    「ほんとに、楽しいことなんてないでしょ」
    自分の面白みのない部屋を見回されると、なんだか値踏みされている気がして落ち着かない。

    「いえ、もう楽しいわ」
    「人の家にお邪魔するなんて初めてだもの」

    そう言われると何か、もてなした方が良い気がしてくる。

    「そうなんだ。‥‥飲み物は飲めるの?」
    「飲めるわ。食事を一緒にできる設定なのよ」「へぇ」
    「おじいさんが言っていたの。誰かと一緒に食事をするのって幸せなことなんだって」
    「そういうもの?」
    正直、よく分からない。

    「おじいさんは毎回嬉しそうだったわ」
    「そうなんだ。じゃあ、コーヒーでいい?」「ええ。ありがとう」

    食器棚から、白いぽってりとしたコーヒーカップを二つ取り出す。一人だとコーヒーを淹れるのも面倒で、水ばかり飲んでいる。前にこのカップを使ったのは、元彼との別れ話の日だった。あの日も、こうして二人分のコーヒーを淹れた。

    『なんか、ずっと他人行儀だったよな』
    『あんま俺のこと好きじゃなかったでしょ』

    視線を落としたまま、彼は早口でそう言っていたのを思い出す。……あれは、当たっていたかもしれない。
    好きは好きだった。でも、執着するほどではなかった。彼にとって、それは「好き」ではなかったのかもしれない。

    『じゃあ、帰るわ』

    淹れたコーヒーも冷めないうちに、別れ話は終わった。

    *

    「はい、どうぞ」
    リビングのテーブルにカップを置くと、ドールは小さな手でカップを包み、うっとりと目を閉じた。 

    「いい香りね」
    「人間みたい」
    「それは、そう設定されているもの」
    「設定ねぇ」
    「ねぇ、旅行に行っていたの? わたし、旅行もしたいのよ。どこに行ったの?」
    ドールは部屋の隅にある旅行カバンを指差した。

    「田舎に帰ってただけ。旅行じゃないよ」
    「そうなの? でも、新幹線に乗ったり、お弁当を食べたり? 楽しかった?」
    「移動も移動中の食事も必要だからしただけ」
    「あら、あなたの方がロボットみたいね」
    いたずらっぽくドールは笑う。

    「いや。お葬式だったから、楽しむとかじゃなくて!」
    なぜか焦って言い訳してしまう。

    「お葬式? だれが亡くなったの?」
    「……母が」
    ドールは一瞬考えてから、
    「ご愁傷様でした」
    と頭を下げた。
    「どうも」
    なんでこういう儀礼的な言葉って、むず痒くなるんだろう。

    「悲しい?」
    「……」
    「悲しくないのね」
    「そりゃ母親が亡くなったんだから、悲しくて当たり前でしょ」
    反射的に答えた。けれど、悲しいかと聞かれてすぐに答えられなかったのは、なんでだろう。

    「ただ、それだけじゃない、というか」
    本当は、私は大して悲しんでいないのかもしれない。でも、それは口に出してはいけない気がする。

    「いいわね」
    ドールが言った。
    「何が?」
    ドールは私をまっすぐ見つめた。

    「わたし悲しみがわからないのよ。おじいさん、自分がいなくなった時に悲しんでほしくなかったみたい」
    「悲しいなんて、わからなくていいんじゃない?」
    「人間はそう言うわね。でも、わたしはどんなものか知ってみたいわ」
    そんなもんか。
    「だから、あなたのお母さまが亡くなったって聞いて、どんな感じか聞きたかったんだけど」
    「だけど?」
    「分からなかったわ」
    「それは、ごめん?」
    とりあえず謝ったけど、謝ることじゃないか。

    「ねぇ、お母様、どんな方だったの?」
    私はカップに手を伸ばしかけて、少しだけ止まった。
    「どんな……んー、普通だよ。普通のおばさん」
    「普通って、なに?」
    「だから……」

    答えようとしても、言葉が出てこない。視線を落とし、カップの取っ手を指先でなぞる。お母さんの顔が思い浮かぶ。でも、それをどう言葉にしたらいいのかわからなかった。カップを口に運んで、ゆっくり飲む。答えられないんじゃなくて、コーヒーが飲みたいだけ、とでもいうように。

    「一人で暮らしてた。パートも行ってて、そこでうまくやってたんじゃないかな。お葬式にも同僚来てたし」
    口から出たのは、そんな簡単な説明だった。

    「そう。楽しく暮らしていたのね」
    どうなんだろう。楽しかったんだろうか。
    「たぶん。分からないけど」
    ぽろりと本音が出た。
    「聞けば良かった?」
    「どうかな。でも……」
    「でも?」
    「楽しくないって言われても何も出来なかったかな。あんまり気が合わなかったから」
    「ケンカをしていたの?」
    「うぅん。ケンカになるほど話してなかったよ」
    「それなのに気が合わないってわかるのね」
    「うん」
    「おじいさんの所で読んだ本では、親子って特別で仲が良いものだった。あなたは少し違うのね。不思議だわ」
    思わず苦笑してしまう。

