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不条理ホラー短編集『犬のような何か』 (全10編) 【創作大賞2026】

    【あらすじ】
    理不尽な怪異や人間の狂気をテーマにした全10話の不条理ホラー短編集。
    失った悲しみが家を侵食し、意味不明な行進が街を飲み込み、見知らぬ賞賛が自分を縛る。
    笑えるのに怖い。怖いのに悲しい。色々な不条理を集めました。
    どれから読んでも楽しめる、予測不能な10本の悪夢の世界をお届けします。
    (※過去の公開作を応募用に再編集したものです)

    1.「犬のような何か」 (700字)

    ある日、妻の翔子が何かを拾ってきた。私以外の家族には、それが犬に見えているらしい。

    私にとってそれは、白くて輪郭のはっきりしない、不明瞭な存在に思えた。

    息子は大喜びでそれを迎えた。

    それは日に日に大きくなり、数ヶ月もすれば私の背丈を越えるほどになった。家族は相変わらず、それを子犬のように可愛がった。

    涼太は、もうすぐ小学校に上がる年だった。いつも無邪気で、誰からも愛される優しい子だった。

    雪が僅かに積もる冷たい一月の朝、信号無視のトラックは、その小さな命を理不尽に奪い去った。

    翔子はそれからしばらくの間、抜け殻のようになった。

    我が家から笑い声が消え、ただ重い沈黙だけがそこにあった。

    いつのまにか、犬のようなそれは、家の中の半分以上を占めるほど大きく膨らんでいた。

    私はそれを追い出す気にはなれなかった。

    なぜなら、その存在は翔子にとって、少なからず心の支えになっていたからだ。

    翔子は、それの世話だけは怠らなかった。エサをやり、毎日のように優しく撫でていた。

    それはどこか、失った息子の面影を宿しているようにも思えた。

    すでに家の大半はそれに占拠されており、私と翔子は、僅かに残されたリビングで身を寄せ合うように過ごしていた。

    ある日、翔子が消えた。

    置き手紙のようなものはなく、財布や靴もそのままだった。

    私はすぐに捜索願を出した。

    しかし心のどこかで、見つからないだろうな、と分かっていた。

    家には、私と巨大なそれだけが残された。

    妻と息子の思い出を感じ取れるものは、私にとって、もうそれしか残されていなかった。

    私は、僅かに残された空間で、それと穏やかに過ごした。

    私はいずれ、その犬のような何かに押しつぶされる日を、ただ待ち続けていた。


    2.「行進」 (1500字)

    その日、行進が始まった。

    はじめは、一人だけだった。

    一人の老人が、古びた軍服を着て、道端で行進をしていた。交互に両膝を上げ下げし、ひたすらに前を見据えて、その場で行進をしていた。

    「何、あの人」

    学校の帰り道、その奇妙な姿を見て、私は友達と顔を見合わせた。道行く人々も、その老人に怪訝そうな目を向けていた。家に帰ってから母に話すと、「きっとボケたんじゃないか」などと言って、二人で笑い合った。

    翌朝、登校の途中でその道を通ると、行進は二人になっていた。スーツ姿の中年のサラリーマンが、老人の後ろで行進をしていた。両膝を交互に上げ下げし、老人と同じようにひたすらに正面を見つめている。しかも、昨日と比べて、列は数十センチほど前進しているように思えた。

    帰りにその道を通ると、三人になっていた。買い物帰りと思しき若い主婦が、二人の後ろに続いて行進をしていた。彼女のものであろう買い物袋と自転車が、道路の端に投げ出されたように置かれていた。私は薄気味悪さに足を速めて、その横を駆け抜けた。

    家に帰って母に話すと、同じように気味悪がって、警察に通報しようということになった。電話口で事情を伝えると、きちんと対応をするという返事があり、私は少し胸を撫で下ろして眠りについた。

    翌日、登校してみると、行進は五人になっていた。昨日までの三人に、二人の警察官が加わっていた。近くには、斜めに乗り上げるように駐車されたパトカーが放置されていた。そして列は、昨日よりわずかに前進していた。

    そのことは、やがて街中の話題になった。彼らに話しかけても、ただ行進するのみで、目的も行き先も不明だった。そして日を追うごとに、十人、十五人、三十人と増えていった。道がほとんど行進によって塞がれていて、私は通学路を変えざるを得なかった。彼らは朝も夜も行進し続け、疲れた様子も見せないまま、日々数十センチずつ前進していた。

    ある日の帰り道、母の姿を見かけた。こんな時間に母が出かけるのは珍しいなと思ったが、よく見ると母は、両膝を上げ下げしていた。行進の最後尾に加わっていたのだ。

    私は驚いて、母に呼びかけた。返事はない。ひたすらに行進をしている。腕を引っ張って家に連れ帰ろうとしたが、列の外に引き出すことは出来なかった。母の力とは思えないほど、強い力で行進をしていた。

    私は怖くなって、家に走って帰った。出張中の父に電話をして、事の次第を伝えた。しかし父は笑って、「そんなバカな話があるか」と言い、ふざけていると思われたようだった。

    どうすれば良いかわからないまま、昼夜を問わず母を連れて帰ろうとしたが、どうにもならなかった。そうしている数日の間に、近所の八百屋、お世話になっている町医者、学校の友人たちまでもが、行進の列に並んでいることに気づいた。そして先頭は、すでにこの街の外へと踏み出し始めていた。

    私は呆然としたまま、家に帰った。暗くて誰もいないリビングで、テレビをつけた。ニュースで、行進が取り上げられていた。何かの専門家が、行進の目的や行き先についてあれこれ語っていたが、要するによくわからないという結論だった。

    現地に出向いたリポーターが、行進の先頭を取材していた。マイクを向けても誰も答えない。するとリポーターが不意に黙り込み、マイクを投げ捨てた。カメラが横転し、中継が途切れた。彼らも行進に加わったのだろう。

    スタジオの映像に切り替わると、そこにはもう誰もいなかった。

    街灯の消えた夜の暗闇の中から、規則正しい行進の足音が聞こえる。

    あの行進に加われば、きっと楽になれるだろうなと、ふと思った。

    私の両膝は、すでに交互に上げ下げされ始めていた。


    3.「それはおれじゃない」 (1300字)

    「おめでとうございます。あなたは見事、最優秀賞に選ばれました」

    玄関を開けると、花束とトロフィーを抱えた女性が笑顔で立っていた。その後ろには拍手喝采する群衆と、カメラやマイクを向けるマスコミが押しかけていた。女性はトロフィーと花束を私に押し付けるように渡すと、どこかへ立ち去った。観衆はさらに騒がしく喝采した。

    私はこれから仕事へ向かうところだった。どこにでもいる、平凡なサラリーマンだ。賞をもらうようなことは何もしていない。トロフィーを返そうとしたが、誰もが熱狂的に私を讃えるばかりで、話を聞いてはくれなかった。

    どうにもならないので、私は仕事へ向かうことにした。あの女性を見つけたらトロフィーも返そうと、抱えていくことにした。家の前の道は観衆でごった返していた。マスコミのカメラが向けられ、横を通るたびに「おめでとう」と声をかけられた。何かの勘違いだ、と言っても、誰も聞き入れなかった。

