
『帰る場所 』
夏至を越えた日のことだった。
空気がふっと変わったように感じて、 胸の奥で何かが静かに切り替わる気配がした。
その日の夜、 SNSを眺めていたとき、 富士山の見える田園風景の中で、
四股踏みの奉納儀式が行われている映像が流れてきた。
私は四股踏みそのものに興味があるわけではない。
けれど、その映像に映っていた空気に、 胸がぎゅっとなるような感動を覚えた。
何百年も前から、 その土地の人々が同じ行事を繰り返し、 祈りをつないできたのだと思うと、 言葉にならない温かさと、 身震いするほどの神聖さが込み上げてきた。
その光景を見た瞬間、 私はふと、自分の過去を思い出した。
幼い頃に見た故郷の風景。 祖父母の家の匂い。 夕暮れの空。 両親の声。
抱きしめられた記憶。
何気ない日常の中で、 私は確かに守られ、 育まれ、 愛されて生きてきたのだと気づいた。
振り返れば、 苦しかったこともたくさんあった。
思うようにならないことも、 涙を流した夜もあった。
それでも今、 胸に浮かんでくるのは傷の記憶ではなく、
愛された記憶だった。
大変な道のりだと思っていた私の人生は、
実はたくさんの愛に包まれていた。
私は幸せに生きてきたのだと、 その光景は静かに教えてくれた。
私は、その積み重ねの上に生かされている。
そして同時に、 なぜこんなにも胸が締め付けられるのだろうとも思った。
それは懐かしさだけではなかった。
この国の風景や文化や祈りが、 いつまでも当たり前に続くとは限らないことを、 私はどこかで感じていたからだ。
私は日本が好きだ。
日本の風景が好きだ。
日本の文化が好きだ。
日本人が大切にしてきた精神性が好きだ。
それは優れているからではない。
私がこの国に生まれ、 この風景の中で育ち、
この文化の中で生かされてきたからだ。
だから私は願う。
この美しさが、 これから先も受け継がれていくことを。
子どもたちや孫たちが、 同じように季節を感じ、 故郷を懐かしみ、
帰る場所を持てることを。
大切なものを守りたいという、 深く静かな祈り。
その祈りは、 誰かを憎むためのものではなく、
受け取ってきたものへの感謝から生まれるものだと思う。
心には、いつも帰る場所がある。
それは故郷かもしれない。
家族の記憶かもしれない。
あるいは、 目には見えない祈りのようなものかもしれない。
私は、その帰る場所に支えられて生きてきた。
そして今、 私が受け取ってきたものを、
次の世代へ手渡していきたいと思う。
同じ祈りが重なり合えば、
それはやがて大きな意識の波となっていくのかもしれない。