    「親子だからって、仲良しとは限らないよ」
    「そういうもの?」
    「そういうものなの」

    会話が途切れた。静かになった部屋に、コーヒーを飲む小さな音だけが響く。

    あれを読んだら少しはお母さんのことわかるのかな。机の上に置いたままのお母さんの手帳を思い出す。葬儀で知り合いに連絡するために見て、そのまま持ってきてしまったのだ。

    時計の針の音が、やけに大きく聞こえる。
    もう、こんな時間か。
    気づけばかなり夜は更けていた。スーパーで買ったお惣菜は冷蔵庫の中だ。突然の出会いに体が驚いてるのか、全然お腹は空いてない。

    「ねぇ」
    ドールが静かに言う。

    「わたし、もう少しここにいてもいいかしら」

    少しだけ考える。お母さんのことをあんな風に聞かれたのは初めてだった。正直面倒だ。

    だけど、口から出たのは自分でも予想外の言葉だった。

    「……いいよ。もう遅いし」
    言ってから、少し不思議に思う。なんで許してるんだろ。

    「そういえば」 
    ドールがこちらを見る。

    「わたしの名前、言ってなかったわね。
    ヒナよ。あなたは?」
    「ああ、そういえば。私は、友姫(ゆき)」
    「友姫よろしくね」
    「よろしく」

    友姫。友と姫。友達も少ないし、 姫なんて漢字の似合う見た目でもない。

    「友姫」
    ヒナは名前を繰り返す。
    「なに?」
    「綺麗な名前ね」
    「普通だよ」
    なんとなく照れくさくなって目を逸らす。

    「あ、ねえ」 
    「ん?」
    「お手洗いを借りられるかしら?」
    「どうぞ」

    トイレもするんだ。

    「わたしの体、消化はできないの。体内のタンクに入ってるだけなのよ」
    「あぁ、だからトイレで」

    ヒナは立ち上がりかけて、ふと思い出したように言った。
    「そういえば、わたし、眠る必要もないのよ」「へぇ」
    「だから夜の時間がたくさんあるわ」

    そう言って、ヒナは本棚に目を向ける。

    「ここにある本を読んでもいいかしら」「本?」
    「人間のことをもっと知りたいの」

    本棚には、小説や実用書が適当に並んでいるだけだ。これで人間のことなんて分からないと思うけど。

    「好きにしていいよ」
    「ありがとう」

    ヒナは嬉しそうに微笑んだ。そのままトイレへ向かい、扉が閉まる。しばらくして、ガチャガチャと機械的な音が響いた。

    (普通に見えても、中身はやっぱり違うんだな)

    トイレから出てきたヒナは、さっそく本棚の前に立つ。そして、何冊か背表紙を眺めたあと、一冊を手に取った。本当に読むつもりらしい。

    (それにしても‥‥泊めることになるとは思わなかったな)

    ソファに深くもたれながら、目を閉じて思った。ヒナがページをめくる音を遠くに聞きながら、私はいつの間にか眠りに落ちていた。

    *

    カーテンの隙間から差し込んだ朝日が顔に当たって眩しい。
    あーあ、顔も洗わず寝ちゃった。

    シャワーを浴びて何か食べようと立ち上がる。

    「あ」

    ヒナがいたんだ。ベッドに背中を預けたまま、床に座っている。その手元には、数年前に買った小説があった。たしか恋愛小説だ。当時流行っていたから買ったけれど、途中で飽きて最後までは読まなかった。

    「おはよう。面白い? それ」
    「おはよう。ええ、とても」

    ヒナは本を少し持ち上げた。

    「お互い好きなのに、126ページも伝え合わないの」
    「まぁ、すぐ伝えたら話が終わっちゃうからね」

    ヒナは首を傾げる。

    「不思議ね」

    開かれた本を見ると、残りページはほとんどなかった。

    時計は朝6時半を指している。
    「私、シャワー浴びてくるから」ヒナに伝えて、立ち上がる。視界の端で、ヒナが本を閉じた。

    「ハッピーエンドだわ」
    どこか満足そうな声だ。


    シャワーから出ると、キッチンからかちゃかちゃと音がした。

    (……料理してる?)

    見ると、ヒナがコンロの前にイスを持ってきて料理をしていた。小さな子どもがイスに乗って料理しているのと見た目は変わらない。なんだか危なっかしい。けれど、その見た目とは裏腹に、手つきは驚くほど良い。

    「もうすぐできるわ」

    洗面所で濡れた髪を乾かして戻ると、テーブルには卵焼きにウインナー、トースト、それとコーヒーが並んでいた。

    「すごい」
    「ふふっ。わたしは無駄になっちゃうから、友姫の分だけね」

    どれもきれいな焼き色で、思わず見入ってしまう。材料はもともと家にあったものだし、難しい料理ではない。それでも、一つ一つが理想的な焼き加減だった。昨日から何も食べていないお腹がぐぅと鳴る。

    「いただきます。料理できるんだね」
    「レシピ通りになら作れるわ」
    「おじいさんにも作っていたの?」
    「いいえ。小さな孫には作ってもらいたくなかったみたいだから」
    「今日が初めて?」
    「ええ」
    「すごい」
    「レシピ通りにしただけよ」
    「それでも普通はできない」
    「人間の普通なら、ね」