    駅に着くと、さらに大勢が待ち構えていた。私が改札を通るのを一目見ようと押しかけているようだった。試しに軽く手を挙げてみると、悲鳴のような歓声が上がった。駅員が何やらアナウンスをしていた。乗客が殺到し、遅延が発生しているようだった。

    どうやって仕事に向かうべきか思案していると、大きなクラクションを鳴らしながら、白いリムジンが私の前に止まった。

    「どうぞ、お乗りください」

    運転手が笑顔でそう言った。私は仕方なく乗り込んだ。車はどこかへ向けて走り出した。

    「これは一体何の騒ぎなんですか。全く心あたりがなくて」

    私がそう聞くと、運転手がミラー越しに笑った。

    「いやあ、この度は受賞おめでとうございます。あなたの運転手ができるなんて光栄です」

    この男も話が通じないようだ。私は話題を変えた。

    「どこへ向かっているんですか」

    「表彰会場ですよ。各業界のトップ、各国の代表団、首相らがあなたの到着を心待ちにしています」

    私は恐ろしくなった。

    「車を止めてくれ。私は普通のサラリーマンだ。仕事に行かなくてはいけないんだ」

    運転手が不思議そうな顔で車を止めた。私はドアを開けて飛び出すと、人目を避けるように路地裏に逃げ込んだ。トロフィーを捨てようとしたが、私以外の誰かのものかもしれないと思いとどまった。

    トロフィーで顔を隠すようにしながら、なんとか会社にたどり着いた。遅刻の言い訳を考えていると、拍手喝采の音がした。

    社長以下全員が横一列に並んで待ち構えていた。顔なじみの同僚たちも、満面の笑みで私を讃えていた。

    このトロフィーは、本当に私に贈られたものらしい。だが何を賞したものかはわからない。誰も教えてくれなかった。

    私の知り得ない何かで、私が賞賛されていることが、心底恐ろしかった。

    思わずトロフィーを床へ投げた。金属音があたりに響いた。その瞬間、拍手がぴたりと止んだ。誰もが無表情になった。彼らは、ただ黙って私のことを見ていた。どこにでもいる、平凡なサラリーマンを見るような目で。

    私は、床に落ちたトロフィーを拾い上げた。すると、人々は再び拍手喝采を始めた。会社の外からも歓声が聞こえていた。

    今日は朝からずっと、何が起きているのかわからなかった。

    だが一つだけ、わかったことがあった。

    私はもう、このトロフィーを手放すことはできないのだ。



    4.「ネジ男」 (900字)

    おれの職場に、新しい男が入ってきた。

    その男は、おれにそっくりだった。
    ただ、おれよりも5歳ほど若く見えて、常に気味の悪いうすら笑いを浮かべていた。
     
    おれがこのネジ工場で働きはじめてもう20年になる。
    ただベルトコンベヤーに乗ったネジを眺めて、不良品を見つけるだけの仕事だ。
    下らない仕事だという奴もいるが、おれはこの仕事に誇りを持っている。
    誰よりも真面目に働いて、出来るだけ多くの壊れたネジを見つける。
    何の取り柄もないおれにとっては、それが人生そのものだった。
     
     
    だが、あの男が来てから全てが変わった。
    奴はすぐにコツをつかんで、要領よく仕事をした。
    おれがたまに見落とす欠陥でさえ、奴は見つけた。
    それが、おれには気に食わなかった。
    おれと全く同じ顔をしているのに、その他の全てが、おれより少しずつ優れている。
    おれという存在が、奴に乗っ取られていくような気がした。 

    ある日の昼時、食堂に向かうと、おれの席に奴が座っていた。
    奴は同僚たちと談笑をしている。
    まるでずっと何十年も前から、そうしてきたように。
    おれは奴に言い知れぬ怒りを覚えた。
    右手に持っている弁当箱が、カタカタと震えた。

    「そこはおれの席だ。どいてくれないか」

    おれは怒りを悟られないよう、出来るだけ穏やかにいった。
    すると奴は、一瞬会話を止めて、ゆっくりとこちらを振り返った。
    その顔には、いつものうすら笑いが浮かんでいる。

    「いいじゃないですか、どこへ座っても。席なんていくらでもあるんだから」

    奴はそう言って、同僚たちへ向き直った。
    彼らはおれの言葉などなかったかのように、それまでの話題に戻った。
    おれは、弁当箱に隠していたハンマーを取り出すと、奴の脳天めがけて、思い切り振り下ろした。
    鈍い音が辺りに響き、奴はテーブルにつんのめって倒れた。
    奴の頭から、大量の血が流れた。
    周りの同僚たちが悲鳴をあげた。
    テーブルの上に広がる血溜まりの中に、ひとつのネジが落ちていた。
    おれはしばらく呆然と、そのネジを見つめていた。
     
    そのあと、おれは駆けつけた警官たちに取り押さえられた。
    おれは叫んだ。

    「やめろ、おれは正常だ。おれは、欠陥品なんかじゃない」


    5.「受信機」 (2600字)

    「はっきり言おう。我々には君たちを救うことはできない」

    受信機から地上の声がノイズ混じりに聞こえた。

    作業員たちの間に重い沈黙が広がった。
    蒸し返すような生温く閉ざされた空気が、作業員たちを包み込んでいた。皆、黒く煤汚れた額に汗を滲ませていた。

    一人の作業員が堰を切ったように怒鳴った。

    「そんなわけがないだろう。月に旅行にだって行ける時代だ!俺たちを地中から引っ張り出すことくらいできるはずだ!」

    地上の声にはどこか悲しみが滲んでいた。

    「残念だが、君たちがいる地下千メートルの地質はかなり特殊だ。今の技術をもってしても、どうにもならない。このような事故が起きてしまったことは、全て私の監督責任だ。申し訳ない」

    再び沈黙が訪れた。それ以上、誰も地上の声を非難しなかった。
    彼らも、いつこうなってもおかしくない仕事に就いている事は分かっていた。ただそれが、今日起こるとは誰にも分からなかっただけで。

    「ただひとつ、一人だけ救う方法がある」

    声がためらうようにそう言った。

    「一人だけ…」 作業員たちは、深刻な表情で互いを見合った。

    「我が社は、長寿命装置・チューブの開発をしている。君たちの一人をそのチューブに繋ぐのだ。細く長いその装置であれば、君たちのいる地下深くまで、かろうじて繋がっている通気シャフトを通じて一本だけ送ることができる」

