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ゴンザブローがくれた生き直す理由

    #創作大賞2026 #エンタメ原作部門
    #仔猫と妊婦 #離婚

    あらすじ

    過酷な結婚生活の中で自由を奪われ、
    心も体も追い詰められていく21歳の主人公。
    妊娠中に出会った一匹の仔猫・ゴンザブローだけが、
    唯一の心の支えだった。

    やがて娘を出産し、限界を迎えた彼女は逃げるように家を出る。
    しかし、その決断はゴンザブローとの別れを意味していた。
    すべてを失いかけた中で、それでも前を向くしかなかった彼女。

    なぜ自分は生きているのか――
    その問いの先にあったのは、ゴンザブローがくれた
    「生き直す理由」だった。


    まえがき

    初めまして。私は北海道在住の50歳代の女性です。
    これは、私が経験した過去の話です。

    もし、この過去が無ければ、今の私はきっといません。

    今、辛いことがあって立ち止まっている人がいるかもしれない。
    ずっと暗い闇の中にいるように感じているかもしれない。
    でも、その闇は、永遠ではありません。

    いつか、自分の足で立ち上がれる日が来る。
    私は、そう信じています。


    第1章 出会い

    その日、彼が連れてきたのは仔猫だった。


    あれは、私が21歳の時。
    まさか、妊娠するなんて、思ってもいなかった――

    専門学校を卒業し、せっかく就職したのに、すぐ辞めてフリーター。
    やってみたいことも、たくさんあったのに……。
    年上の彼氏が出来たとたん、この状況。

    生まない選択は、これっぽちもなかった。
    「結婚しよう。」
    そう言ってくれたから。

    なのに、妊娠5ヶ月、いまだに入籍さえもできていない。
    病院にも行けなかった。
    胎動は感じるから、お腹の中で、生きていることはわかる。


    そんなある日、彼氏が、1匹の仔猫を連れて帰ってきた。
    「家にいても、寂しいだろ。」
    「???」

    正直、戸惑った。
    これから、子どもが生まれてくるのに、仔猫も育てる?
    猫飼ったこともないのに?

    『ひゃん』とその仔猫は鳴いた。とても小さな体で、か細い声で鳴き、
    一生懸命、私の小指を舐めている。
    気が付けば、私は、その仔猫の頭を撫でていた。


    その日の夜、夢を見た。

    押し入れに座敷童がいて、
    「僕の名前は、権三郎。」と名乗った。
    「君を幸せにするために来た。」と……。

    そこで、目が覚めた。
    私の隣には、仔猫がいる。
    頭を撫でると嬉しそうにゴロゴロいう。

    「今日から、君は、ゴンザブローだよ。」
    『ひゃん』
    夢の中の座敷童は、きっとこの仔猫なんだと勝手に思った。

    こうして、妊婦の私は、不安しかない状況下で、
    ゴンザブローという安心を手に入れた。
    こんな幸せが、ずっと続くと信じていた。


    第2章 記憶の中の猫

    野良猫しか知らない子どもの私


    猫なんて飼ったこともない私。
    飼うことが出来るのか、とても不安だった。
    とりあえず、猫の飼い方の本を買ってきた。

    読んで理解できたのは、別に外に出さなくても大丈夫なことと、
    1日に食べる量は、頭の大きさくらいということ。
    ネギはダメで……。

    「あ、だから、残ってたんだ。」
    ふと、子どものころの記憶が蘇る――


    田舎に住んでいた私は、猫といえば、その辺にいる野良猫しか知らない。
    公園の砂場には、猫の糞が埋められていて、穴を掘るとそれに当たる。
    猫を触ろうとしても、だいたい逃げられる。

    夏休み、外で遊んでいたら、母が買い物に行くというから、ついて行った。
    「後で、焼き鳥食べようね。」と母が言う。
    「えっ、焼き鳥!食べた~い!!」とはしゃぐ小学生の私。

    家に帰るなり、母が悲鳴をあげた。
    なんと、ソファーに、野良猫が寝ていたからだ。
    どうやら、開いていた窓から、入ってきたようで、図々しく爆睡している。

    テーブルの上には、約束の焼き鳥が……ない。

    野良猫に食べられていた。
    ご丁寧にネギだけ残して。


    第3章 食べてくれない

    何なら食べてくれるの?


    ゴンザブローが家に来て、2日目。
    まだ、えさには手を付けてくれない。水は飲むけど……。
    このままだとまずいことだけはわかる。

    「硬いから食べないのかなぁ?」
    でも、人間の食べるものは、そのまま食べさせたらダメみたいだし
    どうしよう……。

    考えて出した結論は、とりあえず、水を足して柔らかくしてみた。
    少しずつ、水を足して、様子を見ながら。
    ゴンザブローも、気になってきたみたい。

    「ゴンザブロー、ごはん食べてみたら?」
    ふにゃふにゃのカリカリが入ったお皿を、近くまで持って行った。
    においを嗅ぐゴンザブロー。

    私をちらっと見て、食べ始めた。
    「やっと、食べてくれたね……良かった。」
    妊婦の私は、どうやらとても涙もろい。


    第4章 私の変化

    やっと、入籍をした。


    婚姻届を書いて、区役所に提出しただけ。
    そんなことだけで、夫婦になれた。
    たったそれだけのこと。なのに何ヶ月待ったんだろう。

    今まで、好きなようにやりたいことをして、バイトして、
    友だちと朝まで遊び歩いた。将来なんて、これっぽちも考えてなかった。
    その日が楽しければ、それで良かった。

