
三度の偶然 ―五月の風―
第一章 仙台の夜
最初の出会いは仙台に出張した三十二歳の時だった。
出張二日目の夜、酒の誘いを断って仙台の街を一人歩いた。
そこは有名なアーケード通りで、仙台の七夕祭りのニュースでは関西でも紹介される場所だった。
まだ陽が残っていた。私は公衆電話から会社へ短い連絡を入れた。受話器を置くと使われなかった小銭が、大きな音を立てて百円玉と十円玉が返却口に勢いよく戻ってきた。
当時の私は趣味らしい趣味もなかった。定年後にでも弾けたらいいな、そんな軽い気持ちでピアノ教室を探していた。手始めに教室のパンフを貰う事から始めようと考えていたが残業続きで疲れ切っていた私は、休日になると出かける気も起きず先延ばしばかりしていた。
そんなことを思い出し「時間が空いたこの機会に音楽教室でもあれば資料だけでも貰って帰ろう」と思い探しながら歩いていた。
仙台の街で楽器店の看板とCDショップの文字が目につき店に入った。扉を開けカウンター近くにいた店員に尋ねたら、この店にも全国展開している音楽教室があったのは幸運だった。
「音楽教室は二階ですが大阪の教室のことは分りかねます」と丁寧に断られた。分からないのなら仕方がないので礼を言って店を出ようとした際に、奥から一人の女性が出てきた。手には楽譜とブリーフファイルを持っていた彼女は、少し急いでいたのかうっすら額の汗が光っていた。
店員から手短に話を聞いた女性は私に向き直り聞いてきた。
「少しお時間はありますか」
「はい」
「じゃ、大阪に聞いてみますね」
しばらくした後、事務室から出てきた女性は手にその教室の全国版リーフレットを持っていた。梅田の教室に問い合わせて聞いた内容を教えてくれた。
「ピアノお好きなんですか」
「興味があるだけで」「今からでも六十歳をめどにして頑張れば弾けるようになりますか」
「今から直ぐに頑張られた方がいいように思います」とにこやかに話す笑顔が気に入った。それ以上何も思いつかないままリーフレットを受け取りCDが並ぶ店内を見回していると、「これからフルートのレッスンがあります。見学されますか」と聞いてきた。
「音楽教室が初めてで、ご興味をお持ちなら使用する楽器は違いますが、どうぞ見学していってください」生徒は三名いた。
「途中退出していいのであれば是非見学させてください」と応えた。
それだけの、ありふれた出会いだった。
出張先の何でもない一コマに過ぎず、いつしか忘れてしまう出来事だった。その時のリーフレットは乱雑な部屋の中に埋もれていった。
当時の私は、新規事業の提案書作りに追われていた。重役会議でのプレゼンも控えている。仙台出張もその仕事の一つだった。
第二章 クラシックの夜
大学時代、ほぼ四年間を一緒に過ごした親友に松井雄介がいた。
雄介は私と違って社交的で明るく、何事も前向きに考える男だった。
卒業して四年目の夏に、
「俺、今年中に結婚するわ」何の脈絡もなく雄介が言い出した。
「誰と?」「前に言ってた音大の子か」
「ああ、若松由美子っていうんだ」
「本気か、俺たちまだ二十六だぞ、早くないか」
「俺は惚れた、惚れたら一緒に居たい」「お前もそうだろう」
「お前の家ならお金の心配はいらないだろうけど」
私は仮に今、彼女がいても結婚にまで踏み切れる自信はなかった。
「言っとくが地味婚だぜ」「だから親友のよしみで祝儀はよろしく頼むよ」と雄介特有のニカッとした笑顔を見せて言ってきた。由美子も同じ考えだという。彼女の家も相当な資産家だと聞いていたので少し意外だった。
由美子は雄介と同じで、初対面から距離を詰める事が出来るタイプの女性だった。由美子は夫の親友ということもあり私にも親切だった。
ある日のこと、
「こいつどれだけ飲んだんだ」雄介は笑いながら由美子に聞いた。
「多分、そこのコップで一杯ってとこかな」
「安上がりでいいな」雄介は私を起こすのを諦め由美子が持ってきたタオルケットを掛けてくれたらしい。
翌朝早く休日出勤のために準備をしていた私に由美子は、
「はい、これ」
「何、これ?」
「お昼のお弁当よ」と言って一つの包みを渡してくれた。この頃には由美子も私とはため口になっていた。
雄介が結婚前に話していた気働き出来る事と料理に惚れたと言っていたことを思い出していた。手作り弁当は美味しかった。
九月のある日、雄介からの電話が鳴った。
「お前、来月の九日空いてるか」
「空いて無くも無い 仕事の予定が入るかもしれないが」
「空いているのなら今すぐに埋めてくれ 由美子とデートしてほしいんだ」
「お前、何言ってんだ」と思い「酔っぱらっているのか」と聞き返した。
「いや、真面目な話だよ」「その日、由美子の大学のコンサートがあるんだ」「毎年、彼女は私を連れて行きたがるんだ」
「そりゃ、お前たち仲がいい夫婦なんだから、そうなるよな」
「でも、おれはクラシックが苦手だ 知ってるだろう」
「奥さんの事を大好きだと公言しているお前なら我慢できるだろ?」
「これまでは無難に耐え忍んできたけど去年やらかした」「お前に言ってなかったが去年も連れていかれ、ついに寝てしまったんだ」
「で、どうなった」
「次また寝たら本気で怒るからね、って真顔で離婚をちらつかされたんだ」「だから、どうしても寝ることは出来ないんだ」少しだけ泣きまねをして言った。
「流石にそれで離婚は無いだろ」
「さあな。そこで閃いたんだ、俺はどうしても抜けられない仕事を入れる。妻の事を頼める信用できる奴に代役を頼む」
雄介は大まじめに自分はそういう理由で行きたくないと話しながら、でも一人で妻をコンサートには行かせたくないようだった。
「で、俺か?」
「安心しろ、由美子に『あいつでどうだ』って聞いたら、『彼ならいいよ』だってさ」おどけながら「二つ返事だったのは気になるけどね」と雄介は付け加えた。
雄介はクラシックのコンサートに交際期間中に三度連れられて行かれ三度とも寝てしまったそうだ。この恋人時代の話はその都度、雄介から面白おかしく脚色されたであろう話を聞かされていた。今聞くと由美子さん相当、我慢していたんだろうなと想像すると面白かった。
雄介からしたら人畜無害な私に頼むのが一番安全で、しかもいざと言う時には頼りがいもあるからと言うのが、今回の自分勝手なお願いの根っこにあったようだった。
途中から由美子の声が雄介に代わって聞こえてきた
「彼、頼りにならないから私をエスコートしてね」とわざと雄介にも聞こえるように甘く言ってきた。
「代役の報酬はご馳走を作るから良いでしょう」
友情よりも彼女の手料理に私は負けた。
そして当日の夜、思いもよらぬことが起きた。私もクラシックに詳しいわけではなかったが、不思議と眠くなることもなく聴き入っていた。
帰り支度をしている時に「私、逢いたい人達がいるからちょっと楽屋に寄っていくけど どうする」と由美子が聞いてきた。
「時間かかるの?」
「恩師や先輩たちに挨拶するだけだからすぐ済むわ」
「ロビーでも居ようかな」
「ロビーだと観客は外に出されてしまうから、楽屋に一緒に来る?」
打ち上げが有るだろうから、私を口実にして打ち上げを断るつもりだなと気づいた。
楽屋に向かう途中、私は由美子に「打ち上げに参加するのなら先に帰るが」と言うと「雄介は早く帰って来てほしそうにしながらね、自由にしていいっていうのよ」と嬉しそうにしながら、挨拶だけで帰ると言ってきた。
私が先に帰ってしまう選択肢が無くなり、由美子の口実のネタになるために楽屋に付いていくことにした私は、由美子の後をのんびりとついて行った。
ひと仕事を終えた人達の満足げな顔がいくつもあった。
私は当然初対面だしこの後に関係が続くなんてことも無いと思い、挨拶すると言っても軽いものだった。彼らの対応もまたそのようなものだった。
ひと通り由美子の挨拶も終わり帰る潮時になったころ、軽い視線を感じそちらに視線を移した。何人か集まったグループの一人が無表情な顔でこちらを見つめていた。私は、その人から目を離せなくなった。
「えっ?」
見覚えがある顔だった。それほど昔のことではない。
「あっ!」と言う小さな声が聞こえた気がした。
その人の目に優しさが戻った。
仙台で会った音楽教室の先生だった。
私は彼女に気付いてしばらく動けなかった。
「あの人が、どうかしたの」と由美子に腕を掴まれハッとして我に返った。
「ちょっとした知り合いなだけだよ」
「知り合いって?」
その時、仙台の彼女が軽い会釈をしてくれたことを見逃さなかった由美子が、「彼とお知り合いですか」と彼女に近寄りながら問いかけていた。
私の妻と勘違いしたのか少し困った顔をした彼女の助け舟に、その問いかけを私が引き継ぎ仙台での出来事について手短に話した。
私は先生に由美子を紹介した後、小さく深呼吸した。
「何故、大阪にいらっしゃるんですか」あの時の雑談で大阪に行ったことがない、知り合いもいないと言っていたはずではなかったのか。
「こちらの大学と私の大学が、姉妹校の提携をしているご縁で参加させて頂いています」
「ああ、姉妹校ですか」
「昨日、大阪に着いたのですが、大阪と梅田って同じ場所だったんですね」仙台の夜を思い出した。
『大阪って、やっぱり大きな都会なんでしょうね』
あの時と同じように、彼女は少しはにかんだ笑みを浮かべていた。
この話を知った由美子は楽しそうに手を叩いて、近くにいた楽団のメンバーで大学の同級生だった高田和子も呼んで四人での立ち話になった。
「和子、ちょっと、こっちに来て」
「どうしたの そんなにウキウキしてさ」
「こっちは私の旦那の親友なんだけど、こちらのお嬢さんとお知り合いだっていうからビックリしちゃって」
由美子も和子も、この稀な再会に驚き、今後の展開を勝手に想像して盛り上がっていた。
「仙台での公演前に、フルートの演奏予定者が病気で参加できなくなって、急遽恩師の推薦でこの方が参加したのよね」「しかも当初は仙台だけの約束だったのが評判が良くて、大阪にまで契約が持ち越されたのよ」
この話を聞きながら由美子は私を見て意味ありげな笑みを浮かべていた。
「こんな偶然ってある?」と、ひとしきり話し終えた和子と一緒になってはしゃいでいた。
由美子と和子が盛り上がるのをよそに、私は腕時計に目を落とし明日の会議資料を思い返していた。
その帰り道、あっさり楽屋を出た私に由美子は絡んできた。
「ねえ、なぜ彼女の連絡先を聞かなかったのよ」
「仙台は遠すぎるよ」「しかも、今、仕事が立て込んでいる時期なんだ」
「営業ってノルマあるから彼女も作れない程忙しいの?」
「いや、この春に企画室に異動になったんだ」
「居づらいの?」
「新しいプロジェクトを任されたんだ」
「凄いじゃないの」
「私を引き抜いてくれた部長からの提案だったんだ」「断れないしやるしかないし失敗は出来ない」「彼女を作っている暇は本当にないんだよ」
それでも、由美子は手を緩めずに「あとから、あの子が良かったなんて言って泣いても知らないわよ」と揶揄われながら雄介が待つ自宅に送って行った。
新規プロジェクトの案件が正式に動き出した。
メンバーは私を含めて五名。
失敗は許されない。その重圧を耐え得る力になる心休まる彼女は欲しかったが、遠距離は無理筋だった。
この出会いまでの話であれば何のことも無い、酒のつまみになるかならないか程度の話に過ぎない。思い出の一つで終わるはずだった。
この時はまだ、三度目があるとは思ってもみなかった。
第三章 高速道路の灯り
朝十時、大阪を出て仙台へ向かった。
前回は伊丹から飛行機で行ったが、今回はどうしても大阪から仙台まで自分の車で走りたかった。
仙台泉出口に着いた頃には、さすがに疲れてしまっていた。
「今、泉出口に着いたとこだよ」
「うん」小さく息を吐く様子が伝わった。
「直ぐに行くね十分ぐらいだと思う」
「じゃあこのまま電話ボックス辺りに居るよ」
「寒くないの」
「気持ちいいよ、運転気をつけてな、急がなくていいから」
公衆電話から彼女に電話をかけ迎えに来てもらった。
暗闇の向こうに彼女の車のヘッドライトが見えた時、正直ホッとした。
運転中に見てきた幾多のあかりとは違う明るさがあった。
「心配してたのよ」と抱きついてきた。
「ごめん、SA入って電話するより早く会いたくて」
この夜から三泊彼女の部屋に泊まった。
「模様替えしたのか」
「ええ、ソファとベッド大きいのにしたから」
前回来た時以上に居心地良くしてくれていた。
記念日でもない日に大阪から贈ったかなり大きいテディベアの人形がベッドの真ん中に座っていた。
前に来た時には、行かなかった松島 瑞巌寺 平泉 山形県立石寺と案内された。
立石寺の上から見た景色は今も思い出せるほど印象深かった。
「ここ登っていくの?」少し怖気づいた。
「そう、私は小学生のころからだから、もう5回くらい来ているから慣れているけどね、休み休みでいいよ」
「大丈夫、一応、趣味山歩きだよ」と笑顔で参道を見上げた。
延々と続く石段は想像以上にきつかったが、彼女の優しい励ましは嬉しかった。
「大丈夫?少し休もうか?」
山形の何処か忘れてしまったが名物という大きな油揚げを食べに連れて行ってもらった。
「田舎だから名物と言ってもこんなものしかないけれど」と謙遜していたがその言いようが可愛いかった。惚れた弱みという言葉が頭をよぎった。
「美味しいよ」と正直に思った事を言った。
「この後なんだけど、自分ちに寄っても良いかな」
「自分ちって実家のこと?」
「うん、最近メロがご飯をあまり食べないらしくて心配だから会いたくて」
