
俗世の沙門・外伝③ほどける(最終話)
(続き)
第三部 ほどける
会長が、倒れた。
執務室で朝椅子から崩れた。軽い脳の発作。命に別状はなかったが、左半身に麻痺が残り、言葉ももつれるようになった。異次元の能力を持ち七十九年、誰よりも早く来て誰よりも遅くまで残った、あの父の体が初めて言うことを聞かなくなった。
知らせを受けたとき彼(二代目)は自分の中に湧いた感情に驚いた。
心配や悲しみがまず来る——はずだった。だが、最初に胸をよぎったのはそれではなかった。ひどく複雑な名づけがたいものだった。父が倒れた。あの絶対的な決して届かなかった存在が崩れた。その事実に彼は悲しみと同時に——認めたくはなかったが——かすかな、安堵のようなものを感じてしまった。もう、あの物差しに測られなくて済むかもしれない。もう、届かない場所に手を伸ばし続けなくて済むかもしれない。
そしてその安堵を感じた自分に彼は激しい罪悪感を覚えた。
父が倒れて安堵する息子。なんという人間だ。彼は自分の心のその醜さに耐えられなかった。五十年、埋めてきたねじれが父の発病という一撃でついに表面まで噴き出してこようとしていた。彼はそれをどう扱えばいいのか、分からなかった。笑みの蓋はもう、うまく閉まらなかった。
彼は病院へ見舞いに行った。
そして、そこで見てしまった。青年が父の傍らに坐っているのを。
父は青年に何かを話していた。もつれる舌でぽつりぽつりと。彼は廊下からその様子を見ていた。父の顔は——彼が生涯一度も見たことのない顔だった。物差しを当てるあの目ではなかった。査定するあの目でもなかった。父は青年の前でただの老いた弱い一人の人間の顔をしていた。そして、青年はその父の開かれた掌にそっと自分の手を重ねていた。
彼は廊下に立ち尽くした。
嫉妬がまた疼くかと思った。だが疼かなかった。代わりにこみ上げてきたのは、別のものだった。父のあの顔。あんな顔を父はするのか。あんなに無防備な顔を。五十年、彼がどれだけ努力しても引き出せなかった父の別の顔を青年はただ傍らに坐ることで引き出していた。
そして彼は悟った。
自分が青年に嫉妬していたのは、青年が「父の物差しから自由だから」だけではなかった。もっと深いところで——青年は彼が五十年喉から手が出るほど欲しかったものを父に与えていた。傍らに坐る、ということ。裁かず、測らず、ただそこに在るということ。彼が父から一度ももらえなかったもの。それを、青年は父にあげていた。彼には決してできなかったことを。