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スピも科学も、仲良くすればいいじゃん。私は「真理決定戦」がしたいんじゃない。現実を変えたいだけなんよ。

学校教育関係者の方に、届きますように!!
子どもたちが、自分の人生をうまく生きるために、なんでも活用できる子供達になりますように。祈りを込めて。

Amazonのアソシエイトとして、ワンインククリエーション株式会社は適格販売により収入を得ています。

ぶっちゃけさ〜〜〜〜。
スピも科学も、仲良くすればいいじゃ〜〜〜ん。

私は、真剣に、そう思っています。
世の中を見ていると、なぜかこの二つは、しょっちゅう戦っています。

スピリチュアルな話をすれば、
「科学的根拠がない」
「再現性がない」
「そんなものを信じるのは非合理的だ」と言われる。

一方で、科学の話をすれば、
「科学では説明できないこともある」
「目に見えるものだけがすべてではない」
「頭で考えてばかりでは、本当のことはわからない」と言われる。

そして始まる、
スピリチュアル対科学、仁義なき真理決定戦。

どちらが正しいのか。
この世界の真実を、本当に理解しているのはどちらなのか。
最終的に勝利するのは、スピリチュアルなのか。科学なのか。

……いや。

ど━━━━━━━━っでもええわ!!


ごめん。
私は別に、世界の真理を決定したいわけではありません。
どちらの陣営が正しいのかを決めて、勝った側に所属したいわけでもない。

自分の現実が、少しでも良い方向に動けば、それでいいんです。

え、みんなそうじゃないの?
祈ることで心が落ち着くなら、祈ればいい。
神社へ行って背筋が伸びるなら、行けばいい。
「きっとうまくいく」と信じることで、勇気が出るなら信じればいい。
感謝を書き出すことで、今ある幸せに気づけるなら、書けばいい。
そして、体調が悪ければ病院へ行けばいい。
薬が必要なら、飲めばいい。
検査を受けたほうがいいなら、受ければいい。
心理学や脳科学の知見が役立つなら、ありがたく使えばいい。

祈りながら、薬を飲めばええやないかい!!

それではダメなん?なんで????
私には理解ができない。

私は、ステージ3の悪性がんになりました。
今も転移の「可能性」のため、検査検査の日々です。へへっ病魔からモテモテだぜ☆

で、副作用で髪は抜けるわなんやで隠しきれんなぁってタイミングでがんになった発表をしました。
そしたらさぁ、どっち陣営からも、なんか責められるような感じで色々いわれるわけですわ。

お前は、どっち陣営につくんだ?
どっちを信じるんだ?
みたいな感じで。
(もちろんそんな人ばかりじゃなくて、一部の人がという意味です)

この際はっきり言っとく。

そんなん、治りゃ、どっちでもええねん!!!!笑

私は、病気になる前から祈る人だった。

私は、乳がんになりました。
病気になる前の私は、今よりもずっと、目に見えないものに対して距離を取っていたか?というと、そうではありません。

私は、病気になる前から、割と祈る人だった。

きっかけは『大神』というゲームです。
皆さんは、『大神』というゲームをご存じでしょうか?
いやまじで、私的には義務教育で組み込むべき作品じゃないかと真剣に思っているくらい、推しゲームです。
ゲームをほとんどしない私でも、ガチハマりしました。もう何十周したかわかりません。(←)

主人公は、白いオオカミの姿をした神様、アマテラス。
……犬ではありません。いや、見た目はだいぶ犬です。
撫でたい。モフりたい。かわいい。
しかし、その正体は日本神話に登場する太陽神・天照大神です。

カプコン公式 https://www.capcom-games.com/o-kami/sp/intro/character.html

アマテラスは、100年前に怪物ヤマタノオロチが封印された神木村で復活し、闇に覆われ、色も命も失ってしまった世界を走り回りながら、自分が持っていた神の力「筆しらべ」を少しずつ取り戻していきます。

このゲームの何がすごいって、
世界を救うために、絵を描くんです。
画面を一枚の紙のように切り取り、筆を走らせる「筆しらべ」。

空に丸を描けば、太陽が昇る。
枯れた木に円を描けば、花が咲く。
切りたい場所に線を引けば、岩や敵を一刀両断できる。
壊れた橋には、なくなった部分を描き足す。

つまり、このゲームでは、
世界に足りないものを、自分の手で描き加えることができる。

これ、めちゃくちゃ素敵じゃないですか?