メロとは彼女との電話でも手紙にも度々出て来る実家の飼い犬のことだった。
「お母さんか誰かいるのかな?」
彼女は一人っ子と聞いているから、この時間なら母親だけだろう。
「おかあさんはいると思うけど気さくな人だから大丈夫よ」
玄関から「ただいま」と声をかけた。
「うん、こんな時間にどうした」と男性が現れた。
「えっ、何故この時間にお父さん家にいるの?」
「居たって良いだろう、朝から少し熱があって仕事を休んだんだ」
「大丈夫なの?」
「ああ、もう熱も下がって大丈夫だよ」と言って父親が彼女の横で突っ立っている私を見た。
「あの、この人は今私がお付き合いさせてもらっている方で」と言いかけた時に父親が、
「ああ、あの大阪の面白いという人かい」
「そんなこと言ってないでしょ」と少し赤くなって彼女は慌てていた。
「それよりお母さんは?」
「熱が下がったのを見て買い物に行ったよ」そんな会話を聞いていても私は上の空で緊張し続けていた。私は昔から父親くらいの年代の男性が少し苦手だった。
「何時からこちらに来ているんですか?」
「おとといの夜に着きました」
「ホテルにお泊りですか?」
「はい」咄嗟に嘘をついてしまった。私は手ぶらで訪問したことを気にしていた。そのうえ嘘迄ついたことでティーカップを持つ手が少し揺れ言葉が出なかった。こんな時の男親はどんな気持ちなんだろう。
気合も覚悟もないまま、突然彼女の父親に会うことになった。
頭の中は混乱しっぱなしだった。
「ごめんなさい!」
車に乗ったとたん叫ぶように彼女が言った。
「いいよ、知らなかったんだろ」
「私も声が聞こえた時、びっくりして心臓が止まるかと思ったの」
「でも優しい感じのいい人でよかったよ」
「私が言うのも変だけど自慢の父親よ」「メロも元気で良かったし!」
父親が在宅していたとは知らなかったのは本当のようで、半泣きの笑顔でしきりに謝っていた。緊張は半端なく一時間もいなかったと思うが思いのほか疲れてしまった。しかし彼女との心の距離はさらに近くなった気がした。
短い休暇も終わり大阪に帰る日の夜。
「これお腹すいたらでいいからね」「食べなくてもいいからしっかり休憩を取って安全運転で帰ってね」
少し小さなお弁当の包みを二つ受け取った。
「せっかく作ってくれたんだから食べるよ」
「眠くなったら絶対に仮眠取るのよ」
心配していることが伝わって来た。
「こっちに来るときも心配してくれていたね」
いつ作っていたんだろうかと思いながら、手に持っていたお弁当を助手席に置いて車に乗り込んだ。
夜の九時前だった。彼女は少し道幅が広くなるT字路まで車の後ろを歩いてついてきた。そこから大通りに出るまでルームミラーに彼女が映っていた。
大阪に朝七時過ぎに着ければ出勤には問題なかった。運転しながら彼女と過ごした数日の事を思い出していた。高速のオレンジ色の灯りが飛び去る暗闇の中に彼女の姿が現れては消えた。楽しい時間はあっという間に終わり、今は一人暗闇の中を走っていた。
深夜零時前に少し寂しいPAでお弁当の軽い方を開けたらカツと卵のサンドイッチだった。小さく折り畳まれた手紙が入っていた。
短く「今が何時でもお電話ください」と。
テレフォンカードの使える公衆電話を探し電話した。
コール三回で出なければ切ろうと思って掛けたら一回で元気な声が聞こえてきた。
「待っていてくれたのか?」
「うん」
部屋を思い出したら、電話の横で待っていてくれたんだと気付いた。
「カツサンド美味しかったよ」
「眠くない?」
「ああ、今は大丈夫だよ」「眠くなったら仮眠するから、約束するよ」
「きっとよ」
「明日仕事だろ、俺のことは大丈夫だから、もう寝ろよ」
「運転気をつけてね」と繰り返した。
運転に戻りオレンジ色の灯りが飛び去り、ヘッドライトだけの暗闇を走っていると、彼女との間がどんどん開いていく寂しさが募った。
泉出口で待ち合わせた時も「心配してたのよ」といって私の胸に飛び込んできた。心配ばかりかけていると思った刹那に彼女の顔と声音が蘇ってきた。心配顔で「運転気をつけてね」と言う姿が浮かんできた。
泣きたくなるほど会いたくなったが、私は彼女からどんどん遠ざかっていった。この暗闇が寂しさに一層の拍車をかけるようだった。
次の公衆電話に行くまで彼女の声は聴けない。今何をしているんだろうか。
朝5時過ぎに多賀SAで休憩した。お腹が減ってるわけではなかったが二つ目のお弁当を開けた。海苔を巻いたおにぎりだった。
同じように手紙があり同じように「今が何時でも電話が欲しい」とだけ書いてあった。彼女の手書きの文字が懐かしさを煽るようだった。
この時間に電話することを流石に躊躇したが、この手紙の裏には大きな字で一言付け加えられていた「絶対よ!」と。
ワンコールで彼女の声がした。
「起きていたのか?」
「寝ていたよ」
「でも一回で出たじゃないか」
「ふふ、もう五時よ 起きていても不思議じゃない、もう朝よ」と答えた。
「鮭のおにぎり、美味しかったよ」
「食べてくれたんだ」
会話はそれっきりだった。
一度目はまだ東京の手前だったからだろう、あの時の倍以上の速さでテレフォンカードの残数が飛んでいき、さらに百円硬貨もすぐに底をついた。硬貨の落ちるスピードが彼女との距離を感じさせた。
朝、会社の公衆電話から彼女の留守番電話に「無事着いた」とだけ残した。
第四章 名古屋港
人は信じないだろう。
同じ人と偶然三度出会うことなど。
しかも出会う場所が全て違うなんてことを。
仙台 大阪 そして名古屋と出会う場所は変わり、その都度、私の気持ちも変わっていった。
その日の朝 事務所は大騒ぎになった。
プロジェクトに必要不可欠な取引会社に提供するデータが大阪到着時間に間に合わないことが判明したからだった。
先方に連絡し打合せ会議の時間変更が可能か、本部から何時リリースできるかの確認作業に追われていた。
全ての段取りをつけた私は翌日早朝に、後輩一人を連れて営業車で名古屋に向かった。七時過ぎに名古屋支社に着き、徹夜で復旧作業を続けているコンピュータ室に行った。
「お疲れさまです 復旧具合はどうですか」
「なんとかなったよ」「見込み通り十四時には渡せるよ」
状況を確認してから朝食を摂りに近くの喫茶店に向った。
名古屋出身の後輩が「時間があるので名古屋を案内しますよ」と言うので任せたが、風邪をひきそうになり後悔した。
「こんな寒い日になんで港なんだ」
「思い出の場所なんですよ」とにやけ顔の後輩が言った。
「風が強すぎるな」「私に君の思い出の場所を紹介したって意味がないじゃないか」
「実はその彼女と結婚することが決まったんです」「それで先輩に仲人役をお願いしたくて」
「私にはまだ早いよ、しかも独身だ。部長か課長に頼んだ方がいいんじゃないのか」
「いえ、披露宴は会費制にして親兄弟と学生時代特に仲が良かった友人と社内の数人だけの所謂身内だけのものにしようと思っているんです」
「それなら、なおさら仲人役なんていらないだろ」
「それがうちの親も彼女のご両親も『形だけは整えなさい』と聞かないんで」
「だったらなおさら独身の私じゃ駄目だろ」内心面倒だった。
「いえ、親は説得しましたから大丈夫です」
「そんなに私がいいのか?」
「ええ、僕が一番信頼している先輩にお願いしたいんです」そう言われても面倒な気持ちは変わらなかったが、断る理由もなく結局引き受けることになってしまった。
「ところでこんな寒い場所で告白したのか」
「まさか、先輩。夏の花火大会の日ですよ」
寒すぎる。仲人の件なら会社近くの喫茶店でも十分だろう。今は1月下旬じゃないか。
時間つぶしと寒さしのぎにターミナルビルの二階にあるフェリー乗り場の待合ロビーに上がった。
「先輩、もう直ぐフェリーが到着するみたいですよ」
船の経路や発着時間、乗船料金などを何も考えず眺めていた。
しばらくして船が着き、徒歩の乗船客が屋根付きの連絡通路を通って待合ロビーにやって来た。出迎えに来た人たちが数人いて其々再会を喜び少しばかりの喧騒が起きたが、その後ロビーは再び静まり返った。
時間が気になり腕時計に目を落とした時、視界の端に人影が映り気になってそちらへ視線を向けた。
「えっ」
そこには私を凝視しているあの女性が立っていた。
「どうしてここに?」彼女と私の思いが同時に口から飛び出した。
彼女の顔には明らかな戸惑いが浮かんでいた。
「こんにちは」私は辛うじて声を出した。
彼女は少し小首をかしげただけで不審の色は消えていなかった。
「知っている人なんですか」後輩が無邪気に聞いてきた。
「ああ、ちょっと」
「凄い偶然ですね」「トラブルさまさまですね」
少し静かにしてくれと念じた。
後輩の話を聞いて彼女の警戒心が少し緩んだように見えた。
「こちらにはお仕事か何かですか」彼女が大切そうに抱えている細長いケースを見ながら尋ねた。
「ええ」彼女は私を少し見上げるようにして答えた。
大阪で会った時には気づかなかったが、ずいぶん華奢に見えた。
「もしお時間があれば、少し何処かでお話しませんか?」
「少しだけなら」
これまで見てきた柔らかい笑顔で応えてくれた。
後輩のことはほったらかしにして一階にある喫茶コーナーに移った。
「いつ、こちらにいらっしゃったんですか?」
「仕事上のトラブルが重なってしまい今朝、名古屋に着いたんです」
「そうだったんですね」
「空いてしまった待ち時間を埋めるために、さっき居た彼が名古屋を案内すると言うのでここに連れて来られました」
「港はお嫌いですか」
「こんなに風が強くて寒いことが分かっていたら、断固拒否して来なかったと思います」
「じゃ、お会い出来なかったんですね」クスッと笑った。
「何故フェリーに乗られていたんですか?」
「友人が夕食時の演奏のアルバイトをしているんですが、今日は体調を崩していて急遽その代打で乗船していたんです」
「こんなことがあるんですね」
「あなたも私も、ここに来るはずがなかったということですね」
「驚きました。目の端にあなたらしき人影を見た時、まさかと思いました」
「私は、あなたが振り向く前から横顔で分かり動けなくなりました」目が合って自然と笑いあった。周囲のことは全く気にならず、彼女と一緒に居ると不思議と笑うことが増えた気がした。
「そろそろ社に戻らないといけないのでここで失礼します」後ろ髪が引かれるとはこんな時に言う言葉だったのだろうか。
「流石に、こんな偶然はもう無いでしょうね」
私は思い切って尋ねた。
「連絡先を教えていただくことは出来ませんか」
「はい、構いませんけど私名前を言ってませんでしたね」
「僕もでしたね。堺修一と言います」
「加藤清美と言います。よろしくお願いします」
この時初めて彼女の名前を知った。
その後、電話や手紙のやり取りが続き、やがて遠距離交際が始まった。
第五章 手紙
「はい、加藤です」
「僕だよ」
「お帰りなさい」
「何してたの」
「明日のお弁当の下拵えを作ってたの。 ねえ、聞いてよ」
「どうした?」
「経理に山根さんて人がいるんだけど、音楽科の部屋に来てそこの課長さんの悪口をずっと言っていたの、ちょっと理不尽なことでね」
「そうか、それは嫌だね。で怒っているの?」
「聞かされている私たちも嫌な気持ちになるでしょう」
「うん、なるね、イライラしてしまうね」
「そうなのよ。でもゴメンね、お仕事で疲れているのにこんな話をして」「いや、そうでもないよ」
「いつも聞き役ね、修一さんって」
「君の声がね」
「声がどうかしたの?」
「君の声を聴いているのが好きなんだ、心地いいんだ」
清美は修一の穏やかな笑みを思い浮かべていた。
「修一さんは何時も私が聞きたいことを言うのね」とクスクスと笑った。
私は清美から一度だけ諭されたことがあった。
彼女は筆まめだった。
ある夜、郵便受けを覗くと彼女からの手紙が入っていた。
ネクタイをほどいてホッとした気分で優しい字を読み進めながら、いつも通りに電話をかけた。
清美の声は暗かった。
「手紙読んだの?」「どう思った?」
ドキッとした。
「嬉しかったよ。仕事から帰ってきて君の字を見るとホッとするんだ」
「ふーん、嬉しいんだ」声はまだ少し拗ねたようだったが、何だか楽しそうに絡んできた。
「私の気持ちはほったらかしなの?」
「どういう意味?」
「じゃ聞くけど、何故、今、電話してきたの?」
「そりゃ、嬉しくって一刻でも早く君の声を聴きたかったから」
「その嬉しいって気持ちはあなただけのものなのかな?」
「これって尋問か何か?」
「さぁ」電話の向こうで笑いを堪えている清美が目に浮かんだ。
「今夜郵便受けを開ける前に何か考えていたことある?」
「君からの手紙あるかな、と考えていたよ」「何時も予感がするんだ」
「電話くれるの嬉しいよ、私もあなたの声聞きたいから」少し声が改まったような気がした。
「私もね、あなたの声を聴くとホッとするの」「でもね私だって仕事から帰って来てドキドキして郵便受け開けたいのよ」
「うん」
「ねぇ、その気持ち分からない?」「字が下手とか文章が変とか関係ないのよ、あなたが書いた字が私には宝物になるのよ」
「書くと言っても仕事の愚痴になったりするかもしれないよ」
「私の手紙もハガキも大した内容じゃないでしょ」
はがきにはナゾナゾを書いたり、秋には落ち葉を一枚入れて短いメッセージが添えられただけの手紙もあった。
「それでも嬉しいと言ってくれたじゃないの」「内容よりもあなたが書いてくれることが大切なのよ」
私は何も言えなかった。
