
『里山のゴーストライター』第7話(最終話):新月の里山と、塔野の正体
新月の夜は、星が一番よく見える。
塔野にそう教わったのは、約束の前日、短いメッセージが届いたときだった。
「明日、懐中電灯は持ってこないでください。目が慣れるまで待てる人間だけが、本物の森を見られます。 ――塔野」
圭介はそのメッセージを読んで、「わかった」と一言だけ言った。
そして翌朝、自分で図鑑を鞄に入れた。
あの夜から、この子は変わった。
私はそれだけで、来てよかったと思った。
待ち合わせは、先月と同じ山の入り口。
だが、今回は昼の2時だった。
塔野は一人で来た。カイトはいない。 先月と同じTシャツに、同じカーゴパンツ。 ただ、今日は背中のバックパックが小さかった。
「圭介くん、図鑑は読んできましたか」
塔野が、圭介に直接聞いた。
圭介は鞄から図鑑を取り出した。 付箋が、何枚も貼ってある。
塔野がそれを受け取り、ぱらぱらとめくった。 無言で、じっくりと。
「……よく読んできた」
それだけ言って、図鑑を返した。
圭介が、少し胸を張った。

昼間の里山は、夜とまるで別の場所だった。
木漏れ日が差し込み、鳥の声が降り注ぎ、足元では小さな虫たちが忙しそうに動き回っている。
塔野は歩きながら、次々と教えてくれた。
「この木の樹皮の剥がれ方を見てください。縦に裂けているのはクヌギ。横に割れているのがコナラです」
「この葉の裏の白い粉は何ですか」
「カメムシの卵です。葉を裏返す癖をつけると、虫の世界が三倍になります」
「あの穴は?」
「ボクトウガです。先月、私が探していた子たちです。今月は戻ってきていました」
圭介は一つひとつ、図鑑と照らし合わせながら歩いた。
私は二人の後ろを歩きながら、ただ見ていた。
先生と生徒みたいだ。
いや、違う。
師匠と弟子だ。
しばらく歩いたところで、塔野が足を止めた。
先月、カブトムシがいたコナラの木だ。
昼間に見ると、幹は思ったより太く、どっしりとして見えた。根元には腐葉土が積もり、無数の小さな命が蠢いている。
「先月のカブトムシ、まだいますか」
圭介が聞いた。
「昼間は樹皮の割れ目に隠れています」
塔野は幹をそっと指差した。
「あそこ、見えますか。黒い、硬そうなものが少しだけ見えるでしょう」
圭介が目を凝らした。
「……いた」
小さな声だった。
「脚、見える?」
「見える。……六本、ある」
圭介が振り返って、私を見た。
その顔が、あの夜と同じように輝いていた。
帰り道、三人で山道を下りながら、私は塔野に聞いた。
ずっと聞きたかったことを。
「塔野さんは、なぜこの仕事を始めたんですか」
塔野は少し間を置いた。
「仕事ではありません」
「では、なぜ」
塔野は歩きながら、静かに話し始めた。
「二十年前、私はIT企業に勤めていました」
私は思わず足を止めた。
「……え」
「佐藤さんと、同じ業界です」
塔野は振り返らずに続けた。
「当時、私はある自然データベースの開発に携わっていました。全国の里山の生態系情報をデジタル化して、研究や行政に活用しようというプロジェクトです。志は高かった」
「それが……」
「途中から、おかしくなった」
塔野の声が、わずかに低くなった。
「データが、商品になり始めた。どの山にどの昆虫がいるか。どの木に希少種がいるか。その情報が、コレクターや業者に流れるようになった。私が作ったデータベースが、乱獲の道具になった」
私は、言葉が出なかった。
「私は会社を辞めました。そして、自分が壊したものを、自分で守ろうと思った。それだけです」
「塔野さん」
圭介が、塔野の隣に並んで歩きながら言った。
「ゴーストライターって、どういう意味?」
「圭介」と私が言いかけた。
「いいです」
塔野が静かに遮った。