    私は卵焼きを口に運ぶ。ふわふわで、少し甘い。思わず頬が緩んだ。

    「友姫は今日、会社に行くのよね?」
    「うん」
    「じゃあ一緒に出るわ」

    帰るんだ。少し安心して、少しだけ残念に思う。

    「夜に、また公園にいるわね」
    「げほっ、げほっ」

    思いもよらない言葉に、コーヒーでむせた。

    「え、また来るの?」
    「ええ。そのつもりだけど、ダメかしら?」
    ヒナはにっこり笑う。

    「ダメとは言わないけど」
    少しだけ嬉しい自分がいた。

    「ダメじゃないなら。待ち合わせね」

    *

    正直、一日仕事にならなかった。慣れた仕事なのにケアレスミスが多くて、同僚に心配されるありさまだった。

    平凡な日常に起こったハプニング。いや、アクシデントというべきか。ともかく、ヒナとの出会いに私は興奮しているらしい。

    昨日はきちんと眠れていないし、今日は金曜日で一週間分の疲れもたまっている。いつもなら帰る頃にはぐったりしているのに、今日は体が軽かった。雑談をするような仲の同僚はいないから誰にも話していないけれど、本当は誰かに話したくて仕方なかった。

    いつもは会社帰りにスーパーへ寄る。でも今日は、そのまま待ち合わせの公園へ向かった。時刻は午後7時過ぎ。やはり公園には人影がまばらだ。

    ヒナの姿はない。小さな公園だから行き違いも考えにくい。昨日より早い時間だし、まだ来ていないのだろう。私はベンチに腰を下ろし待つことにした。

    「……何やってるんだろ」

    喋るゴシックドールを待ってるなんて。思わず笑みがこぼれる。

    スマホでマンガを読んで時間を潰すことにする。10分ほど経っただろうか。

    いつのまにか、向かいのベンチに一人の少年が座っていた。俯いていて表情はわからない。身長は150センチほど。小学校高学年くらいだろう。こんな時間に一人でいるには幼すぎる。でも、いきなり話しかけて不審者扱いされるのも困る。

    (親が迎えに来るだけかもしれないし)

    そう思い、私はスマホに視線を戻した。

    *

    「来ない」
    時刻は8時半を過ぎた。もう昨日出会った時刻は、とっくに過ぎている。

    連絡先を聞いておけば良かったかな。何かトラブルがあったのかもしれない。アンドロイドが珍しくて、誰かに呼び止められたとか。‥‥でも、他に行きたい場所ができたのかもしれない。私のところより楽しい場所なんて、いくらでもあるし。

    (あと10分待って、来なかったら帰ろう)
    そう決めて、ふと顔を上げると、少年がまだベンチに座っているのが見えた。さすがにこの時間まで小学生が外にいるのはおかしい。相変わらず俯いたままで、表情はよく見えない。

    (話しかける?でもなぁ……)
    面倒くさい気持ちと、もしこの後事件にでもあったらという不安が頭の中でせめぎ合う。

    (一応、声だけかけるか)
    少年の前まで行き
    「ねぇ」
    声をかけると、少年はビクッと肩を震わせた。恐る恐る顔を上げる。

    「はい」
    怒られると思ったのか。 

    「どうしたの? こんな時間に」

    なるべく柔らかい声で聞く。 少年は警戒を解いたと同時に、礼儀が必要な相手ではないと判断したらしい。

    「別に。大丈夫です」
     ぶっきらぼうに答え、また顔を背ける。

    (可愛くないな。私だって好きで話しかけてるわけじゃないんだけど)
    このまま帰るか迷った末、一言だけ残すことにした。

    「危ないから、早く帰りなよ」
    やることはやった。そう思って帰ろうとした、その時だ。

    「あら、迷子かしら」
    聞き慣れた声が背後から聞こえた。ヒナだ。 少年はムッとしたように顔を上げる。

    「は? ちが――」
    言い返そうとして、固まった。
    「え?」 「人形?」
    目をぱちぱちさせる。
    「人形ではないわ」
    「なにそれ」
    混乱した視線が私に向いた。
    「人工知能って分かる? アンドロイド」
    「え、マジ?」
    少年の目が一気に輝く。
    さっきまでとは別人みたいだ。

    「すげぇ……」
    遠慮なくヒナの髪や肩を触る。
    「ちょっと、あんまり触らないで」 私が止めようとすると、ヒナは笑った。
    「大丈夫よ」
    そう言って少年へ手を差し出す。

    「わたしはヒナよ。よろしくね」
    「あ、うん」
    少年も慌てて握り返した。
    「俺、まなと」 
    「まなとは何歳かしら?」
    「11」
    「こんな時間に何をしているの?」
    その質問に、まなとの顔が曇る。
    「母さんとちょっと……」
    「お母さんと何があったの?」
    「……まあ」
    それ以上は話したくないらしかった。ヒナも無理に聞こうとはせず「そう」とだけ言った。