「ねえ、あなたの嬉しい気持ちを私にも分けようとは思わないの?」と最後は含み笑いを堪えきれないような笑い声で聞いてきた。
「笑っているの?」
「でも私の本音よ」
それ以来、私は自分の字の悪筆は見ないことにして何枚も便箋を無駄にしながら書くようにした。
初めての手紙を投函した夜に清美に電話した。手紙を書いた意味の半分程度が損なわれるような気もしたが。
「さっき投函した」
「楽しみに待ってるね」
「あれもこれも書こうとして結構失敗したよ」
「書いているとき何を考えていたの?」
「君のこと」
「どんな?」
「髪型どんなだっけとか、食べ物の好物は何だっけとか色々」
「私もそうよ、あなたの笑顔と声を思い出しながらナゾナゾ書いてるのよ」
「真面目に言ってる?」
それでも私は電話を掛けることを止めなかった。清美の声が聴きたかったからだ。
誰かのことを思いながら手紙を書く。その時間がどれほど幸せな事か知らなかった。
ヘッドライトの明かりだけを頼りに走りながら、孤独の中でただ彼女を思い続けた夜と同じだった。違うのはこの思いが彼女に伝わるという事だった。ポストに投函するたび、清美との距離が少しずつ縮まっていく気がした。
第六章 二度目の大阪
京都
「さて、京都に行きますか」
「うん、で、京都の何処に連れて行ってくれるのかな?」
「前にさ、修学旅行で来た時に友達とお餅屋さんに行ったって言ってただろう」「そこに行こうかなと」
「え、場所分ったの?」「あれだけの思い出話しだけで?」
「多分あってると思う。有名だから」「向かい合っている二軒の餅屋さん」しかも「有名なお寺か神社」と言えば今宮神社かと思い連れて行った。
「どうしてここだと分かったの?」
「ここでね里美ちゃんが躓いていて転んじゃったの」「そうそう、こっちのお店に入ったのよ」と繋いでいた手を引っ張られて私たちもその店に入り炙り餅を注文した。
「そう、こんな味だった、全然変わっていないのね」清美はしばらく興奮した様子で、修学旅行の思い出を次々と話してくれた。
夜は平安神宮の紅しだれコンサートへ足を運び、ピアノ演奏を楽しんだ。
まだ少し肌寒い中、小雨が降って来たのでジャケットを脱いで清美に掛けた。
奈良
次の日は季節も季節だったので、満開の桜を見に吉野山に連れて行った。
蔵王堂の大きさよりも眼下に広がる桜の景色を無邪気に喜んでいた。
昼過ぎに山を下りて少し遠回りになったが橿原神宮にまで足を延ばした。静かな佇まいに感動していた。
その帰り道、私は西日を正面に受けるのでサングラスに掛け替えた。
「小学校に上がる前に一度だけ父親に連れられて、このあたりの現場に来たことがあるんだ」「営業用に使っていた自家用車の助手席に座らされてね」
「どうしたの急に?」
「以前から奈良からこの道を通って大阪に帰る時いつも思い出すんだ」
「お父さんとの思い出の道なの?」
「内気で気の弱い私はそれほど気に入られていたという記憶がない」「行き帰りずっと息が詰まりそうだったことは覚えているんだけどね」
「怖い人だったの」
「いや、優しい男だったらしい」
「四つ上の兄のことは溺愛していたと、母から聞いた事がある」
「ほぼ正面に見える二つ並んでいる山わかる?」
「うん、見える」
「あれ二上山ていうんだけど」「父がね、帰り道、今と同じようなまぶしい光の中であの山を指さして『あそこに見える山はな、ニジョウザンって言うんやで』と教えてくれた」「父から教えられたのは、結局あの山の名前だけだった」
「そうなんだ」修一の父親は修一が6歳の時に病死したと聞いていた。清美は少し痛ましい眼差しで修一の横顔を見つめていた。
「断片的な記憶なら十個くらいは言えるけど、脈絡のある記憶はそれだけかな」「父からしたら出来の悪い子供だったんだろう、利発な兄と比べて愚鈍に見えていたかも」サングラスに替えていてよかったと思った。
「愚鈍だなんてそんなこと言っちゃだめよ」「過去がどうであれ、今ここに修一がいるじゃない。その修一のことを私は大好きなのよ」
「そんなに真正面から大好きなんて言われたら両手離して万歳しそうになって困るよ」
「私も困るよ」実家の父の前で居づらそうにしていた修一の姿が目に浮かんだ。
西日が目にしみたのか、清美は小さく瞬きを繰り返した。
神戸
のんびり梅田界隈で遊んだ翌日、彼女念願の神戸へ向かう日だった。
「今日はいよいよ神戸に行こうか」
「やった!」
「本当にあるんだよね、セットじゃなくてロケ地だから。そのまんまの物が見れるんでしょ」
「さあ、どうだろう」
「修一さん、案外意地悪だね」
「こんな親切な人を捉まえて、それはひどいな」
「早く行こうよ!」京都の餅屋以上にはしゃいでいた。
夜景を見るんだから明るい内に再度山に行っても仕方がないので異人館巡りをした。
歩き疲れた午後に喫茶店に入った。
異人館界隈になぞらえた調度品で統一された店内だった。
「私はカモミールティーとティラミス食べていい?」
「もちろん、僕はコーヒーとイチゴのショートケーキにするよ」
「珍しくない、ケーキ頼むのって」
「清美の顔を見てると食べたくなった」
「なに、それっ!」
「ケーキって一人で食べる感じがしなくって、でも清美と二人でいるから良いかなと思ってね」
「ふーん、私を出汁にするのね」
ウェイトレスが金属製の水差しを持って空になったコップへ水を注ぎ足そうとテーブルに近づいてきたその時だった。ウエイトレスが何かに躓いて清美に向かって倒れてしまった。
「やばい」
「きゃっ」
ガシャーンと何かが大きな音を立てた。
「すいません、申し訳ありません」
私は咄嗟に清美とウェイトレスの間へ入り、倒れ込みそうになった彼女を支えた。
「誠に申し訳ありません」
立ち直ったウェイトレスが平身低頭で謝った。
水差しから溢れ出た水は私のジャケットとシャツを汚してしまっていた。
奥から男性と女性従業員がタオルを持って出てきた。
「あれほど言っただろ、ここの段差には注意しろと」この怒声で店の雰囲気が一気に崩れた。
「早く片付けなさい」
「はい、すいません」
私はタオルを受け取りながら言った。
「店長の方ですか?」
「ハイ、大変申し訳ありません、段差が歪なので注意はしているんですが」
「なかなか慣れなくてミスばかり多くて教育し直しますので今回はお許しください」
「この子を叱る前に、段差を直した方がいいんじゃないですか」
「今日のお食事代はお詫びの印として結構ですので」
「いや、払います」「でも、その段差、早めに直した方がいいと思いますよ」と再度言った。
「行こうか」清美を促した。
「はい」
「ありがとうございました」と女性二人が見送ってくれた。
「何か嫌なオヤジだったね」
「お店の雰囲気は良かったのに残念でしたね」「ジャケット大丈夫ですか」
「水だからすぐに乾くよ」
「怒らないんですね」
「怒っただろ」
「ええ、店主の方にはね」
「あの子に怒ったって仕方ないよ」
「あなたらしいね」
「なにが?」
清美がクスッと笑った。
思わぬことで時間を取ったが、それでもレストランの予約の時間にはまだ少し時間があった。
「なぜそんなにその橋に行きたいの」
「ドラマだったけど、そこからの夜景が綺麗だったからこの目で見たいと思ったの」
私はビーナスブリッジに行ったことが無く、どれ程きれいに見えるのか知らなかった。
「さて、神戸ドライブと行きますか」
「今度は何処に連れて行ってくれるのかな」
「神戸ってね土地が狭くて山と海が近いんだよ」
「へえ、そうには見えないけど」
「例えば」と言ってメリケンパークに向かった
駐車場に車を止めて降りた。
「海の香りが」
「だろ」
「異人館に居ただけじゃ分からないね」
夕闇が迫る海岸にポートタワーの明かりが灯っていた。
「確かに山の影が近いのね」
「あの辺りが六甲山だけど知ってる?」
「聞いた事がある程度かな」
まだ4月初めの海風は冷たかった。
「流石にチョット冷えたね、大丈夫寒くない?」車に戻った。
「うん、大丈夫」リアシートに置いていたひざ掛けを渡した。
「ありがとう」
再度山へ向かう上り坂をしばらく走り速度を落としながら
「少し暗いけどこの上の方に橋が見えて来るから」
「どこどこ?」
「あれがビーナスブリッジだよ」瞬く間に通り過ぎ「後ろ見てごらん」と言った。
「わ、きれい」と清美は小さく叫んだ。神戸の夜景が見えていた。
そのまま車を走らせレストラン横の展望台で停めた。
「わー、すごく綺麗ね」「さっきはこれでお終いなのと思ったの、本当はね」
「そう言えばいいのに」
「何か事情があるのかなって思ったの」
「何もないよ、ここからの眺めを見せたかったんだ」
レストランでも窓際を予約してあり食事と夜景を楽しめた。
「このあともう一つ行きたい場所があるんだ」
「まだあるの?この景色以上のものは無いんじゃないの」
「それは見る人によると思うよ」
来た道を戻りわき道に入り小さな駐車場に止めた。
「ここって?」
「そうだよ、ビーナスブリッジに行く道だよ」
並んで歩く時、いつの間にか手を繋ぐことが当たり前になっていた。
並ぶと頭一つほど修一の方が高かった。
「来たことなかったの?」
「夜景にそれほど興味が無かったから」
「今もなの?」
「今は君がいる」
「さっき下からだったけど橋を見られたから満足だったのに、ありがとう!」清美の指に力が入った。その力加減が心地よかった。
「わっ、わっ、わっ」「ドラマで見たのと一緒だよ」
「展望台より光が大きく見えてこの景色も、いいね、来てみるもんだね」
喜ぶ清美を見て、ここに連れてきて良かったと思った。
この景色を誰かと並んで眺める日が、自分にも来るとは思っていなかった。
第七章 傷テープ
清美が初めて大阪に来る日の午後、新大阪の到着ホームで待っていた。
「やあ、いらっしゃい」
「へへ、来ちゃった」
「悪い、これ持ってくれる?」紙袋を渡した。
「なに?何が入ってるのかな、軽いよ」
「そっち持つよ」と清美のバッグを持った。
「うん」
彼女のバッグは見た目ほど軽くはなかった。
「腹減ってない? 何、食べたい」
「断然、お好み焼き!」
この日、私は車を使わなかった。大阪の街を一緒に歩きたかったから。
「疲れていない?」
「平気よ、ずっと座っていただけだもの」
夕方、私の住むアパートへ戻った。
「疲れたでしょう、引っ張り回してゴメンね」
「さっきからゴメンねばかりだね」
「そうかも」二人して笑った。
「前から気になっていたんだけど」ソファーに座っていた清美が私の指を見つめていた。
「この指痛くないの?」私の右手を優しく持ち上げ親指の薄皮が裂けた所をそっと撫でた。
「ごめん、汚いよねこの指」
「他もなの?」
「やってしまうのは両方の親指が多いかな」
「気付いていたんだけど、なんだか言えなくて」
「小学生の頃からの癖なんだ」「授業中も無意識にやっていて時々、やりすぎて少し血が滲んだこともあって痛かった」
「そんな小さい時からなのね」
「何故こんなことをいつ頃からやり出したのかも分からないよ」
清美は悲しげな表情で聞いていた。
「就職してから名刺交換や書類を渡す時に気になりだしてやらない様に気をつけているんだけど、気が緩むとやってしまうみたいで」「こんな指、嫌だよね」
彼女は黙ってポーチから傷テープを取り出し、私の親指に巻いてくれた。
「こうしておいたら指を傷付けなくて大丈夫でしょ」と言って両手で私の右手を包み込んだ。
「そうだね」と言いかけた時、突然何かわからないものが胸に込み上げてきた。
そして私は、声もなく涙を流していた。
父の葬式でも、祖父の葬式でも涙一つ流さなかった。一番世話になった祖母の葬儀でも、私は泣くだろうと思ったが泣けなかった。
私はいつの間にか小柄な彼女に肩を抱かれていた。
傷テープを巻くとき彼女が言った言葉が胸に残った。
「痛かったでしょう、もう薄皮、剥いちゃだめだよ」
きっとそれ以上の意味は無い普通の言葉だろう。だが私には生まれて初めて人から掛けられた気遣いの言葉のように思えた。
「お母さんは、どんな方なの」
「いつもイライラしていて、特に日曜日は苛立っていて怒声を浴びせられていたよ」
「辛かったね」
「今思えば母も生活に疲れ希望も無かったんだろうね」
「保護者面談で来たのは四年生の一学期末だけだったよ」
「そんな!小学校の間でたった一度だけ?本当?」
「一年生の時は二度来た記憶があるけど、父が、亡くなって以降はね」
「学校のこと一人でしていたって言ってたけど」
「弁当だけは高校卒業するまで作ってくれていたから、愛情が全くなかったわけじゃないと思う」「兄のお弁当のついでだったかもしれないけどね」
「それと、お金が必要なことが書いてあるプリントだけは渡していた」
「それ以外の事は全部自分一人で?」
「基本そうだね」
「新年度初めに雑巾を一人二枚持って行くんだけど、ぼろタオルを針と糸で縫っていたよ」
「そんな!」小さく息をのんだようだった。
「見よう見まねだよ」
「誰の」
「祖母に教えて貰ったんだ」
「いつもそんなものだったよ」
「例えば、自分の使った食器を台所に持って行って洗うとかもね」
「偉いじゃない」
「いや、これも躾じゃないんだ」
「え?」
「母の機嫌が悪くなることが怖くてやっていただけなんだよ」
「でも将来もし子供を持ったら裁縫と料理は教えたいなと思うね。針は痛いし油跳ねは熱いことを知れるからね」
「いいことだと思うよ」少し悲し気に清美がつぶやいた。
「こんな話なら一晩中でもできるけど退屈でだろ、何より雰囲気が悪くなるよね」
