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【ピリカ文庫】 にじいろの壁

    青豆ノノ

     ぐるりと一周、土壁が囲う。猫と、その飼い主の阿武隈あぶくまりさ子が住む家だ。この家にドアはない。あるのは二つの穴。猫をかたどったものと、阿武隈りさ子のかたちをした穴だ。

     柔らかな曲線で女のからだをかたどった穴を、阿武隈りさ子はいとも簡単にすり抜ける。彼女以外がこの穴を通ることは不可能だと思えるくらい、穴は阿武隈りさ子その人を表している。
     一方、猫のためには、猫のかたちをした穴があって、大抵の猫はその穴をぬけることができた。だけど、ミミミは。りさ子の猫のミミミだけは、この穴を見ると、体を低く構え、しっぽを足の間にくるりと巻き込んでじっとしている。

     毎朝、阿武隈あぶくまりさ子が家を出るとき、ミミミは穴の前まで彼女を見送った。
    「行ってくるね、ミミミ。そう遅くはならないから」
     穴をぬけた先でりさ子は何度も手を振った。

     りさ子の姿が完全に見えなくなると、ミミミは家の見回りを始める。不審者が潜んでいないか、りさ子の苦手な虫がいないか、この古い一軒家に危険な場所はないか。
     それらを確認し終えると、ようやく庭に出て、からだ全体を使って深呼吸をする。二本足で立ち、両うでを広げる。小さなからだを震わせながら、うでを高く持ち上げると、ミミミは気持ちよさそうに喉を震わせた。
    「ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛ア゛」
     ぼくはこの声を聞くのを密かな楽しみにしている。まるでオッサンなんだ。この猫は。

     大きく伸びをしたあと、ミミミはガーデンチェアに腰かけ煙草をふかす。足を組み、煙草を持った手で時々おでこを掻く。ため息とともに吐き出す紫煙を、素早い動きで掻き消そうとして、はっと我に返り、また腰を落ち着けて一服する。寄ってくる小バエを尾で払えば、尾を憎らしげに見つめて唾を吐く。やさぐれている。

     ここでようやく「やあ」と片手をあげて挨拶をするぼくを一瞥して、ミミミは煙草を灰皿に押しつけた。
    「こんなふうに吸殻を残して、飼い主にバレたことないの?」
     灰皿を覗きこむぼくの横をすりぬけていくミミミは、二本足で歩いている。じつを言うとミミミは、りさ子のいない間は二足歩行する猫だ。そのうえ、気づかれない程度に家事もやるし、昼のワイドショーを見たりもする。まるで人間の大人のように。

    「いつも思うけどさ。キミはちっとも猫らしくないね」
     居間に入っていったミミミに追いついて、ぼくはわざとそう言った。すると座椅子に腰を落ち着け、テレビを見始めたミミミがゆっくり首を回してこちらを向いた。睨んでいる。
    「らしいってなんだよ。猫らしいってなんだ。人間らしいってなんだ。そういうお前はいったい、なにらしい・・・んだ」
     ミミミが嫌いそうな話題だと知りつつ、わざとふっかけた〝らしさ〟の話。このところミミミがつれなくて、ぼくと話してくれなくなっていたから、それで少しからかいたくなったのだ。
    「見てわかんない? ぼくはいかにも人間の男の子らしいでしょ。ちんちんもあるし、毎日ズボンしか穿かない」
     立ち上がり、ズボンの前を少し下ろして見せた。ミミミは全身の毛を逆立て、怖い声を出してぼくを威嚇した。
    「見たくもねえ、そんなもの。腹立たしい。二度とやってくれるな。まったくおめでたいやつだよ、お前は。体は男で、心も男。じつにめでたいな、おい」
    「どうしてそれがめでたいのさ。ぼくは男として生まれたから男なんだ。こんなふつうなことがめでたいわけないだろ」
    「そういうところが。めでたいって言ってるんだよ」
     ミミミは視線をテレビに戻すと音量をあげた。
    「キミは雄オス猫なんだってね。阿武隈りさ子はそう言ってたよ」
     テレビを見つめて、ミミミは何も言わない。ただ、頭の上の二つの耳はぼくのことばをしっかりキャッチしようとこちらを向いているのだった。
     しばらくすると、ミミミは独り言のようにこんなことを言った。
    「どうして。この家にはドアがないんだろうな」
    「ドアがなくたって、キミは猫のかたちをした穴から外に出られるし、それを阿武隈りさ子は止めたりしないよ」
    「なあ。どうして、俺は猫のかたちをしているんだろう。そして、どうして俺が通ることを許されるのは猫のかたちをした穴なのかな」
    「ねえ、ミミミ。何を言っているのかわからないよ」
     いつの間にかミミミはテレビを消していた。テーブルに肘をつき、ぼくに背を向けている。
    「お前は、どうやってこの家に入ってきた?」
    「ぼく? ぼくは阿武隈りさ子のかたちの穴からだよ。いくら華奢な女性用の穴だって言っても、子どものぼくなら簡単にぬけられるからね」
    「そのときお前は、なにか違和感のようなものを感じなかったか。つまり、男のお前が、女のかたちをした穴を通るということに」
    「ちっとも。どうしてそんなこと気にするのさ。どこを通ったってぼくはぼく。男の子のぼくであることに変わりはないよ」
    「やっぱりお前は……」
     いや、なんでもない。そう言うとミミミは突然テーブルの上へ飛び乗った。そしてテレビ、食器棚へと飛び移ると、ぼくから見えないところに隠れてからだを丸めた。
    「ほら、そうやって。面倒になるとすぐに高いところに隠れる。やっぱりキミは、誰が見たって猫じゃないか!」