    「でも、ずっとここにいるわけにもいかないでしょ」私が口を挟むと、
    「まぁ」
    まなとは気まずそうに目を逸らした。
    その時だった。
    ぐぅぅぅ。
    盛大な音が響く。まなとは真っ赤になってお腹を押さえた。

    「いいことを思いついたわ」
    ヒナが満面の笑みで私をみた。嫌な予感がする。
    「パーティをしましょう」
    「は?」
    嫌な予感は当たった。
    「お好み焼きがいいわ」
    「楽しそう!」
    まなとは即答でヒナの誘いに乗った。
    「いやいやいや!」
    私は慌てて止める。
    「子供を連れて帰るのはダメだから!」

    すると、まなとはポケットからスマホを取り出して「友達の家でご飯食べるって連絡すればうちの親なら平気だし」
    そう言いながらもう、親にメッセージを送っているようだ。

    (そう言われても‥‥)
    困惑している私に構わず
    「買い物に行きましょう」
    ヒナは当然のように歩き出した。
    「だから待ってって!」

    私の声なんて聞こえていない。まなとは楽しそうにヒナの隣に並んだ。その背中を見ながら、私は深いため息をついた。

    (なんでこうなるの)


    そして気がつけば。テーブルの上には熱くなった鉄板と、お好み焼きのタネが並んでいた。


    駅前の人の多いスーパーへ向かおうとするヒナを慌てて止め、わざわざ駅から離れたスーパーまで移動した。

    (でも、目立ってたな)

    ヒナがいるだけで周囲の視線を集めてしまう。
    レジのおじさんが「こりゃ、驚いた!おじょうちゃんお人形さんの仮装かい?」と話しかけてきたけど、ヒナは「ええ、そうよ」と流してカードで支払いしてしまった。

    ヒナの自然な動きを見たら、アンドロイドと言われるより「人形の仮装をしている」と言われる方が信じられるのかもしれない。


    (小学生を家に連れて来ちゃったなんて、飲まなきゃやってられない)

    現実逃避をしてビールを飲んで待っていると

    「はい、できあがり」

    ヒナがテキパキと作った美味しそうなお好み焼きが出来上がった。ソースが鉄板で焼ける香ばしい匂いでお腹が鳴る。

    「いただきます」
    「いただきます!!」

    私とまなとは揃って言うと、切り分けられたお好み焼きに箸を伸ばした。ヒナは今回も食べずに、ニコニコ私たちを見ている。

    「うま!!」

    まなとが勢いよくお好み焼きを口に入れていく。

    「ほんと、美味しい」
    「良かったわ」
    「次はエビ入りにするわね」

    *

    お好み焼きをお腹いっぱい食べて満足したころ、ポツリとまなとが言った。

    「楽しかった」
    「良かったわ」
    ヒナが笑顔で返す。時計の針はもう22時半近い。

    「じゃあ、そろそろ送るよ」

    小学生が遊んでいるのはさすがに遅すぎる時間だ。
    「帰りたくないなぁ」
    俯いたまま、まなとは黙り込んだ。 

    正直、心配ではある。でも、このまま家にいられても困る。
    (まさか虐待、とか?)
    それなら話は別だ。 

    「帰りたくないって……まさか虐待?」
    思わず聞くと、
    「あ、ちがうちがう!」
    まなとは慌てて首を振った。 

    「そうじゃない。けど……」
    「じゃあ、何なの?」
    ヒナがためらいなく尋ねる。

    まなとは少しの間黙っていたが、やがて諦めたように話し始めた。

    半年前、母親が再婚したこと。それまでは母親と二人で小さなアパートに住んでいたこと。今は広い一軒家に引っ越し、塾にも習い事にも通えるようになったこと。 新しい父親は優しい人だということ。

    「でも、なんか……息苦しいんだ」
    小さくそう付け加えた。

    (もし私だったら)
    学生時代、突然新しい父親ができたら。相手がどんなにいい人でも、家は気詰まりな場所になっていただろう。

    「お父さんが嫌なの?」
    ヒナが遠慮なく聞く。
    「嫌とかじゃなくて……」
    まなとは力なく首を振った。
    「まなとは、どうしてほしいの?」
    「どうしてほしいとかは、なくて……」

    少し黙ってから、
    「言ったら、母さん困るだろうし」
    と、小さな声で付け足した。

    見ていられなくなって、私は口を挟む。
    「複雑なんだよ」

    ヒナは少しだけ考えるように目を伏せた。
    「複雑って言葉にできないことなのね」
    そして次の瞬間、まなとをぎゅっと抱きしめた。

    「え、なにそれ」
    まなとは少し笑う。けれど、その笑顔はすぐに崩れた。
    「……っ」
    ぽろぽろと涙がこぼれる。
    「こうすると良いって読んだのよ」
    ヒナは泣いたまなとを不思議そうに見ながら言った。

    (たぶん今朝読んでた小説の真似だ。抱きしめてたの、恋人同士だったんだけどな。あとで教えておこう)

    まなとのことは、かわいそうだと思う。
    (とはいえ、このまま家にいさせるわけにもいかないんだけど)
    このあとどうしようか悩んでいると、その気持ちが顔に出ていたのか、
    「帰るよ」
    と、まなとが立ち上がった。もう涙は止まっている。

