
摩擦をなくしても、人は動かない
「お父さん、あのタスク終わった?」
リマインダーのように、今年の春から社会人になった娘が聞いてくる。数日前にある案件のことを娘に話してしまったせいだ。
娘の心配を横目に、終わっていないタスクのことを考えながらタバコに火をつける。着手する時間やタイミングはいくらでもあった。しかし、それをやっていない。なんなら今、缶ビールすら飲んで2本目を開けたところだ。
クライアントからすれば、この時間は得をしているはずだ。金額が発生していないのに、ボクは案件のことを考えているのだから。
40を過ぎたくらいから、この空白の時間が増えて、ボクはイライラしなくなった。Chillいってやつ。
「まだ、着手できてません」
と、娘に言いながら、クライアントにチャットを送る。
呆れた様子の娘のため息と、感情が無い甲高い通知音がほぼ同時に鳴った。
チャットの向こう側のクライアントは、とても丁寧な言葉で催促してきた。丁寧な言葉ほど、焦りや苛立ちは伝わってくる。そのギャップに思わずニヤけてしまった。
そのチャットを読みながら、逆の立場で考える。発注先がなかなか動かない。納期は迫っている。不思議と苛立ちは感じなかった。「そんなこともあるな」と思うだけだった。
クライアントの使う丁寧な言葉に似た、指先が切れるような、糊の効いた新しい紙の感触を思い出した。今度はボクがその紙を誰かに渡すことがある。
友人に「きっと役に立つから使った方がいい」と資料や情報を送る。彼らはこれ以上ないくらい感謝してくれる。数か月後、「あれ、どうなった?」と聞くと、資料は開かれた形跡もなく、そのままになっている。
「それ、詳しく聞こうと思って。」
そんなはずはない。1行でも読めば小学生でも分かるように書いてある資料だ。このやり取りに、毎回イライラする。誰も損をしていないのに。
「やっぱりね、そうだと思った。ちなみに、それ、期限切れだよ。」
仕事の相手に対しては何も言わないのに、友人には言ってしまう。
言える言えないではない、彼には期待もセットで資料を送っているからだ。
断れないボクは仕事でもらった資料は必ず開く。それが当たり前で、その後のクライアントの丁寧な催促までがセットだ。
それにボクは彼の要求を断ったこともない。
断れない場所でも、断れるはずの場所でも、結局ボクの期待は同じように素通りされる。
いや、違う。まず仕事ではない。それに相手からすれば、"タダ"の資料だ。お金を払ったわけでもない。どう、扱おうが彼の勝手だ。べつに見返りが欲しいわけではない。だた、目を通すくらいはしてくれているだろうと思っていた。
きっと、ボクに聞くのが面倒なのだろう。でも、今はボクに聞く必要もない。AIにその資料を渡せば数秒で要約が返ってくる。さらに言えば、その先、どうすればいいかまで教えてくれる。AIを使えば、すべて先回りで回答がくる。それでも、その資料は開かれない。
数年前までは「時間がなくて」や「忘れていた」で済んだ話かもしれない。
今は違う。娘の乾いた声のように鳴るリマインダーがある。AIが要約をしてくれる。すべてiPhoneと親指さえあれば、ほんの数秒で済む話だ。
それでも人は動かない。
ボクもそうだ。時間もタイミングもあった。
3本目が空になりかけた頃、彼から電話が来た。
クライアントとのチャット画面を開いたまま、娘にだけ「出かけてくる」と言い残し、夜の街へ出かけた。
親愛なる友人へ。
これも、たぶん開かれない。
そもそも、AIを使わなければ、このイライラも無いのかもしれない。