
忌魔女 2
「あなたは、神ですか?」その者が訊く。
「神ではない」ルゥシファは答えた。
悪魔である、とは言わずにおいた。
物を訊く、ということは、この者がまだ己自身を『人間に近いもの』と認識しているということの顕現だ。
悪魔が目の前にいると知ったなら、人間としては恐慌に陥るだろう。下手をすると、もう死んでいるのにも関わらず、恐怖の余り再び死んでしまうかも知れない。
つまり粒子として、スピンを失うのだ。
そんな事になると、後の作業が面倒になる。
「じゃあ、神ではないのなら、天使ですか?」その者は尚も訊いてくる。
「そう呼んでもよい」ルゥシファは答えた。
「はい」その者──つまり死人は、何か嬉しそうに微笑んで頷く。「天使さま、あなたはよく神と間違われたりするんですか?」
「──」
よくもまあ次々と問いかけの文言を思いつくものだ。ルゥシファは多少辟易した。素粒子のくせに。
とはいえ、我々の今いるこの宇宙も、あるいは何かの粒子に過ぎぬものかも知れない。
そして我々は今、誰かの目から見た1のマイナス何十乗秒の中でああでもないこうでもないと思索画策しつつ存在しているのではないか──ルゥシファが自分の突飛な妄想に、ふっと小さく笑おうとしたその時、
「神が存在しないだって? このばか悪魔! じゃあこの宇宙は、誰が創ったものだというんだい」
また大きな金切り声が時空の物理法則を切り裂き襲い掛かってきた。
ルゥシファははっと大きく息を呑み思わず後退った。
「どうしました? 天使さま」死人が驚いたように訊く。「私何か悪いことを言いましたか?」
「──」ルゥシファは、目の前にいる死人の存在に再び意識を向けるようになるまで、僅かな、だが膨大な時間を必要とした。
首を振る。瞼をしばたたかせる。唇を噛み、今度は頷く。ああ。魔女め。
魔女め!
「何も問題はない」ルゥシファは答えた。「私は、神と間違えられることが、確かに少なからずある」
「そうですか、やっぱり」死人は嬉しそうに言う。「あなたはさっき、天使と呼んでもよいと仰った。ということはつまり、本当には天使じゃないってことなんでしょう」文言は奇跡の泉のごとく滾々と湧き出続けた。「つまりは、あなたも人間なんだと、私にはそう思えます」
「──」ルゥシファは特に否定も肯定もせずにいた。
「しかし神は、自分に似せて人間をお創りにったんですよね? それならば、今私の見ているあなたも、神と同じ姿をした人間、ということだ。神に間違われても仕方ないですよね」死人は笑った。
そう。それはその通りで、死人の言うことは正しい。
だがどうやら、この者は知らぬようだ。
所謂神は確かに自分に似せて人間を創ったのかも知れぬが、その人間は自分に似せて悪魔を創ったということを。
結論として、神と悪魔は似た者同士だ。
ルゥシファは皮肉の文言を黙っていた。
「さてそれで」死人は実体のないその肩をすくめて言った。「私はこれから、何をすればいいんですか? 天使さま」
ふん。結局はそう呼ぶのだな。ルゥシファは苦笑いを微かに浮かべた。暫定的な仮称として都合をつけた訳か。
「名を」ルゥシファは答えた。「つけよ。自分自身に」
「名? 名前?」死人は虚無の顔できょとんとした。「私の?」
「お前の名前だ」ルゥシファは繰り返した。「考えよ」
「あはは、名前ならもうありますよ」死人はまた笑い、それから「私の名は」と続けた。
沈黙が訪れる。
ルゥシファは黙っていた。
「──」死人は言葉をすら失い、ルゥシファの目でなければ完全な闇と化したと認識されるだろう状態となった。
ルゥシファはまだ黙っていた。
「あれ」死人はやっとない口を開いたが、その声は先刻までの楽し気におちゃらけたような雰囲気と対極に在るものだった。「あれ? 俺、あれ、俺の名前は」
ルゥシファは引き続き黙っていた。
「な、何だっけ、俺、何だっけ、誰」死人は今や混乱と困惑を出鱈目に攪拌したようなカオスの存在となり果てていた。「いや、待ってくれよ、確か、俺は」
「お前は死んだ」ルゥシファは一点に向け言を告げた。「それで今ここに来ている」
「死」死人は全ての量子をぶつけるようにルゥシファを見た。「──俺 は、死 ん だ」一文字ずつ噛み潰すように、確認する。
「お前は死んだ」ルゥシファは繰り返した。
沈黙が訪れた。
それから低い、比喩的に言えば地獄の底からマグマがせり上がって来るような地鳴の音が鳴り始め、それはたちどころにこの一帯のエントロピーを昂ぶらせ、そこら中を振動させ震撼させた。
「ぎゃああああああ」死人は恐怖に叫んだ。「嫌だ嫌だ、死にたくない、助けてくれええええ」
ルゥシファは、名前を考えさせるというのはあまり勧められた行いではないのかも知れない、と心中に記銘した。
◇◆◇
どれ位喚き散らしただろう。
途中から、何故自分が喚いているのかがわからなくなってしまった。
事の初めは、何だったのか。
それで漸く、俺は喚くのを止めた。
すると目の前に人がいた。白い人──
いや。違う。
それは人のようだが神であり、神のようだが神ではないと言った人で、天使なのかと訊ねたらそう呼んでも良いと言った人だ。
天使さま──
その呼び掛けを声にしようとすると、声ではなく涙が溢れて来た。俺はむせび泣いた。
ああ、そうだ。
俺は天使さまに、名前を考えよと命じられた。
名前のない俺に、天子さまはそうお命じになったのだ。
名前のない、一介の死人であるこの俺に。
なんという、それは慈愛であり、慈悲であるのか。
そう、俺は死んだのだった。それは知っていた。
だが解ってはいなかった。自分が死んだことを。
死とは、何なのかを。
死とは、そうだ、これだ。闇だ。
単に闇の中に移動するということではなく、俺自身が、闇となるということだ。
死んだら、そうだな、生前に良い人間であったとしたなら、そりゃあもちろん天国に行けるに違いない。
ただし、闇と化した上で。
名前もなく、手足も、呼吸も、血流も心拍もない、闇そのものとして。
名前? そんなの、ただの闇でいいじゃないか。それしかない。
「天使さま」俺は告げた。「私の名前は」