
重石を引きずる日々 #3 奥様③
気づけば17:00になり、デジタル時計がピピッと定時を知らせた。
お疲れ様の声が飛び交い、事務所の中はゆっくりと人が減っていく。
「田中、今日は残業しないで帰れよ。なにか急ぎの仕事があれば俺が処理しておくし」
入社時は私の教育係についてくれて、今でもこうやって気にかけてくれる。
そして、前任として奥様たちをよく知っている先輩。
「ありがとうございます!でも今日の仕事は終わりました。先輩も早めに帰ってくださいよ」
やっぱりいつもより大袈裟に返事をしている自分がいる。
視線が合ったが、少し外される。
「今日はまず寝ろ。明日一緒に考えるから心配するな」
外された視線をまた戻し、しっかりと視ながらガハハと豪快に笑う。
私の不安を軽くしようとしてくれているのが伝わる。
先輩の面倒見の良い優しさに、これまでにもどれだけ助けられたことか。
仕事ぶりも、人柄もとても尊敬している。
そんな人から言われる一言は大きくて、本当にどうにか解決出来そうな気さえする。
「また明日な!」
私の表情を読み取ったのか、先輩は困ったように笑いながらも軽く手をあげた。
それに大きく頷いてから退社し、車に乗りこむ。
車内の蒸し暑さに季節が夏に向かっているのを感じつつ、エアコンをかけずに窓は閉め切ったまま。
帰り道とは真逆に走らせ、向かったのは大きな公園の駐車場。
公園近くになると我慢出来ずにポロポロと涙が零れてきた。
奥歯を食いしばって、熱が目や後頭部に溜まっていくような感覚。
ずっと頭のなかでは、なんで、どうして、が繰り返される。
幸い駐車場にはちらほら車が止まっているだけ。
それを確認すると堰を切ったように涙はさらに溢れ、嗚咽まで出てきた。
「おまえを訴えるって言ってるんだよ」
怒鳴られたわけではない。
向けられた真っ直ぐな怒りを思い出しては、目の前にいない相手から目を逸らしたくなる。
今日起きたことを理解したくない。
先輩やみんなに迷惑をかけたらどうしよう。
他の仕事に支障が出たらどうしよう。
息子との生活に影響が出たらどうしよう。
事が大きくなる前にどうにかしなくては。
何もまとまらないまま、ただ泣き続けて気づけば30分ほど経っていた。
解決策なんてもちろん少しも浮かんでいない。
だからといって、こうしてはいられないのが、また現実。
気持ちを切り替えるためにも化粧を直す。
赤みが出ている目元と鼻をファンデーションで無理やり隠し、口紅を唇にのせながら無理やり口角を上げる。
「よっし!」
気合いを入れるために出した声は、少し鼻にかかってしまった。
「あー、あー?あーー。うん、大丈夫」
声を出して違和感のない声の出し方を探る。
息子には悟られないよう、いつも通りでいなければ。
仕事が終われば私はお母さんに戻るのだ。
そう自分に言い聞かせながら、次こそ自宅に向かって走らせた。
「たっだいまー」
玄関を開けると私より先に帰宅していた息子が、慌てた様子でおかえりと出迎えてくれる。
リビングでゴロゴロしていたのであろう。
床に乱雑に置かれたランドセル、脱ぎ捨てられた靴下、テーブルに広げられ放置されたままの宿題、オヤツとして作り置きしているおにぎりを包んでいたラップの残骸、出しっぱなしにされた麦茶。
いつもなら、こんなに散らかして!さっさと片付けて宿題も早く終わらせなさい!なんて言っているのに。
今はいつもと変わらない光景にホッとしてまた涙腺が緩みそうになる。
「おかえり!今から片付けようと思ってたんだよ」
私が何も言わない事をこれ幸いと、そそくさとゴミの片付けを始めた。
「言われなくても出来るじゃん~」
取り繕うように言いながら、やるねえ!とハイタッチをするため両手を出してみる。
ワザと子供では届かない高さでからかうと、ムキになって一生懸命ジャンプしながら子供らしく笑っている。
やっとハイタッチできた後は、笑い疲れかジャンプ疲れかで少し息が上がる。
それでも間髪入れず、今日は学校でドッヂボールですぐに外野に行ったこと。
返されたテストは100点中37点だったけどオレにしては頑張ったこと。
帰る時にカレーの匂いがする家があったこと。
次から次へと教えてくれる。
「それでさぁ、」
「ねぇ、一緒にじゃがいも洗ってよ。今日はカレーにしよっか」
「いえーい」
じゃがいもを手に持ちながらも息子のお喋りは止まらない。
いつも通りキッチンで2人横に並びながら、気づけば私も一緒に笑っていた。
今だけは、明日のことを考えない。