    「じゃあ、送っていく」
    「一人で大丈夫」
    遠慮されたけれど、そういうわけにもいかない。

    (仕方ない)

    残りのビールを飲み干して、立ち上がった。食事のときに聞いた話では、まなとの家は公園のすぐ近くだという。親には本当に「塾の友達の家で夕飯を食べる」と連絡していたらしい。

    まなとは無言で歩いているし、私も、もしまなとの親に会ったら何て言おうか考えると気が重い。初対面で家に来させたなんて言えるわけない。

    ヒナだけは、
    「夜と夜遅くでは雰囲気が違うのね」
    と、楽しそうに歩いている。

    (こっちの気も知らないで)

    やがて、二階建ての一軒家の前でまなとが足を止めた。

    「ここ」
    窓から灯りが漏れている。

    その時、玄関の扉が開いた。出てきたのは、髪の長い穏やかそうな女性だ。

    「あ、あの……すみません。遅くなってしまって」
    (声、裏返った)
    「いえ。送っていただいて、ありがとうございました。夕飯までごちそうになったそうで」
    女性は丁寧に頭を下げる。

    「まなと、ちゃんとお礼は言ったの?」
    「……言った」

    小さく答えると、そのまま母親の横をすり抜けて家へ入ってしまった。

    「すみません。反抗期みたいで」
    「いえ、大丈夫です」
    愛想笑いを返す。 

    「反抗期じゃないわ」
    突然、ヒナが口を開いた。女性はようやくヒナに気付き、少し驚いた顔をする。

    「あ、お子さん。かわいい格好をしてらっしゃって……」
    やっぱり、人形の格好をした子どもだと思われているらしい。

    「家が息苦しいのですって。反抗期じゃないのよ」
    「ヒナ」
    思わず止める。
    「そういうことは言わないの」

    女性は少し表情を曇らせた。
    「……まなとが、そう言ったんですか?」
    「そうよ」
    少しの沈黙のあと
    「……あの子と、話してみます」
    女性は静かに頭を下げ、扉を閉めた。

    閉まる直前、私は慌てて声をかける。
    「まなと君に、またいつでもご飯食べに来てって伝えてください」
    パタン。扉が閉まった。


    「……帰ろうか」
    「友姫、どうして止めたの?」
    ヒナが首を傾げる。
    「え?」
    「まなとは苦しいと言っていたわ。本当のことを伝えた方がいいでしょう?」
    夜道を歩きながら、ヒナは本気で分からないという顔をしている。

    「本当のことだからって、何でも言えばいいってものじゃないの」
    「どうして?」
    「……」
    答えに詰まる。

    「まなとも、友姫も、どうしてきちんと話さないのかしら」
    「え?」
    「まなとは、お母様に何が嫌か言わない」

    少し間を置いて、ヒナは続ける。

    「友姫も、お母様と話していなかったのでしょう。似ているわ」
    心臓が、ずきりと痛んだ。
    「……それは、難しいの」
    「本当に?」
    ヒナはまっすぐ私を見る。
    「わたしには、自分で難しくしているように見えるの」

    (そうなんだろうか)
    お母さんとの関係は、仕方なかったんじゃないの?自然と、ああなっただけだと思っていた。

    (考えたくない)
    つい、言葉が強くなる。

    「ほっといて。関係ないでしょ」
    「……わかったわ。気分を悪くしたのね。ごめんなさい」

    ヒナはすぐに引いて、静かに謝った。その表情を見て、本当は気にしていないことが分かる。余計に腹立たしくなる。
    (その程度の興味で口を出してきたの?)
    だから、つい言葉を重ねた。

    「ごめんなんて謝っても、そこに気持ちはないんでしょ」

    ヒナは首を傾げた。

    「私の発言で、友姫が気分を害したから謝ったのよ。そういうものでしょう?」
    「ほら。そうするべきだから謝っただけ。気持ちなんてない」
    言った瞬間、胸がちくりと痛んだ。

    (何言ってるんだろう)
    アンドロイドに、気持ちを求めるなんて。

    「何を言ったらいいのか、分からないわ」
    ヒナが困ったように呟く。
    「……もういい。今は話したくないから」

    これ以上話したら、またキツイ言葉をかけてしまいそうだ。

    「……そう」
    ヒナは静かに頷く。

    それから家に着くまで、私たちは一言も話さなかった。

    *
    (スッキリしない)

    休みの土曜日なのに、胸の奥が重い。昨日はヒナと口もきかずに寝てしまった。一度だけ、「もう話してもいいのかしら」と聞かれたけれど、ドライヤーの音に紛れて聞こえないふりをした。


    キッチンから包丁の音が聞こえる。
    「ヒナ、昨日はごめん」
    背後から声をかけると、ヒナは手を止め振り向いた。

    「大丈夫よ。でも、友姫がどうして怒ったのかは分からないわ」
    「昨日、言いたいことを言わないのね、って話したでしょう。それ、悪いことだった?」

    なんだかヒナと目を合わせられない。
    「ごめん。今は、その話をしたくない」
    「……そう。わかったわ」

    ヒナはそれ以上は何も言わないことにしたみたいだ。また包丁を動かし始めた。 トントン、と規則正しい音だけが部屋に響く。

    (謝ったのに)