    そんな時に、年上の彼氏ができた。
    ちょっぴり背伸びをしたい年頃だった。
    年下の私を、とても可愛がってくれた。

    肩書みたいなもので判断しただけだった。
    本当は全く経済力のない男が、家に転がり込んできただけだった。
    可愛がっていたのではない、私を束縛したかっただけ。

    子どもが出来たとわかったとたんに彼氏の態度が変わった。
    「これで、逃げられない。ずっと一緒だ。」

    「心配だから」と言って、行動を制限された。
    1日に何度もポケベルが鳴る。

    友だちにも会えない。家からも出してもらえない。
    連れて行かれる場所は、パチンコ屋と居酒屋とスーパーくらい。 

    集金したお金を持って、パチンコ屋へ連れていかれる。
    勝ったと言って、居酒屋へ連れていかれる。
    負けたと言って、スーパーへ連れていかれる。その繰り返し。

    自分の意志なんて関係なかった。生きてる実感もなかった。
    大きくなるお腹を眺めつつ、母親になっていいものかもわからなかった。
    正直言って、私が欲しい未来は、そこにはなかった。

    「今日も生きてる……。なんで、生きているんだろう。」
    朝目覚めて、いつも最初に思うことだった。
    「あの橋から飛んだら、自由になれるかな……。」

    本当は、もう、終わりにしたかった。
    何のために、生きているのかさえ分からなかった。

    寝ている横顔を見ては、
    濡れタオルを顔に乗せたら、自由になれる気がした。

    冷蔵庫の中には、私の飲まない缶ビールが冷やしてある。
    炊きたてのご飯に、塩をかけて急いで食べる。とりあえずお腹を満たす。

    「旦那様のおかえりだ。」と言うが早いか、ビールが1缶空く。
    いつの日からだろう……毎晩繰り返されている。
    素面の時なんて、一瞬もない旦那ができあがっていた。

    幸せだとは、これっぽちも思えなかった。

    それでも、『ひゃん』とゴンザブローが寄り添ってくれた。
    「大丈夫だよ。頑張れそうだよ。」

    お腹の中で、蹴られる。
    「そうだね、しっかりしないとね。」


    第5章 猫との暮らし

    モノクロの生活が、フルカラーの日常に変わる。


    ゴンザブローを飼い始めて、
    猫ってこんなことするんだ~と
    驚かされる毎日。

    100円ショップで、猫のおもちゃを買ってもらった。
    猫じゃらしと鈴の入ったプラスチックのボール。

    ゴンザブローは、遊んでほしくなると、おもちゃをくわえてくる。
    ボールを持ってきた時は、投げると取りに行って、持ってくる。
    「猫もこんなことするんだね。」

    猫じゃらしを持ってきた時は、猫らしく遊んでいる。
    「ゴン」と呼ぶと
    『ひゃん』と返事をする。

    夜になると一緒に眠る。
    私の顔を、抱っこするかのように、頬を前足で挟む。
    ちょっと息苦しいけど、顔の前にはいつもゴンザブローのお腹がある。
    ゴロゴロ聞いているうちにぐっすり眠れていた。

    ある日、一度だけ、ゴンザブローを外に連れて行ったことがある。
    天気のいい日だった。少しだけなら大丈夫だろうと思った。

    抱っこして外に出ると、ゴンザブローは私の肩にしがみついた。
    そのまま、降りようとはしなかった。
    車が通るたびに、ほんの少しだけ震えていた。

    地面に降ろしてみても、すぐにまたよじ登る。
    結局、ずっと肩の上にいた。
    きっと、変な妊婦に見えただろうな。

    「大丈夫だよ。」と声をかけると、
    『ひゃん』と鳴いた。

    外の空気を吸っているゴンザブローは、
    少しだけど、嬉しそうに見えた。

    家に帰り、台所に立つと、やっぱり肩に乗る。
    「いたっ。」
    背中に爪が、ちょっとだけ刺さる。

    ゴンザブローは肩の上で、満足そうにゴロゴロ言っていた。
    背中はかすり傷だらけになったけど、
    こんなにいつもそばにいてくれる生き物なんだと知った。

    ふっと、昔を思い出す。
    あれは、秋の雨が冷たくて、凍えそうな日だった。
    仔猫がずぶ濡れで震えていた――


    小学生の私は、無理矢理その仔猫を抱っこした。
    ただ、可哀想だと思った。
    何もできないけど、温めることくらいはできそうだったから。

    にゃーと言ったかと思った次の瞬間、仔猫の爪が刺さった。
    「いたっ。」
    唇の少し上に、爪がしっかり刺さる。

    暴れる仔猫。痛がる私。
    引っ張ってみたものの、爪は丸まっているからそんなことでは抜けない。

    どのくらい暴れたのだろう……。
    やっとの思いで、抜けた。
    雨の中、仔猫は逃げていった。

    血が流れてくる。しっかり穴が開いているようだった。
    「猫なんて嫌い。」

    あの日、小さな私は、泣きながら、家に帰った。
    今も、その時の傷は残っている……。


    第6章 帰省

    嫁ってそんなに義実家に従うものなの?