「修一さんのことが知れてよかったよ」
「そう言ってもらえると救われた気持ちになるよ。ありがとう」
「いつしか自分一人で何とかしようと考え、出来ると思うようになったんだ」「周りからは、人を寄せ付けない自己中な奴に見えていたのかもしれないね」
「ずっとそうやって来たの? 辛いと思わなかったの?」
「孤独だってことを隠すことに慣れきってしまっていたからね」
「一人でいることを何とも思わなかった」「だからかな、人から心配され声を掛けられることも無かったから、声を掛けられると逆に恥ずかしかったよ」
「寂しくなかったの?」
「どうだろう、気持ちに蓋をしていたのかもしれない」
「蓋?」
「意地だったのか頑固だったのか、悲しいことも悔しいことも表情には出さなかったと思う」
「だから、おばあさまのご葬儀でも泣けなかったということなの?」
「そうかもしれない、無意識に蓋をすることが当たり前だったのかも」
「大学時代に女性と付き合ったことがあったんだけど」
「どうしたの急に?」
「なぜかいつも息苦しくなるんだ、その後に付き合った女性ともね」
「なぜ?」
「そんなことぐらい自分で出来るだろと内心思う時があって、嫌な奴だよね」
「じゃ、わたしともそうなるってこと?」
「不思議なんだけど」「仙台で初めて会った時のこと覚えている?」
「ええ、勿論」
「君と話していたあの短い時間が気持ちよかったんだ」
「どうして?」
「今考えてもよく分らないけど、声かもしれない」
「私の声が?」
「実を言うとね、もう少し君の声を聞いていたくてレッスンを見学することにしたんだ」
「なにそれ、音楽教室のことはどうでもよくなっていたのね」
「いつもなら、見学は断っていたと思う」
「ふーん、だから次も出会えたのかな」
「こうして君と二人っきりでいても安心なんだ」
「あなたの声も深くしみわたるようないい声だと思うわよ」清美は少し照れて言い返した。
あの日、あの傷テープは、人から気遣われる優しさと嬉しさを私に教えてくれた。
この夜の温もりを、私は一生忘れないだろう。
第八章 崩壊
修一が営業部時代に二年間かけて進めてきた大型契約案件は、企画室へ異動した後に競合他社へ奪われた。責任の所在を巡って営業部内では様々な声が上がり、一部では修一の引き継ぎ不足を指摘する者もいた。しかし修一は反論せず、新しい職務に集中することを選んだ。
清美と初めて仙台で出会った年の春に、修一は営業部から企画室に異動となると同時に課長に昇進していた。
「堺君、期待しているよ」
「はい、甲斐部長。よろしくご指導をお願いいたします」
「わが社にも新しい新規事業が必要だと上層部も考えている。営業で実績をだしてきた君だからこその大きな柱を作ってくれ」「はい、それもあってこれから福島に視察に行ってきます」
「うん、ご苦労だな。夏までにはプロジェクトを始動させていくからな」
こうして修一の新しい挑戦が始まった。
夏からは修一の考えのもとにPJメンバーも各地に飛びデータ収集に熱中していた。修一が仙台に出張したのはこの新規プロジェクトのデータ収集の一環だった。清美と出会ったのはこの出張の時だった。
打ち合わせを重ねるごとに甲斐部長と修一との考えに違いがあることが明らかになって来た。
「何故そんな小さな話に拘るんだ」甲斐部長は「我が社が得意とする大型プラントで新しい取り組みを考えた方が利益は大きいだろう」と主張した。修一は「それでは新規事業にはならない、単なる今ある柱をもう一つ作るに過ぎない、新たな収入の柱を作るべきです」と主張した。若いPJメンバーたちは新しい分野の開拓に熱意を持っていた。修一は競合他社に先駆けて地方に浸透し、いち早くシェアを勝ち取り時間はかかっても利益を新たに得る作戦だった。甲斐部長の思惑に反して諦めず資料を集め検討を続けていた。
この対立が修一の人生に大きな影響を及ぼすこととなった。
その年の十月半ばに重役が出席する経過報告会議が行われた。
「村山君、次の経営者会議に君も出席してくれ」
「例の報告会議にですか?」
「そうだ、君に頼んでいた大型プラントを使った新稼働システムの案をしっかり頼むよ」と甲斐部長が険しい顔で村山に指示をしていた。
「堺課長の方はどうなるんですか」
「役員から比較検討できる別案も出してほしいという指示があって、参考案として出すことになった」「あくまでも参考案だ。君がしっかりやれば、こちらの案が採用されるに決まっているんだ」
「もちろんです。甲斐部長が仰られてきた、我が社の強みである大型プラント利用の新しい収益構造を作ることに反対は少ないでしょうね」
村山課長の説明が終わった次に修一が役員たちの前に立った。
修一は「地方農業向け設備には将来性があります。私は地方に目を向けた新規事業を提案します」と切りだした。
一通りの説明が終わったところで役員から質問が出た。
「そんな小さい市場を我が社で相手にする必要があるのかね」
「この一年、メンバー全員で手分けをして全国に足を運び、農業に従事する人々に生の声を聴いてきました。是非データの数字だけでなく現場の声にも目を通してください」
「私は小さな市場に拘る堺君の案には反対し続けていたのですが、私の指導力不足で申し訳ありません」と甲斐部長が割って入って来た。
修一は構わずに続けた。「彼らの熱意は農業の未来です。それをバックアップすることが、大型プラントで培ったノウハウを持つ我が社の使命だと考えています」「この分野はきっと将来大きくなります。私たちの市場は日本全国であり世界にあります」
「大型プラントの収益性を考えれば、いつ日の目を見るか分からない小規模事業は我が社にとって利益は少ないと考えます」甲斐部長は譲らなかった。
「甲斐君、もう少し堺君の話を聞いてみませんか?」藤堂社長が初めて口を開いた。
「藤堂社長、ありがとうございます」修一は続けた。
「小さいからやらないという発想が、地方を見捨てることになります」「現場が疲弊し出していることは確かです。ですが未来を信じ懸命に頑張っている人々を見てきたのは私たちです」「私は地方で安全で可能な限り安価な作物を提供しようと努力している人たちの姿を見てきました」「あの人たちの姿の中に、我が社の新しい未来を見たのです」と言い切った。
一部役員から高く評価された修一の案は、最優先の検討案件となり試作及び市場調査の継続が承認された。
同時に村山課長の案は従来の大型プラント案件の一つとして営業部に引き継がれ検討されることに決まった。
「わざわざ堺を営業から引き抜いてきたというのに、まんまと出し抜かれた」
「部長、我々の案も営業部への引継ぎではありますが却下ではなかったのですから」と村山はとりなした。
「あいつは大型案件の契約を次々にとってきていたんだ、一番我が社にとって何が強みか分かっていると思っていたのにこのざまだ。営業部への引継ぎ?負けたんだよ」「引き抜いてきた奴に手を噛まれて、俺の面目も丸つぶれだ!」「会社の利益を考えれば大型案件が正しいはずなんだ。堺は理想論に走りすぎている」と一気にまくし立てた。
「しかし部長、会議の決定を受けて、地方農業用小規模プラントの施策と同時に市場調査も全国に及び本格化しています」「来年には市場調査の結果が纏まります。そこで地方の期待の高まりが確認されれば、試作機の本格稼働に入るかどうかが検討されるようです」
この状況に至り甲斐部長は『すでに試作機の段階まで進んだ以上、計画を潰せば自らの責任も問われる』と考え、企画室のもう一人の課長である村山を巻き込んで事業そのものではなく、修一個人を排除する方向へ舵を切った。
報告会議を乗り切った修一は、一見順調そのものにPJを推進しているように見えたが、翌年に掛けて人知れず危機が迫っていた。
修一は一人我を張ったわけではなかったが、結果としてスタンドプレイとの見方がPJに絡んでいない企画室内の職員、特に村山課長が属する企画2課の一部に静かに広がっていった。
「あそこまで地方を持ち上げる理由が分からない」と言う疑問から始まり、
「農協や特定企業と必要以上に親しくしているらしい」と言う噂に結びついていった。「出張費を私的流用しているらしい」という屈辱的な噂までもが流されるようになった。
さらに修一を追い落とすために、二年前に起きた修一が営業部在籍の最後に携わった大型契約案件が、白紙に戻ってしまった責任までもが蒸し返された。
「堺課長、試作機作成及び市場調査の進捗状況についての説明を甲斐部長から求められている件ですがどうしますか」山下が心配顔で尋ねてきた。
「ありのままの数字を出してほしい。何も隠してはいけないよ」
「試作機の設計のやり直しや素材変更などで若干スケジュールが押しています。それに合わせて予算オーバーも懸念されますが、いいんですか?」
「私たちは真摯に事に当たるだけだ。経営者の判断に委ねるしかないから」と修一は諭すように静かに言った。
しかし修一の考えとは裏腹に、リーダーへの不信感や経営陣からの評価についての不安からPJの士気は下がり進捗状況に明らかな陰りが出始めた。
修一のPJリーダーとしての適格性を問う声が高まり、役員たちは進捗の遅れの責任を修一に問い、会議での釈明を求めた。その結果、甲斐部長の進言もありリーダー更迭が決まった。村山課長がその席に座り、修一は地方への転勤が決まった。
私は負け犬だろうか、そうだと思う。
見事に会社から放り出された。
でも、私は自分の立場は曲げなかった。正しいと思うことを主張した。
少数意見であっても孤立していたとしても、後ろ指を指されるような真似はしなかった。
今も私は何も恥ずべきことも無く、お天道様の下を顔を隠さずに歩いているじゃないか。
地方転勤がどうした、やってやろうと思う。
転職じゃなくこの会社にしがみついて反撃してやる。
今の私には清美がいる。
心から信じられる清美だけは失ってはいけない。
失えば、私自身も消えてしまうだろう。
第九章 転勤
「堺課長、人事の佐山課長からです」
「はい、堺です」「はい直ぐに伺います」転勤の内示だった。
甲斐部長は笑顔で私を見送っていた。その笑顔が妙に嬉しそうに見えた。
「年末のこの時期に異動なんて聞いたことないな」
「よっぽど怒らせたんじゃないのか」
「賄賂受け取っていたって本当だったのかも」
「それなら懲戒だろ」
私が通り過ぎた後には無責任な言葉が飛び交った。これが彼らのやり口かと思うと悔しかったが、涙は出ない。情けない気持ちで席に戻りデスクを片付け始めた。
「堺さん、ブラックです」PJメンバーの山下道子だった。
「山下さんに淹れてもらうのもこれが最後になるね」
「預けていたファイルを佐山君に渡しておいてくれないか」
周りの視線が痛かった。
その日の夜、清美から電話があった。
「今掛けようと思っていたんだ」嘘だった。
「どうかしたの?」
「いや、いつものように声が聞きたかっただけだよ」
「嘘、声に張りがないよ」そういう清美にもいつもの明るさが消えていた。
彼女の声を聴くといつも元気が出たが、今日の彼女の声は少し沈んでいるように聞こえた。
「そんなこと無いよ。で、どうしたの?」「私も声が聴きたかっただけだから気にしないで」と言って続けた。
「何か心配事でもあるんじゃないの?」清美は私の声が低く沈んでいたことに気付いたからか、私の話を先に聞こうとした。
「清美こそ何かあったんじゃないのか」
「お先にどうぞ」と清美がお道化て言った。
「実は今日転勤の内示が出たんだ」転勤の話を先に話し始めてしまった。
上司同僚たちへの怨嗟を口にしかけたが止めた。今更清美に聞かせたところで嫌な気持ちになるだけだと思い留まった。
「以前から任されていたプロジェクトから外されてしまったんだ」「大きな損害も出してしまってね」
「あなた一人の責任なの」
「まあ、任されていたからね」と曖昧に言った。
「それでね、転勤になったんだ」
「それで、何処に?」
「鹿児島」
「遠いね、行くの?」
「ここで辞められないよ」「僕はまだ死んでないさ」
「修一さんは強いね」
少し躊躇したが思い切って「ついてきてくれないか」と言った。
「君にも仕事があるのは分かっている。でも、一緒にいてほしい」これがプロポーズに代わる言葉だと信じて言ったつもりだった。
しかし彼女は何も返事をしなかった。沈黙が答えだと悟った。
少しの間が空いた後に清美の口から出た言葉は「ごめんなさい」「田舎にはついていけない」と、小さな声だがはっきりと清美は言った。
しばらく沈黙が続いた。ようやく一言、「分かった、別れよう」と絞り出した。
電話を切ってからしばらく動けなかった。
「ねえ、この唐揚げ美味しいね」
「ちょっとしたコツがあるんだよ、今度教えてあげるよ」
「絶対よっ!」
「この写真ってスキーが得意なの」
「得意と言う程じゃないよ」
「バッジテスト一級て凄くないの」
「雪無し県で大学生になって始めたにしては頑張った方かもね」
この部屋に彼女がいた時のことが蘇った。
その刹那、不意にあの傷テープのことを思い出してしまった。
あの日、彼女の優しさを知り泣いた夜の思い出が今の涙を加速させた。
失くしたものの大きさを実感した時、膝から崩れ落ち声を押し殺してあの夜以上に泣いたかもしれない。しかし肩を抱き慰めてくれた清美その人がいなくなった。
「ここの公園の桜の木、大きいね」
「今頃満開って例年より少し遅い気がする」
「私のこと待ってくれていたのかな」
「案外そうかも」
近所にある公園には大きな桜の木があった。