    「どういうことだ」

    「まだ開発途中のものだが、脊髄に接続する装置だ。全身の細胞を休眠状態にする。意識は残るが、何万年でも生き続けられるようになる」

    「何万年…」

    「こちらから語りかけることはできるが、そちらからは何もできない。救い出す方法が見つかるまで、地中で待ち続けることになる」

    受信機のノイズが強まった。

    「チューブがそちらに到達したらまた知らせる。それまでに誰を選ぶか、決めておいてくれ」

    プツンと声が途切れた。しばらく重い沈黙が続いた。暗い空気の中、大柄の作業員が言い放った。

    「チューブは俺が使うぜ。こんなところで死んでたまるか。俺は今日はまだ酒を呑んでないんだ。一杯やらずに死ねるかよ」

    大柄な男は周りを威嚇するように睨んだ。周りの作業員は怖気付いたように俯いた。

    すると、小太りの男が口を開いた。

    「まあ待て。地上に戻りたいのは皆同じだ。少し冷静に話し合おう」

    何人かが顔を上げて、頷いた。

    「俺たちは長らく危険を共にしてきた仲間だ。最後に争うなんてゴメンだ。平等にくじで決めないか」

    皆が顔を見合わせて「それがいい」と口々に言った。大柄な男も、渋々受け入れるように腕を組んで黙っていた。

    すると、一番若い男が呟いた。

    「誰も使わなくていいんじゃないかな」

    周りは一斉に若い男に目を向けた。
    思わぬ注目を浴びた若い男は、少し緊張したように、言葉を続けた。

    「みんな、いつかこうなる覚悟はしてただろう。それに、何年も地中で孤独に過ごすなんて俺には無理だ。みんなで諦めることが一番平等じゃないか」

    作業員たちは黙った。崩れ落ち、泣き出すものもいた。
    小太りの男が、若い男に言った。

    「お前、最近娘が産まれたばかりだよな。また会いたいと思わないか」

    若い男は目を背けながら答えた。

    「そりゃ会いたいさ。だけど、こうなっちまったら仕方ない」

    「生きる道が一つだけあるんだ。みんなでよく考えよう。俺は誰か一人でも助かって欲しいと思っている」

    皆が沈黙の中で深く考えていた。家族の事。今までの人生の事。地上に戻ったらやりたい事。ただ時間が過ぎてゆく。水や食料はもうない。暑さと虚しさだけが漂っていた。
    その時、轟音が鳴った。

    「また崩れるぞ!」

    坑道の天井に大きなひびが入り、土砂が流れ込んだ。狭かった坑道は、更に半分ほどの空間になった。何人かが土砂に飲み込まれた。大柄の男もそのうちの一人のようだった。名前を叫ぶ声があった。だが返事はなかった。生き残った者たちも、恐怖に押し潰されかけていた。
    かろうじて空間に残った受信機から、再びノイズ混じりに声が聞こえた。

    「もうすぐチューブがそちらに到達する。その空間はもう持たない。誰か一人をすぐに選んでくれ」

    残された狭い空間で、全員が目配せをした。どの一人を助けるべきか、無言のやり取りがそこにあった。
    天井の通気シャフトから、細いチューブがスルスルと降りてきた。誰も手を伸ばさずに、その様子を静かに見つめていた。
    轟音が再び鳴った。次に崩れればもう全ての空間が埋まってしまうだろう。
    受信機が、轟音の中で何かを伝えた。

    「あなた。お願い。生きて」

    若い男の妻の声だった。
    その切実な思いを、若い男だけでなく、誰もが感じ取れた。
    その時、小太りの男が、チューブに手を伸ばした。そしてそれを若い男に差し出した。若い男は一瞬ためらったが、周りの作業員たちは静かにゆっくりと頷いていた。轟音で崩れ落ちる空間の中で、若い男は、そのチューブを自分の首の後ろに思い切り突き刺した。
    その瞬間、全身の感覚が消えた。

    意識は確かにそこにあった。

    だがそれ以外の全てが、どこかに過ぎ去ったように思えた。

    長くて何もない時間が過ぎた。

    ある時、頭の中に声が響いた。

    「あなた、聞こえる?生体反応から、あなたが唯一の生き残りだと分かっているの。みんなが必死に助ける方法を探しているわ。もう少しの辛抱よ」

    更に時間が経った。

    「地質調査は難航しているみたい。でも、みんな諦めていないわ。それにうちの子、今日から学校に通うことになったのよ。あなたに早く会いたがってるわ」


    更に時間が経った。


    「あの子ったら、最近は遊び歩いてばかりよ。親の心配も知らずに。それに私、再婚したの」



    更に時間が経った。



    「最近あまり来れずにごめんなさい。あの子が大学行きたいって言うから、色々物入りで」




    更に時間が経った。




    「あの子も独り立ちしたし、私もひと段落ついたわ。でも、旦那が口を聞いてくれないし、この歳になると新しい友達も探しづらいわ。テレビを見たりネットを見たりするだけ。こんな人生、意味あるのかしらね」




    更に時間が経った。




    「愛じゃないわ。罪悪感よ。あの時生きて、と言ってしまったから。正直言って、戻ってきて欲しいなんてもう思ってないの」





    更に時間が経った。





    「ごめんなさい。今日で来るのはもう最後になるわ。戦争が始まったの。あなたのチューブを止めると言う決断は、私には出来ない。これ以上罪を感じたくないの」





    更に時間が経った。





    もうその先には何もなかった。

    男の頭の中に、あの時の声だけが響いていた。

    「あなた。お願い。生きて」



    6.「水槽の亀」 (500字)

    私は水槽の亀が、亡くなった父なのではないかと疑っている。

    その亀は、私が子供の頃に父が近くの川で拾ってきたものだった。父は死ぬまでの十年間、その亀の世話をしていた。

    父が亡くなってからは、私が世話を引き継いだ。母は生き物が苦手だったので、自然とそうなった。

    水槽は父の書斎から、私の部屋へ移した。母は「ベランダで飼えば?」と言ったが、私はなんとなく、その亀を近くに置いておきたかった。

    私が机に向かって大学のレポートを書いている時、亀はじっとこちらを見ていた。その目は、いつも少し離れた場所から私を眺めていた父に似ていた。

    私が鏡の前で化粧をしている時も、亀はガラス越しにじっとこちらを見ていた。

    水槽の掃除をする時、亀はバケツの底から私を見上げていた。そこには、静かで優しい知性のようなものが感じられた。

    私は思わず、「お父さんなの?」と言った。

    すると亀は、ゆっくりと首を引っ込めた。まるで、気づかれてはいけない事に気づかれたみたいだった。

    それ以降、私は亀の視線に特別なものを感じることはなくなった。

    それでも私は、これからもあの亀を大切に世話していくつもりだ。

    父に対して、そう出来なかった分まで。


    7.「チェスルーム」 (3800字)

    真っ白な部屋の中央に、チェスボードだけが乗せられたテーブルがある。テーブルも、それに備え付けられた2つの椅子も真っ白だった。私と相手の男は、互いに向き合って椅子に座る。ブザーがなり、チェスの対局が始まった。戦況は当初、互角に進んでいた。実力は私と同等か、相手の方が少し上手に思えた。しかし中盤、相手が致命的なブランダーをした。私はそれを見逃さなかった。クイーンを失った敵の陣形は一気に崩れた。私はキングを追い詰めていく。相手の表情は強張っていた。額にじっとりと汗が滲んでいる。ピースを動かすたびに手の震えが大きくなっていく。私は静かに言った。