    入籍して初めての新年を迎えた。
    あと1ヶ月もしたら家族が増える。
    やっと病院にも行った。母子手帳も貰った。

    先生には、めちゃくちゃ怒られた。
    「何かあったらどうする気だったの?」
    答えられなかった。

    性別は聞かなかった。いつも暴れてるから、
    勝手に男の子だと思っていた。
    青いラインの入った白いベビー服を買った。高くて1着しか買えなかった。

    近くに住んでいるいとこから、もう着なくなったベビー服を
    たくさんもらい、なんとかなりそうだった。
    母が布おむつを用意してくれて、それも届いた。

    着々と出産準備ができてきた。
    不安が、少しずつ楽しみに変わってきていた。


    旦那の実家で新年を迎えた。
    「里帰り出産はさせられない。」と旦那から釘を刺された。
    「うちの嫁になったからには……」と何度も言われた。

    入籍前、散々、「その子は本当に息子の子か」と罵倒してきた姑。
    「前の彼女の方が美人だったのに」と嫌味しか言わない姑。
    「その子は私が育てるから」という姑。
    「あなたの名前の画数が悪いから、改名しろ」という姑。

    なにひとつ言い返せない私。
    これが俗にいう嫁いびりなのか?
    それともこれが当たり前なのか?

    「うちの嫁になったからには」――当然の当然のことらしい……。

    舅の退職金と旦那が毎月仕送りをする条件で半年前に家を買ったらしい。
    引越しの片付けも終わっていないようで、段ボールが山積みになっている。
    6畳の部屋にびっしり使われていない食器がある。
    4畳半の部屋に料理の本がずらっと置いてある。

    こんな料理が作れたら良いなと思って本を買い、
    その料理を盛り付けるための食器を買った結果だそうで、
    実際には一度も料理は作っていないから、新品のままそこにある。

    「うちの嫁になったからには、これを使って、うちの味を覚えなさい。」

    まったく理解できなかった。
    転勤族だったのに、この荷物持って、毎回引っ越していたという。
    その料理本が『うちの味』になる理由もわからなかった。

    「うちの嫁になったからには……」
    また、姑が何か言っている。
    里帰り出産は諦めるしかなさそうだ……。


    第7章 バレているよ

    ゴンザブローは、隠れているつもりらしい。


    昨日、スーパーでジャガイモを買ってもらった。
    久しぶりに料理をしようと思った。
    コトコトとジャガイモを煮る。

    いつものようにゴンザブローは肩の上。
    「美味しく作れるかな……」
    いつぶりの料理だろう。


    「晩ごはん、何がいい?」
    毎回、答えは同じ。
    「ビール、焼き鳥、ジンギスカン、刺身。」
    「作らなくていい。食べに行った方が早い。」

    生活費は、たまに小遣いのように渡される。
    家の経済事情が全く分からない。
    けど、なんとなく良くはないと感じている。

    酔っぱらっては、
    「俺はこんなもんじゃない。前は1ヶ月で50万は稼げた。」
    「お金は、運用しているだけだ。」と言う。

    お金を渡されても、不安で使えない。
    「このお金は、どこから来たんだろう。」
    考えることを止めないと、自分が壊れそうだった――


    パチパチ……。
    コロッケが良い感じで揚がってきた。
    コロッケ以外何もない。でも、ごちそうに思えた。

    テーブルに置く。
    ゴンザブローが低い姿勢で近づいてくる。
    隠れているつもりなのかな?

    テーブルに前足が乗る。
    「ゴン」と低い声で私が言う。
    ゴンザブローは、バレたかーと、ばつの悪そうな顔をする。

    「ゴンザブローはこっち。」
    水で柔らかくすることのなくなったカリカリをお皿に入れる。
    玄関の開く音がした。

    「旦那様のおかえりだ。」といういつものくだり。
    一気に飲み干したビールの缶を握りつぶして、
    「俺、コロッケ嫌い。余計なことするな。」

    そう言い残して、家を出ていった。
    テーブルの上には、冷えきったコロッケ。
    一人で食べるには多い。でも、誰も食べてはくれない。

    「しょっぱい……。」
    ゴンザブローは、また、コロッケを狙っている。
    「食べちゃダメ。」

    何もなかったかのように、冷蔵庫にしまう。
    「明日、食べよう。」


    第8章 出産直前

    一生忘れることはないんだろうな。いくつになったとしても。


    夕方、久しぶりに、親友から電話が来た。
    「顔見に行きたいんだけど……陣痛とか来ていない?」
    「まだ、そんな感じはないから、少しなら大丈夫だよ。」
    「これから向かうね。」と、電話が切れた。

    親友が来てくれるのが、嬉しかった。
    「あれ?痛いかも……?」
    もしかして、陣痛なの?このタイミングで?

    そうかもしれないから、お風呂に入ることにした。
    ピンポーン
    「ごめん、ちょっと待ってて。」

    「お腹痛い?」
    そう言って、親友が私のお腹に触れる。
    「少し、張っているかもね……ご飯食べた?」
    首を振る私。

    時計を見ると18時。
    初産の平均は18時間と聞いていた。
    「今のうちに食べておかないと。」
    そう言って、親友がおにぎりを渡してくれた。

    玄関が開く……旦那が帰ってきてしまった。
    何で他人がいるんだと怪訝な顔をしている。
    「おじゃましてます。
    陣痛来たみたいだから、少しの間そばにいてもいいですか?」

    ビールを持つ、旦那の手を押さえて、彼女は言った。
    「子どもが生まれるかもしれないのに、こんな時に飲むんですか!」
    舌打ちをして、ビールを冷蔵庫に戻す旦那。意外だった。

    「どうせ、俺がすることはないんだから、ゲームしてていいだろ。」
    こっちを見ることなくゲームを始めた。
    「大丈夫?」と心配そうに顔を覗き込む彼女とゴンザブロー。