普通のアクションゲームなら、強い武器を手に入れ、敵を倒し、障害物を壊しながら先へ進みます。

もちろん『大神』でも妖怪とは戦います。
けれど、このゲームの中心にあるのは、破壊ではありません。

花を咲かせる。
水を呼ぶ。
風を起こす。
太陽を取り戻す。
闇に覆われた世界を、もう一度、美しく描き直していく。

世界を救う力が「壊す力」ではなく、「創造する力」として描かれているんです。ラー!!(サウンドエフェクト)

しかも、最初からアマテラスの力を、みんなが信じてくれるわけではありません。
神様だからといって、無条件に信仰されるわけではない。

困っている人を助ける。
枯れた大地に花を咲かせる。
目の前の小さな問題を、一つずつ解決していく。

そうすることで、少しずつ人の心に希望が戻り、「幸玉」として、幸せが織りなす力が返ってきて、神としての力も取り戻していきます。

これ、神様の話なのに、めちゃくちゃ現実的です。
「信じてもらってから力を発揮する」のではなく、
先に行動することで、あとから信頼がついてくる。
そして幸玉が自分のステータス向上のために使用できるようになる。

くぅっ!理想の世界!!(笑)

ブランドづくりも、仕事も、人間関係も、たぶん同じです。
「私はすごいんです」と言い続けるだけでは、人は信じてくれません。

目の前の誰かを助ける。
自分にできることを差し出す。
小さくても、現実を一つ良くする。

その積み重ねによって、ようやく、
「ああ、この人は信じてもいい人なんだ」と思ってもらえる。

アマテラスが取り戻していくのは、神としての力だけではありません。
闇によって失われた、世界の美しさ。
人が何かを信じる心。
そして、
この世界は、もう一度描き直せるかもしれないという希望です。

失われたものがある。
壊れてしまった場所がある。
先が見えないほど、真っ暗になることもある。
それでも、世界はそこで完成ではありません。

足りない線を、もう一度引けばいい。
失った色を、少しずつ塗り直せばいい。
花が咲いていないのなら、自分の筆で咲かせればいい。

『大神』は、白いオオカミの神様が日本を救うゲームです。

でも私には、
「人生は、何度でも描き直せる」という物語にも見えました。

就活で「お祈り」をされまくって自己肯定感が一切なくなり、自分がいる意味なんて何一つ信じることができなくなって、疲れきった私の心を癒した、そんなゲームでした。

そして何より、邪気を払う「大神降ろし」で、画面いっぱいに花が咲き、世界に色と命が戻ってくる瞬間が、とにかく気持ちいい。
なんだか自然と涙が込み上げてくる…!
ゲームをするというより、日本画の中を走り回りながら、自分の手で一枚の絵を完成させていくような作品です。

『大神』は、その独創性を世界でも高く評価されました。
2007年には、英国アカデミー賞(BAFTA)のゲーム部門で「芸術的功績」と「オリジナル音楽」を受賞。Game Developers Choice Awardsでも「Innovation Award」と「Best Character Design」を受賞しています。日本でも、文化庁メディア芸術祭エンターテインメント部門の大賞に選ばれました。

つまり、ゲームとして面白いだけではありません。
日本の美意識をゲームの中に丸ごとつくり上げ、それを世界へ届けた作品なのです。

つまり、ゲームとして面白いだけではありません。
世界から、一つの芸術作品として評価されたゲームです。

敵を倒すだけでは、世界は美しくならない。
けれど、一本の線が、世界を変えることはある。

描くこと。
つくること。
信じること。
そして、誰かの目の前にある現実を、ほんの少し良くすること。

そういうものの力を信じたい人に、ぜひ触れてほしいゲームです。

まじで、3000円台で、人生観変わるくらいの作品なので、ぜひ、ぜひご購入ください。
ストーリーだけでなく、日本の魂的な、芸術的なセンスもめちゃくちゃ上がると思います!
ひとつひとつ、一人一人のストーリーに、いちいち感動して泣きます!曲もいいんだ…!
涙なしには進められない、感受性爆上がりゲームです。
学校関係者の方がいらっしゃいましたら、ぜひ義務教育の中にどうか、導入してください!!(切実)