狭い部屋が息苦しくなり、その公園のベンチに座っていた。
「オイ修一、内定どうや」
「まあまあだけど、本命はこれからだから」
「そうか頑張れよ」あいつの名前も覚えていなかった。
学生時代の友人も卒業したら付き合いは無くなった。
雄介も家庭を持ってからは、そうそう会う時間が取れなくなっていた。
誰もかれも私から離れていく。
「あなた、別れましょ」
「なぜ?」
「あなたといることに疲れたの」
「もうあなたに何も期待していないの」
清美と結婚できたとしてもきっとこうなったんだろう。それが五年後か十年後かは分からないが。今別れるも十年後も同じ事だと自分に言い聞かせた。今までだって乗り越えてきたわけではない。ただ現実から目を背ける癖が身に染みついていただけだ。
雪が降り出した。次第に体を白く覆っていった。
右手の親指が微かにピリッと疼いた。
第十章 鹿児島から鳥取へ
鹿児島
新年1月に私は鹿児島の天文館にある小さなビルに異動した。
「おはようございます。ここの唯一の社員の嘉喜香央里(かき こほり)といいます。かき氷と覚えてくださいね」とくすっと笑った。
「よろしく。堺修一です」「この事務所に社員はいないと聞いていたんですが」
「私、契約社員なんです。だからでしょう」
「びっくりしたでしょ?何もない事務所で」ワープロ一台とファックス、電話、それにキャビネットが二台。
「そちらのお誕生日席が堺課長のお席です」悪戯っぽく嘉喜が言った。
「ここが私でそこは空き、でも来客が座ることもあるので書類置きにはしないでください、課長」
「課長は止めよう。さんでいいよ」
「私もそっちの方が呼びやすいです、堺さん」
古びた事務机に腰を下ろした。これが私の新しい居場所だった。
しかし、ここで何が出来るんだろうか。
毎朝FAXで送られてくるとても達成できそうにない目標数字と全国の達成数字の列。
一か月たったある朝、FAXが着信したと同時に電話が鳴った。
「人事の大塚です。堺課長、来月の三月末にそこは閉鎖することが決まりました」
「突然だね」
「昨年から議題には上がっていたようですが、課長は聞かれていなかったんですか?」
「まあな、それで?」
「早速なんですが書類を郵送しましたから、嘉喜さんに渡して契約期間満了につき契約終了を伝えて、署名とハンコを貰って返送してください」
「私はどうなるか知っているか?」
「僕が言ったってことは内緒でお願いしますよ」急に口調が変わった。
「大阪か鳥取で揉めているようです」
私が四月から鳥取へ異動すると知らされたのは二月末だった。
鹿児島へ来て丁度三か月になる三月の末日に、つましいお別れ会が一階の定食屋でおこなわれた。
「堺さん、お疲れさまでした」
小さな座敷スペースの上座に座らされた。
「お疲れさまと言うほど仕事はしていないけど、ありがとう」
「そういうことは言わないの!」真向かいに座った嘉喜さんがビール瓶を持ち上げた。
「楽しく飲んでお別れしましょう。もう明日は会えなくなるんだから」
「あら、お見送りには行かないの?氷ちゃん」食堂のおかみさんが言った。おかみさんだけは、嘉喜のことを氷ちゃんと呼んでいた。
「そうしたかったんだけど、午前中に面接が入ったのよ」
「残念ね、私も仕込みがあるから、ゴメンね堺さん」
「お気持ちだけで十分です。ところで嘉喜さんの氷って言う呼び名はいつ頃から始まったんですか?」「小学校の五年生の時くらいだったかな、どうして今更そんなこと聞くんですか?」「嘉喜さんと呼ぶといつもかき氷が頭に浮かぶんで、うまい呼び名だと思って」
「堺さんには、定着したんですね」と嘉喜が笑った。
「嘉喜さん、次の会社もこのあたりですか」
「ええ、ここから近いんです。でも面接まだだから」
「合格したら、そしたらまた来るね、おばちゃん」
「ここの料理、本当に美味しいですからね。鳥取にもあればいいと思うくらいです」珍しくお世辞が口から出たことに修一自身が驚いた。
「嬉しいこと言ってくれるわね、年明け早々店に来た時は死にそうな顔をしてたのにね」
「一月中は何も手が付かなくて、この店がなかったら餓死していたでしょうね」
「大げさなこと云いなさんな」おかみさんは何故か私を気に入り良く世話を焼いてもらった。
「でも本当におかみさんが作る料理は美味しくて、それに街の事が全く分かっていない私にいろいろ教えて頂き感謝しています」おかみさんにだけは素直に話すことが出来た。
「ここの人達は皆さん凄いですね、不満を口にせずに灰が降れば黙々と掃除して片付けている」「街の人たちは桜島の灰を受け入れている」
「灰と言うか桜島がみんな好きだし誇りに思っているからね」
「僕もここにきて三か月ほぼ毎日桜島を見ていると正気に戻るというか、気持ちがリセットされた思いです」私は大阪での出来事が、段々どうでもよくなってきていた。
嘉喜にも会社への不満は一言も言わなかった。
裕司がね、『あのおじさんとママは結婚するの』って言ってきたんですよ。『どうしてこんなこと聞くの?一回しか会ったことないでしょ?』と言うと
『優しかったし、僕にお母さんのこと好きかって聞いたから』って言うんですよと嘉喜は嬉しそうに、おかみさん相手に話していた。
私は会社に対しても元上司同僚に対しても愚痴や不満は言わずに、彼女の子育ての辛さと元旦那への愚痴をただ聞く毎日だった。
「おかみさん、もう一杯いただけますか」と空になった中ジョッキを持ち上げた。
「大丈夫ですか課長、下戸なんじゃなかったんですか」嘉喜が止めようとした。「まあまあいいじゃないの、こおりちゃん、今夜ぐらい、お別れの日だもの」
苦くて美味しいなんて何一つ思わなかった。ただ流し込むだけだった。
そんな私を酒豪の嘉喜が心配そうな顔でこちらを見ていた。
「あら寝っちゃったよ、この人」
「おかみさんがけしかけるからよ」
「たまにはいいじゃないの、酔って寝て、忘れてしまえばいいのよ」
「大阪で辛いこともあったみたいだし、まあしょうがないか」
「氷ちゃん、何も聞いていないの?」
「何も言わなかったわ、愚痴も誰かを悪く言ったりもね」
「そうか、案外、男らしいわね」おかみさんが言った。
「でもこの人中ジョッキ二杯でダウンしちゃったね、見かけは背も高くてがっしりしているから飲みそうに見えるけどね」
「二杯目なんて半分も飲んでやしないよ、でも、そういうギャップいいかもね」嘉喜の方を意味ありげに見た。
「何がよ」
「氷ちゃん、惚れなかったの?」
「おばちゃん、暴れるわよ!」嘉喜は笑いながらテ-ブルを持ち上げる真似をした。
「本当、お酒に関しては見掛け倒しよね。下戸と言う割にはまだ飲んだ方だろうけど」おかみさんと嘉喜は小さな声で笑い合った。
翌朝、私はその畳の小部屋で目が覚めた。
テーブルに置いてくれていた水差しから水をコップに移して一気に飲んで トイレに立った。
私がトイレに立った後で来たのか、おかみさんが料理場の片づけをしていた。
「あら、お目覚めね」
「おはようございます」
「早くも無いけどもう九時過ぎよ いいの?」
「今日は公休扱いなので、明日の朝、出社すれば大丈夫です」
「あんたも損な男ね」いつものニコッとした笑顔で声をあげて笑った。
「何がですか」
「その掛け布団は氷ちゃんが掛けていったのよ、フフフ」と意味ありげに笑った。
こうして私は二日酔いの頭のまま鳥取に向かった。
「わざわざ見送りなんてよかったのに」
「いいのよ、元気出しなよ」
「桜島、良いですね」
「何かあったら戻っておいでね」この人なら、理由なんか聞かずに美味しくて暖かいご飯を出してくれるだろう。
「ええ、色々お世話になりました」桜島が車窓から見えた。
鳥取
米子市内から見る大山は存在感があった。
その大山の姿が目の前に迫って来た。桜島とは違った雄大さでそこに静かに佇んでいた。
「堺課長、明日はどうするんですか」課員の築山が聞いてきた。
「大山に登って来ようと思う」
「ああ、先週木下さんに聞かれてましたね、一緒に行かれるんですか」
「課長に断られたよ」木下が笑みをこぼしながら言った
「でもスキーのストック一本持っていかれた方が安心ですよ」
「分かった、そうするよ」
今のままだと東京はおろか大阪にも戻れないだろうなと最近思うようになった。
「課長、晩飯はいつもどうされているんですか」と築山が聞いてきた。
「適当に定食屋とかラーメン屋とか見つけて食べているよ」
「100%外食ですか」
「前は作っていたこともあったが、今はな」
「どうです、今夜うちで食べませんか」
「お前が作るのか?」
「いや、母がね、お連れしろと言うんです」「そんなの嫌じゃないですか、ゴマすりみたいで」
「おい、何でも思いついたことを言うな」これは木下が言った。
「母が言うには、おべっかでもごますりでもいいからさ、どうせ外食ばかりで碌なもの食べてないんだろう、かわいそうじゃないかって」
「本当にご迷惑じゃないんだろうな」
「勿論です、迷惑ならこんな話しませんよ」築山は何処までもあっけらかんとしていた。
しかし、ここも業績と言う点ではどうにもできない。売り上げに貢献しているとは言い難いが、唯一の救いは県庁に入り込んでいる事だけだった。
「どうした」雄介が言った。
「今日、大山という山に登って来た」
「名前くらいは知ってるよ、でどんな山だった」
「山は山だった」
「大山は山だったことを言いに電話してきたのか?」
「会社辞めようと思う」
「決めたのか」
「まだ迷っている」
「そうか、お前の人生だ、好きに決めろ」「但し投げやりな決め方はするんじゃないぞ、お前の人生はまだこれからも先があるんだ、いいな」
「分ってるよ、おれも馬鹿じゃないよ、ただ誰かに今の気持ちを知っておいてもらいたくてな」
「誰かにって俺でなくても良かったのかよ」雄介は笑った。
六合目で視界が開け、初めて日本海が見えた。振り返ると、来た道は霧の下に沈んでいた。
痩せた稜線に出ると左右は切れ落ち、足元の砂礫が乾いた音を立てた。
海からの湿気を含んだ風は強かった。
「もういいだろう」とふと思った。桜島を毎日見ていた時にもその考えが頭をよぎらなかったと言えば嘘になる。
ここ大山でも同じように「いつまで過去に拘っているんだ、前に足を踏み出せ」と言われている気がした。
第十一章 鹿児島
「いらっしゃい」おかみさんの小気味いい声が店内に響いた。
「好きなところに座って」お昼のピークは過ぎていたようで客はまばらだった。
由美子は少し戸惑ったが、まだ食事をしていなかったこともあり思い切ってカウンター席に座った。
「何にする?決まってる?今日、とんこつが美味しいよ、いつも美味しいけどね」
「じゃ、とんこつラーメンをください」
「あ、ごめんね、ここいらじゃ豚の角煮をとんこつって言うのよ」
「そうなんですか」
おかみさんが、お水を出してくれた。
「骨付き豚肉を味噌煮込みにしているの、あとはキャベツに小鉢に味噌汁とごはん」
「美味しそうですね、それにします」
「ご飯はお代わり自由だからね」
「あの、少しお話聞いても良いですか?」
「ああ、いいよ。今暇だから、何?」
「このビルの二階に島田工機の事務所があると聞いてきたんですが」
「ああ、一昨日閉鎖になったよ」
「え、潰れたんですか?」
「違うよ、ここの事務所だけが閉鎖になったのよ」笑いながらおかみさんが言った。「一昨日の夜、ここでお別れ会をしたのよ、と言っても二人きりだけどね」
「二人だけだったんですか」
「そう、課長さんと事務員さんとね、お似合いだと思ったんだけどね」
「その事務員の方ってお若かったんですか」
「課長さんと同年代だと思うよ、ところで」「取引していた業者さんには見えないけど、どうかしたの?」
「こちらで働いていた堺さんに会いに来たんです」と由美子は正直に話した。
おかみさんの笑顔を見ていると信用できると思ったからかもしれない。
「聞いてなかったけど堺さんの奥さん?」左手の薬指に目を落としているのに気づいた。
「いえ、これは違うんです」と言いかけた時、おかみさんが言いたくて仕方ないように言葉をかぶせてきた。
「彼いいとこあるね」いつものニコっとした笑顔で続けた。修一が酔い潰れたいきさつを話した。
「堺さんをそのままで放っておくことも出来ないからさ、事務員さんが楽にしてあげようとネクタイを外してシャツの第一ボタン外したの」おかみさんは少し間を開けて続けた。
「そしたら急に堺さんがね『思いを誓った人がいる。裏切れない、止めてくれ』と大声で言ったのよ」「今どき『思いを誓う』なんて言うかと思って可笑しくなってね」と遠慮なく笑った。
「思いを誓った人ってあなたの事?」と聞かれたが、それには曖昧に応え
店を出た由美子は、思わず口元を押さえた。
修一は、まだ清美を忘れていない。その事実が胸の奥を熱くしていた。
急ぎ大阪へ帰っていった。
第十二章 仙台
由美子の動きは素早かった。雄介に鹿児島で聞いてきた話をして、彼の意見を聞いたうえで、次の日に由美子は仙台へ旅立った。
仙台駅からタクシーに乗って30分で、加藤清美が勤める大学に着いた。
「松井由美子と言います。事務の加藤清美さんをお願いしたいのですが」受付で名前を名乗り、その場で清美を待った。
しばらくして廊下を歩いてくる女性がいた。
「こんにちは、お電話を差し上げました松井由美子です」
「大阪でのOG合同コンサートの楽屋で一度お目にかかった方ですね」
「はい、その節はありがとうございました」
「今日はどのようなことで?」
