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コンテクストを把握するヌミラノにおける䞭囜人コミュニティ (2)

今月のはじめ、コンテンツの量ず皮類ばかりを求めるのではなく、コンテクストにもっず関心を払うず良い、ずいうこずを曞きたした。

そしお、先週、ミラノにおける䞭囜人コミュニティのメカニズムを探り始めたず曞きたした。

テヌマは、䞀芋、別ものです。

だが、コンテクストずの芳点から、80代埌半の䞭囜人男性にむンタビュヌしたコンテンツを怜蚎しおみようず思いたす。

前回も蚘したように、聞いたこずをそのたた曞いおいるので、今埌のリサヌチ次第で蚘述内容は修正されるかもしれないです

1960幎代、工房の同僚のむタリア人女性ず結婚

第二次䞖界倧戊前から䞭囜人は䜏んでいたしたが、戊時䞭、敵囜人ずしおむタリアの収容所に入れられた䞭囜人は226人ずのこずです。

その収容された䞀人の叔父さんを頌り、䞭囜からむタリアにきたのが今回むンタビュヌしたSさんです。チャむナタりンでバッグの店を長男ず経営しおいたす。

圌がむタリアにきたのは1960幎。ちょうどロヌマオリンピックの幎です。ミラノには「40人ちょっずの䞭囜人しかいなかった」そうです。

皮補品を぀くる職人ずしお、カノニカ通りにあった工房に勀めたす。カノニカ通りは、今、チャむナタりンのメッカずなっおいるおよそ900メヌトル続くサルピ通りの突き圓たりで亀差したす。

圓時、こうした工房は近くのカノニカや、やはりサルピず途䞭で亀差するロズミニずいった通りにありたした。

がくが䜕気なく、「勀めおいた工房はサルピにあったのですか」ず聞いたら、「その頃のこずを知らないんだな」ず教授しおくれたわけです。

その頃、ミラノ垂内に賑やかな代衚的ショッピングストリヌトは぀あり、ブ゚ノスアむレス、ノェルチェッリ、そしおサルピの通りだったのです――ガレリアやモンテナポレオヌネは高玚店のあるゟヌンでしたが、囜際高玚ブランド盎営店が「独占感」を醞し出すのは、もっずずっず埌のこずです。

1965幎、圌は工房の同僚であったむタリア人女性ず結婚し、1968幎に長男が生たれたす。

むタリア政府のビザ発行制限で同胞の独身女性がいなかったため、倚くの䞭囜人の独身男性がむタリア人女性ず結婚したしたが、職堎結婚ずいうパタヌンがスタンダヌドであった――ずいうのは、芁確認の䞀点目です。

「圓時、䞭囜人もむタリア人も、職人ずいう点で区別されおいなかった」のが職堎結婚のリアリティでした。

節玄のために倖食を殆どしなかったようなので、仮に友人ず食事をするなら、誰か同胞の自宅に集たっおいたようです。

職堎倖で女性ず知り合う機䌚は極めお少なかったずも想像できたす。

たた、ミックスの堎合、幎霢や兄匟によっお芪のどちらかの血が濃くでたすが、50代埌半のSさんの長男の堎合、たったくのむタリア人の顔ず䜓栌です。

がくは初回のリサヌチで䞭囜人男性ずむタリア人女性の結婚が倚かったのを「意倖な事実」ずしお受け取りたした。

だが、ちょっず芋だけでミックスかどうかがそう簡単に分かる蚳でもない、ずのシンプルな珟実を十分に考慮しないで、これたでミラノの街を歩いおいたこずに気が぀かされたのです。

ここには、がくの぀の先入芳がありたした。

ひず぀目は、日本人の堎合、日本人女性ずむタリア人男性のカップルずいう組み合わせが圧倒的に倚いので、䞭囜人男性ずむタリア人女性の結婚の倚さを想像しおいなかったのです。

二぀目は、䞭囜人コミュニティは閉鎖的で、むタリア人ずの亀流が少ないずの芋方が定着しおいたす。それをあたり疑わなかったし、その䟋倖の存圚にも目を向けおいなかったのです。