    ピンポーン
    ドアが開き、そこに旦那の両親が立っていた。
    「ベビー服持ってきたわよ。」

    玄関先で、ベビー服を広げているみたいだった。
    「このシミは……。」
    姑が持ってきたのは、旦那が着ていたという思い出の品。

    「聞いてるの!?」
    少し声を荒げる姑。
    既に陣痛が始まっていて、動けない私。
    額から汗が滲んでくる。

    「痛くなったら、手を握って。間隔計るから。」
    親友が手をそっと出す。その手を握り返す私。
    「1分切ってる。ヤバイ、早く病院に行かなきゃ。」
    親友が慌てて準備を始める。

    「そんな大げさな。陣痛なんて、大したことないでしょ。」
    「父さん、母さん、今日は帰ってくれ。」
    旦那が、両親を追い返してくれた。とても意外だった。

    時計は20時を指していた。
    この痛みが、まだまだ続くのか……と思いながら
    車で3分の病院へ。

    親友が寄り添ってくれた。
    心配そうなゴンザブローを横目で見た。
    「大丈夫だよ。行ってくるね。」


    第9章 あなたはどこで産むの?

    病院以外の選択肢はなかった。


    正月に帰省した時に姑に聞かれた。
    「あなたは、どこで子どもを生むつもりなの?」
    何を聞かれているのか、理解が追いつかなかった。

    「うちの嫁になったからには、里帰りは認めません。」
    あ、そういうことか……。
    「近くの総合病院で生もうと思います。」

    「病院で生まなくても、困らないでしょ。病気じゃないんだから。」
    「…?」

    「私は、生む前に破水したから、陣痛も知らないし、
    帝王切開だったから、病院で生んだけど。」

    一体、どこで生めと言うつもりなのか……。
    「昔は家で生んだものよ。」

    初めての出産で、不安しかないのに家で生む?
    「病院で生むなんて、贅沢ね。」

    子どもを生んだことのある人の発言には思えなかった。

    「うちの嫁になったからには、旦那に尽くしなさい。」
    「実家とは縁を切りなさい。」
    「同居しなさい。」

    嫁になったからには……と攻撃が続く。
    室内飼いされている犬にまで、吠えられる――


    そうだった。
    姑は、陣痛を知らないんだった。

    でも、あそこまで、人の心を持たない人だとは思わなかった。
    病院まで3分の距離がとても長く感じた。

    『陣痛なんて、大したことないでしょ。』
    姑の言葉がやけに胸に刺さる。
    陣痛を知らない人に言われたくない。
    でも、何も言い返せなかった。

    お腹の痛みよりも、悔しくて涙目になっていた。


    第10章 新しい命

    この子を守ると決めた日


    病院に着くなり、分娩室に直行。
    「子宮7cmも開いている。よく頑張ったね。」
    助産師さんがそう言ってくれた。

    「あの……トイレに行きたいんですけど。」
    「多分、赤ちゃんだから、出ないと思うよ。」
    「でも……。」
    「まぁ、行ってみたら?そこ、扉あけたらトイレあるよ。」

    和式のトイレだった。
    針金が組まれていて、万が一の対策なのだろう。
    ふっと頭で、究極の2択を迫られた。

    『トイレで赤ちゃんを生み落とす』のと、
    『分娩台で漏らしてしまう』のなら……
    漏らす方がマシか……と、トイレから出てきてしまった。

    分娩台に上がる。緊張もしたけど、痛さの方が強い。
    「先生、間に合わないかも。進みが早いわ。」
    助産師さんが慌ただしく動いている。

    強い痛みがないと、生めない。
    ずっといきんだら、赤ちゃんが飛び出すから、痛みを逃がす。
    そのためには、ハ行で力が入らないように呼吸する。

    この前行った母親教室で習ったことを思い出していた。
    「上手だね~、もうすぐ赤ちゃんに会えるからね。」
    先生は、まだ来ない。

    「次の波で、頭が出るよ。」
    助産師さんが教えてくれた。

    わけもわからないうちに、無事に生まれたらしい。
    でも、泣き声は聞こえない。
    「この子、羊水飲んじゃったみたい。」
    吸引されているようだった。

    おぎゃー

    力強い泣き声が聞こえてきた。
    ホッとしたら、涙が出てきた。

    「あれ、生まれちゃったの?」
    先生が到着した。

    時計を見ると21時を指していた。
    陣痛は、たったの3時間。あっという間の出来事だった。

    初めて、赤ちゃんと対面した。
    産まれたばかりなのに、爪が伸びていた。
    「可愛い女の子ですよ。」

    女の子?嘘でしょ?男の子だと思っていたのに。
    そういえば、女の子の名前、考えてない。
    思い込みがひど過ぎる……。

    そっと出した人差し指を
    ぎゅっと握り返す我が娘。
    姑には渡さない。そう決意した。


    第11章 母と私

    入院生活は、思ったよりも快適だった。


    初めてのことだらけだった。
    この病院は母子同室ではないため、時間になると、授乳室へ行き
    その時だけ、娘と一緒にいられた。

    三食しっかり食べることができて、ゆっくり寝られる。
    こんなことは、いつぶりだっただろう。

    沐浴の練習をしたり、おむつ替えを経験したり。
    退院後、困らないように最低限の経験はさせてくれた。

    授乳室へ行くと、他のお母さん達に会うこともあった。
    「なんか、病院に着いて1時間で生んだ人いるんだって。」
    「え、いいなぁ。私なんて丸一日かかったのに。」
    会話には、とても入れなかった。