「お尋ねしたいことがありまして、お伺いいたしました」「堺修一さんのことなんですが」
「えっ」修一の名前を唐突に聞かされ清美は動揺した。
突然、事務所横の扉が開き、真新しい制服を着た二十人ばかりの一年生たちが現れた。静かだった廊下が可愛い声で少し賑やかになった。
「さよなら」清美は子供たちに小さく手を振りながら笑顔で見送っていた。
「一年生ですね」
「はい」
「可愛いですね、私の長男は今年まだ五歳になったばかりで」
「そうですか」少し俯きながら小さく応えた。由美子にはその横顔が何だか悲し気に見えた。子供たちの後ろから赤ちゃんを抱いた母親が三人現れた。
教師らしい女性が付き添っていた。
「お母様方 こちらの部屋を赤ちゃんのおむつ替えなどにお使いください」
「みくちゃん、めいちゃん、まさおくんたちは、後でこちらにお連れします」
赤ちゃんに気を取られていた由美子は、清美が赤ちゃんから目を逸らしたことに気付いたが特に気にはしなかった。
清美の表情が悲しげに見えたのも彼との別れが原因だろうと考え、今は何としても加藤清美の本心を聞き出したいと願っていた。
子どもたちが去って静かになった廊下で由美子は清美と対面した。
「堺修一さんの事でどうしてもお伝えしたいことがあって来ました」「少しお時間を頂けませんか?」と率直に清美に伝えた。
「もう終わった事ですから、何もお話しすることはありません」そう言いながらも一瞬、清美は躊躇したように見えた。
「いえ、何も仰らなくても構いません。ただ聞いていただくだけで構いません」
「ですが、まだ勤務時間中ですので」清美の言葉には、彼の何を伝えに来たのかが気になる様子があった。由美子は直感した。まだ脈は残っている―と。
「あなたは知りたくありませんか、あなたが知らない堺さんの事を」
由美子は根気よく待った。
清美は静かに「30分お待ちいただけますか?中庭にベンチがありますから」と。
玄関の時計は11時半を指していた。
正午を少し回って清美が廊下を歩いてきた。
二人はL字形に置かれたベンチの角を挟むように腰を下ろした。
何も話さない清美に由美子は、鹿児島での一夜について切りだした。
「無意識の中で彼は『裏切ることはできない』って言ったの」「今でもあなたを忘れていない」とストレートに伝えそして清美に聞いた。
「修一さんはあまり何も言わないんですが一つだけ聞きました。『田舎にはついていけない』って、本当にそう言ったの?それは貴方の本心だったの?」
清美は俯いたまま何も応えなかった。
清美の心は思い出に支配されていた。
「二人だと今住んでいる1Kは辛いね」
「せめて二部屋とリビングも有ればいいんだけど」清美は彼と将来の話をすることが好きだった。住む家や家族の話も盛り上がった。
「二人でなら余裕じゃないか?」
「子供も欲しいね」
「もちろん」と言いかけて修一は言いよどんだ。
「産むのは君で十月十日って言うじゃないか、大変だろ?」
「修一さんには無理なんだから、私に任せて」胸を軽く拳で叩く真似をした。
「男の子?女の子?どっちがほしい?」
「わがままを言えば、初めは女の子で後に弟かな」
「いいね。女の子は育てやすいっていうし」「でも、女の子二人はだめ?」
「全然いいよ、可愛いだろうね」
「うそうそ、女の子男の子でいきましょう」
「じゃ、女の子の三人目も考えられるように沢山稼ぐよ」
二人は時間が経つのも忘れ無邪気に話し合っていた。
由美子は、物思いにふける清美を優しく見つめていた。
第十三章 修一の復活
鳥取へ移って一か月ほど経った頃「堺課長、企画本部の甲斐部長からお電話です」と築山が言ってきた。
「はい、堺です。ご無沙汰しております」
「挨拶は抜きだ。来週の木曜10時から社長同席の緊急会議がある。君も出席するように、詳しい内容は山下君から聞いてくれ」そう言って返事を聞かずに切れた。PJメンバーで山下と言えば、山下道子しかいないが、まだPJは続いていたんだろうか。半信半疑で企画室に電話をして山下さんの内線を呼び出した。「山下さん?今、甲斐部長から来週の会議に呼び出されたんだが何かあったの?部長は君に聞けって言ってたんだが」「課長が鹿児島に行かれてから部長と村山課長が色々口を出し始めたんです。その結果、逆に色々なことが露見して、堺課長の噂は濡れ衣だったのではないかって騒がれだしているんです」
「へー、そんなことになっているんだ」
「課長、ずいぶん落ち着いていますね」
「だって僕はもう鳥取の人間だからね。だけど皆が頑張ってくれていたのなら嬉しいよ」
「でも呼び出しを喰らったわけなんですから、未だ課長にも関係大ありということじゃないですか」
「まあ、そうだけど、で議題は何なの?」
「旧PJの進捗状況という、何とも馬鹿らしい会議レジメが出ています」
「今更だよな」
「今、佐山君と私とで以前課長から預かった資料を簡潔にまとめているところです」
「そうか、すまんな。他に仕事もあるだろうに」
「いえ、私たち二人にとっても雪辱戦ですから」
「頼もしくなったね、よろしく頼むよ」
二日後に送られてきた資料はよくできていた。
予算管理や今後のスケジュールの見込み及びその他の疑問に関して、役員たちとの質疑応答のなかで明らかにした上で、出席した社長も含め役員全員が今後の新しい柱に育てようという意見で一致した。その結果、会議では、私が温めていた農家向け小型設備の構想について、藤堂社長の決断で我が社の中心課題としての検討を積極的に進めていくことが決められた。私に関して言えば部長によるバイアスのかかった人事考課が問題視されたが、我が社のより大きな利益を慮った故の事として譴責処分だけで終わった。
私は引き続き鳥取支社の課長として新規事業を手伝うことになった。山下と佐山の両名と、再び同じ目標に向かって働けることになった。
役員の一人から私は問いかけられた。
「君はなぜ黙っていたんだ」
「黙っていませんでした。申し開きは甲斐部長の前で一度させていただきました」「しかし、いつの間にか私が癒着しているという話にすり替わっていました」
「何故反論しなかったんだ。懲戒処分の話もあったというじゃないか」
「証拠は何もない事実無根の出鱈目な話です。もしそんな嘘で懲戒処分を受ける会社なら、こちらから願い下げです」
「君のその態度が、このPJの遅延を招いたとは思わないのかね」
「あの時どんな正論を言えば聞き入れて頂けたんでしょうか?今回のPJ遅延による損害を問題にされるのであれば、その原因はひとえに甲斐部長にあると私は考えます」
「甲斐部長もそれなりに我が社を思ってのこともあったんだ。それ以上もういいだろう」それで会議は終わった。
会議が終わって廊下に出た所で呼び止められた。振り返ると藤堂社長が立っていた。
「会議での振舞は見事だった」
私は黙っていた。
「教えてくれないか?君は鹿児島と鳥取で何を見てきたんだ」
「人です」と一言、返した。
少し沈黙した後で「そうか」と言って修一に背を向け歩き出した。その背中に向かって修一は丁寧にお辞儀をした。
修一は、地方で誇りを取り戻すという意欲が体中に溢れ、ようやく自分が前を向けた気がした。
これから新しい挑戦が始まるんだと。
第十四章 清美の真実
あの日が無ければ修一さんに全てを打ち明けていたんだろうか。
大阪に来るんだったらランチをご一緒にと姉妹校のOGたちに誘われて、話が弾み過ぎて修一との約束の時間に遅れそうになっていた。
階段を駆け上がり地上に出た時、「キャー」という悲鳴を聞いた。そのすぐ後に、「子供に手を出すな!」という大声が響いた。聞き覚えのある声だった。通りの向こうに目を向けると、そこには修一がいた。清美は立ち止まり息を飲んで見つめた。
小学生二人が路上に転がされ、側に立っている男が持っているバッグを振り回し何か叫んでいた。子供たちを背にして修一が男に向かって立っていた。二人の小学生は泣きだし、修一はその小学生たちを庇うようにして男を睨みつけて身構えていた。
「子供に手を出すな!」もう一度、これまで聞いた事も無い厳しい彼の声が響いた。
修一は少し前を歩いていた小学生の男の子たちが、男性に突き飛ばされるのを見た刹那に体が動き子供たちと男の間に割って入っていった。
「子供に手を出すな!」二度目の修一の声を聴いた清美は弾かれたように走り出した。
修一に睨まれ一喝された男は踵を返し人込みの中に消えていった。
息を切らして清美が彼の傍まで来た時には、子供たちの怪我の様子を確認しているところだった。真新しいランドセルが少し汚れていたことを清美は覚えていた。
「痛いところはあるかい?」「怖かったね」「もう大丈夫だよ」彼は優しく子供たちに声をかけていた。
その声は普段より一層優しく清美の心に響いた。
「修一さん」
修一は顔を上げて清美を見た。
「清美さん、大丈夫でしたか?」子供たちに向き直りながら「すいません、少し待っていてください」と続けた。
清美は彼を優しい男性だと思っていた。だが違った。彼は優しいだけの人ではなかった。芯のある人だった。弱い者が傷つけられれば迷わず前に出る強さを持ちながら、その強さを普段は隠している人だった。
この事件が無ければ、彼の優しさの本質を一生知ることはなかったかもしれない。それは、弱い者を勇気づけ励ますことのできる強い心と慈悲深さを併せ持っていることだった。
少年たちに語りかける修一の声は、穏やかで包み込むような声だった。
あの時も修一さんは私の事を優先した。
自分の立場を気にすることなく、恥をかくことも誰かと気まずくなることも気にせずに優先したものがあった。
それは理不尽に傷つけられた人を放っておけないことだった。
出会って二年目の記念にレストランで食事をしていた時だった。
「君、失礼じゃないか」突然男性の怒気を含んだ声が聞こえた。すぐ近くの席からだった。
常連客らしい男がウエイターに怒鳴り始め、その矛先はなぜか清美にも向いた。「見たこともない女を先にするとは」
「君如きじゃ話にならん、オーナーを呼びなさい」
修一は静かに席を立った。「私の連れに何かご不満がおありなら、私がお聞きします」
男はさらに声を荒らげたが、修一は譲らなかった。
結局二人は料理を残し店を出た。
外の空気は冷たかった。
「短気は損気って当たってるね、料金タダも断っちゃったし」
「ありがとう 代わりに怒ってくれて」
「違うよ。せっかくの料理を台無しにされて我慢の限界だったんだ」
そう言って穏やかに笑う修一を見て、清美も笑った。
「修一さんらしいわね」
清美は修一の右腕に絡みつき、体を寄せた。
「どこが?」
「全部よ」
「ところで、腹減らない?」「この先にラーメン屋があるんだ 行く?」
「うん」
修一となら何を食べても美味しいに違いないと思った。
「まさかの、記念日になったね」清美が楽しげに笑った。
子供たちが倒された事件があった日、彼の本質を見なければ隠した事実を伝えていたと思う。きっと彼は私を見捨てたりしなかっただろう。でもそれが逆に怖かった。恐くて心にもない言葉が口から零れ出てしまった「田舎にはついていけない」と。
清美は、ふと、名前が呼ばれた気がした。
由美子の目が『田舎にはついていけない、それが本当の気持ちなの?』と問いかけていた。
子供好きな彼には彼の人生を歩んでほしい。やはり本当のことは言えない。
由美子は清美の視線が気になり自分のバッグに目をやった。それに気づいた清美が慌てたように「お二人目ですか」と聞いてきた。
「今、三か月目です。馴れないものですね、二人目でも」
「そうですか」より一層沈んで見えた。
「知ってました?修一さん、子供好きなんですよ」
「はい、でも私には無理です」
「どういうことですか」
「そろそろ休憩時間が終わりますので私はここで」と言って立ち上がった。
体操着に着替えた子供たちが歓声を上げながら中庭を横切って行くのを見ながら由美子は「皆、元気ですね」と微笑んだ。
「そうですね、特に二年生は学校にも慣れて怖いものなしですから」子供たちを見る目が、廊下で赤ちゃんを見かけた時と同じような悲しい目だと感じた。
遅れてきた子供たちをちらりと見た清美が「あなたには、分からないと思います」と小さく呟いたのを聞き逃さなかった。
清美の表情は終始硬かった。
由美子は「あれ?」と違和感を感じた。
その違和感とは修一の話をしていた時以上に、子供を見る目が悲し気に見えたことだった。
では、何が『私には分からない』というのか?
何の収穫も得られなかったと思いながら大阪に戻ってきた由美子を雄介は気遣った。
「体調、大丈夫?」
「うん、全然平気よ」
「で、どうだったの」
「なんも無い」
「会うことは出来たの?」
「うん、でもほとんど何もお話はしてくれなかったの」
「清美さんの様子はどんな感じだった?」
「大人しいというか、大阪での印象とはかなり違って見えた」
由美子は今妊娠3か月目だった。鹿児島に続いて仙台への長距離移動に雄介は反対だったが、女性相手に雄介では何も得られないと思い、由美子は自分で仙台に行くと譲らなかった。
2週連続で母が外出してむくれていた長男の翔馬が由美子にまとわりついてきた。疲れていた由美子の顔に生気が戻って来た瞬間だった。
ソファに置いたバッグに付けられているマタニティマークに目が留まった。
「どうした?」
「ちょっと待って」片手で雄介を制した。
窓口で自己紹介していた時、彼女は視線を落としていた。その時は元気がないからだと思った。だがこのマークを凝視していたと考えれば、その後のことも辻褄が合うのではないか?
