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連載恋愛小説-「秘密」⑰

    続きです
                    (2450文字)

    晴れの日には微笑み、曇りの日には一緒に悩み、雨の日には部屋に閉じこもり涙する。嵐の日には怒りを力に変えて、僕らはいくつもの季節を乗り越えて、また、春を迎える。


    いっちゃんは八十歳をこえた頃から少しずつ風邪をひきやすくなり、熱を出し寝込むことも多くなった。一度大病を患ったこともあったが、今も家で僕と一緒に養生しながら余生を送っている。


    「いっちゃん、今日はいいお天気で良かったね。桜の蕾も膨らみ始めたよ。」

    僕といっちゃんとのお天気日和のお散歩は心が弾みとても幸せな時間だった。

    すっかり体が弱くなったいっちゃんの着替えを手伝いながら声をかける。春といっても肌寒い。自分で足元が冷えないように穿きかけたアンダータイツを、僕はお尻まですっぽりと覆うように手伝ってあげる。その上から薄手と厚手の靴下を重ねばきさせ、厚手のロングスカートに薄手のセーターを合わせる。色白のいっちゃんにはピンク色が良く似合う。
    「桜を見にいくのに、私も桜色?」
    そう言っていっちゃんは和かに笑う。
    「そうだよ。桜に負けない。」
    僕は目を大きく見開いて眉毛を少し上げおどけてみせる。

    仕事量をコントロールしている僕といっちゃんの時間は永遠に二人っきりだ。焦ることはない。毎日をゆっくり過ごせばいい。

    いっちゃんの髪の毛を梳かしてあげる。ずっとロングだった髪を切ったのはいつだっただろうか。今はふんわりしたボブのグレーヘアーになっている。

    「和さん、とても気持ちがいいわ。ありがとう。」
    いっちゃんは目を瞑りうっとりとしたような表情で薄く息を吐く。顔は相変わらず色白だが、自分でパウダーをのせた頬はほんのり赤みが刺し、色艶がよく見える。目尻の皺はやんわりとしていて、それさえも愛おしい。清潔感のある顔は歳を重ねても変わらない。

    僕は水筒に温かいお茶を用意してからいっちゃんを抱き起こし、玄関先に置いてある車イスに乗せてあげる。膝の上にはブランケット、首には淡い色の花柄のシフォンのショールを巻いてあげ、ウールの帽子をちょこんと頭に乗せる。

    「毎日、和さん仕上げの私ね。」
    「そうだよ。いっちゃんの全ては僕が握っている。」


    僕はこの先そう遠くない未来に、この穏やかな日々が終わりを告げることを知っている。


    僕はたまに思い返す。今までの日々を。
    父がいっちゃんと過ごした年月も、父の生きてきた年齢も、僕はとうに超えてしまった。これをどう思えばいいだろう。
    僕らは後戻りが出来ない道を静かにひっそりと確実に手を離さずやってきた。
    認めてもらえないままだとしても........
    父も母と仲良くやってくれていたらいい......


    家の中でならいっちゃんは、手すりがないところでもゆっくり歩ける。食事を作っている僕の背中を嬉しそうに見ていることもある。
    いっちゃんはいつだって
    「美味しい〜。うん。美味しい。ありがとう。ありがとう。ごちそうさま。」っと、笑顔を絶やさない。僕に対しての思いやりだ。


    夜はいっちゃんの介護がてら一緒にお風呂に入る。最初は恥ずかしそうにしていたが、今では諦めて僕にすっかり身を委ねている。

    小学生の僕にいっちゃんが言う。
    「介護の練習ね。」
    あの時の銀の鈴のような声を僕は想い出す。

    「ねぇ。いっちゃん、あの時、かいごの練習しておいて良かったね。」

    「もう、言わないの。」
    少しむくれたように力のない手で僕を小さくたたく。

    僕にもたれかれるように座っているいっちゃんの体は、あの頃より、半分ほど小さくなった気がする。僕はその透明で消えそうな小さな体を見ると何故だか泣きたくなり胸が痛くなる。きめが細かく白い肌は何十年もかけて弛み緩やかだ。小さくなったお尻は太ももにかけてなだらかになり、皺が穏やかな波をうっている。全てが一緒に生きてきた証だ。愛おしい。折れそうな細い首から優しく僕の手のひらの泡で包んであげる。木の棒のような腕も指の先までも、僕が最も愛した場所も泡で満たし丹念に優しく洗ってあげる。いっちゃんがいっちゃんである限り、僕は何も厭わない。この穏やかな幸せを一分でも一秒でも味わっていたい。


    幼友達の母親のお葬式での会話を思い出した。
    「いっちゃん、元気にしているか?」
    「あぁ、元気だよ。」
    友達の間ではいっちゃんは昔のまま、変わらず、いっちゃんのままだ。
    「お前、とうとう結婚しなかったな。」
    「あぁ。」
    「俺んちは上の孫が今年中学生だ。」
    「早いな。」
    「まあな。孫は可愛い。けど、家族が増えるとそれはそれで大変だ。お前はずっとあんな綺麗なお母さんと二人でいれたんだ。幸せじゃないか。まっ、老後の一人暮らしは覚悟しとけよな。話し相手ぐらいにはなってやるよ。」
    「ありがとう。その時はよろしく頼むよ。」


    湯上がりのいっちゃんはまるで産まれたての赤ちゃんのようだった。体全体をバスタオルで巻きつけ背の低い椅子に腰掛けさせる。頭にタオルを巻きつけバスタオルを少しずつ広げ、首から皺の一本一本にも入り込むように優しくボディークリームを伸ばしながら、胸からお腹へと僕の手は落ちていく。いつもほんの少し羞恥心を覗かせるのがいたいけに感じ、すぐにバスタオルを体の前後反対にかけなおす。薄らとした肉付きの背中は内から外へと円を描くように優しく手を回すがあっという間に塗り終えてしまう。足の指をマッサージしながらその間を塗りだすと、いっちゃんはくすぐったそうに体をくねらせる。
    寝巻きを着せて髪の毛を乾かしてあげると、量が少なく細い毛はあっという間にさらさらになる。

    「う〜ん。いっちゃん、今日もいい匂いだよ。」

    いっちゃんはゆっくりと優しい手つきで僕の頬に手を添える。


    「ありがとう。和さんもね......いつもごめんね。ありがとう。」

    「ううん。僕はやりたくてやってるんだよ。謝らないで。お陰様で僕には体力があるからね。」

    僕は目を細め、いっちゃんをふわっと僕の胸に包み込む。


    今夜も僕はいっちゃんの静かな寝息に安堵して、安らぎの闇に溶け込んでいく。


    続く

     
     
     
    初めましての方も、そうでない方も、こんにちは。 心の赴くままに小説、詩、たまにエッセイ等を書いています。 お立ち寄り頂ければ、嬉しいです。 *記事の著作権は放棄しておりません。 2026年4月8日まで、aonokutuで活動。 2026年4月8日からは「蒼あお」として活動。