
創作大賞2026応募作 【詩集】微温の滴
微温の滴
微温は、まだ言葉になる前に、ぽたりと落ちる。
境界に灯り、春は滲み、水位は満ち、なお熱は残る。
――――――
第一章 境界の燈
秘密の扉
鍵はかけていない
錆びた扉は
闇のポケットへ
“境(さかい)のほつれ”をゆるめる
中には、
あなたが来るのを待って
まだ灯っている火がある
灯は
ひそやかに揺れ
影を焦がす
静謐を
雪のごとく
折りたたむ
朱の熱だけが
ゆるりと
奥深くにひらいていく
踏み入れれば
胸の波紋が
足許で呼吸する
──そっと、覗いてみる?
――――――
冷光
冴えわたる夜氣
冷光となって 雪が舞い
星の輪郭が ほどける
聴界の塵は
祝祭の殘響に
稀釋されていく
夜氣 元の澄みへ
――――――
結わえ
その暗藍に光る 異形の氣配
古き生の殘響は
幾たび 聲もなく吊されていた
闇の宿り手が棲む 現の縁で
風の外側にて
渦を食ひ止め 息絶え
なお 護りを結わえよと
ひそかに告げていた
冷たき鱗は
薄き白布に寄り添ひ
祓ひの白へ 氣を移し替ふ
沈み火の跡が 底より浮かび
ここより先
再び 息づきはじめる
――――――
宿り木
暦の境
日輪の極夜
底
届かない
胸騒ぎを剥離し
小さな太陽へ預ける
鐵色の炎 點る
燃え殘り
死後の色
冷えを保つ發光面の奥
宿り木が
熱を受け取る
――――――
第二章 滲む春
春雪
焼け切れる寸前の陶醉は
柔らかな闇の代價
星辰の偏愛
他者の滅びの上に
かろうじて保たれてゐた
音もなく
舞い降りたものほど
淡く
春雪のやうに溶け
するりと
翳りへ身を滑らせようと
呼吸を潜めてゐる
拍手の消えたあとには
漆黒だけが在る
陶醉の殘量は
誰にも測れない
――――――
水煙
砂のひかり
刃のごとく
素足
仄かに
微温を孕む
潮のひびきに
崩れてゆく
頬を撫でる
透きとほる水煙
――――――
花あかり
線となり
ほどけ 零れ
影すら殘さず
時は巡り
沈んだままの薫風
澄明
消散せず
滅びに近く
仮初の
――――――
朧
青湿りより
発する
川泥の
生ぬるさ
淡灯のもと
空気が あまい
ペダルを
漕ぐ
頬に
細雨の棘
鏡の中へ
沈む
朧
――――――
雨のほとり
衣を一枚
足す
やわらかな湿土の息へ
降りつづく水音
滴を宿す
雪柳
淡くしだれ
光を押し出す
器に
雨のあと
深い緑
若草の匂い
――――――
白蝶貝
光珠を
解き放つ
描線の
あわいで
肌の上を
巡り
骨に触れる
半ば
闇に沈む
白蝶貝
永い息が
霧雨を
滲ませた
いまだ
見えない
――――――
故郷
黎明
薄氷の空氣
夏鳴り
輕やかな輪郭の音
産土の樹
滴り
清冽な
余韻
――――――
赤い徴
湿りを帯びた石肌が
沈着し
鈍く軋る
戸に
手を添へ
光なきところに
滲む
裡
新しい名を
聲を受けぬまま
触れるやうに
措かれた
赤い徴
最初(はじめ)の
ひとり
――――――
第三章 水位
応答
黒が黒へ沈み合う
湯気が先に動き
香りが
緊張を脱がす
掌の銀紙
すぐには崩れず
体温を盗みながら
ゆっくりと
黙を融かす
やっと
温度が応答する
闇の沈殿域へ
溶ける欠片
――――――
潮位
眠りの外側
夜を濾す
モーター音が
薄く
耳の底へ沈む
部屋の片隅
水脈のように
滲む
葡萄色の灯
灯影にほどけ
夜を挟んだ頁へ
触れる
神経の潮位が引き
息が解ける
カピス貝の
陰翳を透かす
花弁
――――――
とどこおり
歪んだ音節に
そのまま
触れていた
うつむいて
濁りを
飲む
舌の先に
滞る
纏わりつき
離れない
乾いた
爆ぜ
苦さが
割れる
まだ
そこにある
――――――
水の骨
雪解け水
流路を喪う
水位線
素地をさらす
赭土の蛇行
祈り
ひび割れる
眠っていた計測
三桁ののち
冷えた滴り
――――――
避難未遂
誰も氣付かない
連綿と鳴る
火禍を告ぐ
鋼鐵の悲鳴が
肉體を縛る
ただひとり
影に縫われ
暗渠より
目のみ動かす
呑み込まれる前に
仄暗さをなぞる
障子越しの海の氣配
トタンを打つ
しめやかなしずく
爆音の上へ
膜を薄く重ねる
やがて
瞼は乾き
蒼白の曉 侵入す
微かに光を帯び
――――――
水圧
暗夜の集積点
低い振動
時間が、水圧を持ち始めた
まどろみ
都市の血栓
地下の喉に
潜行と明滅が往復する
瞬く灯りが
呼吸の間隔で
見送られていく
青墨色の鯨は
朝端にひかえている街へ
半睡を収めながら
底鳴りを発し
たゆたう
――――――
濯ぐ
灼ける季の 人聲の重なりは
無化してほどけ
暦の底 深く
うねり
潮騒が低く続く汀
點のような雨が
風を孕み
余白の径をひとり漂ふ
立ち上がったばかりの
空氣が
忘却と記憶の詰まりを溶かす
前方の季節へ繰り越す
心象の篩ひ分けが
始まる
――――――
第四章 残熱
余熱
雲がたわむ
風にさらされ
足を留め
掛けられていた
体操服
余熱
白も黒も
分かたれない
濁る
灰
――――――
宵の残り
零れた悲しみが
乾かぬまま
朝を運ぶ
バイクの低い駆動音
ぱたりと開く
鉄の箱
新しい活字の匂い
戸口に残る
夜氣
冷えた指先に
戻る熱
――――――
ほどける
荷を解く
引っ掻き 捲れた爪痕
ぬるい熱が 残る
衣を一枚ずつ
滑り落とすも
何処へも行かず
ただ 一如
芥の思い
呪縛
永劫の結び目は
美であり
解けこそは
その死
――――――
微温の滴
ずぶ、と
密室に投ぜられる一滴
やわらかな温みに
抗いなく沈む
凍結された時間
圧迫する無音
ひそやかに進む時
動き出す
掌で温められ
融解するように
内奥にあった
ぬくもり
――――――
伏炎
叩かれぬ脈
臓腑の奥に伏し
燻り続ける
黒裡の朱
無言の刻み
闇を舐め尽くす火
今宵も 熄まない
――――――
── 碧井雫
#創作大賞2026
#オールカテゴリ部門
#碧井雫 #詩 #現代詩