    「チェックメイト」

    男の目に、恐怖と悲しみが見てとれる。部屋の外から入ってきた処刑用アンドロイドがその男の後頭部に猟銃を向け、即座に撃ち抜いた。発砲音と共に頭部から大量の血と脳漿があたりに飛び散った。白黒のチェスボードが鮮やかな赤色に染まった。

    私はこの日々に慣れ始めていた。そんな自分が恐ろしく感じる事もある。数十年前、人工知能に世界の全てを委ねた時、はじめは何もかもが上手く行った。しかし数年前から、奴らは人類を「チェスによる知能検査」と称した選別で管理し始めた。負けた者を処刑する。それが人工知能の導き出した最適解だった。戦争も犯罪も確かに減った。医師も警察官もアンドロイドに置き換わり、人々には農業や鍛冶や靴職人など、機械に任せる必要もない仕事だけが残された。コンピュータに触れる機会は与えられなかった。長く管理され続けた我々には、もう逆らう気力すらもなかった。ただ、通勤の電車の中で棋譜を眺め、次の招待状におびえながら日々をやり過ごすだけだ。

    私は、靴職人だった。チェスは幼少期に祖父に手ほどきを受けただけで、あまりやってこなかった。それでも生き残るために、必死に学んだ。

    ここ最近、戦う相手が強くなってきていると感じていた。人類の選別がかなり進んでいるのだろう。

    この世界で最も高値で取引されるのは、著名なチェスプレイヤーの棋譜だ。誰もが彼らに教えを乞いたがる。同時に、決してチェスルームで出会いたくない相手でもある。

    次に私がチェスルームに招待された時、対戦相手はかつての客だった。数ヶ月前、彼の靴を私が作ったのだ。私たちは当たり障りのない世間話をした。

    「靴はどうですか」

    「とても履き心地が良いですよ」

    これからどちらかが死ぬということには一切触れない。対局開始のブザーが鳴る。二人は打って変わって、一言も発さなくなった。互いに相手の命を奪うために、最大限に思考を巡らせているからだ。互いに恨みなどない。ただ、そういう運命であるという事を私と彼は受け入れていた。

    相手は明らかに私より弱かった。私は相手のキングを追い詰める。以前この客とした会話を思い出す。

    「もうすぐ結婚記念日なんだ。妻と旅行に行くために靴を新調したいんだ」

    私は手が少し止まった。旅行には行けたんだろうか。その時、相手が投了を宣言した。自らの運命を、自らの意思で受け入れたのだ。

    相手は笑顔で私に語りかけた。

    「最期に、一番お気に入りの靴を履いてこようと思っていたんです。チェスは苦手なので、どうせ勝てないだろうと分かっていましたから。妻にも、別れを告げて来たので、もう後悔はないんです」

    彼は視線を足下に落とした。

    「素敵な靴をありがとう」

    相手の男はそう言った直後に、アンドロイドによって処刑された。チェスルームが赤く染まる。私は無言でチェスルームを立ち去る。私は独り身だ。もし私がわざと負ければ、彼は妻と再会できたんだろうか、という考えが頭をよぎった。

    私は翌日も仕事の合間にチェスの研究をする。他の人も同じようにそうしている。ふと、昨日の対戦相手の穏やかな笑顔が浮かんだ。私は何年も旅行に行っていないな、と気がついた。ただ今の私には、そんな心の余裕はなかった。時間を惜しむように、私は再び棋譜の研究に戻った。

    私はその後、ある女性と出会った。学生時代の同級生だった彼女が、偶然客として私の店に来たのだ。何度か会ううちに、やがて私たちは付き合うようになった。

    しかし、一つ問題があった。
    彼女とキスをする時、私はシシリアン・ディフェンスのクイーンサイドビショップの活用について考えている。彼女と食事をする時、私はイタリアンゲームにおけるキャッスリングのタイミングについて考えている。

    私が彼女を大切に思うほど、彼女との時間をないがしろにしなければならない。いつか来る次のチェスルームを生き延びなければ、この生活は終わってしまうからだ。
    彼女は言う。

    「私って、ラッキーガールなのよ」

    彼女は25年の人生で、一度もチェスルームに招待されたことがなかった。18歳以下は参加を免除されているが、25歳まで一度も招待されないのは天文学的な確率だ。

    「私にとって一番幸運だったのは、あなたに出会えた事よ」

    彼女の笑顔が眩しかった。私自身、こんな世の中になってからずっと笑っていなかったと気がついた。

    私は真剣に彼女を愛し始めた。数年が平和に過ぎて、やがて私たちは結婚をして、家を買った。彼女に靴をプレゼントした。彼女の好きなピンク色の靴だった。チェスのことなどもうどうでも良かった。私にとって、今以上に幸せな時はないと感じていた。

    新たな生活が始まった時、チェスルームへの招待状が届いた。対戦相手は著名なチェスプレイヤーだった。招待されたのは、彼女だった。

    私は初めて声を上げて泣いた。どうにか自分が代わりにチェスルームに行きたかった。しかしそれは許されない。彼女はピースの動かし方さえ知らないのだ。一週間後の対局までに、トッププレイヤーのレベルになれるはずもない。

    彼女は私を慰めた。

    「大丈夫。私は、必ず帰ってくるから」

    その声は震えていた。

    「あなたのくれたピンクの靴。あれを履いていくわ。私にとって一番大切な靴だもの」

    私は残された時間でできる限りのことを教えた。無意味な事は分かっていた。彼女も必死に聞き入った。チェスの駒を動かす時、彼女とのいくつもの思い出が目前に浮かんだ。私の目から涙が溢れて、盤上にこぼれ落ちた。

    彼女は当日、ピンクの靴を履いて行った。

    「行ってきます」

    と彼女は笑顔で手を振った。さよならは言わなかった。私は手を振りかえした。できる限り、笑顔で見送ろうと思った。

    「私はラッキーガールよ」

    彼女の姿が見えなくなった時、彼女の声が頭の中に響いた。

    その夜、私は夕飯を作って待っていた。二人分をテーブルに並べたが、そこにいたのは一人だけだった。

    私は仕事を辞めた。チェスの研究もやめて、チェスボードや棋譜や定石本も全て捨てた。ただ残りの人生を、彼女の存在を感じられるこの家で過ごそうと思った。気力もなく、ほとんどをベッドの上で過ごした。

    数年が経って、チェスルームへの招待状が届いた。私は意図的に無視をして、処刑されようとした。しかし、対戦相手として書かれていたのは、妻を葬ったあのチェスプレイヤーの名だった。

    私は最期に戦おうと決めた。残り一週間、再びチェスに向き合う覚悟を決めた。私は初めて、強制ではなく自分の意志でチェスに向き合っていた。私は相手のようにチェスプレイヤーではない。靴職人だ。私がチェスと向き合うのは、2度も自分の靴を履いて行った人間が、チェスルームで死んだのを目の当たりにしたからだ。私自身が最後に、自分の靴を履いて生きて帰ってくる事で、それまでの悲しみを少しだけ精算できる気がしていた。私はかつて履き古した靴を履いて、チェスルームへ向かった。

