芋出し画像

《前線》ムクドリ の目芚め  【小説】                                                                             

「ほら、この お面を被れば、あんたの その必死な顔も隠せるぜ」


――前略、倪宰 æ²» 様。時代は、ずいぶん倉わりたした。ただ、人はただ、お面を倖せずにいたす。
       

       from   å”¯æœˆ




 䞖界20カ囜以䞊ぞ向けた衛星䞭継のランプが、赀く、芏則正しく点滅しおいる。


 赀、消灯、赀。たるで呜を刻んでいるようにみえた。


 コンクリヌトの壁を通しお、䌚堎を埋め尜くす数䞇人の息遣いが、生きた波動ずなっお舞台裏たで䌝わっおくる。


 胞の奥が、無数の錓動に共振するようにざわ぀く。


 床が埮かに揺れおいる。それは気のせいではない。


 巚倧なホヌル党䜓が、熱を垯びた倚数の人間によっお、文字通り呌吞しおいるのだ。


「芹川さん、そろそろです  調子は、どうですか」


 マネヌゞャヌの声は、普段より䞀音䜎い。緊匵を隠そうずしお、かえっお掠れおいる。


 喉の奥で䜕かが匕っかかっおいるのが、はっきりず聞こえた。


 唯月は返事をしなかった。


 黒いドレスに身を包み、姿芋の前に立っおいる。


 鏡の䞭の女は、敎った骚栌を保ちながらも、皮膚に深い溝を刻んでいた。


 ステヌゞの照明に耐えるために厚く塗られたファンデヌションが、衚情の線をすべお塗り぀ぶしおいる。


 それは化粧ずいうより、感情を封印するための仮面だった。


 巊手に、名噚を抱えおいる。


 長幎の鍛錬に耐えぬいた指が、その叀びたバむオリンの朚肌に觊れおいた。


 指先がわずかに震える。


 それは緊匵ではなかった。


 もっず深く、叀い䜕かが、指の骚の芯を揺さぶっおいる。


 モニタヌ画面では、自分の名前が、たばらにコヌルされおいた。


 客垭の熱気が、画面越しにさえ生々しく映る。


 赀く光るカメラのランプ。


 息を殺したオヌケストラの圱。


 そしお、暗闇の向こうに広がる、無数の癜い顔の海。


 唯月は舞台袖ぞず歩き出した。


 通路の隅、スポットラむトの光が届かない暗がりで、足が止たった。


 芖界が、突然、歪む。


 熱いものが目尻から溢れ、化粧を溶かしながら頬を䌝っお萜ちた。


 䞀滎、たた䞀滎ず、冷たい床に小さな染みを䜜る。


 ファンデヌションず涙が混じり、指先にぬるりずした感觊が残る。


「  芹川さん」


 スタッフが息を呑んで駆け寄る。声が䞊ずっおいる。


「倧䞈倫か、おい  」


 唯月は震える指で涙を拭った。


 そしお、フッず、口元が緩んだ。


 それは勝利の笑みでも、安堵でもなかった。


 満ち足りた、どこか狂おしい充足感が、そこにはあった。


あんなに深かった海は、今は私の䞀郚になっおいる


 開挔のブザヌが、鋭く鳎り響いた。


 数十のスポットラむトが、䞀斉に舞台袖の唯月を捉える。


 光が肌を焌き、黒いドレスの生地を癜く飛ばす。


 広倧な客垭から、厳粛なざわめきが波のように広がった。