祈ることは、神様への丸投げではない

そんな『大神』に出会ってから、私は少しずつ、祈る人になりました。
といっても、「神様、あとは全部よろしくお願いします!」と、人生を丸投げするようになったわけではありません。

『大神』の中でも、アマテラスは、ただ祈られているだけでは世界を救えません。

自分の足で走る。
困っている人を助ける。
枯れた木に花を咲かせる。
目の前にいる妖怪を倒す。

そうやってアマテラスが先に世界へ働きかけることで、人々の心に感謝や信仰が生まれ、その力がまたアマテラスへ返ってきます。

祈りと行動は、どちらか一方ではない。

行動するから祈りが生まれ、
祈りが返ってくるから、また行動できる。

私にとって祈ることは、現実から逃げることではなくなりました。
そういうことを、学ばせてくれるゲームでした。

「どうか、うまくいきますように」と祈りながら、自分にできる準備をする。
「どうか、守ってください」と願いながら、自分でも危険を避ける。
「ありがとうございます」と感謝しながら、誰かの現実を少しでも良くする。

神様が本当にいるのか。
祈りがどこまで届いているのか。
その仕組みを、私は証明できません。

でも、祈ることで、自分以外の誰かを思う時間が生まれる。
立ち止まって、今あるものに気づける。
心を整えて、もう一度、現実へ戻ってこられる。
それだけでも、私にとっては十分に意味がありました。

私は、神様の存在を証明したくて祈っているわけではありません。
祈ったあと、もう一度、自分の足で歩くために祈っていたのだと思います。

そして、がんになった

そんな私が、ステージ3の悪性がんになりました。
自分の努力だけでは、どうにもならないものがある。
どれほど前向きに生きても、病気になるときはなる。
祈っていても、がんになる。
善良に生きていても、理不尽なことは起きる。
その現実を、私は自分の身体で知りました。

だから私は、
「祈っていれば、悪いことは起こらない」とは思っていません。
「いつも感謝していれば、病気にはならない」とも思っていません。

もし、そんな仕組みで世界ができているのなら、病気になった人は、信仰や感謝や生き方が足りなかったことになってしまいます。

そんなわけがない。

病気になった人に向かって、
「何か悪いものを引き寄せたんじゃない?」
「心の持ち方に原因があるんじゃない?」
「もっと強く信じれば治るよ」
なんて言うのは、希望ではありません。

病気の責任を、その人の心へ押し返しているだけです。

私は、そんなスピリチュアルの使い方には、はっきり言って、反対します。

一方で、
「祈ったって意味がない」
「科学的根拠のないものに頼るなんて非合理的だ」と、心の支えまで取り上げられる必要もないと思っています。

私が治療を受けることと、祈ることは、何も矛盾しません。

私は病院へ行きました。
医師の説明を聞きました。
抗がん剤治療を受けました。
手術も受けました。
放射線治療もしました。
検査も受けました。
医学の力を、これでもかというほど借りました。

そして同時に、私は祈りました。
たくさんの人にも、祈ってもらいました。
医学は、私の身体に働きかけてくれました。
祈りや言葉は、医学が直接触れることのできない、私の心を支えてくれたかもしれません。