    どちらかと言えば、若い方に分類される私。
    多分10歳位は離れていそうだった。
    授乳室の隅で、そそくさと授乳して病室に戻る。

    友達を作る気力はなかったけど、
    ごはんが食べられるだけで、とてもありがたかった。

    「ゴンザブロー元気にしてるかな……。」

    退院の前日、母から電話が来た。
    「明日、そっちに行くから。産後大変だろうから。」
    来てくれるんだ……なんだか少しほっとした。


    退院当日
    父と母、そして旦那が迎えに来た。
    娘には、青いラインの入った新品のベビー服を着せた。

    家に着くと、真っ先にゴンザブローが駆け寄って来る。
    頭を撫でると、ゴロゴロと嬉しそうにする。
    快適な入院生活が一変する。でも、覚悟は決まっている。

    父は、仕事があるからと、一泊だけして帰って行った。
    母は、産後、水を使う家事は体に悪いから、手伝いに来たという。
    一応、2週間いる予定だと伝えてくれた。

    実は、私は、母が少し苦手だった。
    とても真面目な母からしたら、私は不良扱いだったから。
    でも、そんな母が、今はとても強く頼もしい存在だった。


    第12章 発覚

    信じていたのに……


    旦那が仕事に行った後、母が掃除機をかけはじめた。
    まるで、家政婦ように、テキパキと家事をこなす。
    当たり前のようにごはんが出てくる。

    私は、娘の世話だけで、へとへとになっていた。
    泣いていても、何で泣いているかわからないから、
    あたふたしている。

    「新米母ちゃんがんばれ」と母。
    孫までは、私の仕事じゃないよと、そこは区別する。
    こんなに大変なのかと、三人の子供を育てた母の偉大さを感じた――


    入院中に出産祝いをもらっていたので、お返しを考えなきゃと
    封筒を確認したら、全て空っぽだった。

    「病院に置いておくのは物騒だから。」と持って行った旦那。
    まったく、何に使ったのかも、別の所に保管しているのかさえも
    わからなさすぎて、家中、母と探した。

    「ない……。」
    あったのは絶望だけ。

    「金は天下の回り物、運用してなんぼ。」
    それが旦那の口癖だった。
    多分、戻ってくることはない。

    母が来て、ちょうど1週間目のことだった。
    妊娠中、何度か電話で愚痴をこぼしたが、
    取り合ってくれなかった母が、怒りを露わにした。

    「娘を幸せにするなら、分かるけど、こんなことするなんて!」
    「今すぐ、連れて帰る。」
    そう言って、母は、泣きながら父に電話をしていた。

    「明日、父さん来るから、帰るよ。」
    「……。」
    それでも……信じたい気持ちがあった。

    その日の夜
    「いつになったら、親帰るんだ?」
    と旦那が聞いてきた。
    「多分、明日。」


    第13章 もう少しだけ

    信じてみたかった。せっかく、家族が増えたんだから。


    次の日、父が来た。
    「返答次第では、娘を連れて帰る。」
    静かな声で、父は言った。

    「信じてください、僕は、必ず娘さんを幸せにしますから。」
    いつもの調子いい返事をする旦那。
    「信じていいんだな?」
    見たことないほどの鋭い眼差しで旦那を見る父。

    「帰るぞ。」
    と、父は母だけを連れて帰った。
    食料を少し買い足して、心配は消えないのに帰って行った――


    「やっと帰った!」
    旦那がそう叫んで、ガッツポーズをしている。
    「俺の親だって、来たいのを我慢しているのにおかしいだろ。」

    里帰り出産も認めなかったのに、母の手伝いさえも拒絶された。
    何ひとつ、手伝ってくれないのに。
    「俺が働いているから、生きられるんだろ。」

    出産祝いのこと、結局聞けないままだった。
    意気地なしの私は、揉めるのが怖かった。
    従うことでしか、娘を守れないように思ったから。


    第14章 ゴンザブローと娘

    猫は嫉妬する生き物なのか……。


    母が帰って、元の生活に逆戻り。
    違うことと言えば、娘が増えたこと。
    とにかく、大きな声で泣く赤ちゃんだった。

    こんな生活でも、唯一救いだったことは
    とにかく母乳がよく出たことだった。
    しっかり飲んでくれて、よく寝てくれる。

    妊娠中、どうしてもできなかったうつ伏せ寝。
    やっとできる!と、うつ伏せで寝たら、冷たくて起きた。
    母乳で布団がべちゃべちゃだった。

    寝る時の困りごとがもう一つ。
    ゴンザブローが、私の顔を抱っこして眠ること。
    妊娠中は安心できたその行動も、
    今は困ったことになってしまった。

    日中は、ベビーベッドに寝かせている娘。
    でも、夜は、添い寝の方が断然楽なので、私の横に娘を寝かせる。
    その間に割り込むように、ゴンザブローが眠る。

    娘が窒息するかもしれない恐怖で、安心するとか言っていられなくなる。
    「ゴンザブロー、お兄ちゃんなんだから、頭の上で寝よう。」
    何度か言い聞かせた。