 それが、すぐに割れんばかりの拍手ぞず倉わる。


 熱気が、物理的な圧力ずなっお抌し寄せおくる。


 耳が詰たり、芖界の端が癜く溶ける。


 唯月は、その熱狂の䞭を、穏やかな笑みを浮かべお歩き出した。


 䞀歩、たた䞀歩。


 足裏にステヌゞの床の感觊を確かめるように、ゆっくりず螏みしめる。


 朚の枩もりず、無数の足音が染み蟌んだ埮かな軋み。


 背埌で、䜕十もの匊楜噚ず管楜噚が、息を殺しお出番を埅っおいる。


 匓が匊に觊れる盎前の緊匵が、空間党䜓を匵り詰めさせおいる。


 ステヌゞの䞭倮に立った。


 芖線は、スポットラむトの向こう偎、客垭の遥か向こうを芋据えおいる。


 熱気も、無数の芖線も、唯月には芋えおいない。


 芋えおいるのは、恋に䌌た熱を持っお䞖界を震撌させた、

 あの「ムクドリの旋埋」が生たれる、ずっず前の景色だった。


 時は、立ち止たるこずを蚱さない。


 どれほど鮮烈な蚘憶も、昚日の出来事のように胞を締め぀ける思い出も、

 容赊なく過去ずいう流れの奥ぞ消し去っおしたう。


 それでも、消えない景色がある。


 油の匂いが染み付いた、狭い定食屋のカりンタヌ。湯気ず、安䟡な揚げ物の音。


 そこから、すべおが始たった気がする――。 


 そうだ。あの頃、䞖界はただ淡く、空はもっず無邪気だった。 



◆◆◆



 定食屋の換気扇が、遠くの朮隒のように䜎く唞っおいる。

​

 油ず䜿い蟌たれた朚の匂いが染み付いたその店は、唯月い぀きが孊生時代から通い詰めおいる銎染みの堎所だった。


 卒業しお就職し、䌚瀟からは少し距離ができた今でも、こうしお足を運ぶこずがあった。


​ 湯気が立ち䞊る定食を前に、唯月は割り箞を割る手を止め、独り蚀のように挏らした。


​「  おやじさん、最近ね、毎日、海の倢を芋るんですよ」


​「おや、海ですか。倏先取りでいいじゃないですか」

​

 䞻人は濡れた垃巟でたな板を拭きながら、ふず動きを止めた。


​ そしお、垞連ぞの芪愛を蟌めるように、柔らかい笑みを浮かべお尋ねた。

​

「そういえば、お姉ちゃん。すっかり久しぶりじゃないですか。  ノァむオリンの方はどうした

 孊生の頃は、プロを目指すくらい盞圓いいずころたでいっおたんだろう」

​

 その蚀葉に、店内の空気が埮かに凍り぀いた。

​

 唯月はコップの氎の衚面を芋぀めたたた、喉元たで出かかった蚀葉を飲み蟌む。

​

 ――音楜の道なんお、ずうの昔に諊めた。


 日々の忙しさず終わらない満員電車の生掻にすり朰されお、今や楜噚ケヌスを開く気力すらない。

​

 胞の奥をチクリず刺すような痛みを隠すように、唯月は少し䞊気した顔でコップから顔を䞊げ、

 別の話題でそれをかき消すように身を乗り出した。

​

「違うの、そんな話はいいの。

   それより、おやじさん。聞いおよ。

 私、本圓はカナヅチでしょ

 なのに、倢の䞭では、ものすごく䞊手に泳げおるの。

 それが  なんだか、たたらなく楜しいのよ  」

​

 䞻人が意倖そうに手を止める。

​

 唯月の瞳には、定食屋のカりンタヌではなく、陜光を反射しおきらめく獰猛な海面が映っおいた。


​「必死よ。腕はちぎれそうなほど重い。 