     帰り道、家の前の一本道で阿武隈あぶくまりさ子とすれ違った。
    「またうちにきてたの?」
     りさ子から声をかけられ、ぼくは頷いた。
    「いつもミミミと遊んでくれてありがとうね」
     りさ子はぼくのあたまをくしゃっと撫でた。
    「どうして? 怒らないの? 不法侵入だって」
     りさ子は笑った。
    「だって、穴が空いてるじゃない、うち。誰でもお入りなさいと言っているようなものよ。だけど、案外入られないのよね。このあたりにはあまり人がいないし、うちの入口はわたしくらいの背丈の女性しか入ることができないから」
    「あとはぼくみたいな子どもとか」
    「猫とか」
     二人の声が重なった。

    「男の人は誰も来たことがないの?」
    「男の人には来てほしくないの」
    「どうして?」
    「ミミミがいるから。それでしあわせなのよ。だって、ミミミはわたしの一番大切な……」
    「猫?」
    「そうね。だけど、本当はそうじゃないのかもしれない」
     気をつけて帰りなさい、そう言って阿武隈りさ子はぼくから離れていった。

    *

     数日後、阿武隈りさ子の家へ向かう一本道で、今度はミミミに会った。
    「ミミミ!」
     嬉しくてかけ寄るぼくには目もくれず、ミミミは俯き気味に歩いていた。もちろんここでは前足と後ろ足を使って地面を踏みしめている。
    「家の外で会うなんて。珍しいね、ミミミ。どこへいくの?」
    「どこへだって行くさ」
    「どういうこと? 阿武隈りさ子には言ったの?」
    「言ってない」
    「それじゃあ心配するじゃない。いつ戻る? ぼくが代わりに阿武隈りさ子に伝えるよ」
    「余計なことをするな」
    「ねえ、どこへ行くか言えないなら、ぼくも一緒に行ってもいい? ねえ、ミミミ? ねえってば! ミミミーミミ! ミーミーミミミ! ミーミミミミミ! ミーミーミー!」
    「あーーうるさい!!」
     ミミミは立ち上がり、ぼくのデニムのズボンに爪を立てた。
    「痛いよ、乱暴者! 無視したのはそっちなのに」
    「お前がしつこくてうるさくて鬱陶しいからだよ」
    「ひどいじゃない。同い年だから仲良くしたいだけなのに」
    「同い年?」
     ニャハハ! とミミミは笑った。
    「ウケるな、お前」そう言ってミミミは、ぼくを置いて歩き出した。
    「ねえ、しらない? ぼくたちは七歳。同い年だよ」
     またしてもミミミは、背中を小刻みに震わせて笑っている。
    「なあ、お前。違うんだよ、そうじゃない。たしかに、俺はりさ子によると七歳なんだが……お前の七歳と俺の七歳は違うんだ」
    「どう違うの」
    「俺は……俺の場合は。この体で生きている限り、お前よりもずっと歳をとってる。俺の体で七歳というと、人間にしたら四十をこえてる」
    「しじゅう?」
    「つまり。オッサンだ」
     アハハ! ぼくは笑ってやった。大して面白くもないのに。
    「キミがオッサンなことはよく知ってるよ。だったら、ぼくはオッサンと友だちになる。別にいいじゃない。七歳だろうが、オッサンだろうが。猫だろうが」
    「よくないんだよ!」
     ミミミが急に大きな声を出したから、ぼくの心臓は弾けそうになった。
    「なんにもよくないんだ。今までも。これからも」
    「ねえ。悪かったよ。オッサンと言ったことが嫌だった? それとも、キミを猫だと言ったこと?」
    「なにも。お前のせいじゃないよ。お前にはわからなくて当然なんだ。生まれた時から男で、それを疑ったことも、不快に思ったこともないお前には」
    「ミミミは、自分が猫だってことを疑ってるの? 自分のからだをいつも不快に感じてる?」
    「そうだよ。お前が俺をオッサンだと言ったことは正しい。俺だってそう思ってる。だけど見てみろよ。俺はどう見たって猫であってオッサンじゃない。あの家の、猫のかたちをした穴を通るたび、嫌というほど思い知らされるんだ。自分の体のこと。そのとき感じる違和感は、俺の命を削ってしまうほどなんだ。そうでなくたってこのからだ、この容れ物は、お前やりさ子とは比べものにならないスピードでどんどん老いていってる。このまま、一度も自分に納得できないまま、俺は……」
     ミミミはいつの間にか二本足で立っていた。
    「なあ。煙草、持ってないか」
    「持ってるわけないだろ」
    「そうだな……」
    「ねえ。ミミミ。いい考えがあるよ。キミってつまり、猫の姿が嫌なんだよね? キミってつまり、本当の自分は猫ではないって、信じて疑わないんだよね?」
    「……随分、賢くなったな」
    「それなら、ぼくについてきてよ」
    「いや、だめだ。それはできない。俺はもう、決心したから」
     ミミミは真剣だった。ぼくを見上げるミミミの、ビー玉のような目が潤んで光った。
    「それは……どんな決心?」
    「お前には言えないよ」
    「阿武隈りさ子にも?」
     りさ子と聞いて、ミミミは俯き、がっくりと肩を落とした。そして柄にもなく、えんえんと泣いた。
    「り……りさ……子に……ヒッ伝え……てくれ。
    あ、あ、あ、あ……」
    「自分で言いなよ」
     ぼくはミミミの頭をくしゃっと撫でた。
    「キミが阿武隈りさ子に自分で伝えられるようにぼくが協力するよ。だからついてきて。キミは……全てを捨てる覚悟で家を出たんだよね? だったらもう、怖いものはないでしょう?」
    「それ、どういう意味だ」
     ミミミの目が、さっきとは違った光を放つ。
    「このあたりでいちばん大きい建物を知ってる?」
     ニャッハと笑ってミミミは言った。
    「知らないわけないだろう。毎日りさ子が勤めに出ているんだから。病院だよ。ひいらぎ総合病院」
    「そう、ひいらぎ。ねえ、キミは知ってる? ぼくの名前」
    「お前の、名前?」
    「ぼくの名前はね、柊 裕太ひいらぎゆうた。ねえ、これでわかったでしょう? ついておいでよ。ぼくのお父さんならきっと。キミを救ってくれるから」

