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「自己満乙」と言われたけど、それでも私は書くからな

    熟した自己満は、誰かの灯りになる。

    ミーンミーン……。
    窓を開けると、蝉の鳴き声が聞こえ始める季節になった。

    『命の合唱だなぁ…』

    なんて、短い蝉の一生に一瞬だけ想いを馳せたものの、私の心は命の素晴らしさに感動するでもなく、少しため息をついていた。

    少し前、質問やお便りを募集しているフォームに、こんなメッセージが届いていた。

    「ただの自己満乙です(笑)」

    ウケる(笑)
    ……と笑って流したいところだけれど、実際、少しだけ胸に引っかかった。

    10日ほど前から、5年寝かしていたnoteを稼働させ始めた。

    SNS配信もあまり好きではない私にとって、noteなんて続くのかな?と思いつつ、少しやってみたい展開があったため、思い切って活用することに決めた。

    すると、思っていたよりnoteという、普通のSNSとはまた少し違う媒体が、私の性に思いの外合致した。

    そして私はSNSに
    「note楽しい(笑)」
    と投稿した。

    その直後の「ただの自己満乙です(笑)」である。

    はぁ。
    私は影響力がそこまであるわけではない。
    それでも、こんな言葉をわざわざ投げに来る人がいるのかと思うと、少しだけがっかりしてしまった。

    たった一言なのに、こう言う言葉は案外、胸の変なところに残る。

    発信していると、一度はみんな思うんじゃないだろうか。

    「これってただの自己満じゃないだろうか」

    文章を書く。
    絵を描く。
    動画を作る。
    音声を録る。
    本を出す。
    SNSに投稿する。

    それらは一見、誰かのためのようでいて、最初の火種はだいたい自分の中にあるものだ。

    自分が、
    言葉にしたい。
    整理したい。
    見つけたものを形にしたい。
    名前をつけたい。
    自分が感じたことを、どこかに置いておきたい。

    そういう意味では、創作や発信の多くは、自己満から始まるものかもしれない。

    でも私は最近思う。

    自己満ってそんなに悪いものだろうか?

    もちろん、ただ自分だけが気持ちよくなって、誰かを雑に扱ったり、誰かを踏み台にしたり、自分の正しさを押しつけたりするものは、私はあまり好きではない。

    だからこそ、自分の中にあるフツフツした思いも、今まではあまり表に出してこなかった。

    でも、自分の中にある感情や違和感や痛みを、ちゃんと見つめて、こねて、寝かせて、言葉にして、誰かが受け取れる形にしたものはもう、ただの自己満ではないのではないかとも思う。

    それは、「熟した自己満」だ。

    自分のために始まったものが、時間をかけて、誰かのためにもなる。
    そんなことが、きっとある。

    例えば私は最近、「体は器なのかもしれない」という話を書いた。

    ガンになって、自分の体が永遠ではないことを、以前より現実味をもって感じるようになった。

    この体はいつか神様なのか、宇宙なのか、大いなる何かなのか、どこかにお返しする日が来る。

    そう考えた時、私はこの器を、どう使って返したいのだろうと考えた。
    綺麗なまま、傷一つつけずに保管して返すのか。

    それとも、多少ボロボロになっても、ちゃんと使って、ちゃんと生きて、ちゃんと何かを世の中に投じてから返すのか。

    そんなことを書きながら、最終的には、

    「器の返却前メンテナンスなので、エステ代は経費でお願いします」

    などと言っている。

    我ながら、なんで命の話をしていたのに、最後に経費申請しているのか、訳がわからない。

    でも、人間ってそんなものなんじゃないだろうか。

    私は、重い話を重いままだけでは持っていられないタチなのだ。
    悲しかったことを、悲しいままで終わらせられない。
    痛みを、痛みのまま誰かに渡したくない。

    だから、少し笑える形にする。
    少し軽く持てる言葉にする。
    少し、息がしやすいところに置き直す。

    それはもちろん、初めは自分のためだった。

    自分がこの体と、どう付き合っていくのか。
    この病気を、どう受け止めるのか。
    この人生を、どう意味づけるのか。

    そのために、書いた。

    でも、もしかしたらそれを読んだ誰かが、

    「私の体も、ピカピカじゃなくてもいいのかもしれない」
    「傷があることは、ちゃんと生きてきた証なのかもしれない」
    「私もこの器を、もう少し大事にしてみようかな」

    そんなふうに、思ってくれるかもしれない。

    そう思って、願いを込めて綴っている。
    別に、誰かに褒められるためとか、承認欲求のために書いているわけではない。

    私のこの文章が、誰か一人にでも届いて、その人の心を少しでも軽くすることができたなら。

    それだけで、書いた意味はあると思う。
    そうなったら、それはもう、ただの自己満ではない。

    自分のために灯した火が、誰かの足元を少し照らすことがある。

    私はこれまで、ブランディングやマーケティングの仕事を通して、誰かの人生が、誰かの光になってきたことを幾度となく見てきた。

    どんな人の人生も、どこかの誰かの希望になり得る。

    その人が経験してきたこと。
    悩んできたこと。
    悔しかったこと。
    乗り越えたこと。
    まだ乗り越えきれていないこと。

    そういうものが、誰かにとっての「ああ、私だけじゃなかった」になることがある。

    もちろん、発信していると不安になることもあるだろう。

    これは誰かの役に立つのかな。
    こんなことを書いて、意味があるのかな。
    自分語りになっていないかな。
    痛々しくないかな。
    承認欲求だと思われないかな。