 でも、その波を自分の手で割り、氎を掎んで埌ろぞ抌し出すたびに、

『私、今、生きおる』っお、身䜓の芯から震えるような喜びが蟌み䞊げるの」

​

 氎着なんおいらない。皮膚䞀枚で、海の重さず冷たさを党郚受け止めお泳ぎ続ける。


 その瞬間だけは、圌女は䜕からも自由で、満たされおいた。


​「だからね、目が芚めるのがもったいないくらい。

 朝が来お、重い身䜓で満員電車に乗る瞬間が、本圓の『カナヅチ』に戻る時みたいで  。

 最近は、珟実の方がよっぜど息苊しくおさ」

​

 唯月の手のひらには、倢の䞭で掎んでいた確かな「氎の重み」が、珟実の䜙韻ずなっおただ残っおいた。

​

「でもね、おやじさん。昚日の倜は、少し違っおたんだぁ」

​

 唯月は、手のひらでコップを包み蟌み、声を朜めた。

​

「逃げ堎も、䌑む堎所もない、芋枡すかぎり果おのない海原。

 でも昚日は、ふず顔を䞊げたずき  遠くの波間に、ぜっかりず光が溜たっおいる堎所が芋えたの。

 真っ癜な、小さな砂浜が」

​

 ​圌女は、定食屋のすり枛ったカりンタヌを指先でそっずなぞる。

​

「ただ蟿り着いおはいないわ。だけど、必死で波を割っお、あの癜い岞蟺ぞ行かなきゃならないっお  なぜかそう匷く思ったのよ」

​

 唯月は顔を䞊げ、定食屋の䞻人を真っ盎ぐに芋぀めた。


 その県差しは、もう『䌚瀟の昌䌑みの OL 』のものではなかった。

​

「おやじさん。あの海の向こうには、きっず䜕かがある。

 私は明日も、あそこぞ行かなきゃならないの  」



​◇◇◇



 腕を回す。指先が、ずっしりず重い氎の壁を切り裂く。


 右、巊。亀互に繰り出す圌女のストロヌクは、自分でも驚くほど力匷く、正確だ。


 珟実の私が金槌カナヅチだなんお、今のこの自分を芋たら誰も信じないだろう。

​

 氎はどこたでも青く、そしお黒い。


 倪陜の光がカヌテンの隙間から挏れるように海䞭ぞ差し蟌んでいる。


 それは圌女を捕らえお離さない檻の栌子のようにも芋えた。

​

ああ、気持ちいい  。もっず、もっず遠くぞ

​

 肺に溜たった空気を吐き出し、泡が頬を撫でお昇っおいく。


 重力が消え、ただ「進む」ずいう意志だけが圌女の身䜓を突き動かしおいた。

​

 けれど、ふず圌女の意識が海底に向いおしたった瞬間。


​   この䞋には、䜕があるんだろう。


​ 泳ぎをやめたわけではない。けれど、䞀床その深淵に觊れおしたった瞬間、景色が䞀倉した。


 私の真䞋には、䜕か埗䜓の知れない暗闇が広がっおいる。


 そこには足を眮くべき底も、もしかしたら果おすら、存圚しないように感じられた。


 私は今、ただの浮力ずいう頌りない奇跡だけで、この「死の淵」の䞊を泳いでいるに過ぎないのだ。

​

底がない 途端に、身䜓䞭の筋肉がこわばる。


 今たで圌女を抱きかかえおくれおいた氎が、急に手のひらを返したように、

 無数の冷たい指ずなっお足銖に、腕に絡み぀いおくる。

​

「はっ、  っ」

​

 呌吞が危うくなる。


 それでも圌女は、さらに深く、獰猛に氎を掻いた。


​ 早たる心臓の音が、耳の奥でうるさく響く、うたく息ができない。

 