    もう謝って、何ごともなかったかのように楽しく話したかった。あぁ、そうだ。昨日読んでた小説はどうだった?そう聞こう。それなら、普通に話せる気がした。

    「ねぇ、昨日」
    いつもより明るい口調を意識して口を開いたとき、
    「友姫はお母様の話をするとき、悲しそうじゃなくて苦しそうね」
    ヒナの声が重なった。

    「なんで」
    せっかく、楽しくしようとしたのに。
    「ただ、そう思ったの。大切な人を亡くしたら、悲しみが一般的だけど、友姫は違うみたいだから」
    「違わないよ。私だってもちろん悲しい。
    だけど……」
    「だけど?」
    「色々思ってるの」
    「そう。そうなのね。……また、難しいのね」

    どうしてお母さんの話になると、こんなに苦しいんだろう。

    コト。
    「食べて。朝ご飯を作ったから」
    テーブルには、ピザトーストと野菜スープが並んでいた。
    「ありがとう」
    椅子に腰掛けて、一口食べる。こんな時でもヒナのご飯は美味しい。それでも、胸の重さは消えない。

    「ヒナ、今日……ちょっと」
    「なにかしら?」
    「私、ひとりになりたい。だから、家にいないで欲しい」

    ヒナの目が見られない。気にするはずないと思っていても、緊張する。

    「わかったわ。出かけるわね」
    「うん、ごめん」
    「いいのよ。出かけるのは楽しいもの」

    ヒナはやはり気にした様子もなく、
    私の前から離れると

    「じゃあ、いくわね」

    玄関のドアを開けてさらっと出て行った。バタンと閉まったドアをみて、なんだか寂しいようなスンとした気持ちが込み上げる。

    (自分が出て行ってって言ったのに)

    残りのトーストをモソモソ食べて、空になったお皿をシンクに置く。さっきまで聞こえていた包丁の音も、コンロの音もない。部屋は妙に静かだ。

    (なんか……だるい)

    ベッドに横になると、そのまま眠ってしまった。

    気づけば私は小学五年生だった。夢なのに、「あの日だ」と分かる。私は実家の居間にいた。続きになった台所からは、包丁の音と鍋の煮える音が聞こえている。学校で仲間外れにされて、でもお母さんには言えなくて。気づかれないよう一人で泣いていた。
    そして泣きやむと急に寂しくなって、台所へ向かった。まだ若いお母さんの背中がある。
    「お母さん」
    声をかけようとした、その瞬間。

    目が覚めた。
    (あれ……)
    天井が見える。数秒、自分がどこにいるのか分からなかった。
    (私の部屋だ)
    胸の中にぽっかりと虚しさが広がる。

    「お母さん」
    夢でかけられなかった声を、なんとなく呟いてみる。寂しい、とても。
    (情緒不安定すぎ)
    泣きそうになって、落ち着くためにお茶でも飲もうと立ち上がる。

    その時、机に置いたままのキャメル色の手帳が目に入った。 葬儀の日に持ち帰って、そのままになっていたお母さんの手帳だ。葬儀のときに開いて以来、見ていない。

    (どんなこと、書いてるんだろう)

    お母さんは日付の横に、ときどき日記のようなことを書いていた。たぶん、大したことなんて書いていない。わかっている。それでも、お母さんを少しだけでも近くに感じたくて、私は手帳を開いた。
     
    10月18日
    国見さんから梨をもらう
    お返し忘れないように

    (少し癖のある読みにくい字、あぁお母さんの字だ)

    10月27日
    パートの人達と飲み会
    楽しかった

    (飲み会、参加するタイプだったんだ)

    11月12日
    タイヤ交換

    11月21日
    初雪
    パート帰り寒かった
     
    12月5日
    忘年会の案内
    行くか迷う

    12月31日
    年越しそば

    1月2日
    国見さんが挨拶にくる
    友姫からは連絡なし

    1月3日
    友姫に電話
    年明けの挨拶
    次会えるのはいつだろう

    1月18日
    パート先の佐藤さん連続で休み
    心配
     
    (そういえば、年明けにお母さんから電話があったな。落ち着いたら顔を見せる、といつも通り適当なことを言ったんだった)
     
    2月14日
    友姫誕生日
    おめでとう
    電話には出ず
     
    (着信、残ってたな。かけ直さなかった)
     
    2月15日
    電話する
    元気そう
     
    (夜、電話で話した。仕事、無理しないようにって言ってたな)
     