䞉぀目は、ミックスでも出身囜を芋分けられるはずもないのに、䞭囜人ずむタリア人のミックスは少ないだろう、ず挠然ず思っおいたのです。愚かな根拠ない確信です。

これら3぀が、コンテクストの把握を劚げおいたのです。

ミラノの䞭華料理を「矎味しかった」ず衚珟

1960幎代、むタリアの䞻芁郜垂には、それぞれ1-2店の䞭華料理店がありたした。

今でこそ、䞭華食材は豊富に出回っおいたす。

だが、圓時、䞭囜から食材を取り寄せるのは困難であったため、できるだけむタリアにある食材ず䞭華の調味料で工倫せざるを埗たせんでした。

たた、䞭囜から囜倖に出お皌ぐこずを優先したため、ミラノの䞭華料理店でも厚房の経隓がない人がいきなり料理をする䟋が倚かったずいうのが珟実です。

初回にも曞きたしたが、1990幎代の経隓に基づいおも、「ミラノの䞭華料理がさほどおいしいわけがない」ずの考えに囚われおいたした。

ずころが、1960幎にむタリアにやっおきた䞊蚘のSさんは、「その頃の䞭華料理店も矎味しかった」ず語りたす。

䞀方で、「節玄のために倖食を殆どしなかった」ず蚀いながら、です。

これをどう解釈すべきでしょうか

たず、基本、むタリアの食事の毎日においお、故郷の味ぞの枇望感は圓然あったでしょう。

だから、「故郷の味らしきもの」でも十分に、舌ず心の満足を埗られたはずです。これは、数十幎前の海倖における和食店の味ぞの圚倖日本人の受け取り方からも掚枬できたす。

「矎味しい」ずいう衚珟は、グルメ的な基準だけでみるのではなく、普段の食生掻ずの関係で思わず「矎味しい」ず発せられるずの性栌を考慮すべきです。

すなわち、䞀぀の衚珟が発せられるコンテクストを理解せずに、ある蚀葉に右埀巊埀させられるこずを避けないずいけないです。

Made in Italy の抂念の倉化

この10数幎くらい、ペヌロッパ高玚ブランドの孫請けが䞭囜人劎働者を劣悪に働かせおいたずのニュヌスが、繰り返し報道されたす。

以䞋の蚘事に曞いたように、殊に、埪環経枈やトレヌサビリティに焊点がおかれるようになっお珟圚、匷く批刀されるトピックです。

同時に、むタリアずいう土地で最終組み立おや品質怜査が実斜されればMade in Italyず称するこずできるこずの是非も議論されたす。

その時に、むタリアにいるむタリア人であるべきなのか、他の囜の出身者でもいいのか、ず議論は流れおいきたす。

実は、Made in Italyずいうブランドが圱響力をも぀ようになるのは1980幎代で、今や政府にはMade in Italy担圓倧臣がいたす。

この珟圚のありようから1960幎代のこずを解釈しようずするず霟霬が生じたす。

1960幎代にミラノで革補品の職人ずしお仕事をしおいたSさんは、「圓時、我々が䜜っおいた補品にブランド名はなかった。名無しだ。ブランド名が぀぀くようになるのは、およそ1980幎代以降のこずだ」ず話したす。

Sさんが自分の店をもち、補品の販売を手掛けるようになり、むタリア人の奥さんが店にたった時も、「むタリア補品を売るずいうのがすべおだった」ず説明するのです。

ここでも、がくは初回に曞いた䞋蚘を修正しないずいけないこずになりたす。

「1980幎代たでは䞭囜人の女性だけのビザはむタリア政府が蚱しおいなかった。したがっお独身の堎合は男性であり、圌らがむタリア人女性ず結婚し、その圌女たちが䞭囜文化を広めるに貢献した」

結果ずしお、むタリア人の奥さんが旊那さんの説明をするこずもあったかもしれたせんが、むタリアで぀くられた補品が誰の手によっお䜜られたかは、ほが話題にならなかったのではないかず想像できたす。

いわんや、その商売においお「䞭囜文化を広めるに貢献した」ずは蚀い難い、ずいうのがリアルなずころでしょう。

がく自身の理解の先走りです。

「ファッション化」ずいう珟象が䞎える圱響

ミラノがファッションの囜際舞台に登堎しはじめたのは1970幎代です。オヌトクチュヌルが枛退し、プレタポルテが䞻流になっおきた時期です。ゞョルゞョ・アルマヌニの創立は1975幎。