    チェスルームに入ると、すでに相手が待っていた。大会の優勝経験もある実力者だった。高そうな靴を履いている。私の見窄らしい靴とは大違いだった。

    「よろしく」

    彼は最低限の挨拶をした。その表情からは、自分が負けるとは微塵も思っていない自信が見てとれた。目の前の男が、かつて葬った相手の夫であるとは考えもしないだろう。しかし私もそんな事を伝える気はなかった。私だって、今まで何人もの人生をこのチェスルームで終わりにしてきたのだから。

    対局開始のブザーが鳴った。

    対局は相手が当然のように圧倒していた。相手は一切のミスをせず、まるで人工知能と戦っているように思えた。私は追い詰められていた。しかし、決して投了はしなかった。相手は「またか」というような呆れた表情を一瞬見せただけで、すぐに淡々と対局を進めていた。しかしその一瞬、彼の傲慢が緩手を生じさせた。私は見逃さなかった。逆転はできなくとも、互いに最善手を指した時に千日手が生じる盤面に持ち込んだ。

    つまり、ドローだった。

    相手は予想外の出来事に、呆然としていた。初めて彼を人間らしく感じた。

    ドローの場合、どちらかがランダムで処刑される。2体のアンドロイドが入ってきて、二人の背後にそれぞれ立ち、猟銃を後頭部に向けた。相手は取り乱していた。初めて死を突きつけられた恐怖に震えていた。アンドロイドが機械的な音声で、カウントダウンを始める。

    私は静かに目を閉じた。今までの人生を振り返っていた。初めて作った靴。初めて売れた靴。彼女との出会い。ピンクの靴。あの家での空虚な日々。

    「私にとって一番幸運だったのは、あなたに出会えた事よ」

    その言葉を思い出し、私は少し微笑んだ。

    カウントダウンが終わり、発砲音が響いた。

    その衝撃で、履き古した靴の上に赤く染まったキングが落ちた。



    8.「沈む男」 (500字)

    私は若い頃、この家を買った。

    身の丈には合わないほど大きな家だった。

    私はローンを払うために必死に働いた。

    給料のほとんどは、この家に消えていった。

    気づけば、家そのものが私の人生になっていた。

    そして私は、それを誇らしく思っていた。

    ある日、私は、自分の足が床に沈んでいることに気づいた。

    驚き、助けを呼ぼうとした。

    だが、そのためには床を壊さなければならないと気づき、やめた。

    家を壊されるくらいなら、このままでいいと思ったのだ。

    足が沈んでいても、家の中では問題なく動けた。

    今日は30センチ沈んだ。

    かなり身動きが取りづらくなってきた。

    だが、それを辛いとはもう感じなくなっていた。

    私はこの家を離れられない。

    財産のほとんどを、この家のローンに注ぎ込んだからだ。

    もし家を捨てれば、私には何が残るというのか。

    今日は40センチ沈んだ。

    もう私は腰まで埋まっていた。

    行動範囲は限りなく狭くなった。

    だが、むしろそれが心地よかった。

    今日は50センチ沈んだ。

    私は、わずかに床から目と鼻だけを出していた。

    これ以上沈めば、完全に家に飲み込まれてしまうだろう。

    ある朝目を覚ますと、私は家の中にいた。

    家の中にいたのは、ずっとそうなのだが、私は完全に「中」にいたのだ。

    私自身の姿形を誰かが見ることはないだろう。

    私はついに、家そのものになった。


    9.「弾丸と山本」 (1400字)

    今日、国民全員に対して一丁のピストルが配られた。そのピストルには、一発の弾丸が装填されていた。私は世の中に疎いのだが、新たな国家政策の一環だそうで、一発に限っては、法律に縛られず、自由に使えるというものらしい。

    私の住むアパートのポストにも、そのピストルが入れられていた。そんな物騒なものを持ちたくはなかったが、放置するわけにもいかないので、とりあえず部屋へ持ち帰った。手に収まる大きさで、ずっしりと重く、鈍く黒い光を放っていた。弾倉を覗くと、確かに金色の弾丸が、一発だけ入っていた。

    きっとこのアパートの他の住人のポストにも、同じようにこれが入っていたんだろう。私はそう思うと、その夜、妙に落ち着かなくなった。近所の人々とは特に揉め事もなく、良好な関係ではあったが、一応枕元にピストルを置いて、いつでも取れるようにして寝た。

    翌日、職場へ着くと、いつものように皆と挨拶した。隣のデスクの山本も、おしゃべりな佐藤さんも、怒りっぽい部長も、誰もピストルには触れなかった。ただ、いつものようにパソコンに向き合って、仕事をしていた。しかし、そこにはいつもと違う重い雰囲気があった。

    私はピストルを家に置いてきたのだが、それが少し怖くなってきた。よく考えれば、普段から持ち歩くべきものではないのだろうか。隣の山本が、私になんらかの恨みを持っていて、カバンにピストルを忍ばせているのかもしれないのだ。山本は、もう2年も隣で仕事をしているというのに、無口で雑談すらしない、何を考えているかよくわからないやつだ。部長はいつも山本に怒鳴り散らしていたが、流石に今日は何も言わないようだ。

    私が軽く視線を山本に向けると、奴は突然立ち上がった。

    「部長、お話があります」

    オフィスに緊張が走った。あの山本が自ら発言することなど、今までなかったことだ。

    部長はびくんと跳ねるように立ち上がって、山本に半身を向けた。

    「なんだ、山本。私に話というのは」

    部長の声は震えていた。日頃、山本から恨みを買っているという自覚があったのだろう。部長はジャケットの右ポケットに手を差し込んでいる。おそらく、例のピストルを護身用として持ってきていたのだ。

    山本が、いつも持ってきているやたらでかいカバンをデスクの下から取り出した。何かをゴソゴソと、取り出そうとしている。きっとピストルを探している。銃撃戦が始まるぞ。オフィスの全員がそう覚悟して、慌ててデスクの下へ潜り込んだ。

    部長がピストルを構えようとした瞬間、山本は白い何かをカバンから取り出した。

    「これ、お土産です。両親が最近旅行に行ったらしくて、私では食べきれないので、皆さんにも良かったら食べてほしいと思って持ってきました」

    それは、どこかの地方の和菓子が入った箱だった。部長は拍子抜けしたように「そうか」と言って、椅子にへたり込んだ。周りの私たちも、腰を抜かして、しばらく床から立ち上がれなかった。山本は、その箱を部長に渡すと、平然とデスクに戻って仕事を始めた。

    私は、体調が悪いと言って、早退させてもらうことにした。他の何人かも、そうするようだった。帰り際、山本は私に向かって、「お大事に」と小さな声で言った。

    私はアパートの部屋に戻ると、布団に潜り込み、ピストルを両手で包み込むように握った。これから毎日、誰かから撃たれるかもしれない恐怖に怯えなければならないのか。いや、私だけではない。きっとこの国の皆がそれに怯えているのだ。山本も含めて。

    まだ昼間だというのに、外はやけに静かだった。



    10.「空白の階段」 (8500字)

