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忌魔女 3

    「天使さま。私の名前は」死人がそう言う。
     ルゥシファは聞き耳を立てた。
    「──」しかし死人はその後しばらく何も伝えてこなかった。
     ルゥシファは待った。だが死人は言葉を言わず、虚無そのものとしてその場に突っ立っていた。
     あるいは、何かを告げたにも関わらず自分の耳に届かなかったのか?
     ルゥシファはそう思い、確かめるべきかどうかを考察した。
    「私の名前は」だが死人はついにそれを伝え始めた。「かつて生きていて、仕事を持ち、家族を養い、友人と仲良く付き合い、元気に楽しく暮らしていたが、何かの間違いで命を失い、この寂しく暗い場所に一人でやって来て、今天使さまと出遭い深く自分を見つめ直そうとする闇のように見える男」それを伝える内死人は泣き始め、時折つっかえて洟をすすった。
    「──」ルゥシファは何も言わずに待った。
    「これです」死人は世にも哀しげに声を震わせてそう締め括った。
    「お前の名前を」ルゥシファは告げた。「もう一度言え」
    「──」死人は動かぬ心拍を数回数えた後「前は元気に暮らして、妻と子と親兄弟とも仲睦まじく、仕事をせっせとこなし、町の集会にも祈祷祭にも真面目に出席し、いつも明るく笑って暮らしていたが、ある日突然命を奪われた男」と告げた。
    「もう一度」ルゥシファは告げた。
    「──」死人はもう泣きべそをかいていないようだった。「前には、ちゃんと、まあたまには少しだけ嘘をついたり税をごまかしたり小狡く立ち回ったりもしたもんですが、大方のところは真面目に、人との付き合いを大切にして、多少のことなら損失が出ても目を瞑って人助けもして、それでも家族には苦労をかけず、精一杯やるべきをやって真っ直ぐ生きてきたけれど、ある時本当に運が悪く、運が悪いとしか言いようもなく、病に罹ってあっという間におっ死んじまって」
    「お前の名は『馬鹿で阿呆でのろまで鈍感な役立たずの助手』だ」
     ルゥシファはついに自分の内に閃いたその名を死人に告げた。
    「ええっ」死人は驚愕した。「そんな長い名前、覚えられませんよ」
    「では選ぶがよい」ルゥシファは猶予を与えた。「『馬鹿』か『阿呆』か『のろま』か『鈍感』か『役立たず』か、どれが好いか」
    「天使さま」死人はふり仰ぐように言った。「もう一つあるでしょう。『助手』。それが好いです」
    「──」ルゥシファは心中に吹きすさぶ風を自らの心の手で治め、死人を見た。「ではそのようにする。お前の名は、アディウタ・ファトゥウス。愚助手だ」
    「はい」死人──アディウタ・ファトゥウスはかしこまって承った。
     そうしてルゥシファはアディウタ・ファトゥウスを連れ、元いた世界に戻ることにした。
     
              ◇◆◇
     
     そこは街中、夜更けの頃で人間たちが一日の仕事を終え食事や酒、遊興事などに耽る様で溢れていた。
     ルゥシファは人目につかぬよう、なるべく隅の、薄暗い路地裏を選び歩くことにした。彼の捜す者も恐らく、そういったところに蹲っているはずだった。飯も喰わず、歌いもせず、笑いもせず、誰かと言葉を交わすでもなく。
     だが助手のアディウタ・ファトゥウスは、まるで自分がその街の夜の賑わいを司っているとでもいいたげに、人々で賑わう明るい通りを、きょろきょろと見回し、くねくねと踊りながら嬉し気に歩いている。
     それはルゥシファの許可したことであった。
     何故ならアディウタ・ファトゥウスは今や死人そのものであり、今この街に溢れかえる人間たちの誰一人の目にも、奴は映らないからだ。
     時折暗いテントの向こうに、背を丸め俯き加減で座っている怪し気な人間が、怪し気な道具を使って死者の霊を呼び寄せたり、死者の存在を感知したりし、人間たちから金を巻き上げているようではあるが、そこに『感知』されているのは、死者の魂ではない。
     大方、他のものだ。他の、気狂いなほど気まぐれで、悪魔よりも邪で、地獄よりも恐ろしい存在。ルゥシファでさえ、それを『感知』した人間がどうか無事であることを、つい祈ってしまうほどだ。
     ともかくも今、アディウタ・ファトゥウスは愉し気に夜の街中を歩き回り、飛んだり跳ねたりはしゃぎ回っている。
     ルゥシファは一本外れた路地を静かに歩き、アディウタ・ファトゥウスからいろいろと届いてくる街の様子について、聞き耳を立てていた。
    「ここはゲムの酒場です」アディウタ・ファトゥウスが一軒の酒場の前を通りかかった時そう告げてきた。
    「ゲムとは、知り合いの者か」ルゥシファは訊ねた。
    「はい」アディウタ・ファトゥウスは元気よく答える。「生きていた頃は、よくここで飯を食ってました。酒も旨いんです」
    「そうか」ルゥシファは理解を示した後「自分の名は覚えていなかったのに、他人の名は覚えているのか」と続けて訊ねた。
    「あ、ええ。覚えています」アディウタ・ファトゥウスは自分でも少し不思議に思ったのか、驚いたような声になった。「恐らく、彼らはまだ生きているからでしょうね」
    「ああ」ルゥシファは再び理解を示した。「お前と違い、そこの者どもはまだ存在しているからな。光の下で」
    「ええ。今の私は闇に潜む、アディウタ・ファトゥウスですよ」愚助手は誇らしげに言った。
     実のところ、それのどこにも誇れる要素はないにも関わらず。
     闇にすら、潜んではいないにも関わらず。

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