    娘が寝ている間に、ゴンザブローを肩に乗せて家事をする。
    「ゴンザブロー、お兄ちゃんになってくれると嬉しいんだけどな。」
    ゴロゴロと知らん顔。

    『猫は嫉妬深いから子どもが生まれる前に捨てなさい。』
    母にそう言われたことを思い出した。

    母がいた1週間、ゴンザブローはとてもいい子だったから、
    母もそんなことを言っていたことさえ忘れて、可愛がっていた。
    ゴンザブローなら、わかってくれる。そう信じた。

    夜、いつものように間に入ろうとして、動きが止まった。
    私の頭の上にお腹をつけて、こめかみを抱っこして眠り始めた。
    「ありがとう。ゴンザブロー。」


    日中、まだ寝がえりの心配はないので、
    バスタオルをかけて、ソファーに娘を寝かせていた。
    台所で、家事をしていた。

    ぎゃー

    大声で娘が泣く。
    振り向くと、ゴンザブローが足めがけて猫パンチをした。
    「ゴン」と言うと、しまったという顔をして逃げていった。

    娘の足には、小さなひっかき傷。
    「痛かったね……。」と娘を抱っこする。

    猫の本能には、さすがのゴンザブローも勝てないよね。
    娘は、なぜか全身を使って泣くタイプで、
    泣くとき、必ず足をばたつかせる。

    バスタオルが、ぽこぽこ動いたら……
    猫パンチ出ちゃうよね。
    ゴンザブローがドアの向こうからこっちを見ている。

    「怒ってないから、こっちにおいで。」
    『ひゃん』
    娘の頭を一生懸命舐めるゴンザブロー。

    きっと、ゴンザブローなりに
    お兄ちゃんになろうとしてくれているんだろうな。
    娘の頭は、ゴンザブローが舐めるから赤くなってしまった。

    「私が、気を付けなきゃだめだよね。」


    第15章 もう、耐えられない

    いつまでも、従順な奴隷を続けられるほど、私はおとなしくはない。


    その日は、朝から、旦那の機嫌が悪かった。
    「俺のごはんは?」
    「ちょっと待って。」

    授乳中だった。
    「俺様の方が先だろ。」
    泣いてる娘が先に決まっている。なのに……。

    「誰が偉いのか、わからないのか?」
    髪を引っ張られた。
    「やめて……。」

    「もう、いい。」
    バタンと大きな音を立てて、家を出ていった。

    「……もう、耐えられない。」
    大粒の涙が、頬を流れる。

    急いで、鞄に、詰められるだけの荷物を入れた。
    ゴンザブローが異変を感じて、その鞄に入ろうとする。
    「ここはダメ。」

    そう言って、ゴンザブローを鞄から出す。
    『ひゃん』と言って、鞄に入る。
    「この中は、ダメなんだって。」


    珍しく旦那に向かって
    『ひゃん』と鳴くゴンザブロー

    「病院に行った方が良いかもな。」と旦那が言った。
    キャリーバッグはないから、鞄にゴンザブローを入れて
    動物病院へ連れていった。

    治療を受けて大事に至ることはなかった。
    でも、それ以来、ゴンザブローはその鞄が大嫌いだった。


    その大嫌いな鞄に、一生懸命入ろうとするゴンザブロー。
    「お願い、この鞄はダメなの。わかって。」

    ゴンザブローの動きが止まった。

    いつ、旦那が戻って来るかわからない。
    ダッシュで近所のコンビニへ行った。
    「着払いで。」

    2月の極寒の北海道。
    生後1か月の娘を連れていける場所なんて、どこにもない。
    コンビニ前の公衆電話から、実家に電話する声は震えていた。

    『もしもし……。』
    「……もう、無理。」
    『どこにいるの?迎えに行くから』

    迎えに来る?300kmもあるんだよ?
    「お金ない。」
    『ばあちゃんのとこまでは行ける?』
    「うん。」

    電話は切れてしまった。
    急いで、家に戻る。

    何とか持てる分の荷物と、娘を抱っこする。
    足元でゴンザブローが鳴いている。
    連れていけない。

    『ひゃん』
    足元から離れようとしない。
    「後で迎えにくるから。」

    ゴンザブローを引き離す。
    『ひゃん……。』

    急いで、玄関のドアの鍵を閉める。
    カチッ

    携帯から、ばあちゃんの家に電話をかける。
    何度かけても出ない。
    仕方なく逆方向の地下鉄に乗り込んだ。


    第16章 不思議な再会

    ここで会えなければ、今の私はいなかったと言っても過言ではない。


    札幌駅にいた。
    人はたくさんいるのに、
    娘を抱えて、途方に暮れていた。

    迎えに来るのを待つくらいなら、
    無銭乗車で地元に行った方が
    早いのではないか?本気でそう思っていた。

    「どうしたの!?」
    急に声をかけられた。
    親友だった。

    「家出してきちゃった。」
    「こんなところにいたら、娘ちゃん風邪ひくよ。」
    緊張の糸が切れた。泣くしかできなかった。

    「とりあえず、うちにおいでよ。」
    地下鉄に乗って、親友の家に行った。

    ぽつりぽつりと成り行きを話していた。
    黙って聞いてくれた。
    親友は、私がピンチの時、なぜかいつもそばにいてくれた。

    「とりあえず、親御さんが来るまで、ここにいなよ。」
    「多分、夜になるよ?」
    「だからって、家に帰れないでしょ。」

    ゴンザブローのことが気になって仕方なかった。
    娘のおむつも足りるか心配だった。
    でも、一人では帰れない。帰りたくない。

    「バイトあるから、いなくなるけど、ここにいるんだよ。」
    「……うん。」