 塩蟛い氎が喉に詰たり、䜕床も噎せかえる。


 浮力を倱い沈んで行きそうな気がした。


 その時、揺れる波の圌方に、䞀筋の「癜」が浮かびあがった。

​

 目を凝らす。


 波飛沫の向こう、小さな、けれど確かな茝きを攟぀砂浜が芋えた。


 癜く光る砂の垯。


 そこには確かな、足を぀けるこずのできる「倧地」がある。

​

「  あ」

​

 その瞬間、魔法のように党身の匷匵りが解けおいった。


 腕が軜い。


 氎はもう圌女を飲み蟌もうずはしなかった。


 唯月を目的地ぞず運んでくれる、頌もしい䌎奏者になった。


 ひずかき、ひずかき。指先が氎を捉えるたびに、あの癜い茝きが近づいおくる。


 肺に吞い蟌む空気たでが、甘く、枅々しく感じられた。

​

あそこぞ着けば、倧䞈倫

​

 もう、䞋を芋るこずはしなかった。


 ただひたすらに、あの癜銀の岞蟺を目指しお、筋肉を躍動させる。


 波を割り、颚を切り、唯月は癜い光の䞭ぞず溶け蟌んでいく。


 やがお砂浜に足を螏み入れた。


 唯月は、身䜓の「軜さ」に目を芋開いた。


 さっきたでの海の重圧は消え、足の裏には、现かな砂の感觊。


 ​ここは、ひどく寂しい堎所だ。


 砂浜を吹き抜ける颚が、唯月の火照った玠肌を、心地よく冷たしおいった。


 その静寂に、さっきたでの激しい錓動は収たり、しだいに呌吞は敎っおいく。


 どこからずもなく䞀矜の鳥が空を掠め、深い緑の朚々の茂みぞず吞い蟌たれるように飛んでいった。

​

 その黒い圱を目にしたずき、唯月はなぜか、胞の奥が締め付けられるような懐かしさを芚えた。

​

 あれは ―― 確か、ムクドリずいう鳥だったような気がする。

​

 鳥に詳しいわけではない。


 だが、ふず頭に浮かんだその名前は、どこか遠い蚘憶の底から響いおくるようだった。


 この心地良い颚は、ムクドリの飛び去っお行った、森の奥から吹き抜けおいるようだった。


 耳を柄たせるず、いく぀もの埮かな『囁き声』が、その颚に乗っお響きあっおいた。


 耳をくすぐるその軜やかな『ざわめき』は、蚀葉ずいうより無数の抂念の響き合いのようだった。


(やっぱり、この先には䜕かがある)


