
お茶の湯気の向こうにあるも
終章 ―人生の終わりの日まで、小さな幸せを集めて生きる―
この本を書きながら、私は何度もこれまでの人生を振り返った。
産婦人科病棟で、生まれたばかりの命を抱く家族の笑顔を見てきた。
祖母の最期を見送り、透析室では病気とともに生きる人たちの姿を見てきた。
どの経験も、私に「人はどう生きるのか」という問いを残してくれた。
私は長い間、幸せとは何かを探していた。
もっと頑張れば見つかるのではないか。
もっと成功すれば、もっと豊かになれば、その先にあるのではないか。
そんなふうに思っていた時期もある。
けれど今は、幸せはどこか遠くにあるものではなく、毎日の暮らしの中に静かに息づいているものなのだと思う。
私は、片付けが好きなのだと思う。
でも、それはきれいな部屋を見たいからではない。
物を減らしたいからでもないし、誰かに褒められるような家にしたいわけでもない。
私が本当に整えたいのは、その先にある時間なのだ。
お気に入りのテーブルクロスを広げること。
季節の花を一輪飾ること。
湯気の立つ紅茶をゆっくり味わうこと。
焼きたてのパンの香りに包まれること。
発酵あんこを炊いて、家族と「おいしいね」と笑い合うこと。
天然石を手に取り、小さなアクセサリーを作ること。
写真を撮り、手紙を書き、その日の思い出をスクラップブッキングに残していくこと。
そんな時間のために、私は片付けをしている。
散らかった部屋では、心まで落ち着かない。
探し物をしていると、せっかく咲いた花にも気づけない。
物が多すぎると、自分が本当に大切にしたいものが見えなくなる。
だから私は整える。
部屋を整え、時間を整え、心を整える。
そうして生まれた余白に、自分の「好き」を少しずつ置いていく。
私は、人生の終わりに豪華な家や高価な物を思い出すことはないと思う。
思い出すのはきっと、小さな時間だ。
紅茶の湯気。
お気に入りの器。
窓辺の花。
手帳を開いた静かな朝。
家族と囲んだおやつの時間。
「今日はいい日だったね」と笑い合えた夕暮れ。
父が、祖母の最期を見ながら言った言葉がある。
「最後には、ただ息をしている肉体がそこにあって、ただ時が流れていく。」
その言葉は、今でも私の心に残っている。
だからこそ、その日が来るまでの時間を、私は大切に生きたい。
力いっぱい働く日があってもいい。
夢中になって何かを作る日があってもいい。
そして、お茶を飲みながら何もしない午後があってもいい。
私は、そんな「集中と脱力」を繰り返しながら生きていきたい。
片付けとは、物を捨てることではない。
自分が本当に生きたい人生のために、場所と時間を整えることなのだと思う。
今日も私は、少しだけ部屋を整える。
そして、お湯を沸かす。
湯気の向こうには、私が大切にしたい暮らしがある。
生と死を見つめ続けた私が最後にたどり着いた答えは、とてもシンプルだった。
人生は限られている。
だからこそ、自分の好きなものを大切にしよう。
大切な人と過ごす時間を大切にしよう。
そして、何でもない今日という日を、丁寧に味わいながら生きていこう。
それが、私にとっての「片付けでかなう世界観」なのである。