一年生と一緒に現れた赤ちゃんを見た時、
中庭を横切る二年生を見た時、
いずれもちらりと視線を動かしただけだった。
今にして思えば、見ないようにしていたのかもしれない。
「ねえ、修一さんのこと子供好きと勝手に言っちゃたけど、いいよね?」
「そうだと思うよ、翔馬のこともよく可愛がってくれてるからなあ」
子供たちと赤ちゃんとマタニティマーク「私には無理」という言葉。
由美子は考えの先に何か閃くようなものを感じた。
第十五章 清美の決意
仙台市内を車で走っていた時、赤信号で止まった車の前を野球のユニフォームを着た数人の小学生たちが駆け抜けていった。
「野球もいいね」
「どうしたの?」
「子供が出来たら何かスポーツやらせたくない?」
「いいよ、でもピアノやりたいって言ったらどうするの?」
「なんでもいいよ。やりたいことがあるなら、やらせてやりたい」諭すような柔らかい笑顔で修一が言っていたことを思い出す。
「お母さん、私、子供を産めないかもしれないんだって」清美の声は涙で濡れていた。
「きよちゃん、どうしたの急に」
「前にお母さんに言っていた精密検査の結果が出たの」「癌じゃなかったけど、子宮内膜症だって」「先生の話では、子供は無理かもだって・・・」その後は言葉にならなかった。
「あの人にはもう伝えたの?」
「ううん、まだ」
「ひょっとして言わないつもり?」
「だって産めないんだよ」
「そうと決まったわけじゃないでしょ!もっとよく先生に聞いたの?」
「もういい」
病気を理由に別れを告げれば、彼なら必ず私に寄り添ってくれる。だけどそれをしてしまうと彼に重荷を背負わせることになる。私の体を気遣って修一さんは彼自身のすべての事を後回しにしかねない。そして、その選択を一生後悔しない人だ。だからこそ言えなかった。
「でもね、お母さん」「修一さんから鹿児島についてきてほしいってプロポーズされたの」
「どう、お返事したの?」
「ついていけないって言ったの」子供がいない未来を修一に渡したくなかった。
「今、社内的につらい立場だって言っていたんじゃなかったの。あなたが支えなくていいの?」
「お母さんも、きついこと聞くのね」「あの人は大丈夫だと思う。強い人だもの」
「修一さんにも話して、二人でよく考えたら?」
「強くて優しすぎる人だから、負担になりたくないの」
「負担だなんて言わないでしょ?あの人なら」
「そう、絶対言わないと思う。だから私、断ったのよ」本当は彼の優しさに包まれたかったのに嘘をついた。
「私ね、『そんな田舎にはついていけない』って酷いこと言っちゃったの」
「まあ、そんなことを。病院の先生のお話をよく聞いたうえでそう言ったの?」
「私、頭の中が真っ白になって、妊娠しづらくなるという話しか頭に残らなかったの」
「そんなに急いでどうして別れるなんて」
「ううん、病院からの帰りに何冊か本を買ったの。どの本にも可能性は残っているって書いてあった。でもね、そんな言葉、全然頭に入らなかったの」「もし子どもができなかったらって、そればかり考えてしまって」
「そうかい、気持ちは楽にはならなかったのかい」
「修一さん、凄く黙っていたけど最後に、物凄く落ち着いた声で、優しくいつもの穏やかな口調でね『分かった。別れよう』と言ったの」
両手で顔を覆い泣き崩れたあの日のことを思い出していた。
「辛かったね、清美ちゃん」「いつでも帰っておいでね」
その日以来、清美は家と職場と病院を、感情もなくただ行き来していただけだった。もう子供が産めないと思うと自分の身体が悲しかった。何冊も本を読んで、出産の可能性はあると書いてあっても前向きな気持ちにはなれなかった。この病気が無ければ、今頃は彼と暮らしていたはずなのにと後悔しない日は無かった。心配した両親が田舎からやって来ると、清美は笑顔を見せた。しかし、その笑顔は両親から見ても寂しいものだった。
第十六章 親友
あの日の彼女の様子からは、彼のことを本当に嫌いになったわけじゃないと感じた。本当に鹿児島が遠いだけの理由で別れたのなら、あるいは出世コースから外れたから見限ったのであれば、私と話すことにあれほど逡巡はしないだろう。会う必要さえないはずだ。
「思いを誓った女がいる」「裏切れない」
彼がお別れ会で発した言葉を由美子から聞いた瞬間、明らかに清美の目に動揺が現れた。彼女は嘘をついていると思ったが、あの時にはまだ確信は持てなかった。
しかし仙台から帰り1か月が経とうとする頃には、「嘘」だと確信めいたものを由美子は持っていた。
清美は修一に言えない何かを抱え、それが原因で身を引いたのではないか―そんな考えが日に日に強くなっていた。
風呂から上がって来た雄介と翔馬はソファの上で伸びていた。由美子は雄介に尋ねた。
「修一さんのお母さんは、今どうしているか聞いてる?」
「一人で大阪にいるんじゃないか、それがどうかしたか?」
「ちょっと聞いてみただけ」
「考えてみたんだけど、やはり清美さんは嘘を言ってると思うの」
「どうしてそう思うの?」
「だって、そもそも私に会う必要ないじゃないの」「鹿児島が遠いから嫌になったのであればね」「女ってさ、嫌いになってさよならを言った相手、しかも男性の知り合いと名乗る相手に忖度などしないものよ」
「そうじゃない女性もいるだろう?」
「いないわよ。関心のなくなった男の事なんて引きずらないわ」「修一さんのことに関心がもう無いんだったら、私と話すことにあんなに逡巡しなかったはずよ」
「でも、それだけか?」
「わたしね、清美さんに会って話していて変な違和感があったの。よくよく考えたらね、違和感って彼女の目だったの」
「彼の言葉を伝えた時の動揺した目、マタニティマークを凝視した目、赤ちゃんから反らした目、中庭で小学生を見送った目がね、悲しそうだったの」「しかし、それも、君の感覚って奴だろう」
「それだけだとそうよね」「でもね彼女はこう言ったのよ『私には無理』だって」「修一さんが子供好きだって話したすぐその後によ」
「ま、子供嫌いで結婚しないだけなら修一本人にそう言うだろうね。あいつに人の話を聞かない雰囲気はないから」
「きっとそうよ、彼女は修一さんに言えない何か、健康上の問題が原因で身を引いたんじゃないかと思うの」「未練があるから私にも会ったのよ」
「たとえそうでも、俺たちがお節介焼いて良いことと悪いことがあるんじゃないか?」
「どういうこと?」
「お互い苦しみながらもピリオドを打ったわけだろ」「それを今も心は繋がっているはずと俺たちが盛り上がって騒いでも、本人たちの迷惑にしかならないんじゃないかな」
「確かに雄介のように考えるのが大人だと思う」
「勝手に騒ぐのは無責任だと思うんだ。しかも片方だけがまだ未練ある場合だってあるだろう」
「そうよね。分るよ、でも、もしこのままで別れたら後悔して生きていくことになるんじゃないかな」「修一さんは裏切られたという思いだけが残り、清美さんには自分の不運を嘆くだけの人生にさ、救いってあると思う?」
「男性側からしたら女性不信は残るな」
「一回壊れた縁は、誰かがお節介を焼かないと元に戻ることは無いと思うの」
「流石に四回目の偶然なんかは期待できないね」由美子に同調する口ぶりで雄介が言った。
「もう一度、二人を会わせることに意味があると思うの」「三度も偶然に巡り会った二人なのよ。気持ちが本当に切れているとは、どうしても思えないの」由美子は自分の感を信じてほしいと雄介にお願いした。
「重い病気だったらどうするんだ」という雄介の言葉が重く由美子の心にのしかかった。その場合でも修一はその事実を知った方がいいと言い聞かせて雄介に懇願した。
由美子に押し切られる形になったが、そうと決まれば雄介の動きもまた速かった。苦境で苦しんでいる友のことを思い、その日のうちに有休を取り仙台に飛んだ。
加藤清美には会わず、学生課で卒業年度と朋華の名前を手掛かりに卒業後の進路を調べた。その後、公衆電話から十件ほど楽団と派遣会社に問い合わせ続けた。ようやく掴んだ情報によると、柴垣朋華がこの日、仙台のコンサートホールで演奏していることが分かった。
「大阪のコンサートで由美子とのデートの代役を修一に頼んでなきゃ、仙台に今いることも無かったんだよな」とタクシーの中で独り言をつぶやいた。
「あの時、クラシックコンサートを避けたのに、そのせいで今クラシックコンサートの会場に向かっている」という皮肉がおかしくなって苦笑した。
コンサートが終演するまで柴垣さんを待った。彼女は「親友の清美のこと」と聞き、とにかく急いで帰り支度を済ませてきたようだった。
一通りの自己紹介と事情を説明し、由美子にも電話をして彼女からも柴垣さんに手短に説明させた。
「もちろん協力します。ある日を境に清美、元気がなくなって心配していたんです」「当日、ぜひ私もご一緒させてください。何か出来る事が他にもあるかもしれませんから」と申し出てくれた。
由美子は、夕刻過ぎに修一に電話を掛けた。
修一は簡単な夕飯を済ませた後、粗末なアパートのシミだらけの天井をぼんやり見ていた。電話の呼び出し音がけたたましく鳴った。受話器を取る気にならなかったが、近所迷惑になると思いしぶしぶ出た。
「こんにちは、元気してたかな?」由美子からだった。
「久しぶりですね、雄介は?」もう何年も会って無かったかのような錯覚を覚える程に懐かしい由美子の声だった。
「彼は今、仙台よ」
由美子は修一の声が明るくなっていることに気が付いた。
「鳥取って住みやすい?」
「僕は満足しています、ここで、このまま住み続けてもいいかなと」
「そんなに気に入ったんだ。何かいいことでもあったの?」
「いいえ、でも何だか吹っ切れてきたような、もう一度頑張ってみようかなと思うようになったんです」
「そうか新しい彼女でも見つかったのかと思ったわよ」
「いませんけど。容赦なく、なんでも言いますね」
「ふふ。ところでさ、仕事忙しい?」
「まあ、雑用ばかりなんで定時にあがれていますよ」
「じゃ、有休も取りやすいでしょ」
「ええ、まあ」
「5月22日空けておいてね」
「空けておけって、こちらに来るんですか?」
「ううん、違うの、修一さんが名古屋に来るの」「5月22日、いいわね!」
「何があるんですか」
「私たち夫婦の初めてのデート記念日なのよ」
「そんなのがあるんですか、二人ですればいいじゃないですか」
「駄目よ貴方は見届け人よ」と由美子はあっけらかんとして言った。
「相変わらず由美子さんは、僕に拒否権を与えてくれないんですか? 確か僕より二つ年下でしたよね」
と言いながら、しかし由美子の言い方が心地良かった。
「もちろん、雄介の親友なんだから私の言う事は絶対よ」
「理屈も何もあったもんじゃないね、由美子さんは。雄介の生存確認しないと心配になって来たよ」
「大丈夫よ、ぴんぴんしてるから。で大丈夫よね5月22日は?」
「名古屋だね、行くよ、でも何故、名古屋なんですか?」
「気にしないの、そんなこと。ないとは思うけどさ、もしドタキャンしたら中学の時の恥ずかしい悪戯のことを言いまわるわよ」
雄介が面白おかしく膨らませた話だろうが、どんな内容に変化しているのかは、当の本人である私ですら知らない話だった。
第十七章 再会
由美子は落ち着かなかった。ロビーの椅子に腰かけながら夫の雄介は呑気に「多少遅れたってあいつは必ず来るよ」と言って、いったり来たりしている由美子を心配そうに見ていた。
「約束を破るような奴じゃないから落ち着けよ。そんなにウロウロしていたらお腹の赤ちゃん、目が回るんじゃないか」
「妊婦も動かなきゃダメなのよ」
人影に気付いた雄介が「10分遅刻だぞ」と気怠そうに歩いてくる修一に声をかけた。
「もう、遅いんだから」待ち構えていた由美子はしっかり修一の腕に自分の腕を絡ませ椅子に腰かけさせた。
「来ないかもと心配していたんだぜ」と雄介が笑って言った。
「悪い」相変わらず修一の口数は少なかった。
懐かしかった。この渡り廊下に立っていた清美が蘇ってきた。
「この待合ロビーで3回目の出会いがあったのね?」
「うん、まあ」
「その時以来ここには来なかったの?」
「一度、フェリーでの演奏を聴こうと思って、彼女の演奏日に合わせて仙台行きのチケットを取ったんだけど仕事で行けなくて」
「じゃ、3年か4年振りなのね?」
二度会っていた彼女の名前をこの日まで知らなかった。
小さなカフェで連絡先を交換してから遠距離交際が始まった。
「もう、吹っ切れた?」
「うん、鹿児島と鳥取ですっかり大阪の事は忘れたよ」
「大阪の事だけ?」
「やけに絡んでくるね」「もう、考えても仕方のないことは考えないようにしている、それだけ」
「こいつね、お前が来るかどうかソワソワしていたんだぜ」
雄介が割って入って来た。
「どうして?」雄介は一瞬不味いという表情を浮かべたが何食わぬ顔で
「今更、夫婦水入らずの食事が気に入らないんじゃないのかな」
「それで僕を出汁に使うってことか」と由美子に向って言った。
「今じゃ、翔馬もいるから二人だけに慣れてないのよ。それに、ここに出番待ちの子供もいるしね」と由美子が自分のお腹に手を置いた。
こんな会話が家庭を感じられて羨ましかった。
私は彼女から労わってもらう安らぎを知り、彼女の愛情を疑わなかった。
彼女となら家族を持ち家庭を築ける気がしていた。でも結局、もと居た一人だけの世界に戻ってしまった。
彼女は悪くない。出世の見込みが消えたサラリーマンについて来る女はいないから。
フェリーが到着し雄介と由美子に促されて立ち上がった。
「何だか刑事ドラマだな」「犯罪者を連行する刑事に見えるよ由美子」と二人の後を歩いていた雄介が声をかけてきた。右腕をしっかり掴んで歩いていた由美子が、突然、後ろを振り返った。それにつられて私も振り向くと、苦笑いをしている雄介が目に入った。
昨日の夜、リビングで今日のことを話し合っていた時、雄介が「やっと清美さんに会えるのか」と言い出した。
「写真だと綺麗な女性だよな」
「ええ、綺麗な人よ」「だから会いたいってことなのかな?」
「いや、そうじゃなくて」「人間嫌いと言う程じゃないけどさ、人を寄せ付けない雰囲気だった修一を変えた女性に興味があるんだ」
「私があなたと付き合い始めた頃に会った修一さんとは違って、笑顔が増えた気がするね」
「仙台の朋華さんからの話は確かなんだろうね」
「ええ、はっきりとした病名までは教えてくれなかったそうだけど、清美さんの病気は癌とか命にかかわる病気じゃ無さそうだって言ってたわ」
「修一のこと、まだ吹っ切れていないといいんだけどな。別れて半年だろ、新しい彼氏いなきゃいいけどな」
「その話は何度もしてきたし今更止めようよ」由美子は少し不安げに言った。
初めて乗船した。ここがバイトとは言え彼女が演奏していた場所だと思うと何故だか悲しさがこみ上げてきた。彼女の演奏は都合4回聞いた事があったが、ここでも聞きたいと言うと彼女は「洋上のデートね」と言って微笑んでいた。
「またまたで申し訳ない」朋華が両手を合わせて拝んできた。
「で、いつなの」
「来月5月22日の便なの」
「仕方ないわね、いいよ」
「本当にありがとう、でも体調はどうなの」
「うん、平気よ、気にしないで」
この日の二日前の午前中に、前回の検査結果を医師から聞いてきたが結果がポジティブだったので、少しホッとしたのもあって朋美のお願いを聞くことにした。
船上での演奏は久しぶりだったので多少緊張していた。テーブル席を見渡した時いつもの雰囲気と同じで帰ってきたと実感できて嬉しかった。
出だし良く演奏を始められたことで内心ほっとした、その時、一人の男性が立ち上がるのが見えた。
清美は息を呑んだ。
知っている。
間違えるはずがない。
どうしてここにいるの。
隠れなければと思ったが身体が動かなかった。