    そんなふうに感じることもあるだろう。
    そして、そういう視点は大切だと思う。

    でも、そこで止まりすぎると、何も出せなくなる。

    最初から誰かの役に立つものなんて、そう簡単に作れないかもしれない。

    むしろ、自分の中で本当に燃えたものしか、人の心までは届かないのではないかと思う。

    本気で怒ったこと
    本気で悲しかったこと
    本気で救われたこと
    本気で笑ったこと
    本気で、「これは言葉にしたい」と思ったこと…

    そこにこそ、体温は宿るのではないだろうか。

    誰にも嫌われないように。
    誰にも引っかからないように。
    綺麗に整えすぎた言葉は、もしかしたら安心かもしれない。

    一定の支持を受けられるのかもしれない。

    だけど、安全すぎる言葉は、
    本当に届けたい人に届かないかもしれない。

    もちろん、わざと傷つける必要はない。
    無闇に燃やす必要もない。
    誰かを踏み躙ってまで、自分の表現を通す必要はない。

    だけど、自分の中で本当に大切なものまで薄めてしまったら、果たして、なんのために世の中に発信するのか?

    だから私は、自己満を悪者にしすぎなくていいと思う。

    そして、「自己満乙(笑)」なんて雑な中傷に屈する気にはならない。

    自己満は、種だ。

    そのままだと、ただ自分の中にあるだけかもしれない。

    でも、それをちゃんと育ててみる。
    伝わる言葉にする。
    形にする。
    余分な棘を、少し抜く。
    でも、芯までは削らない。

    自分の体温を残したまま、誰かが受け取れる形にする。

    そうして熟した自己満は、誰かの灯りになり得るのではないだろうか。

    初めは自分だけのために書いた言葉が、
    誰かの「この痛みを抱えているのは、私だけじゃなかった」になる。

    自分のために搾り出した怒りが、
    誰かの「私も怒って良かったんだ」になる。

    自分のために笑いに変えた痛みが、
    誰かの「ちょっと息ができた」になる。

    そういうことが、本当にあると思う。

    だから私は、これからも
    自分のために生まれた言葉を、誰かにも届く形にしていきたい。

    全部が誰かに届くわけではない。
    全部が評価されるわけでもない。

    もしかしたら、
    私のように、ただの自己満だと揶揄されることもあるかもしれない。

    でも、それでもいい。

    私は、発信を続けるすべての人を尊いと思うし、
    戦友だと感じる。

    匿名性に身を隠しながら、
    誰かを雑に批判するような人間になりたくはない。

    そして、そういう人たちの言葉に、挫けないでほしいと願う。

    自分の中で生まれたものを、
    ちゃんと見つめて
    ちゃんと熟させて
    必要な人に届くかもしれない形で置いておく。

    それが、今の私にできることなのだと思う。

    チヤホヤされたくて書くなら
    ぶっちゃけもっと考えて書くわい!!(笑)

    もちろん、ちょっとくらい褒められてもいい。

    いや、褒められたい気持ちがないとは言わない。(笑)

    でも、本心にあるのは、
    必要な人に届いてほしい、という純粋な想いだ。

    自分のために書いた言葉が、誰かの救いになることがある。
    自分の痛みから生まれたものが、誰かの孤独を少し減らすことがある。
    自分の違和感が、誰かの中にあった言葉にならない違和感を照らすことがある。

    だから、もし今、何かを書きたいけれど、

    「こんなの自己満かな」

    と迷っている人がいるなら、私は言いたい。

    自己満で何が悪い!!

    まずは自己満でいいんだ!!

    ただし、熟させよう。

    自分が気持ちよくなるためではなく、
    誰かに押しつけるためでもなく、
    自分の中にある本当のものを、ちゃんと誰かが受け取れる形にしてみよう。

    その言葉は、今すぐ大きく広がらないかもしれない。

    でもいつか、どこかで、誰かが見つけるかもしれない。

    そしてその人が
    「ああ、私だけじゃなかった」
    と思えればそれでいい。

    その時、あなたの自己満は、もうただの自己満ではない。

    熟した自己満は、誰かの灯りになる。

    だから、私は今日も書く。

    自分のために。
    そして、いつか誰かの足元を、少しだけ照らすために。


    最後までお読みいただきありがとうございました。
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    人生と仕事を、言葉で編集する人。日常の「なんで?」から、言語化・発信・企画・働き方・生き方を考えます。 起業7年目・法人3期目。余命数ヶ月宣告後も、楽しく生きる実験中。Kindle出版P/ストーリーブランディングアーキテクト。

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