    3月3日
    ひな祭り
    ちらし寿司を買う

    3月18日
    国見さんとお茶
    お孫さんがかわいい

    3月20日
    友姫と電話
    忙しそうだった

    3月27日
    スーパーでいちご
    高い

    4月2日
    暖かい
    福寿草が咲いていた

    4月9日
    パート帰りにビールを買う

     
    そこから先の日付には、もう何も書かれていなかった。当たり前だ。だって、お母さんは死んじゃったんだから。

    手帳に涙が落ちて、滲む。

    (いい娘じゃなかったな)
    今、お母さんが生きていたって、きっといい娘にはなれない。でも、もっと笑って話せる親子だったら良かったのに。

    私がお母さんに「干渉されたくない」って、ちゃんと伝えていたら。伝わるまで話していたら、関係は変わってたのかな。

    ここ数年は、電話でも昔みたいにしつこく聞いてくることは減っていた。歩み寄ろうとしてくれていたのかもしれない。なのに私は、お母さんとのことを面倒だと思って、ちゃんと向き合おうとしなかった。離れている方が楽だった。

    「こんな数行じゃ、お母さんのこと分からないや」

    涙が次から次へとあふれる。気づけば私は、子どもみたいに声を上げて泣いていた。

    どれくらい泣いていたんだろう。頭がじんと痺れている。

    「……なんか疲れた」

    ため息をついてベッドに横になる。目を閉じてじっとしていると、まぶたの裏にお母さんの顔が浮かぶ。

    「会いたいな」

    いつの間にか、深く眠っていたらしい。 

    *

    目を覚ますと、部屋は薄暗かった。

    (何時だろう)

    スマホを見ると、17時を少し過ぎている。かなり長く寝たみたいだ。頭は少しスッキリしていた。お母さんのことを考えそうになって、私は小さく首を振った。

    「ヒナ?」
    呼んでみたけれど、返事はない。 
    ああ、そうだ。
    今日は一人になりたいって、私が言ったんだ。
    「家にいないでほしい」なんて言ったくせに、返事がないことが少し寂しかった。なんで、あんなにイライラしたんだろう。ヒナは、ただ分からなかっただけなのに。

    『どうして言わないの?』
    『自分で難しくしているように見えるの』

    あの言葉に悪気なんてなかった。
    人間を知ろうとしていただけなのに、私は、
    『ごめんなんて謝っても、そこに気持ちはないんでしょ』
    『ヒナには分からない』
    あんな言い方をしてしまった。

    (夜には帰ってくるかな)

    帰ってきたら、ちゃんと謝ろう。明日は今日の埋め合わせをしよう。どこかへ出かけてもいいかも。ヒナは「出かけるのは楽しいもの」って言っていたし。

    (きっと謝っても、「どうして謝るの?」って不思議そうにするんだろうな)

    ヒナのきょとんとした顔を思い浮かべて、自然と笑みがこぼれる。

    (帰るまでに夜ご飯を作ろう)

    今日は、一緒に食べてもらうのもいいかもしれない。そう思って冷蔵庫を開けた。

    *

    「……帰ってこない」

    時計は9時を少し過ぎていた。勝手だって分かってる。でも、こんなに遅くなるとは思わなかった。コンロの上には、季節外れのキムチ鍋。一緒に食べようと思っていたのに、もうすっかり冷めている。 

    「どこにいるんだろう」

    ヒナと出会って、まだ3日くらい。しかも相手は人間ですらない。自由に暮らしたいと言っていたアンドロイドなんだから、好きな場所へ行って、好きな時間に帰ってくるだけかもしれない。

    それなのに、落ち着かない。何度も時計を見てしまう。

    「……変なの」

    呟いても、胸のざわつきは消えなかった。スマホを手に取って、また置く。当然、連絡はない。

    (昨日、連絡先聞こうと思ってたのにな)

    昨日の自分の態度を思い出して、胃がきりっと痛んだ。

    「……ちょっと、見てくるか」

    公園にいるかもしれない。いなければ、その時はその時だ。そう自分に言い聞かせて、玄関を出た。

    *

    「……いない、よね」

    期待していたわけじゃない。そう自分に言い聞かせながら、公園を見渡す。でも、ベンチにもブランコの近くにも、ヒナの姿はなかった。

    (どこにいるんだろう)

    探そうにも、あてなんてない。家に帰って待つしかないか。小さく息を吐いて、来た道を引き返す。
    その時。

    「あ、お姉さんじゃん」

    コンビニの前で声をかけられた。顔を上げると、そこにはアイスを持ったまなとがいた。

    「わ、何してるの? 今日も……家出?」
    恐る恐る尋ねると、
    「違う違う。塾帰り!」
    まなとは笑いながら、塾のロゴが入ったバッグを持ち上げた。
    「母さん、今コンビニ」
    店内を見ると、まなとの母親がレジに並んでいる。

    「ああ、そうなんだ。良かった」
    「どうしたの?」
    まなとが私の顔をのぞき込む。
    「こーんな顔して歩いてたよ」
    眉をぎゅっと寄せて、しかめっ面を真似する。

    「そんな顔してた?」
    「してたしてた」
    「……ヒナが、まだ帰ってこなくて」
    「え?」
    「朝から出かけたままなの。出て行ってって言ったのは私なんだけど……」
    「ケンカしたの?」
    「……ケンカじゃないけど」
    「じゃあ謝れば?」
    「そのつもりだった。でも、帰ってこないの」
    「そっか」
    少し黙ってから、まなとが口を開く。