     私は気づいたんだ。この階段をどれだけ上ったところで、きっと何も変わらないのだと。だってそうじゃないか。上った段を数えて、数えきれないほど大きな数字になったら、また最初から数え直す。永遠に続くようなこの階段には、本当は終わりなんてなくて、私はずっと同じ場所を歩き続けているだけなのではないか。

     目を覚ますと、私は階段の上に横たわっていた。辺りは、カメラの明度調整が狂った時のように白く飛び、何も見えない。真っ白な空間の中に、螺旋状の階段だけが、下から上へとそびえ立つように続いている。

     ここはどこだろう。

     私は夢の中にいるような心地で、辺りを見回した。何も覚えていない。自分の名前さえも。

     しばらく呆然と座り込んでいたが、いつまでもここにいることに不安を覚え始めた。どこかへ行かなければならない気がした。

     私は何となく、階段を上ることにした。別の場所へ行くのなら、下った方がいくらか楽そうではあったが、得体の知れない恐怖がそれを拒んだ。ここはこの世ならざる場所で、下は地獄へ続いているのではないか。そんな想像をしてしまったからだ。

     天国と地獄。

     私はなぜ、そんなものを知っているのだろう。自分が何者かさえ分からないのに。

     私は黙々と階段を上り続けた。どれほど経ったのか分からない。時折、上を見上げてみても、ただ階段が続いているだけで、景色は何一つ変わらなかった。

     どこにも辿り着けないのではないか。

     そんな不安を振り払うため、私は一段上がるたびに数を数えることにした。数字が増えていけば、自分は確かに進んでいるのだと、そう思いたかった。

     1。2。3。

     100。1000。1万。

     私はひたすら数え続けた。だが、やがて自分がどこまで数えたのかも分からなくなった。私は再び1から数え直した。そんなことを何度も繰り返しているうちに、ふと異変に気づいた。

     私は、まったく疲れていなかった。

     一度も休まずに歩き続けていたはずだ。数え切れないほどの段数を。それなのに息は乱れず、足も痛まない。空腹も感じなければ、眠気さえ訪れない。

     私は、自分の置かれた状況の異常さに、はっきりと恐怖を覚え始めた。

     もっとも、記憶のない私には、何が正常なのかさえ分からなかったのだが。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     由美子は台所で夕食の支度をしながら、夫の帰りを待っていた。

     夫の秀雄は営業職で、帰宅が遅くなることもしばしばあった。この日も午後六時を過ぎても戻っていなかったが、由美子は妙な胸騒ぎを覚えていた。

     秀雄は五十歳を過ぎた頃から、足を痛めていた。

    「働きすぎだろうな」

     彼はそう言っていた。由美子が「無理しないで」と心配しても、秀雄は頑なに休もうとはしなかった。

    「もう少しで、大口の契約が取れそうなんだ」

     今朝も、痛めた足をかばうような足取りで出勤していった。

     リビングの電話が鳴った。

     嫌な予感がして、由美子の鼓動が跳ね上がった。ディスプレイには見知らぬ番号が表示されている。

     恐る恐る受話器を取ると、男性の声が聞こえた。

    「もしもし。堀田秀雄さんの奥様でしょうか。こちら〇〇病院です。先ほど、旦那様が駅で倒れているところを発見されまして。ええ。階段から転落されたようで……」

     由美子は病院の名前を震える手でメモすると、着の身着のまま家を飛び出した。

     一月の夜空には、雲に霞んだ月がぼんやりと浮かんでいた。冷たい北風が、由美子の白髪交じりの髪を揺らす。頬を伝う涙が、まばらな街灯の光に照らされていた。

     病室へ着くと、秀雄がベッドに横たわっていた。頭には包帯が巻かれている。

    「あなた。私よ。しっかりして」

     由美子が呼びかけても、返事はなかった。

     秀雄の表情は穏やかで、ただ眠っているように見えた。

    「旦那様は転倒の際、頭を強く打たれています。生命活動に関わる器官に異常はありません。脳も覚醒状態に近い反応を示しているのですが、なぜか意識が戻らないのです。我々としても、目を覚ますのを待つしか……」

     医師は申し訳なさそうに言葉を濁した。

     由美子はベッドのそばへ歩み寄り、秀雄の手をそっと両手で包み込んだ。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     私は、歩き続けていた。

     相変わらず、頭上には階段しか見えない。疲れることがない以上、足を止める理由もなかった。

     だが、心だけは確実に擦り減っていた。

     どこまで続くのだろう。

     ふと立ち止まり、下を覗き込む。

     今まで上ってきた階段が、螺旋を描きながら遥か下まで続いていた。ぐるぐると渦を巻き、その中心の闇へ吸い込まれていくように。

     ここから飛び降りたら、どうなるのだろう。

     どこかへ辿り着けるのだろうか。

     それとも、最初に想像した通り、地獄へ落ちていくのだろうか。

     私は慌てて首を振った。

     自分が恐ろしいことを考えている気がしたからだ。

     それだけはしてはいけない。

     たとえ終わりが見えなくても、私は上り続けなければならない。なぜか、そんな気がした。

     私は再び階段を上り始めた。

     どれほどの時間が経ったのか分からない。

     その時、ふと右手に温もりを感じた。

     こんなことは初めてだった。

     何も感じなかった私にとって、それは驚くほど心地よい感覚だった。まるで誰かに手を握られているような。

    「あなた。起きて」

     頭上から、透き通るような声が聞こえた。

     とても懐かしく、安心する声だった。

    「誰だ」

     私は思わず叫び、階段を駆け上がった。

     終わりは相変わらず見えなかったが、それでも、その声だけが希望のように思えた。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     秀雄が倒れてから、十年が経った。