 その心地よい気配に、根拠の無い、予感は高たっおいった。


 ​唯月は迷うこずなく、砂浜の奥、深く濃い緑を湛えた朚々の茂みぞず歩き出した。


 期埅に、足は早たる。


 い぀の間にか、癜いコットンのワンピヌスを纏っおいた。


 その裟がシダの葉を揺らし、露を吞っお重くなる。


 足元には少し窮屈なスニヌカヌ。


 ​やがお芖界が開け、湿っぜい森を歩いおいたはずの足音は、い぀の間にか也いた靎音に倉わっおいた。


 ​アスファルトの舗装路だった。


 空気の密床が少し濃くなった気がした。


 遠くの方から、腹の底を震わせるような倪錓の音が、湿った倜気を切り裂き届いおくる。


​「  あ、お祭り」


​ 賑やかな囃子倪錓の音が響き枡り、

 目前の暗闇の䞭から、幻想的な灯りが浮かび䞊がっおきた。


 家々の軒先には、手曞きの文字が躍る叀い提灯が䞋がり、

 その幻想的な光の䞋を、济衣を着た小さな子䟛たちが走り抜けおいった。


「埅ちなさいっおば」「眮いおっちゃうよ」


 子どもを叱る芪たちの声も、どこか匟んで聞こえた。

​

「あら、お孫さん 倧きくなったわねぇ」


「いやだ、もう。䞭孊生ですよ。早いもんですね」

​

 そんな、なんおこずのない地元の䌚話が耳を掠める。


 誰もが知っおいる顔で、誰もがこの堎所に根を匵っお生きおいる。


 そんな安心感が䌝わっおきた。


 けれど、カナヅチのたた海を泳いできた唯月にずっお、

 そんな『圓たり前の幞せ』は、眩しすぎお少し胞が痛むものだった。

​

「お姉ちゃん、お姉ちゃん」

​

 䞍意に、ワンピヌスの裟を匕かれた。


 振り返るず、お面を斜めに被った子䟛が、真っ赀なリンゎ风を掲げお笑っおいる。


 その子が指を差した先は、明るい出店が䞊ぶ通りではなく、

 さらにその奥  闇に溶け蟌むような、急峻な石段だった。

​

「お祭りの日にはね、みんなあそこを登っおいくんだよ。

 䞊たで行けば、もっずすごいものが芋えるから」


 ​子䟛の声は、祭り囃子の音にかき消されそうなほど小さかったけれど、唯月の耳にははっきりず届いた。


 さっきから、ずっず耳をくすぐる「心地よいざわめき」の正䜓。


 それは、あの石段の先にある、もっず高い堎所から涌やかな颚に乗っお降りおきおいる気がした。


 ​唯月は、賑わう人混みに背を向け、暗い石段ぞず䞀歩を螏み出した。


 石段の䞀段目に足をかけた、その瞬間だった。


​「おや、あんた、どこぞ行くんだい」

​

 倪錓の音ず笛の音、それに混じっお、陜気で倪い声が飛んできた。


 振り返るず、階段の脇にある広堎で、

 揃いの法被を着た男たちが、顔を赀くしお酒を酌み亀わしおいた。


 圌らの呚りには、おしろいを厚く塗った女たちや、笑い転げる子䟛たちが枊巻いおいる。


 倢の䞭の、どこか珟実味のない、だけど艷やかで鮮やかな「生の匂い」がそこにはあった。

​

「こっちは今からが面癜いんだ。酒も、魚も、山ほどあるぞ。あんたもこっちぞ来いよ」


 䞀人の男が、酔った足取りでこちらぞ寄っおくる。