    「俺さ。母さんと話したんだよ」
    「え?」
    「家、息苦しいって言った」
    「……言えたんだ」
    「うん。めっちゃ気まずかった」
    思わず笑う。
    「だろうね」
    「でも、ちょっとだけスッキリした」
    照れくさそうに笑ってから、続けた。
    「母さん、困った顔してたけど、『ごめん』って言ってた」
    「そっか」
    「だからさ」
    まなとがまっすぐ私を見る。
    「ヒナにも思ったこと、言った方がいいんじゃない?」
    「……」
    「謝るだけじゃなくて」
    「……言う必要って、ある?」
    (子どもみたいなこと、聞いてる)
    「あるかは分かんないけど」
    まなとはアイスの棒をくるくる回す。
    「言わないよりは、なんか変わるかも」
    「……そうだね」

    (情けないな、私)
    話した未来も、話さなかった未来も、結局は同じかもしれない。話したところで、分かってもらえるとは限らない。ヒナには理解できないかもしれない。それでも、言うことで変わることがあるのかもしれない。

    「……ありがとね」
    「何が?」
    「なんでもない」
    「変なお姉さん」
    「うるさい」 


    「まなと、お待たせ」
    買い物を終えた母親がコンビニから出てきて、私に気づくと頭を下げた。

    「昨日はありがとうございました」
    昨日より、少しだけ表情が柔らかい。

    「あのさ」
    まなとが振り返る。
    「ヒナ、早く帰ってくるといいね」
    「……うん」
    「ちゃんと話してね」
    「うん」
    そう返すと、まなとは満足そうに笑った。
    「じゃあね」

    母親と並んで歩いていく背中を見送る。

    問題が全部解決したわけじゃない。これからも気まずくなる日や、言い合いになる日があるんだろう。それでも、昨日とは違う。並んで歩く二人の背中を見て、そう思った。

    *

    「やっぱり、いないか」

    家に帰ってきているかと少しだけ期待したけれど、ヒナの姿はなかった。テレビをつける。 バラエティ番組が騒がしいのに、何をやっているのか全然頭に入ってこない。

    ダラダラと画面を眺めているうちに、時計の針は0時を回った。

    その時。
    ピンポーン。
    玄関のチャイムが鳴った。

    「ヒナ!!」
    急いで扉を開ける。

    「ただいま」
    「おかえり!!」
    (よかった……)

    力が抜ける。ヒナは小さく笑った。

    「そんなに慌てて、どうしたの?」
    「遅いから……ちょっと、心配してた」
    「だって今日は、“一人になりたい”って言っていたでしょう?」
    「だから、今日が終わってから帰ってきたのよ」
    「……え?」

    一瞬、言葉の意味が追いつかない。朝のことを思い返す。

    『今日……ちょっと、私、一人になりたい』
    (ああ)
    そう言った。

    「……そっか。今日、ってそういう意味か」
    思わず笑ってしまう。言葉って、こんなにもズレるんだ。

    ヒナは不思議そうに私を見る。
    「何か違ったかしら?」
    「違わないよ。うん、大丈夫。ありがとう」
    笑いながらそう言うと、ヒナは少し首を傾げてから部屋に入っていった。

    「なんだか、楽しそうね」
    その一言だけ残して。

    ソファに座るヒナが、こちらを見上げる。
    「それで、友姫は元気になったの?」
    「元気とは違うけど……少し、落ち着いたかな」
    「ねぇヒナ、私の話、聞いてくれる?」
    「ええ」
    「お母さんのこととか、私とヒナのこととか。なんであんなふうに怒ったのかも……ちゃんと話したくて。うまく言えないけど」
    途中で、言葉が絡まる。

    「聞かせて」
    ヒナの声は、やわらかい。その一言で、少しだけ肩の力が抜ける。

    時計はもう、とっくに日付を越えている。それでも今夜は、もう少しだけ長く、話していたいと思った。

    エピローグ

    「今日は、どこに行っていたの?」

    深夜。キムチ鍋をつつきながら、私はヒナに聞いた。

    「昼間は図書館に行って、本を読んでいたの」
    「うん」
    「そのあと、美術館と博物館」
    「へえ」
    「夜は、ご飯屋さんが並ぶ通りを歩いていたわ。たくさん人がいて、楽しそうだった」
    ヒナは少しだけ目を細める。

    「公園では、夜空を見ていたの」
    「……充実してるね」
    「ええ。でも」
    そこで言葉が止まる。

    「でも?」
    「夕方くらいから、少し落ち着かなかったの」
    箸を止めて話を聞く。

    「落ち着かない?」
    「ええ」
    ヒナは自分の胸に手を当てた。
    「ここが、重かったの。故障かと思ったわ」
    「え?今は大丈夫なの?」
    「今は全然。重い感じはなくなったわ」

    その言葉に、思わず笑いそうになって、泣きそうにもなる。

    「それってさ」
    悲しかったんじゃない?
    そう言いかけて、止まる。

    そうだ。私も小さい頃、こうやって今ある気持ちの名前を覚えていったんだ。

    ヒナは、答えを待っているような顔をしていた。私は少しだけ、口をつぐんだままヒナを見ていた。


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