    *

     久々に阿武隈あぶくまりさ子の家を訪れた。ミミミが決心をして家を出てから半年が経っていた。その間に一度だけ、ぼくは阿武隈りさ子に会いに行った。そして、どうかミミミのことを待っていてほしいと伝えた。それから、今は何も尋ねないでほしいとも。そしてそのとき、一つだけ、ある頼み事をした。

     半年ぶりに懐かしい家の土壁を見て、ぼくの願いが叶ったことはすぐにわかった。

    「ねえ、上手くいったと思う?」
     りさ子は不安そうだった。
    「完璧だと思うよ」
    「ミミミは……この穴を憎んでいた?」
    「そうじゃないよ」
     ぼくは、土壁を見つめて今にも泣き出しそうなりさ子の手を握った。
    「ミミミは、この穴のかたちに自分を当てはめることが苦しかったんだ。だってこの穴を通るとき、どうしたって意識してしまうから。自分の体は、猫なんだって」
    「ミミミとあなたが教えてくれなければ、わたしはずっと気が付かなかったかもしれない。女として女を生きているわたしは、女のかたちをした穴を通ることに、なんの疑問も抱かなかった」
    「ぼくだって同じだよ。どうしてミミミが猫の穴を通りぬけるときに、あんなに苦しそうにするのか、全くわかっていなかった。だけど、今だったら、きっとミミミは……」

     あ、と二人で顔を見合わせた。土壁の向こうで、誰かがドアをノックしたのだ。ついで「こんにちは」と声がする。
     ぼくとりさ子は繋いでいた手を離した。ぼくはにやにやが止まらない。りさ子を見ると、すでに頬を赤らめていた。りさ子はぼくを見て頷き、一歩一歩、ドアに向かって進んでいった。

     ぼくは改めてその壁を見た。
     今は埋められている、かつて穴だったところには、色とりどりの花が描かれている。そしてその隣には、ぼくが願ったとおりの立派なドアがついていた。
     りさ子が「どなた……ですか」と声をかけた。
     するとドアの向こうから、洟をすする音がして、何度か咳払いをしたのち、その人は言った。

    「ミミミ改め、木村拓哉です。りさ子、随分待たせたね」


    ~𝐄𝐍𝐃~





    #ピリカ文庫

    お題「猫」で書きました。
    ピリカさん、お誘いいただきありがとうございました°・*:.。.☆






    #掌編小説


     
     
     
    小さなわたしの世界を、この街で育ててみようと思いました。好物は豆です。