 その手には、溢れんばかりの赀い酒が入った倧きな盃。


「あんた、ずいぶん酷い顔をしおる。そんなに必死に、どこを目指しおるんだ」

​

 男の背埌で、女たちが「どこぞ行くんだい」「どこぞ行くんだい」ず、歌うような合唱を始める。


 それは芪切な誘いのようでもあり、足元を掬う呪文のようにも聞こえた。

​

「私は  」


 唯月は、石段を握りしめるように螏みしめた。


「  この䞘の先に、䜕があるか芋に行きたいの」

​

「䞘の先」


 男は可笑しそうに錻で笑った。


「あっちには、䜕もありゃしないよ。

 ただの空ず、ただの厖っぷちだ。

 倪宰の旊那だっおそう蚀った。

 そんな䞍確かな堎所を目指すより、ここで俺たちず螊っおりゃあいいんだ。

 ほら、お面を貞しおやる。

 それを被れば、あんたのその『必死な顔』も隠せるぜ」

​

 男が差し出しおきたのは、真っ癜な、無衚情な狐のお面だった。


 䞀瞬、心が揺れる。


 ここでこの面を被り、この狂乱の䞭に玛れ蟌めば、あの底なしの海の恐怖も、

明日から始たる息苊しい珟実も、党郚笑い飛ばしおしたえるかもしれない。


​「  いいえ」


 唯月は短く答えた。


「䜕もないなら、それを自分の目で芋に行かなきゃいけないの。

 お面で隠しおちゃ、本圓の景色は芋えないわ」

​

 男の笑いが、ふっず消える。


 呚囲の喧隒が、急に遠ざかる。

​

「  勝手にしな。お前さん、戻っおこられなくなっおも知らないよ」


​ その蚀葉を背䞭で受けながら、唯月は迷わず二段目、䞉段目ぞず足を運んだ。


 䞀歩、たた䞀歩。


 石段の角が膝に圓たっお、生々しい痛みが走る。


 ふいに、吹き戻す颚に乗っお䞋界の喧隒が耳をかすめた。


 笑い声、笛の音、誰かが焌いおいる魚の銙ばしい匂い。


  あっちにいれば、楜だったのかな


 䞀瞬、思考が匱気に染たる。


 お面を被っお、ただあの狂乱に身を任せおいれば、こんな孀独な痛みなんお知らずに枈んだはずだ。


 あそこには「仲間」がいお、「居堎所」があった。


 䞍意に、


 足元をかすめるように、十矜ほどのムクドリの矀れがパタパタず足元から、頭䞊の暗がりぞず駆け䞊がるように飛び立った。


 その黒い圱の波に背䞭を抌されるように、唯月はふっず息を吹き返し、もう䞀床前を向いた。

​

 唯月は銖を振った。


 䞀床でもあの「底なしの海」を泳ぎきった私が、今さらお面を被っお停りの岞蟺で螊れるはずがない。

​

 血の混じった呌吞を吐き出し、前を芋䞊げる。


 そこには、石段を塞ぐようにしお立぀、二、䞉人の男たちの圱があった。

 

 圌らは法被を着おいるわけでも、お面を被っおいるわけでもない。

 ただ、無機質な、壁のような嚁圧感を持っおそこにいた。

​

「おい。ここから先はだめだ」


 真ん䞭に立぀男が、䜎く、事務的な声で蚀った。


「ここは、お前のような者が来る堎所じゃない。お祭りは䞋でやっおる。戻りな」

​

 遮られた。


 肉䜓の限界を超えお、ようやく蟿り着きそうな頂を目前にしお、圌らは「犁止」を突き぀ける。

 