がくの経隓内での蚘憶ですが、トリノに䜏んでいた1990幎代はじめ、ビゞネスパヌ゜ンはゞャケットにネクタむが䞻流であっただけでなく、日曜日も教䌚のミサから戻る人たちもネクタむをしおいる人たちが倚かったです。

ゞョギングをする人もグルヌプで談笑しながら走る人が倚く、䞀人で黙々ず走る姿は少なく、その数ずゞャヌゞ姿で街を歩く人の数は正比䟋しおいたした。

スニヌカヌも限定的でした。

今から思い起こせば、ファッションのカゞュアル化「前倜」ずいうか「嵐の前の静けさ」感がありたした。

䞭囜人のSさんは、䞖の䞭がこの時期を境に倉化しおいったこずを実感しおいたす。

「あの頃から、ゞヌンズやスニヌカヌがさらに勢いをも぀ようになり、フォヌマルなスタむルが萜ち蟌んでいった。スヌツに革靎で皮のビゞネスバッグをも぀人が枛っおいったが、それは短期的流行の背䞭をおすこずにもなった」ずSさんは話したす。

正確にどのタむミングずは蚀えないのですが、Made in Italyに光があたり、ブランド名のないバッグがじょじょに存圚感をなくし、ブランド名が優先順䜍の䞊にくるようになる。

それは同時にファッションのカゞュアル化ずファッションブランドの巚倧化ずも䞊行したす。

そうしお、さらに時蚈の針が先に進むず、ブランド䌁業はそれたで生産拠点は隠し通す戊略をずっおいたのが、「透明性の高い」経営には生産拠点情報の開瀺が芁求されるようになりたす。

ここで、がくがこれから考えおいきたいのは、䞭囜人の職人や工員の出身者は、この半䞖玀以䞊に枡る掚移をどう考えおいるかです。

か぀おはブランド名のない補品を぀くる職人であるこずを匕け目に感じる必芁がなかったのに、今は、ブランド名のために「働かされおいる」ずいう圹割にはめられおいる感がありたす。

Sさんは垂堎や人々の奜みの倉化に嘆いおいたした。圌が嘆く気持ちもわかりたす。

しかし、同じように皆が思っおいるずも限らないでしょう。

ただ、これを語る人もそう倚くなさそうなのです。䞭囜に戻っおしたった人も少なくないです。

このテヌマは、時間をかけおいかないず本音がみえおこないず思うので、即断するのは控えおおきたす。

「これから、デザむナヌは工員になる」

異なった芳点からも䞊蚘に぀いお觊れおおきたす。

工員ず職人の違いです。

さたざたな文脈でこれら぀の蚀葉が䜿われたすが、21䞖玀の今、工員ずは量産のもずで決たりきった䜜業をする人、職人は創造性の発揮も含む仕事をする人ずの分け方をされるこずが倚いです。

そしお、移民は工員からスタヌトする堎合が倚いのですが、1960幎代における工員ず職人の分け方がどうであったかを想像するに際し、がくはひず぀の゚ピ゜ヌドを思い出したした。

10数幎前、ミラノ工科倧孊デザむン孊郚のマ゚ストロ玚の教授が、孊生たちに向かっお倧きな声で次のように講矩しおいたのです。

「みなさんは、さもクリ゚むティブな仕事をする将来の自分の姿を思い描いおいるだろう。

しかし、蚀っおおかないずいけないこずがある。
それは、そうした姿を実珟できるのは、ほんの䞀郚であり、倚くのデザむナヌは工員になるのだ。

この点を芚悟するように」

AIが普及しおきた珟圚、デザむナヌずいう職のあり方が盛んに議論されたす。

だが、工員ずの捉え方をするならば、ここたで議論されるテヌマにならないはずです。

創造的な偎面に重みを぀けたい為に人々はそうず思われやすい職名を遞びがちであるずの傟向を、人の積極的性栌のありよりずしおみるのがコンテクストの理解には良いのではないか――ず思いながら、本皿は䞀旊、ここで終えおおきたす。

--7月21日公開のポッドキャストは、このテヌマに぀いお語りたした。

ヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌヌ

写真©Ken Anzai


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