
エッセイ:遮光カーテン
五月にはもう、日差しの熱を自覚し始めていた。
電車に乗りはるか遠方を目指す傍ら、私は車窓側の座席が空いているのをみて、そこに座った。私は車窓から外を眺めるのが好きだった。足早に流れていく景色は、この鈍間な足で歩きながら見る景色とは全く異なる印象を与えてくれる。狭い時間を多くの景色が埋めていくからこそ、気付けるものがある気がするからだ。
しかし今日は、車窓の遮光カーテンを早々に閉めた。適当に選んで乗り込んだ車両が弱冷房車で、とてもじゃないが日差しを浴びていられなかったからだ。それに、白い光は好きじゃない。目が痛くなる気がする。時刻は昼前だった。
景色を見るのも諦めて、この前友人に勧められた小説を読む事にしたのだが、それもすぐ読み終わってしまった。百ページと少しの短編だった。
さて、やる事がなくなった。私は手元のスマホの画面の上で、所在なさげに指をくねらせるが、何が得られるわけでも無い。それでようやく、私は遮光カーテンを開ける気になれた。
以前、「もっと適当にやりなさい」と言われた事がある。それも一人だけではない、色んな人にいわれた。詩の先生、歌の先生、同居人、友人。誰も彼もそういうのだから、
私はそんなに融通が効かなそうに見えているのだろうか。私は自分の内面に関するものに、なかなか適当を充てられなかった。その代わり生活はズボラだった。二,三日放っておけば、潔癖症が血のあぶくをあげるほどの汚い部屋を悪気もなく生成する事ができる。けれどそれは、自分にとって「どうでもいい」と言い切れる事柄だからだ。何がどこに置いてあろうが物を無くそうが足の裏が汚れようが、自身の内面には干渉してこない。だがこの顔についている二つの耳と目が受け取る情報は、私の内面を十分に動かし得る。だから私は、その二つについて妥協を許していない。白色の人工灯は目に痛いので家の照明は全て暖色灯だし、そもそも必要最低限の灯りでしか生活をしないようにしている。まだ独りで生きていた頃は夜だろうが部屋の電気は消していた。幸い目が良く夜目も効くので、慣れた自室で生活するのに苦労はしない。音に関しても、外に出る時は耳栓かワイヤレスイヤホンを必ず持参している。人の声や人間の気を引く為に誇張されたサイレン等を軽減する為だ。
遮光カーテンを開けた。田植えの終わった青い田んぼや山の中に立ちつくす送電塔が、現れては消えていく。私が遮光カーテンを閉めていた間にもこの窓は、もっといろいろな景色で彩られていたのだろう。
最近、適当の意味を少し考えていた。適当と言われるとなんとなく良いイメージを持てない私だったが、周囲から投げかけられたこの適当は、違う意味を含んでいる気がしていた。もっと適当に触れてみろという事なのではないか。もっと適当に話してみろという事なのではないか。
思えば、自分の価値観に合わないものをずっと遠ざけてきたのではないかと思う。嫌な音も光も、それは私の価値観によるところだった。そう思えば、私は醜い引き篭もりのように見えた。無菌室に閉じ籠る哀れな人間だ。
もうちょっと、外に目を向けるべきなのかもしれない。きっと悪くないはずだ。
正午の眩しい太陽が、車窓の外の街並みを白く照らしている