「  どうしお」


 掠れた声で、唯月は問い返す。


「どうしお、行っちゃいけないの。䜕もないなら、芋おもいいはずでしょう」


​「䜕もないからこそ、行かせられないんだよ」


 男の䞀人が、少しだけ憐れむような目で圌女を芋た。


「あそこにあるのは、救いじゃない。

 ただの、剥き出しの終わりだ。

 お前、ただ生きおいたいんだろう

 だったら、その『必死な顔』のたた、䞋ぞ降りるんだな」

​

 男たちの足元には、境界線のように䞀本の现い瞄が匵られおいる。


 それを跚げば、もう「人間の䞖界」の理 ( こずわり ) は通じないのだず、唯月の盎感は告げおいた。


 だが、唯月は  。


 男たちの制止を振り切り、犁じられた瞄を匷く跚ぎ越した。

​

 その瞬間だった。


​ 力んだ足先が濡れた石の角を滑った。


​「あっっ  」


 グキリ、ず嫌な音を立おお右足銖が歪む。


 ​関節の奥を力任せに打ち砕かれたような激痛が走り、唯月はその堎に激しく膝を぀いた。


 ​息が詰たり、芖界が真っ赀に染たる。

​

 背埌を振り返る䜙裕なんおない。


 远いかけおくる気配がないこずが、かえっお䞍気味な静寂ずなっお背䞭に匵り付いた。


 ​痛む足銖を庇い、石段に䞡手を぀いお這い䞊がる。


 爪の間に泥が入り蟌み、膝は擊り切れお血が滲んでいた。

​

 䞀歩、たた䞀歩。

​

 右足を螏み出すたびに、激痛が皲劻ずなっお背筋を駆け䞊がる。


 けれど、その生々しい痛みこそが、自分が今「生きおいる」事ぞの蚌のように思えた。


 ​――死んだ猫の、冷たくなっおいく柔らかな毛䞊み。


 ――小孊校の校庭で、砂埃を吞い蟌みながら笑い転げた攟課埌。


 ――職堎で䞊叞に眵倒され、自分の存圚䟡倀が砂のように厩れ萜ちたあの倜。


 ​様々な蚘憶の断片が混ざり合い、浮かんでは消えおいった。


 ​そしお、暗い郚屋の隅で、䜕時間も、䜕日もノァむオリンの匓をひたすら動かした日々。


 ​指先の皮が剥け、筋肉が悲鳎を䞊げおも、頭の䞭で鳎り響く矎しい旋埋を圢にしようずもがいたあの時間。


 ただ音ず䞀䜓になり、音楜を奏でるこずが心の底から楜しかった――あの玔粋な茝き。

​

 悲しみも、喜びも、屈蟱も。そしお今、右足を苛むこの酷い激痛すらも。


 痛みに耐えかねお䜕床も顔が歪むたび、唯月はその衚情を隠そうずもしなかった。


 ​今たで「重荷」だず思っおいた人生の断片が、今は私を抌し䞊げる熱い゚ンゞンになる。


 この痛みがあるから、私は私ずしおここに立っおいる。


 お面なんお被らなくおよかった。


 剥き出しの、この「必死な顔」こそが、私をここたで運んできたんだ。


 そしお、壊れた足を匕きずるようにしお、最埌の䞀段を螏み抜いた。


 ​芖界が、爆発するように開ける。

​

「  え」

​

 息を切らし、肩を激しく䞊䞋させながら、唯月は顔を䞊げた。

​

 そこには、倪宰の蚀った「䜕もない」景色なんおなかった。

​

 圌女の目に飛び蟌んできたのは、どこにでもある、ありふれた町䞊みだった。

​

 それは、唯月が普段䜏んでいる堎所ずは明らかに違う。

​

 けれど、い぀か蚘憶の䞭で芋たような、奇劙なほどに芋慣れた颚景でもあった。


 唯月は、痛む右足をかばいながら、䜕かに吞い寄せられるようにその通りを歩いおいった。


 右足に䜓重がかかるたび、顔が苊痛に匕き぀る。


 呚囲の穏やかな空気ずは裏腹に、圌女だけが生々しい痛みを匕きずっおいた。


 ​ふず気になっお埌ろを振り返っおみたが、

 さっきたで登っおきたはずの石段は、もうどこにも芋圓たらなかった。


 心は䞍思議なほど穏やかで、ただ心地よさだけが満ちおいる。


 この街䞊みは、唯月の也きを癒すように、優しく圌女を包み蟌んでいた。

​

 季節は春。頬を撫でるそよ颚は、どこたでも心地よかった。

 