「ゴーストライターとは、自分の名前を出さずに、誰かのために物語を書く人です」
「塔野さんは、誰のために書いてるの?」
塔野は少し考えてから、答えた。
「森のために。虫たちのために。そして、次にここへ来る子供たちのために」
圭介は黙って、それを聞いていた。
しばらく歩いてから、ぽつりと言った。
「じゃあ、僕も書く」
「何を書くんですか」
「カブトムシの脚は六本だって。本物を見たら、全然違うって。AIの絵は間違ってるって」
塔野が、立ち止まった。
振り返って、圭介を見た。
「それは、立派なゴーストライターの仕事です」
圭介が、にっこりと笑った。
駐車場に着いたのは、夕暮れ時だった。
西の空が、オレンジと紫に染まっている。
塔野がバックパックを下ろしながら、私に言った。
「佐藤さん」
「はい」
「スチール・ビートルの件、先日カイトの記事がきっかけで、一つの自治体が調査を始めたそうです」
「本当ですか」
「小さな一歩ですが、動き始めた」
塔野は空を見上げた。
「カイトが火をつけて、カイトが消した。そして今度は、正しい火を灯した」
私は、カイトのことを思った。
あの夜、青ざめた顔でドローンを操作していた大学生が、今は記者と向き合って森の未来を語っている。
人は、失敗の先で本物になる。
「また来てもいいですか」
圭介が、塔野に向かって言った。
塔野は圭介を見下ろした。
「条件があります」
「なに?」
「来るたびに、図鑑を一種類、新しく読んでくること」
圭介は即答した。
「わかった」
塔野が、静かに手を差し出した。
圭介が、その大きな手を、両手でしっかりと握った。
この握手を、この子は一生忘れないだろう。
私も忘れない。
帰り道、圭介は助手席でまた眠った。
図鑑を膝の上に置いたまま。
私はハンドルを握りながら、夕暮れの空を見た。
100万円を払った夜から、いくつもの夜が重なった。
泥だらけになった夜。 乱獲者と対峙した夜。 ロボットが森を狙った夜。 そして今日、昼間の光の中で、息子が本物の師匠と握手した夕暮れ。
AIは「完璧な昆虫」を描ける。 整った形。美しい色。誰も文句をつけられない、正解の絵。
でも、脚の数を間違える。 生きていないから。
本物は、不格好だ。 傷があって、泥臭くて、脚の節が不規則に曲がっている。 でも、六本の脚でしっかりと踏ん張って、今夜もどこかの木で樹液を啜っている。
それが、命だ。
スマートフォンのメモに、最後の一行を書いた。
「圭介へ。本物を見る目を、持ち続けろ。」
夜、圭介が眠る前に言った。
「パパ、塔野さんってさ」
「なんだ」
「すごい人だね」
「そうだな」
「でも、さみしそうだった」
私は、少し驚いた。
「……そう思ったか」
「うん。一人で、ずっと森を守ってるから」
圭介は目を閉じながら、続けた。
「だから、僕が書く。塔野さんの代わりに、みんなに伝える」
「それでいい」
「うん」
圭介は、そのまま眠った。
私は部屋の電気を消して、廊下に出た。
窓の外には、今夜も街灯が煌々と輝いている。
でも、あの山の上には、新月の夜空に、満天の星が広がっているはずだ。
コナラの幹では、カブトムシが六本の脚で踏ん張っているはずだ。
塔野が、静かに森を歩いているはずだ。
一人で。でも、もう一人ではなく。
里山のゴーストライターは、今夜も物語を書き続ける。 誰も知らない場所で。誰の名前も出さずに。 ただ、本物の命が続くように。
――完――
AIは「完璧な昆虫」を描ける。 でも、泥臭く、傷だらけで、六本の脚で踏ん張る「命」は、描けない。 それを知っている人間が、一人でも増えることを願って。
AIが描けない、六本の脚の話。 全7話、お読みいただきありがとうございました。
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