
モニタ越しの殺人事件
現在、私はひとり暮らしで家にテレビも新聞もない。スマートフォンは持っていて、インターネットに繋がるから最低限の社会情勢はわかる。と思っている。
ゴシップ、政治、人の死。
生きている限り縁の切れない物事を、それでも遠ざけて今の私は生きている。
実家にはテレビがあった。
朝起きたらニュース番組。
夕方帰ってきてニュース番組。
21時に就寝する前、短めのニュース番組。
ゴシップ、政治、人の死。毎日、毎日流れる。
私の嫌いなもの。
「お気の毒」
母は時折、テレビモニタを見ながらそう言った。
母は人並みに感情豊かな人だ。
バラエティで笑い、ドラマで泣き、クイズで不満げに唇を尖らせる。
人が転ける動画を見て笑い、猫がジャンプを失敗するのを見て笑い、赤ちゃんがグズるのを見て笑った。
私は人の顔を真正面から見るのが苦手だったから、テレビを見る母の横顔の方が馴染み深い。
私を見る母より、私でないものを見る母の方が私には身近だった。
「気の毒だね」
母が口にするその言葉が私は嫌いだった。
「可哀想」
「まだ若いのに」
「あなたと同じくらいの歳じゃない?」
殺人事件の詳細を耳にして発せられるそれが嫌で仕方なかった。
それが世間の人だって当たり前に口にする言葉で、何もおかしいことでないことを知っていた。
この嫌悪感が彼女にとっては理不尽であることは理解していた。
しかし、
見ず知らずの他人の死を無責任に悼むことが、私には不誠実に思えた。
世界中で毎日。私たちの見えるところ見えないところ関係なく不幸なことは起きているのに、見えたものだけ選別して心を寄せることが、私には不誠実に思えた。
私と関係のない不幸を急に目の前に差し出してあなたも気をつけてと、誰かの現実を教訓にしてしまうことが私には不誠実に思えた。
思えただけで実質そうでないことも分かっていた。
分かっていても。
「気の毒」「可哀想」と、友達でも身内でもないのに。直接慰めることもできないのに。
それを無責任だと思っても、しかしだからといって咎めることもできず、ただ私は上っ面だけで「そうだね」と相槌を打った。
きっと私の考え方が捻くれているだけなのだけれど。
言うこと、言わないこと。
心動かすこと、動かさないこと。
どちらが正しいのかは今でも分からない。
きっと今の私、
つまりは知らずにいようとすることが一番悪くはあるのだろう。
分かっている。
ただ、時々ぽろりと自分の口から「気の毒だね」「可哀想だね」と、
誰かの不幸を他人ごとにしてしまう言葉が溢れる度に嫌な気持ちになるから。
私は随分と利己的な理由でそれらを遠ざけている。
恐らくこれから数年はそう生きてしまうだろう。
人の転ける動画で笑ってしまう私と、私の家族のこともずっと嫌でした。
それが普通のことだと分かっていてもです。