どちらか一方だけで、私がここまで来たわけではありません。

身体は医学に任せながら、
心まで病気に持っていかれないように、祈りで支える。

私にとっては、別にそれでよかったのです。

科学とスピリチュアルは、そもそも違う問いに答えている

科学が主に扱うのは、
「それは客観的に確かめられるのか」という問いです。

同じ条件で試したとき、同じような結果が出るのか。
どのくらいの確率で、どのような作用が起きるのか。
思い込みではなく、観察や実験によって確かめられるのか。

一方で、スピリチュアルが扱っているのは、
「私は、この出来事をどう受け止め、どう生きていくのか」という問いなのではないかと思います。

なぜ、こんなことが自分に起きたのか。
この先、何を信じて生きていくのか。
自分ではどうにもできない現実と、どう折り合いをつけるのか。

もちろん、すべてがきれいに分かれるわけではありません。
けれど、この二つは本来、同じ競技をしているわけではないのだと思います。

たとえるなら、
体重計と羅針盤を並べて、どちらが正しい道具なのかを争っているようなもの。

体重計は、今の重さを測ってくれます。
羅針盤は、進む方向を示してくれます。

体重計に向かって、
「お前には、進むべき方向がわからないじゃないか!」と言っても仕方がない。
羅針盤に向かって、
「お前は、体重すら測れないじゃないか!」と言っても仕方がない。

役割が違います。
役割が違うなら、必要な場面で、それぞれを使えばいい。
なぜ、どちらか一方を捨てなければならないのでしょう。

神社へ行った勢いで、企画書を送ればいい

私は、スピリチュアルを使って、現実から逃げたいわけではありません。

むしろ、
現実を動かすために使いたい。

神社へ行って、
「どうか、仕事がうまくいくように応援してください!」とお願いする。

その帰りに気持ちが整って、
「よし、やってみよう」と思えたなら、家に帰って企画書を送ればいい。
お守りを握ることで勇気が出たなら、その勇気で電話をかければいい。

「私はツイている」と唱えることで少し前向きになれるなら、その勢いで、今日やるべきことを一つ進めればいい。

祈ったあとに行動する。
信じながら、準備する。
願いながら、現実的な一手を打つ。
そうやって現実が少しでも動くなら、私はそれでいいと思っています。

それが神様の力なのか。
言葉によって脳の働きが変わったのか。
思い込みによって、行動が変わったのか。
たまたまタイミングが重なったのか。

正直、

それも、ど━━━━━━━━っでもええわ!!

神様と脳科学の間で、
「この成果を出したのは私です」と、現象の所有権を争ってもらわなくて結構です。笑

結果として、その人が少し元気になった。
怖くてできなかったことに、一歩踏み出せた。
目の前の現実が、ほんの少し良い方向へ動いた。

私にとっては、そこに価値があります。

ただし、「役に立つ」と「事実である」は別

とはいえ、私は何でもかんでも、
「本人が信じているなら、それでいいよね」で済ませたいわけではありません。

ここには、明確な境界線が必要です。

「私には役に立った」ということと、
「誰にでも同じ効果がある事実」ということは、まったく別です。

祈ることで、私は心が落ち着いた。これは、私自身の経験です。

けれど、
「祈れば、どんな病気でも治る」と言い切れば、話は変わります。

お守りを持つことで安心できた。
それは、その人にとって大切なことです。

けれど、
「これを買わなければ不幸になる」と恐怖をあおって売るのは違います。
「私はこれで元気になった」と話すのはいい。しかし、それを根拠に、
「薬をやめなさい」
「病院へ行く必要はない」
「治らないのは、あなたの信じる力が足りないからだ」と、他人の命にまで介入するのは、絶対に違います。

スピリチュアルは、科学や医療の代用品にしない。

そして、
科学は、人間の意味や希望を踏み潰すための武器にしない。

この線さえ守れば、両方を使っても、何も問題はないはずです。

希望を事実と偽らず、事実で希望を踏み潰さない

私は、科学的な根拠を大切にしています。
数字も、研究も、医学も信頼しています。
同時に、祈ることや、目に見えない力を信じることを、愚かなことだとも思いません。

人生には、客観的な事実だけでは歩ききれない夜があります。
どれほど正確な数字を示されても、それだけでは立ち上がれない日があります。

そんなとき、人を支えるのは、誰かの祈りかもしれない。
一つの言葉かもしれない。
説明できない巡り合わせを、信じてみることかもしれない。

だから私は、
希望を、事実と偽りたくない。
けれど同時に、
事実を使って、誰かの希望を踏み潰したくもない。

この二つは、本当は両立できるのだと思います。

私は、正しい陣営に入りたいわけではない

スピリチュアルが正しいのか。
科学が正しいのか。
世界の真理は何なのか。
そういう議論が必要な場面も、もちろんあるのでしょう。

けれど私は、真理決定戦の優勝者を予想するために生きているわけではありません。

自分の人生を、少しでも良い方向へ動かしたい。
大切な人がつらいときに、少しでも支えになりたい。
明日を生きる力が足りないとき、使えるものを借りて、もう一歩だけ進みたい。

