
親子丼と言う現代にそぐわない言葉について
親子丼。鶏肉を卵でとじたものをご飯の上に乗せた、日本を代表する料理の一つである。和食の中では歴史は浅く、その発祥は明治時代と言われている。
しかし、この料理には致命的な欠点がある。それは、キャッチーさを重視しすぎたゆえに、倫理観を著しく損なっている点だ。
基本的に、鶏肉として流通しているのはブロイラーという種であり、鶏卵を供給しているのは主に白色レグホーン種やロードアイランドレッド種などである。さらに言えば、流通している鶏卵のほとんどが無精卵だ。
つまり、料理として器の中で出会うまで、両者は全くの赤の他人なのである。それにもかかわらず「親子丼」と名乗らされているわけだ。お互い誰だか分からないまま親子だと決めつけられ、困惑しているうちに食べられてしまうという結末を辿る。さすがに親子を自称させられる以上は自己紹介くらいしたいはずだが、これはあまりにも酷すぎるのではないかと感じてならない。
人間で例えるなら、休日のショッピングモールで走り回っている子供と、妻の買い物をソファで待っている見ず知らずの男性を引き合わせ、「今日からあなた方は親子です」と言い渡すようなものだ。その後の展開を想像するのは恐ろしいので割愛するが、要はそういうことである。
百歩譲って「卵を採取するために育ててきた鶏が、高齢で卵を産めなくなったため、やむを得ず屠殺し、かつて産んだ卵と一緒に料理して振る舞う」という経緯があるのなら、まだ納得の余地はある。だとしても、それを「親子丼」と名付けるのは令和のコンプライアンス的には危ういだろうし、そもそも現行の親子丼は発祥の時点から他人同士であり、親子であった確証などどこにもない。そう、始まりの段階から虚偽の戸籍を背負わされているのだ。
しかし、この名称が適当であると言える食材も存在する。それは鮭やニシンといった魚類だ。彼らは鶏とは違い、メスの体内にある卵を採取して共に海鮮丼として提供する場合、高確率で親と子が一致する。本来ならこちらを親子丼と称するべきだし、そろそろパラダイムシフトが行われてもいい頃合いではないか。
私は今、人間の倫理観を信じたいフェーズに差し掛かっている。もし100年後、「親子丼といえば?」という質問に対し、依然として「鶏肉と卵の丼」という回答が返ってくるようなら、私は死んでも死にきれない。
「鶏肉の卵とじ丼」でも十分に美味しさは伝わるし、むしろこちらの方が高級感さえ漂う。そもそもカツ丼に至っては、名称に「卵」を含まずとも卵を使用することが前提になっているではないか。やはり「親子丼」という名称は、この時代で終わりにするべきなのではないだろうか。