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空洞のなかに

    私が大学を中途退学したのは、2022年の3月末、大学2年生の時だった。

    私が國學院大學、文学部・日本文学科に入学したのが2020年の春。まさに新型コロナウイルスが猛威を振るい始めていたその時である。余談だが、歌手の相川七瀬さんと私は学部こそ違うが同級生だった。

    当時、入学式は当然のことのように行われず、4月・5月の授業も無くなった。学生によっては、4月・5月の授業がまるまる潰れたのは幸運だったと考えるかもしれないが、大学という学び舎にある種の夢を抱いていた私は大いに落胆した。

    授業が再開されたのは、6月の中頃だったと記憶している。夏休みもまじかで4回ほどしか前期の授業はなかった。
    また、授業も「オンライン授業」で、何が何だかよく分からないまま進行されていき、同級生の顔もわからないまま夏休みを迎えた。

    ――夏休みが明けて9月下旬、私は19歳になった。
    夏休みが明けて変わったのは、コロナ規制が少し緩和されたことだった。そのためごく一部の授業、「書道」と「伝承文学概説Ⅱ」はキャンパスで授業が行われた。忘れもしない毎週火曜日、私は所沢から渋谷へ通った。書道が2限で伝承文学概説Ⅱが3限だったため、お昼休みには食堂であらゆるメニューを食べ比べした。どれも美味しかったが、中でもうどんは絶品で今でも時折食べたくなる。

    それから、初めて同級生の顔を見た。実家へ帰ってオンライン授業を受けていた同級生もいたため、それほど人数は多くなかったけれど、それでもキャンパス内で同級生の顔を見られたのは非常に嬉しかった。

    そしてあっという間に年が明けた。
    この頃から体に異変が起き始めていた。具体的にいうと、食べ物の味が分からなくなったのだ。

    新型コロナウイルスの合併症に味覚障害があるから、最初はそれかと思った。しかし、咳や喉の痛み等はなく、新型コロナウイルスに感染した様子もしなかったし、仮に無症状だったとしても、感染していたら同居している母にもうつる可能性は十分にありえる。母は健康そのものだったので、私が新型コロナウイルスに感染している可能性は極めて低いと考えた。

    また、時折激しい動悸に襲われた。
    登下校時や授業中、自宅でオンライン授業を受けている時や就寝前など、タイミングは様々だったが、息苦しくて「このまま死んでしまうのではないか……」と思うほどだった。

    さらにもう1つ事件があった。
    大学から帰宅する際、渋谷駅の副都心線か山手線だったか記憶がおぼろげだが、ぼーっとしていて駅のホームから転落したのだ。右半身に鈍痛が走ったが、幸運なことに電車が来る前に自力でホームから這い上がれた。今はホームドアがあって良い時代になったとつくづく思う。

    月日は流れて4月、新年度を迎えて私は2年生になった。
    2年生になると、それまでのコロナ自粛が嘘だったかのようにキャンパス内が人で溢れるようになった。
    私も大学へ通う機会が、週に1度から週に2度に増えた。

    この時期が私の中で最もキャンパスライフをしていた時期でもあり、また最も忙しい時期であった。
    積み重なる山のような課題に追われ、睡眠時間は1日3時間程度。火曜日と木曜日は早朝の満員電車に揺られ大学へ通学。大学の自習室でオンライン授業を受けたりもしていた。

    そして無理が祟ったのかある日の事、体中にピリピリとした激痛とかゆみが襲ってきたのだ。後に「帯状疱疹」と発覚するのだが、私は皮膚科に行かずに、痛みに耐えながら授業を受けて課題を消化していた。今考えると、あの時、隙間時間を見つけて皮膚科に行っていなかったら後遺症が残っていた可能性があると想像すると恐ろしくてたまらない。

    帯状疱疹ができてから、正確に言えば「帯状疱疹」だと判明してから、私の精神状態がおかしくなるまでそう時間はかからなかった。
    5月の14日、私は課題をしている最中、突然涙が溢れだしてきた。そして何故そんなことをしたのかは今となっては覚えていないが、本棚にあった教科書と授業で使う資料を床に叩きつけて油をかけて燃やそうとした。限界だったのだ。
    母がいたので未遂で終わったが、母がいなかったら大惨事になっていたのは間違いない。

    その後、たしか翌日に適応障害と診断されて大学からなるべく離れる生活を送ることになった。前期の授業はすべて休んだのである。
    ちなみに授業を休んだ影響で「前期の単位をすべて落とす」という快挙を成し遂げた。

    再び、夏休みがやってきた。
    この頃になると塗り薬のおかげで帯状疱疹は完治していたが、適応障害のほうが厄介で、精神的につらいのはもちろんあったし、不眠症状が強く出ていたため2日間徹夜をしたこともあった。

    あまりにも適応障害の症状が強かったため、安定剤を求めて病院に通うことになった。ただ適応障害と診断してくれた病院は嫌(先生の態度が気にくわなかった)で、子供のころから贔屓していた内科に通うことになった。

    幸いなことに安定剤だけでなく、抗うつ剤、睡眠薬も処方してもらって、適応障害としっかり向き合うことができた。
    内科の先生も子どもの頃からの付き合いということもあって、色々と相談にのってくれた。
    ……ただ、それが仇になった。
    内科の先生に「母との関係性」について相談をした。すると、先生は母を診察室へ呼びつけて母に説教をした。これが母の逆鱗に触れてしまい、母は「もうあんな所行かない!」と怒ってしまった。

    それから数カ月経った。薬は無くなり、離脱症状もあったのか分からないが、不眠や自己嫌悪に苦しんでいた。

    そんな時、当時住んでいた家の徒歩圏内に心療内科が新しく開業した。
    私は母の勧めで(母も当時この心療内科に通っていた)少し緊張したが心療内科へ行くことにした。

    院内はすごく綺麗で、想像していた心療内科とかなり印象がかけ離れていたのを覚えている。
    早速呼びだされて、先生にこれまでの経緯、薬の事、母の事などを逐一話した。この先生は非常によく話を聞いてくれて親身になってくれた。
    もちろん薬もしっかり処方してくれて、ひとまず治療が始まった。

    ……治療を始めて今年(2026年)で5年が経つ。
    適応障害は「気分変調症」に変わり、薬の種類も増えたり、減ったり、変わったりして精神障害者手帳2級を取得した。

    この5年の間に、頼りにしていた親友や大好きだった彼女を失ったりして、そういうことがあるたびに心底傷ついてリストカットをしたり、自殺未遂をしたりしたけれど、今ではそれも良い経験だったと思う。

    心にぽっかりと空いた穴を埋めるように、日々の暮らしを大切にして、創作活動をしたりゆっくり昼寝をしたりしながら、今は生きていこうと思う。



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