私が知りたいのは、どちらが正しいかだけではなく、
それを、どう使えば現実が良くなるのか。ということです。

祈りながら、薬を飲めばいい。
神社に参拝した帰りに、病院へ行けばいい。
「きっとうまくいく」と信じながら、現実的な準備をすればいい。
研究で確かめられた方法を使いながら、説明できない巡り合わせに感謝したっていい。

スピリチュアルか、科学か。
どちらか一方の陣営に所属しなければならない理由なんて、どこにもありません。

というか、ここにこだわっている人は、暇な人なのかな?と思います。
自分自身に、劇的な事象が起きていない。
だからこそ、自分が信じるものが正しいと自分自身が信じるために、いろんな人たちを巻き込んでいる。

私は、正しい側に立ちたいのではありません。
ただ、自分の人生を、少しでも良い方向へ動かしたい。

『大神』でアマテラスが、闇に覆われた世界へ一本ずつ線を引いたように。
足りないものがあるのなら、描き足せばいい。
科学という筆で描けるところは、科学に任せる。
祈りという筆で心に光を描けるなら、それも借りる。
使えるものを、使える形で、ありがたく使って、世界にもう一度、花を咲かせる。

科学も、スピリチュアルも、本来は人が少しでも生きやすくなるために、進化を続けてきたもののはずです。

それなのに、どちらが正しいのか。
どちらを信じている人のほうが賢いのか。

いつの間にか、人を助けるための手段だったものが、自分の正しさを証明するための道具になっている。

そろそろ、目的と手段が入れ替わっていることに、気づいてもいい頃ではないでしょうか。

私は、真理決定戦がしたいんじゃない。
現実を変えたいだけなんよ。

ぶっちゃけ、それでよくない?笑

この記事を読んでくださったあなたにとって、いい方向へ向かえることを祈って。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。
私たちは、自分の人生を描くための筆を、一本に決めなくてもいいのだと思います。

科学という筆。
祈りという筆。
言葉、芸術、物語、経験という筆。

今の自分に使えるものを選びながら、足りない線を描き足し、失った色を少しずつ取り戻していけばいい。
この記事が、誰かの人生を描き直すための、小さな一本の線になれば幸いです。

そして、学校や教育に関わる方に届きましたら、ぜひ子どもたちにも『大神』という作品を知ってもらえたらうれしいです。
何か一つの正解だけを信じるのではなく、目の前の世界を少しでも良くするために、自分の持っている力をどう使うのか。
『大神』には、教科書だけでは伝えきれない、日本の美意識と、祈りと行動、信頼、創造することの尊さが詰まっています。
義務教育への正式導入が難しければ、まずは先生が遊んでください。笑

この記事を読んで、
「スピも科学も、仲良く使えばいいじゃん」
「自分の人生も、まだ描き直せるかもしれない」
と思っていただけたら、スキやフォローで教えてください。
スキやフォローをしてくださっている方を見て、いつも幸玉を送っています!(笑)

また、必要としている方や、学校教育に関わる方へ、そっとこの記事を渡していただけたら、とてもうれしいです。
あなたの世界にも、もう一度、美しい花が咲きますように。
祈りを込めて。

幸あれ!

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あらゆう(新城優)|人生と仕事を、言葉で編集する人 読んでくださるだけでとても嬉しいです。 もしこの記事が少しでも思考をほぐしたり、日々を軽やかにするきっかけになっていたら、チップでそっと応援していただけると励みになります。 いただいた応援は、また次の言葉や企画を、必要な人へ届けるための制作費として大切に循環させていただきます。

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