    「留守番頼むね。親御さんよりは先に帰って来るから。」


    どのくらい待ったのだろう。
    気が付いたら、娘を抱っこしたまま、寝ていたみたい。
    親友が帰ってきて、両親が迎えに来た。

    このまま実家に戻ると、父が言う。
    「ゴンザブローも連れて帰りたい。」
    「それは出来ない。」

    「どうしてもだめ?」
    「猫は飼えない。」

    ただでも、迷惑かけるのに、これ以上は頼めなかった。
    必死に鞄に入ろうとしたゴンザブローの姿が忘れられない。


    第17章 戦うと決めた

    長時間の移動をして、実家に帰ってきた。


    携帯の電源は切ったままだった。
    もしかしたら、電話が来ていたかもしれないけど、
    今は、話したくなかった。

    家を出て、4日目のことだった。
    実家の電話が鳴った。
    父が出た。

    父は、決して声を荒げるようなタイプではない。
    その父が、聞いたこともないような声で怒っている。
    相手が旦那だとわかった。

    「でるか?」と受話器を渡された。
    恐る恐る代わった。
    『携帯の電源を入れろ。話はそれからだ。』

    電話は切れた。
    部屋に行き、携帯の電源を入れた。
    アンテナを伸ばして、電波を探す。

    ピピピ……
    すぐに携帯が鳴った。

    「もしもし……。」
    『出ていった、お前が悪いのに、何でお前の親に
    怒鳴られなきゃならないんだ!』

    ほんの少し、期待していた自分がいたことに気が付いた。
    「もう、帰らない。」
    それだけ伝えて、電話を切った。

    男が変わる時は、結婚した時、子どもが生まれた時、親が死んだ時…。
    親が死ぬまでなんて待てないし、この人は一生変わらない。

    本当は、離婚までは考えていなかった。
    ちゃんと将来を一緒に考えて欲しかっただけ。
    でも、どんなに考えても、幸せになる未来は描けなかった。

    とはいえ、このままでは、何もできない。
    保険証も、母子手帳も、大切なものまでは、持ってきていない。
    早くなんとかしないと――


    翌日、市役所の相談窓口に行った。
    いろいろ、相談したけど、どれも、すぐにできるようなことではなかった。
    やはり、荷物を取りに行く方が早そうだった。

    持ち主の居ない部屋に飾られた、初孫のために買った雛人形も、
    家財道具のほとんどは、私のものだった。
    旦那に使わせておく理由もなくなった。

    裁判所で調停の申し込みをしてきた。
    最終的にどうなるかわからないけど、
    戦うと決めた。


    第18章 引っ越し

    まだ、峠には雪が残っていた。


    父が4tの箱トラックを借りてきた。
    父と二人で荷物を取りに行くことにした。
    旦那が仕事でいない隙に、全て積み込むつもりだ――

    久しぶりのこの場所。そっと玄関の鍵を開ける。
    鼻を衝く異臭がした。
    それは、ベビーベッド付近が強烈だった。

    ゴンザブローは、一度もトイレを失敗したことなんてなかった。
    でも…明らかに猫の匂いだった。
    姿は見えなかった。

    玄関のドアを開けっぱなしにして、荷物を積み込む。
    部屋に残ったのは、義実家が持ってきたベビーベッドと
    旦那の衣類とギター。

    やっと姿を見せたゴンザブローは、
    以前の優しい目の猫ではなくなっていた。
    絶望と寂しさを秘めた目でこちらを睨む。

    『シャーーー』

    そりゃ、そうだよね。
    差し伸べた手には、ひっかき傷ができた。

    あの時、連れていけなかった。
    今も、それは変わらない。
    実家には連れていけない。

    もう一度、玄関のドアを開けて、
    「ゴン、好きなところに行ってもいいんだよ?」
    少し待ってみた。

    ゴンザブローは、動かなかった。

    旦那は猫が嫌いだった。
    機嫌が悪いと、ゴンザブローにも手を上げたりしていた。
    知っていたのに……連れていけなかった。

    「ごめんね……。」

    あの日と同じように、玄関のドアの鍵を閉めた。
    カチッ
    そっとドアから手を離した。


    大家さんの所に行って、事情を話してきた。
    社会保険事務所で手続きもした。
    区役所に転居届も出した。

    娘が病気になったら、保険証が無いと困ってしまう。
    旦那は、保険証が手元にないから戻ってくると思っていたらしい。

    「俺が持ってる限り、逃げられない。ずっと一緒だ。」

    歪んだ愛着を、振り払うように手続きをした。
    記入済みの離婚届も置いてきた。


    第19章 調停

    離婚一択の私は、またも待たされた。


    訴えられた人が住んでいる場所で調停が開かれる。
    つまり、調停の度に、札幌まで行かなければならなかった。
    月に1度、裁判所に通った。

    少し説明すると、調停は、第三者の調停委員との話し合いで、
    双方の意見を聞いて、最善の方法を考える場にすぎない。
    離婚になるかどうかは、また、別問題らしい。

    離婚したい私と、離婚したくない旦那との話し合いは、
    ずっと平行線のままだった。
    仕事を言い訳にして、旦那は裁判所には来なかった。

    離婚、子どもの親権、養育費……。
    挙げるときりがなくなるほど、話し合う必要があるのに現れもしない。
    調停では、埒があかないかもしれない。

    無料の弁護士相談会にも行った。
    「これだけのことをしているのであれば、勝てますよ。」
    「次の調停で、折れないようなら、裁判に切り替てください。」
    「旦那さんに、その旨、お伝えください。」