     彼の意識が戻ることは、一度もなかった。

     最初の頃は、会社の同僚や学生時代の友人が見舞いに訪れていた。しかし年月が経つにつれ、その数も次第に減っていった。

     皆、もう戻ってこないと思っているのだろう。

     それでも由美子だけは、いつか目覚める日を信じて、毎日のように病院へ通い続けていた。

     最近、自分の髪が随分白くなった気がする。

     それに比べ、秀雄は十年前からほとんど変わっていないように見えた。

     その日も由美子は、一人で暮らすには広すぎる家へ戻ると、布団へ沈み込むように眠りについた。

     夢を見た。

     真っ白な世界だった。

     永遠に続く螺旋階段を、秀雄が必死に駆け上がっている。

     遥か上にいる由美子へ向かって、何かを叫んでいた。

     由美子も必死に応えようとする。だが、どれだけ声を張り上げても、決して届かない。

     そこで目が覚めた。

     枕は涙で濡れていた。

     ここ数年、様々な大学や研究機関が、秀雄の脳を調べたがった。

     彼が研究対象として扱われることに、由美子は抵抗を感じていた。だが、もしそれで目覚めるきっかけになるのなら、何でもよかった。

     どの研究機関も成果を出せなかった中で、あるベンチャー企業が由美子の目に留まった。

     その企業は、電子ネットワーク技術を応用し、人間同士の思考を共有する装置を研究していた。

     たとえ秀雄が目覚めなくても、意識の中でなら、もう一度会えるかもしれない。

     由美子はそう考えた。

     あの夢の中で会ったように。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     私はつまずいた。

     あの声が聞こえてから、無我夢中で走り続けていたからだ。段数を数えることも、いつの間にかやめていた。

     あの声だけが希望だった。

     どれほどの時間が経ったのか分からない。あるいは、一瞬の出来事だったのかもしれない。

     片足が階段を踏み外した。

     私は思わず声を上げ、もう片方の足で踏ん張ろうとした。しかし、後ろへ傾いた身体を支えることはできなかった。

     私は、今まで上ってきた階段を転がり落ちていった。

     それは止まらなかった。

     上ってきた時よりも、遥かに速い速度で。

     激しく回転する視界の中で、私は絶望していた。

     このまま地獄まで落ちるのだろうか。

     それとも永遠に転がり続けるのだろうか。

     今までの努力が無駄になった悲しみと、何もできない自分への怒りで、胸が張り裂けそうだった。

     やがて私は、考えることをやめた。

     すべて運命なのだと受け入れた。

     静かに目を閉じ、自分の意識を手放した。

     気がつくと、私は駅のホームに立っていた。

     空はすでに暗く、帰宅途中の会社員や部活帰りの学生たちが、まばらに電車を待っている。

     私は改札へ続く階段を一段下りた姿勢のまま、立ち尽くしていた。

     通り過ぎる人々が、不審そうな目を向けてくる。

     私は我に返り、ゆっくりと階段を下り始めた。

     そうだ。家へ帰る途中だったんだ。

     私は改札を抜け、街を歩いた。

     何十年ぶりかに見る景色のように思えた。

     おかしい。毎日見ているはずなのに。

     家へ着き、玄関を開ける。

    「おかえりなさい」

     台所から、由美子の声が聞こえた。

     その瞬間、なぜか涙が溢れた。

     自分でも理由が分からず、慌ててスーツの袖で拭う。

     返事がないことを不思議に思ったのか、由美子が台所から顔を出した。

    「どうしたの、あなた」

    「何でもないよ」

     私は涙を隠すように、靴紐を結び直すふりをした。

    「そう。夕飯、できてるわよ」

     台所から、肉じゃがの香りが漂ってくる。

     由美子が食卓に皿を並べ終えると、私たちは向かい合って座った。

     私は彼女の顔を見つめた。

     妙に懐かしかった。

     少し見つめすぎたのか、由美子は照れたように目を伏せた。

     私は慌てて箸を取った。

     その時、彼女がぽつりと言った。

    「二人で食事をするなんて、十年ぶりですもの」

     私は箸を止めた。

    「何を言ってるんだ。昨日も一昨日も、一緒に食べただろう」

     何かがおかしい。

     私は平静を装いながら食事を続けた。

     だが、味がしない。

     口の中には確かに肉やじゃがいもの感触がある。それなのに、何も感じない。

     私が困惑していると、由美子が静かに言った。

    「このシステムは、まだ完全じゃないの。味覚や細かな触覚は、うまく再現できないみたい」

     由美子は少し笑った。

    「でも、そんなことどうでもいいわ。またあなたに会えたんですもの」

     その笑顔を見た瞬間、私は急に恐ろしくなった。

     思わず立ち上がる。

     身体がテーブルにぶつかり、皿が床へ落ちた。

     しかし皿は割れず、床へ沈み込むように消えていった。

    「あなた。落ち着いて」

     由美子が立ち上がる。

    「ここは、私の記憶の中なの。あなたの意識と繋がるまで、本当に長かった。でも、やっと成功したのよ」

     激しい頭痛がした。

     私はよろめき、由美子が背中を支える。

     その瞬間、記憶が蘇った。

     そうだ。

     私は駅の階段から落ちたんだ。

     それから——。

     鼓動が激しくなる。

     冷や汗が流れた。

    「今日はここまでにしましょう」

     由美子が優しく言った。

    「失った時間を、少しずつ取り戻していけばいいの。この世界で」

     由美子の輪郭が、周囲の景色と混ざり合うように歪み始める。

     やがて、すべてが途切れた。

     私は再び、あの白い空間にいた。

     だが、もう階段はなかった。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     意識を共有するには、被験者のどちらかが睡眠状態である必要があった。

     両者の脳が同時に覚醒していると、意識同士が拒絶反応を起こし、決して交わることができないのだ。

     しかし秀雄の脳は、昏睡状態にありながらも異常なほど活発に活動していた。

     薬剤で活動を抑制しようとしても、効果はほとんど見られなかった。

     そのため、実験では由美子が眠った状態で接続を行うしかなかった。

     由美子は、S社の施設で巨大な装置を頭部に装着され、秀雄の隣に横たえられた。

     初めのうち、実験は失敗続きだった。

     秀雄の脳内情報が、脈絡もなく由美子へ流れ込んでくる。

     それは意識と呼べるものではなかった。

     断片的な記憶。

     意味を持たない映像。

     漠然とした感情。

     そうした情報が洪水のように流れ込み、実験後の由美子は激しい頭痛と吐き気に襲われた。

     それでも、彼女はやめなかった。

     どれほど苦しくても、秀雄の存在を感じられることが嬉しかった。

     研究者たちが身体への負担を理由に中止を提案しても、由美子は続行を望んだ。

     そして、ついにその日が来た。

     由美子は夢を見ていた。

     だが、それは夢と呼ぶにはあまりにも鮮明だった。

     秀雄が倒れた、あの日の光景。

     由美子は台所に立っていた。

     玄関のドアが開く音がする。

     由美子は思わず駆け出した。

     帰ってくるはずのない夫が、そこに立っていた。

     あの日と同じスーツ姿で。

    「ただいま」

     秀雄が静かに言った。

    「あなた——」

     由美子がそう呼びかけた瞬間、世界が砂嵐のように崩れた。

     そこで目が覚めた。

     意識共有が、初めて成功した瞬間だった。

     それから実験は少しずつ進展していった。

     何度も繰り返すうちに、秀雄の意識は長く由美子の世界へ留まれるようになっていった。

     由美子は、その過程で、意識的にあの日の風景を作り出せるようになっていた。

     むしろ彼女にとっては、そちらの方が現実に近かった。

     その世界では、実際より若い姿でいられた。

     想像しさえすれば、どんなものでも生み出せた。

     そして何より、そこには秀雄がいた。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     目を覚ますと、私はあの家の居間に座っていた。