 空は突き抜けるように青く、透明で、柔らかな日差しを街党䜓に投げかけおいた。

​

 唯月が歩く歩道の暪を、車がひっきりなしに通り過ぎおいく。


 その走行音すら心地良かった。通りを歩く人たちは皆、穏やかな顔をしお行き亀っおいる。


 唯月は歩き続けた。


 目的地があるわけではないのに、䜕かに吞い寄せられるように、

 向かうべき堎所を知っおいるように、唯月は迷いなく歩き続けた。


 䞍思議な気もした。


 けれど、あたりにもその空間が醞し出す心地よさに、唯月はそれ以䞊の疑問を巡らせる䜙地がなかった。


 唯月は急な山道を登り終えたばかりで、党身が汗で濡れおいた。


 癜いワンピヌスの裟は砎れ、土埃でひどく汚れ、髪は乱れおいる。

​

 おたけに階段で足を挫き、片足を匕きずるように歩いおいるのだ。


 ​本来なら人目が気になり、自分が惚めでたたらなくなる筈だった。

​

 だが、今の唯月にずっお、そんなこずはどうでもよかった。

​

 それどころか、あんなに足銖を苛んでいた激痛が、歩を進めるごずにふっず薄れおいくような気がした。

​

 感芚が麻痺しおいくような、奇劙な心地。


 むしろ、なぜ自分をそれほど恥ずかしく思わなければならないのか、

 その感芚自䜓がどこか遠い蚘憶のように感じられた。


 ​心を満たす穏やかな高揚感に支配され、矞恥や焊燥は、春のそよ颚の䞭に霧散しおしたった。


 矎しい䞊朚が立ち䞊ぶ倧通りを抜け、穏やかな空気が流れる公園ぞず差しかかった。


 ふず、そののどかな空気を切り裂くように、「ギギッ、ギャヌッ」ずいう喧しい鳎き声が降っおきた。


​ はっずしお頭䞊を芋䞊げるず、そこにはムクドリの矀れが飛び亀っおいた。

​

 䞀糞乱れぬ芋事な連携で、空䞭で急な方向転換をくり返すその黒い圱のうねりは、少し気味が悪いくらいに圧倒的だった。


 砂浜で芋た圱も、階段の途䞭で背䞭を抌しおくれた気配も、

 きっずこの鳥たちだったのだず、唯月はがんやりず意識する。

​

 数癟矜にも及ぶであろうその矀れは、喧しく鳎き亀わしながら、䜏宅街の方ぞず飛んでいった。

​

 䞍気味なほどの迫力に気圧されながらも、唯月の胞には䞍思議ず、

 どこか芪近感のような、自分を導く道しるべを芋぀けたような枩かさが残っおいた。

​

 やがお唯月は、ムクドリたちが飛んでいった方角、静かなたたずたいの䜏宅街ぞず足を螏み入れおいた。

​

 道の䞡偎には手入れの行き届いた家々が䞊んでいる。


 その心地よい道のりを歩くうちに、唯月はふず、心を匕き぀けられるような䞀軒の家の前で立ち止たっおいた。


「わあ、玠敵  」

​

 唯月は、思わずため息を぀いた。


 ​そこは、圌女が心の奥底でずっず倢に芋おいた䜏たいそのものだった。


 いや、想像しおいたどんな理想よりも、それははるかに矎しい。


 完璧に敎いながらも、どこか枩もりを感じさせるその䜇たいに、唯月は心を奪われおいた。


「どうですか 気に入りたしたか」

​

 䞍意に背埌からかけられた声に、唯月ははっずしお肩を揺らした。


 倢の䞭にいたかのように建物を眺めおいた芖線を慌おお倖すず、そこにはい぀の間にか䞀人の青幎が立っおいた。

​

 柔らかな日差しを背景に、どこか穏やかな笑みを浮かべおいる。


 唯月は䞍審に思いながらも、その自然な䜇たいにどこか抗いがたい芪近感を芚え、思わず聞き返しおいた。

​

「  どなたですか」


「僕は誰でもありたせん。ただの通りすがりです」

​

 青幎はそう蚀っお、この堎所の春の陜気そのもののような、最䞊の笑みを浮かべた。


 圌の瞳には䞀点の濁りもなく、唯月をただ優しく肯定しおいる。

​

「そんなこずよりも、䞭ぞ入っおみおください。きっず、もっず気に入るはずですよ」

​

 その誘いは、たるで叀くからの友人からのお招きのように自然だった。


 唯月の汚れたワンピヌスも、汗で湿った髪も、その家の前では些现なこずのように思えおくる。


 青幎は䜕も急かさず、ただ扉が開かれるのを埅぀ように、䞀歩だけ脇ぞ退いた。




        To becontinued     

       


         

   â”€â”€â”€  ☆: *.☜ .* :☆. ─── 


近日公開

《 埌線 》 ムクドリの目芚め

ぞ続きたす。 

🗝 ムクドリの目芚め《埌線》  🔗 

🖋 ムクドリの目芚め《前線-埌線》【マガゞン】           🔗


   â”€â”€â”€  ☆: *.☜ .* :☆. ─── 



📝 盎近の 短線小説

( 盎近に玡いだ、3぀の䞖界ぞの扉です )                                              🔗




        ・‥ ━━━☆━━━ ‥・

      çŸ­ç·šå°èª¬ 集

『 EMOTIONAL MARKET 』     

    ― 2026 . 05 - 08 ―

 2026幎 5月から 8月にかけお玡いだ小説、党10篇。
 時の流れに沿っお、䞀冊のアルバムに収めたした.。     🔗

   **・―・**・―・**

 ちょうど短線集ずしお䞀冊ぶんの量になり、たずたりずしおも良い圢になったず感じおいたす。




いいなず思ったら応揎しよう