「清美、あとは私が引き受けるから、降りよう」
朋美がステージに駆け上がり清美の肩を抱きステージから降ろした。
修一が近づいてくる。
すぐ目の前に修一がいる。
いつも修一がしていたように、少し腰を折り顔を近づけ何か言っている。
懐かしい香りがした。その瞬間、張りつめていた心が揺らいだ。
照明が落とされたステージに演奏者二人が入って来た。ぼんやり会場の景色を眺めていた修一は、ステージ上に小さなライトが当たった瞬間、体が固まった。清美によく似た女性がフルートを持って立っていたからだった。
ステージに明るい光が当てられいよいよ演奏が始まった時、はっきり女性の顔が見えた。ピアノが静かに前奏を奏で始め、やがてフルートが『テリーのテーマ』を歌い出した。
フルートの音色を聞いた瞬間、修一は堪らず立ち上がった。
突然フルートの音が止まった。
すぐに一人の女性が袖から現れ清美の肩を抱きステージから降ろした。女性はピアノ演奏者と言葉を交わし直ぐに演奏を再開した。
修一は清美をから目を離すことが出来ずに歩み寄った。
視線を外せなかった。
清美の前に立った。
清美が修一を見つめている。
何か言わなければいけないと思った。
ぎこちなく腰をかがめ、清美に「デッキに出よう」と声をかけた。
清美は小さく頷いた。
「寒くない?」修一は着ていたジャケットを脱ぎ清美の肩に掛けた。
修一は彼女の横に少し離れて座った。
「元気だった?」
「ええ」清美は終始うつむき修一を見なかった。
「修一さんは?」か細い声で清美が応えた。
「まあまあだよ」「今日、君がいるなんて知らなかったよ」修一はぎこちなく微笑んだ。
「私も、知りませんでした。朋美も何も言ってくれていなくて、驚きました」
二人は沈黙した。
漸く修一が語りかけた。
「君がいなくなってから辛かった」
「修一さん・・・」それ以上の言葉が出なかった。
「いや、正直に言うよ、寂しかったよ」
「ごめんなさい」
「謝らなくて良いよ、君が悪い訳じゃないから」
「いつも修一さんは優しく語りかけてくれていたし、私が間違っている時でも決して怒らず優しい声で諭してくれたのにね」
清美は膝に置いてスカートを握りしめていた両手に力が入った。
「鹿児島に行った時には、まだやってやろうと思っていたんだ、気持ちを切らさないようにしていた」
「修一さんなら乗り越えたんでしょう?」
「いや、戦っている意味が分からなくなったよ」「大阪の連中を見返す、初めはそう思っていた。でも、見返した後に何が残る?大阪に戻ったところで、結局、一人暮らしが待っているだけだ」
「修一さんなら大阪に戻ることも東京に行くことも出来るでしょう? それにいつまでも一人のハズ無いでしょう?」
「鹿児島で出会った事務の女性」と言った時、清美が少し姿勢を変えた。
修一は続けた「定食屋のおかみさん 電気工事のおやじさん コピー機FAXのメンテナンスに来る青年、あの人達みんな、明らかに左遷されてきた僕に何も聞かないんだ」
「飯食えてるか この土地好いだろ 馴れたか、と笑顔で、でも少し心配顔で声をかけてくれた」「鳥取でも同じだったよ」
「皆さんからよくして頂いたんですね」「鹿児島と鳥取がお好きになりましたか」
「うん。ずっと桜島と鳥取では大山という山を眺めて暮らしていたよ」
「登らなかったんですか?」
「大山に登ってこう言われた気がしたよ。いつまで立ち止まっているんだ、と」
「どうされるんですか?」
清美は今、修一の目を見て話していた。
「転勤を命じられ僕は、負けたことを悟ったんだよ」
「そんな、負けただなんて」
「そして、君が別れを切り出した時に感じたんだよ。僕のような負け犬は去るべきだとね」「それで君を一言も引き留めもせずに別れてしまった」
「そんなつもりじゃなかったんです、でも」清美は目を伏せて言った。
「いいんだよ。負け犬で終わらない、見返してやると言う思いで鹿児島に行ったんだ。でもね、おかみさんや親父さんたちと話す機会が増えて、いつの間にか冷静さが戻ってきたんだ」
「地方には地方での生活がある。地方転勤が負け犬だなんてそんな失礼な言い草があるだろうかと」「桜島は鹿児島の人にとっては欠くべからざる象徴で誇りだった、大山も鳥取の人達から愛されている存在だった」
「鹿児島に行って良かったのね」
「地方にも誇れるものがある。だったら僕も、その土地で胸を張れる仕事をすればいい。本部だの地方だのと考えるのは止めよう。そう思ったら気持ちが楽になったんだ」
「転勤のこと吹っ切れたんですね?」
「うん、鳥取勤務のまま、大阪のプロジェクトにもまた関わることになったんだ」
「修一さんが任されていたプロジェクトですか?」
「鳥取で気持ちが楽になってね。ようやく周りが見えるようになったんだ」「そうしたらね、君の事が急に浮かんだんだよ」「あの日君が言ったことは本心だったのかと」
「修一さん」清美は病気のことが口から出そうなのを堪えていた。
「大切なものを見失っていたことにようやく気付いたんだ」じっと清美の目を見て尋ねた。
「別れる理由に君自身のことも関係していたんじゃなかったの?」
清美は修一が何を言い出すのかと戸惑った。
「雄介と由美子たちのことは知っているね」
「聞いたよ、もしかして何か病気を抱えて隠しているんじゃないかって」
清美は視線は逸らさずにそこに座ったままだったが、目からは大粒の涙がこぼれ落ちた。
しばらくして清美は修一に話し出した。
「私、あの電話を掛けた日の前日に病院で検査結果について聞かされたの、病名は子宮内膜症なの」「医師からは妊娠の可能性は低いと言われたの」
「辛かったね、それを一人で抱えていたのか」
「何も考えられなかったの」「妊娠の可能性が低いと聞いてからは、先生のお話もよく聞いていなかったと思うわ」
「うん、分かるよ」
「妊娠できないって思い込んでしまって診察室を出たのは覚えているの」
「お母さんにも話さなかったの?」
「いいえ、母には電話しました。母に話したら何も結論は出ていないんだから、先生に良くお話を聞いて修一さんとも話し合いなさいって言われたの」「私もね、関係する色々な本を読んだの、可能性は低いだけで妊娠できないとは書いてなかった」「でも、気持ちは晴れなかったの。前向きな気持ちにはならなかったし、あなたに話すのも怖かったの」
「どうして怖かったの?怒られると思ったの?」
「修一さんならきっと寄り添ってくれると信じていたから、でもそれが逆に怖かったの。子供好きなあなたの未来を潰しそうで」
「あなたの負担になりたくなかったから」嘘をついたと清美は正直に話した。
「ごめん。僕が先に転勤の話をしてしまったから言い出せなくなったんだね」
「いいえ、違うの」
「僕はね、君がいいんだよ。他の誰でもない君だけなんだ」
「ありがとう。でもね、私じゃ、やっぱりあなたを幸せに出来ないと思ったの」
「人を労わることを、君が、君の温もりで教えてくれたんだ。それで僕は変われたんだよ。僕でも家庭を持てるんじゃないかという希望を持てたんだ」
清美はじっと修一の目を見ていた。
「君と付き合いだしてから友人たちとの付き合い方も変わった。君と出会ったからこそ僕の人生そのものが変わった」
「いいかい、よく聞いてほしい。僕のそばにいてほしいのは、君が病気だからじゃないし同情からでもないんだよ」
「病気の事を知ったらあなたは私から離れたりするような人じゃないと分かっていたの」「でもね、子供の居る家庭を夢みるように語っていたあなたに、子供を望めない未来を渡したくなかった」と絞り出すように話した。
「僕はね、孤独じゃない人生があることを君から教わり、今まで平気だった孤独が、今では怖くなったんだ」「自分勝手な言い草だと分かっている、でも本当なんだ。君と一緒に居たい。この先ずっと」
「私もあなたと居たいとずっと後悔していました。私から別れを切り出しておきながら、どれだけ修一さんが私の生活に深く入り込んでいたのかが分かっていなかったの」「あなたの優しさは見返りを何一つ求めない優しさだと知っていたから、言い出せなかったの、許して」
「君が苦しんでいる荷物の半分を持たせてほしい」「君が僕を3年間支えてくれたように、今度は僕に君を支えさせてほしい」
修一は、一度言葉を切り力強く言った。
「君しかいないんだ」
少しの沈黙の後「私でいいの?」と清美は静かに問いかけて修一の胸に飛び込み泣いた。
清美は何故、修一に全てを正直に打ち明けたのか自分でも分からなかった。
きっと彼の香りに包まれて安心したんだと清美は理解した。
もう瘦せ我慢は嫌だった。
最終章 五月の風
施設まで来たが門の前で躊躇し立ち止まった。
「本当に僕は人の親になれるんだろうか、どう思う?」
今日のことを清美と話し合ってから、修一の自問自答は止まらなかった。
『子供を愛せるのか』血がどうのこうのという問題じゃなかった。
「あなたは大丈夫、優しくてブレない芯のある強い人だから。私が保証するわ」繋いでいた清美の手に力が入り彼女を見たら、少し緊張している顔に笑顔を見せて行こうと促された。
その笑顔に勇気をもらった。
清美の病気について、二人で何度も話し合った。清美は病院から渡された資料や、一人で不安を抱えながら読み込んだ本を私に見せてくれた。自分だけで抱え込まなくてよくなったことで、少し気持ちに余裕が生まれたようだった。
診察には出来る限り私も付き添うようにした。
担当医は、子宮内膜症だからといって必ずしも妊娠できなくなるわけではないと男性の私にも分かりやすく丁寧に説明してくれた。
「妊娠は諦めなくてもいいという事ですか?」
「そうです、妊娠の可能性は残っています。ただし病気の進行具合や今後の経過によっては、さらに妊娠しにくくなる場合もあります」
医師はそう前置きしたうえで、「今の段階で悲観する必要はありません。まずは治療と経過観察を続けながら考えていきましょう」と穏やかに話してくれた。
医師の言葉で清美の表情が少し変わった。「あの時は病名を聞いただけで頭が真っ白になってしまって先生のお話が頭に入って来なくて」
「お二人でよくお話しされて気持ちが落ち着かれたんですね」と担当医が優しく言った。
清美と修一は、出会って4年目の秋に入籍をして結婚式を挙げた。披露宴は雄介が進行役をかって出て賑やかに行われた。清美の病状は大きく変化はしなかったが、妊娠の希望は二人とも捨てていなかった。そんな時に雄介夫妻から特別養子縁組の話が持ち込まれた。当時始まったばかりの制度だった。図書館で資料を調べるうちに、それが決して生易しい制度ではないことが分かった。若い夫婦の申請は、経済的問題や離婚率の高さも問題になるなどがあって認められにくいという。
それでも二人で時間をかけて話し合い可能性を考えることにした。
修一は市役所の児童福祉担当窓口に出向いた。
「特別養子縁組について知りたいのですが」
担当者は資料を探しながら「詳しいお話でしたら児童相談所を紹介します」と答えてくれた。清美と一緒に児童相談所で詳しく制度の仕組みを教えてもらった後に、児童養護施設に連絡を取ってもらい見学の日時を決めた。
受付で約束の時間に来訪した旨を伝えて施設長の山田氏への取次ぎをお願いした。
山田氏と手短にあいさつを終えると小会議室に案内された。
その会議室の向かいにある部屋を指差し「今お昼寝の時間ですが覗きますか」と聞かれた清美が頷いた。
遊戯室と書かれた扉を少し開けて、中を二人で覗き込んだ。
すると少し離れた所に寝かされていた一人の3歳か4歳程度の小さい子どもが立ち上がった。「清一くん、どうしたの?お昼寝の時間ですよ」と児童指導員の女性が声をかけた。少年は恐る恐る清美に近づきスカートの裾を握り躊躇いながら「・・・」清美を見上げた。しゃがみこんだ清美の顔を少年はじっと見つめていた。私は二人の姿を見て堪らず床に膝をつき清美と少年を抱き寄せた。その時、温かい小さな背中に触れて私は訳も分からず涙があふれてしまった。親から「大丈夫かい?」というたった一言の言葉を求めていた自分の姿と傷テープを巻いてくれた清美の温かい手が突然蘇ってきた。
この子を幸せにしたいという感情が抑えきれなくなった。
清美が「この子は私たちの子供だよ」と涙で濡れた顔を向けてきた。
しばらく経ってから施設長の山田さんと向き合った。
先ほどの少年のことと併せてここでも特別養子縁組の説明を受けた。
「詳しい事情はお話できませんが、幼い頃から保護下にあります」
清美は少年の名前の一文字が同じことに気付き一瞬息をのんだ。
「彼のことはあまり気にしないでください」と山田さんは誠実そうな笑顔を見せながらも事務的に話してくれた。
しかし、私の手に残った小さな温もりは消えず山田さんの説明を受けても少年への気持ちは変わらなかった。
山田さんからは、特別養子縁組が最近始まった制度であることを再度繰り返し説明された。
「最終的には家庭裁判所が子どもの利益を最優先に判断します」
「その最終判断が出るまでにはどの程度の期間が見込まれますか」修一が一番気になっていたことを聞いた。
「一年から長くて三年かかる場合もあります。子どもの将来を決める大切な制度ですので、審査には長い時間がかかるとお考え下さい」
「その期間に私たちがすることはどんなことがあるんでしょうか」と清美が聞いた。
「面談や家庭訪問などもあり、一度や二度のお話しで終わるものではありません。その点はご留意ください」「お二人にも日時調整などお仕事との兼ね合いでご不便をおかけする場合もあるかと思います」
「厳しいんですね」修一がポツリとつぶやいた。
「子どもにとって最善の家庭を探す手続きだとお考えいただきご協力ください」と山田さんが丁寧に頭を下げた。
「最後に申し上げにくいことですが、長い時間をかけていただいても必ずしも希望どおりに進むとは限りません。家庭状況などを総合的に判断した結果、縁組に至らない場合もあります」修一と清美は顔を見合わせた。
「私たちは常に子どもの利益を最優先に考えております。その点をご理解いただいたうえで申請についてお考えください」と念押しされ終了した。
施設を出て振り返ると先ほどの少年が窓越しに私たちに向かって無邪気に手を振っていた。
玄関先まで見送ってくれた児童指導員の女性は「清一くんが自分から見学の方に近づいていったのを初めて見ました」
「普段はどんなことをしているんですか?」
「いつもは遊びに熱中していますね。遊びは色々ですけどね」「今日に限って起きてましたけど、お昼寝も良くする子なんですよ」と教えてくれた。
私たちは児童指導員の話を聞いて、なおのこと少年のことが気になった。
私の横で清美が少年に向かって手を大きく振っていた。
帰り道「どうする」と声をかけた。
清美は静かに、しかしはっきりと「あの子を家族に迎えたい」と答えた。
その声は、まだ涙に濡れていた。
私に異存は無かったが「でも俺たちじゃ、まだ信用がないから却下されるかもしれないよ、その覚悟はあるの?」と気持ちとは裏腹な厳しい現実を口にした。「却下されたらされたでショックはあるかもしれないよ」
清美は「うん、分かってる。私たちじゃ無理だと言われるかもしれない、でも構わない、挑戦させて」「あの子の母親になりたいの」彼女の眼はまだ潤んでいたが表情は明るく笑顔だった。
彼女と出会って4度目の5月。
雲一つない青空を見上げた時、そよぐ風が光った。
修一は清美の手を握り返した。
※本作の時代設定は1990年前後です。
①作中で描かれる婦人科疾患に対する認識や治療法、妊娠に関する説明は当時の社会状況や登場人物の理解を反映したものであり、現在の医学的知見とは異なる場合があります。
②特別養子縁組制度についても、制度運用や社会的認知は現在とは異なる部分があります。