     窓の外では夕暮れのような光が街を照らしている。しかし、どれだけ時間が経っても、空は暗くならなかった。

     私は一人、食卓についていた。

     由美子は台所に立っている。鍋をかき混ぜる後ろ姿を見ていると、不思議な安心感があった。私はずっと、この光景へ帰りたかったのかもしれない。

    「もうすぐできるわよ」

     由美子が微笑む。

     肉じゃがの匂いが漂う。私はふと、自分が空腹を感じているのか確かめようとした。しかし分からなかった。腹が減っているのか、減っていないのかさえ曖昧だった。

     それでも、この家には温かさがあった。

     私はしばらく黙って部屋を見回した。時計がある。だが、針は止まっていた。

    「なあ、由美子」

    「なに?」

    「今、何時なんだ」

     由美子は一瞬だけ黙った。

    「そんなこと、気にしなくていいじゃない」

     由美子は料理を運びながら、何事もなかったように言う。

    「あなた、少し休んだ方がいいわ。ずっと疲れてたんですもの」

     私はその言葉に、妙な引っ掛かりを覚えた。

     疲れていた。

     確かにそうだった。

     契約の数字に追われ、足を痛めても働き続け、毎日、階段を上るように生きてきた。

     だが、その疲れから解放された今、私は本当に安心しているはずなのに、胸の奥に説明できない不安が残っていた。

    「由美子」

    「なに?」

    「俺たちは、このままでいいのか」

     由美子の手が止まった。

    「どういう意味?」

    「ここには朝も夜もない。外へ行っても、人がいない。時計も動いていない。まるで、時間が止まってるみたいだ」

     由美子はしばらく俯いていたが、やがて小さく笑った。

    「止まっていたって、いいじゃない」

     その言葉を聞いた時、私は胸の奥が冷たくなるのを感じた。

     由美子は、本当にこの世界に留まるつもりなのだ。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     なぜ分かってくれないのだろう。

     由美子は台所で皿を洗いながら、そんなことを考えていた。

     現実へ戻ったところで、何があるというのか。

     十年だ。

     私たちは十年も失ってしまった。

     秀雄の身体は、きっともう満足に動かないだろう。私だってそうだ。髪は白くなり、身体も弱った。あの頃には戻れない。

     でも、この世界は違う。

     ここでは私は若いままでいられる。秀雄も苦しまなくていい。二人で静かに暮らしていける。

     それなのに、秀雄はまたどこかへ行こうとしている。

     由美子は恐ろしく感じた。

     また失うのだと思った。

     十年前と同じように。

     ふと窓の外を見ると、遠くの景色がぼやけていた。

     輪郭が崩れている。

     由美子は息を呑んだ。

     景色の一部が、古びた壁紙のように剥がれ落ちていく。

     世界が壊れ始めていた。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     私は家を飛び出した。

     由美子の言葉を聞いていると、息が詰まりそうだった。

     この世界は穏やかだ。苦しみもない。だが、何かが決定的に欠けている。

     私は歩き続けた。

     街の外れまで来た時、景色が突然途切れた。

     そこには何もなかった。

     真っ黒な空間が、どこまでも広がっている。

     そして、その先に階段があった。

     黒い階段だった。

     今までの白い階段とは違う。

     それは上ではなく、下へ向かって続いていた。

     永遠と、どこまでも続いているように見えた。

    「あなた、助けて」

     階段の遥か下の方から、由美子の声が聞こえた気がした。

     私は目を閉じた。

     あの時、私は下ることを恐れていた。

     地獄へ続いている気がしたからだ。

     だが、違うのかもしれない。

     私は静かに、黒い階段へ足を踏み出した。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     由美子は、もうほとんどを夢の中で過ごしていた。

     現実の身体がどうなっているのか、考えないようにしていた。きっと、秀雄と同じなのだろう。意識を失ったまま、病院のベッドに横たわっている。

     それでもよかった。

     この世界にいる時だけ、由美子は生きている気がしていた。

     なのに秀雄は、また現実へ戻ろうとしている。

     どうして。

     現実には、何も残っていないのに。

     その時、壁が大きく崩れた。

     空が裂ける。

     街並みが、音もなく消えていく。

     由美子は恐怖した。

     現実の身体が、限界を迎えようとしているのだと理解した。

    「いや……」

     由美子は秀雄を探して走り出した。

     お願い。

     行かないで。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     私は黒い階段を下り続けていた。

     一段下りるごとに、景色が浮かんでは消えた。

     若い頃の由美子だった。

     二人で笑いながら歩いた帰り道。

     狭いアパート。

     初めて買った食器。

     先に眠ってしまった夜、由美子がまだ隣にいたこと。

     私は知らなかった。

     いや、見ようとしていなかったのかもしれない。

     由美子は、こんなにも長い間、一人で耐えていた。

     気づくと、私は涙を流していた。

    「あなた……助けて」

     由美子の声が、さらに近くなる。

     私は階段を下り続けた。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     世界が崩れていく。

     家も、街も、空も。

     全部消えていく。

     由美子は黒い階段を見つけた。

     秀雄はきっと、そこにいる。

     由美子は必死で階段を駆け下りた。

     怖かった。

     秀雄が、一番下へ辿り着いてしまう気がした。

     そうなれば、この世界は終わる。

     私はまた一人になる。

    「待って!」

     由美子は叫びながら、暗闇を下っていった。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     一番下には、小さな部屋があった。

     その中央に、ベッドが置かれている。

     そこに、一人の老婆が横たわっていた。

     白く染まった髪。深く刻まれた皺。骨ばった細い腕。

     だが私は、一目で分かった。

     由美子だった。

    「やっと来てくれたのね」

     彼女は微笑んだ。

    「待たせてすまなかったな」

     私はベッドのそばへ腰を下ろした。

    「あの日、階段で転んだ時、意識が遠のく中で、一番最初に思ったのは君のことだった。君はきっと悲しむだろうな、って」

     由美子は静かに涙を流した。

     そこへ、後ろから声がした。

    「ダメ」

     振り返ると、若い頃の由美子が立っていた。

    「戻ってはダメ。現実には、私たちの望むものなんてもうないわ」

     私はしばらく黙っていた。

     そして、老いた由美子を抱きしめた。

    「君はまだ未来を生きなくてはいけない。私がいない未来を。きっと悲しいだろう。でも、私は君の記憶の中で生き続けるから」

    「ありがとう、あなた」

    「やめて!」

     若い由美子が叫ぶ。

     次の瞬間、全てが白く崩れ去った。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     由美子が目を覚ますと、病院の天井が見えた。

     医師たちが慌ただしく動いている。

     実験中、由美子の意識は長時間戻らなかったらしい。脳への負荷が限界に達していたのだと説明された。

     そしてもう一つ。

     秀雄が危篤状態にあることも。

     由美子は車椅子に乗せられ、病室へ向かった。

     扉が開く。

     そこには、年老いた秀雄が横たわっていた。

     十年という時間を、そのまま背負ったような姿だった。

     由美子はゆっくりとベッドのそばへ寄る。

     そして、秀雄の手を握った。

    「今まで、ありがとう」

     その瞬間。

     秀雄の手が、静かに彼女の手を握り返した。

     由美子は、泣きながら微笑んだ。

     やがて秀雄は、小さく息を吐き、

     静かに息を引き取った。

     由美子はしばらく、その手を握り続けていた。

    ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇ ◇

     気がつくと、私はまた階段の前に立っていた。

     白く眩い光の中を、螺旋階段がどこまでも上へ続いている。

     だが今度の私は、その階段がどこへ続いているのかを知っていた。

     私は静かに、その光の降り注ぐ方へ向かって、ゆっくりと階段を上っていった。



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