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【創作】エリック・サティの世界旅行ピアノソナタ【幻影堂書店にて】



    ※これまでの『幻影堂書店にて』



     
     
    光一が書店のドアを開けると、奥の方から、ゆらゆらと浮遊するようなピアノの曲が聴こえてきた。
     
    蓄音機型の喇叭がついた再生機で、レコードが回っている。その横でノアが店の収支をつける帳簿をつけていた。
     
    「洒落た曲だね。ジャズ? クラシック?」
     
    「やあ。どちらかと言うと、クラシックだね。これは、フランスの作曲家エリック・サティの曲集だよ。題して『世界旅行』というピアノソナタ集だ。『ジムノペディ』とかで有名な作曲家だね」




    エリック・サティは1866年フランス生まれ。音楽家を目指してパリ音楽院に入るも、教授陣と対立し、除籍処分になった。
     

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    エリック・サティ


     
    19世紀末のモンマルトルの酒場でピアノを弾いたり、座付きの楽団を指揮したりして生活し、シャンソンやラグタイムにも影響を受けた、既成の形式に当てはまらない小品を発表している。
     
    非常に秘密主義で生涯独身、大変偏屈な性格であったが、『ジムノペディ』はドビュッシーが管弦楽に編曲したヴァージョンがあったり、後輩のフランス六人組やダダイストと交流を持ったり、バレエ『パラード』でジャン・コクトー(台本)やピカソ(美術)と協力したり、ルネ・クレールの前衛映画『幕間』に出演したりと、多くの芸術家と交流があった。1925年52歳で死去。






    「ああ、これが『ジムノペディ』か。どこかで聞いた記憶がある。さっきの曲も似た雰囲気があるね」
     
    「そうだね。さっきの曲は、1913年に旅行代理店が出版したパンフレットの豪華付録として付いていた曲集の演奏だ。
     
    全20曲のピアノソナタで、曲のタイトルが国名になっている。これを弾けば、家に居ながら世界旅行している気分になれます、という惹句付きだ。でも、代理店の経営が苦しくなり、出版は中止。発表されずに終わったので、勿論表の世界では流通していない。もう一度聞いてみようか」




    一曲目の『フランス』からシャンパンの泡がはじけるようにキラキラ輝くアルペジオが重なり、瀟洒な旋律が溢れてくる。次いで『イギリス』では、深い霧の夜のような陰鬱な空気が流れる。
     
    レコードの裏側は、ライナーノーツのようになっていて、サティが一曲一曲に付ける予定だった短詩と、画家によるそれぞれの国の印象のスケッチがある。例えば『ポルトガル』では、港町の人々の色鮮やかな水彩画の横に、こんな言葉が添えてある。


    リスボンの海岸では日が昇るとともに、市場のざわめきと波音が目を覚ます。白身魚のフライの脂の匂いが、朝の散歩のお供になる


    しかし何せ、一つの国の一曲につき1分弱しかないため、本当に一瞬の印象で終わる。突然オリエンタルなメロディが流れてきたかと思うと、「中国」という曲になったことが分かり、次いで続く「日本」との差異は、光一には分からなかった。そして、再び冒頭の『フランス』の短いリプライズでピアノ演奏は終わった。


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    リスボンの街並み




    「綺麗な曲だ。でも、変わった曲想というか、普通の交響曲みたいなクラシックとは随分違うね」
     
    「そうだね。サティは、一応クラシックの範疇には入るけど、分類が難しい人で、ミュージック・ホールの音楽性が出自になっている。で、作品の方も『梨のための三つの小品』だとか『犬のためのぶよぶよした前奏曲』だとか、奇抜で人目を惹くようなタイトルが多い。
     



    それが可能だったのは、彼が通常のクラシック音楽の形式を要請するような顧客を必要としていなかったというのもある。コンサートホールで演奏される交響曲は創らなくてもよい」
     
    「この曲集の、旅行代理店のパンフの付録というのが暗示的だね。ある意味、それまでのクラシック作曲家では考えられないんじゃないかな」
     
    「その通り。19世紀後半から20世紀初頭にかけて船の高速化、鉄道網の拡大、車の普及等で、急速にリゾート旅行が広がった。一番栄えているところから人気の作曲家に依頼があって、しかも本人もアカデミックではないから、気安く引き受けたということかな。時代をよく反映しているね」
     

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    ミュシャ『モナコ・モンテカルロ』
    リゾート旅行を宣伝する
    鉄道会社のポスター


    「でも、綺麗な曲だと思ったけど、あまりその国の音楽と言う感じはしなかったんだよね。この本人の一言文章でようやく少しイメージできるくらいで」




    光一の言葉に、ノアは同意しつつ、少し苦笑いしながら、ポットから紅茶を出した。
     
    「うーん、そこは難しいところだね。サティは、タイトルや詩を添えることで、音楽に積極的にイメージを付与する作曲家だ。この付録の別冊子には、彼が友人に宛てた手紙がある。
     
    この中で、彼は『世界旅行』の試みが、あくまで代理店側の要請であること、曲を作っても、あまり先方が気に入っていなかったことを伝えて、このように続けている。


    一体、『ラ・マルセイユーズ』の旋律を使えば『フランス的』になるのでしょうか。それで、フランスの印象が浮かぶでしょうか。
     
    あるいは、東洋の童謡の音階を使えば、その場所を旅行した記憶を再現することになるのでしょうか。私にはそういう音楽はつまらないように思えるのです。音楽にはどんな意味でも付けられるのですから。
     
    私が好きなのは、音楽がそれ自体で心地よさと美しさを持つようなもの。いわば使いやすく安らげる家具のような、何も意味しない音楽です。でもそれは、旅行という何もしない時間を過ごすことにもつながるのではないでしょうか。

     
    光一はその言葉に頷いて、ノアからもらった紅茶を啜った。ノアは続ける。
     
    「そして実際その後、1920年にサティは『家具の音楽』という実験的な試みもしている。集中して聴くのではなく、家具のようにただ流れていくような音楽だ。それは、20世紀後半のミニマル音楽も予見したと言われている」
     



    「なるほど。この曲も、確かに家具の音楽と言った方がいいのかもね。それにしても、お蔵入りになったのがちょっと惜しいね」
     
    「実は、完全なお蔵入りではないんだよ。サティは、この後すぐに、今度は高級婦人雑誌の出版社から、アール・デコの画家の挿絵に、曲をつけるという企画を受けた。で、『花火』や『ヨット遊び』等21曲をまとめた『スポーツと気晴らし』という曲集が、1914年に出版された。
     


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    『魚釣り』(『スポーツと気晴らし』より)
    シャルル・マルタンによる挿画


    『世界旅行』をそのまま使ったり、再構成し直したりしたもので、上流階級の愉しみを表す詩的な文章も、今度もサティが書いた。これは、表の世界の人でも聞けるよ」
     



    光一は舌に紅茶の熱さを感じながら笑った。
     
    「流石というか何というか。確かに彼の言う通り、音楽にはどんな意味でも付けられるのかもね」
     
    「あるいは、旅行とスポーツ、ラグジュアリーな気晴らしとは、奥底で繋がっているのかもしれない。この店の書物が、どこかで表の世界にある本や歴史と繋がっているようにね」
     
    ノアは笑顔でそう言って、リピートになって流れていたレコードの針を上げる。店の室内は静かになり、柔らかい雨音が外から響いた。
     
     







    (続)


    今回はここまで。
    お読みいただきありがとうございます。
    今日も明日も
    読んでくださった皆さんにとって
    善い一日でありますように。
    次回のエッセイや作品で
    またお会いしましょう。


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