    実は、私の知らないうちに――
    私名義で消費者金融に借金も作られていた。
    「どこまで、お金に汚い人なんだ。」

    離婚に踏み切れなかったのは、娘がいたから。
    娘から父親を奪っていいのか、わからなかった。
    でも、こんな父親なら、いらないと心底そう思えた――


    恐る恐る旦那に電話をした。
    「もしもし……。」
    何から伝えたらいいか、少し迷った。

    『お前、ふざけるなよ!』
    いきなり怒鳴られて、体が震えた。
    『俺から離婚を言い出すなら分かるけど、出ていったお前が悪いのに
    離婚届まで書きやがって!破り捨ててやった。』

    娘の心配すらしていない……。
    『お前が大家に話したから、家追い出されたんだぞ!』

    そう、あの部屋は、父の友人が大家をしていた物件。
    だから、格安で住まわせてもらっていた。
    私がいないのだから、当然のことだった。

    「今度の調停で、離婚しないなら、裁判に切り替えるから。」

    それだけ伝えて、電話を切った。
    本当は、ゴンザブローのことを聞きたかった。
    元気にしているか……それだけが気がかりだった。


    第20章 終わりと始まりの間で

    最後の調停……一生そのままでいればいい。変わることなんて、もう望んでいない。


    裁判に切り替えると宣言していたからだろう。
    今回の調停に、旦那は現れた。

    それぞれ、別室で調停委員との話し合いが始まった。

    私が提示したのは、親権と離婚のみ。
    応じないのであれば、養育費、慰謝料、借金の返済を求める
    裁判に切り替えること。

    向こうの提示した内容は、お金を払う気はないし、離婚もしない。
    ただし、一銭も払わなくていいなら、離婚に応じるとのこと。

    とにかく離婚したかった。
    二度と顔も見たくなかった。

    荷物を運び出して、地元で手続きをして、保険証が手元に来た直後、
    娘がロタウイルスに感染して入院した。

    もし、あの時の判断が鈍っていたなら、大変なことになるとこだった。
    手続きを拒んだことも、何もかも、全てが許せなかった――


    調停委員が、旦那を連れて、個室に入ってきた。
    「双方の妥協ラインが見えてきましたので、
    お互いに話し合いをしてください。」

    半年ぶりに旦那と顔を合わせた。
    「本当に、払わなくていいんだな?」
    「今すぐ、離婚するなら。」

    しばらくの沈黙、どのくらいだったんだろう。
    「わかった。離婚してやるよ。俺からな。」

    どっちからなんて、どうでもよかった。
    離婚するという事実さえあればそれでよかった。

    「では、離婚するでいいですか?」
    双方、うなずいた。

    「養育費に関しては、子どもの権利なので……」
    事務的に色々説明を受けたのだが、ほとんど聞いていなかった。
    これで離婚できるとホッとしたからだろう。

    「他に何か伝えたいこととかありますか?」
    調停委員の声で、はっとした。

    「ゴンザブローは、元気にしてる?」
    一番聞きたかったことだ。

    「死んだよ。」

    一瞬、何を言われたかわからなかった。
    「今、なんて……。」
    「だから、死んでたの。軒下で。」

    一気に怒りが込み上げた。
    「あんたが殺したんでしょ!」
    ありったけの声で叫んだ。

    聞きたかったのはそんな事じゃない。
    「そこまではしてない。」

    一瞬にして静まり返る。
    言った言葉は、そのまま自分に戻ってくる。
    あの時……でも、どうすることもできなかった。

    「猫が死ぬときは、身を隠すって本当なんだな。」
    旦那が他人事のように言う。


    書類を提出して、離婚が成立した。
    元夫は、娘のことを一つも聞かなかった。
    あの人にとって、家族って何だったんだろう。

    散々待たされて入籍したのに、1年持たずに離婚した。
    終わってしまえば、紙切れひとつで関係が変わるだけのこと。

    高速バスに乗り込み、娘のもとへ帰る。
    ゴンザブローとの思い出が、次から次と溢れ出す。

    その選択をしたのは私。
    それでも、相手を責めることでしか、正当化できない。

    あの時……


    あとがき

    30年も前の記憶の掘り起こし作業――
    ずっと心の中で、『あの時』は止まっている。
    本当は、向き合うのが怖かったからだと思う。

    過去を悔やんでも、変えられるものは何もない。
    あの時の選択は、あの時の自分にとって、必要なものだった。

    もし違う選択をしていたら――
    そう考えることもある。
    けれど、それは今の自分を否定することになる気がして、
    考えないようにしている。

    今の私は、人並みに幸せに暮らしている。
    2度の離婚と3度の結婚。
    父親の違う3人の子供と1人の孫。

    もし違う道を選んでいたら、
    この子たちに出会うことはなかったのかもしれない。

    そう思うと、あの選択は間違いではなかったのだと
    思うことにしている。

    それでも――
    『あの時』の後悔だけは、消えない。

    家には、3匹の猫がいる。
    けれど、ゴンザブローを思い出さない日はない。
    全然似てないのに、そこにいるような気がする。

    一番辛かった時、ゴンザブローがそばにいてくれたから……
    過ちを犯かさずにすんだんだと思う。
    あの頃の私は、それほどまでに追い詰められていた。

    もしゴンザブローがいなかったら、
    私は、今ここにいなかったと思う。

    生きる理由をくれたのは、ゴンザブローだった。

    「ありがとう」

    「ごめんね。」

    END


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