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博愛の果てに〜自由な私と不自由な私

    私はどちらかというと不自由な家庭に生まれた。貧乏なんだから我慢しなさい。お姉ちゃんなんだから我慢しなさい。父親からの言葉の暴力や時には背中を踏みつけられたりした。成人式の振袖の案内は全て知らないうちに破ってごみ箱に捨てられていた。会社員だった父親はちっぽけな自分のプライドのため仕事を辞め職を転々としていて家庭は経済的にも精神的にも常に不安定だった。全て公立に進学したけれど、公立高校の入学金や学費も出してはもらえず父は私の祖父母である両親に学費はすべて出してもらっていた。私は常にそのことを祖父母に感謝するようにいわれたが、高校も義務教育みたいなものだった時代に親が出せないからといって、それは子供の責任ではなく親にあるのではないかと思いずっと納得いかなかった。女なんだから高校を出て働けとまでいわれたが、勉強が割と好きでどうしても大学に行きたかった私は、国立大学なら渋々いかせるようなことを言われていたので、一浪の末必死の勉強が実り地元大学に合格した。それでも女なのに4年も行ってと責められることもあった。父は毒親だった。成績が良くないと部活も辞めさせられた。

    私は関西に生まれ育った。本当に幼いころはごく普通の一般家庭で赤ちゃんや幼い頃などは祖父や祖母、母や父に愛されていたんだなと感じられる写真が残っているし、ものごころついたころには、家族や親戚、祖父母に囲まれてすくすくと育っていたように思う。昔から寂しがりやで、母が私を置いて買い物に行っただけで、図鑑の裏表紙に「かなこはお母さんがいないから寂しい。早く帰ってきてほしい。」と書きなぐっていた。私が4歳の時妹も産まれた。私は妹を可愛がっていた。妹が産れたころのことはあまり覚えていないが一つだけ覚えていることがある。母方の祖母は高齢になっても生活の為働きに出ていたため、母がお産の間退院するまでは、私は父方の祖母に預けられたようだ。その祖母は少し厳しい人で、お能の先生をやっている間は、家の外に出て一人で遊んでいるように言われた。正直つまらなかったし、辛かった。しばらくしたある日そこに「加奈子さん」と笑いながらそう言って母が迎えに来てくれた。私は泣くほどうれしくて飛びついて泣きじゃくった。その記憶だけは鮮明に覚えている。

    私の人生の最初のキーパーソンは母型の祖母(ちいちゃいおばあちゃんとなぜかよんでいた)。

    昔から私の家に月に一回は泊りに来たり家族で行ったり、小学生のころになると一人で電車に乗って泊りに行った。一緒にお風呂に入るとお湯につかりながら100数えてくれた。寝る前「そろそろ寝ようか加奈ちゃん」と提灯みたいな灯りを祖母は消した。両親と祖母の前で、歌手になりたいと当時の夢を真剣に語ったら、両親がそんなものなれるわけがないと鼻で笑った。それを見た祖母は大泣きする私を抱き抱えながら「あんたら子供の夢を壊しなさんな」と両親を叱った。夏祭りには浴衣を買って着せてくれて、「加奈ちゃんは何を着ても可愛いね」といってくれた。そんな人は祖母だけだった。今思えば深い博愛のなかにいたのだ。しかし私が7歳のころ職場で突然倒れて、運ばれた。意識が戻ることはなかった。くも膜下出血だった。母や私たち姉妹、夫である祖父は、必死で意識が戻るようにと神様や仏様に祈ったがかなうことはなく、春のお彼岸のころ亡くなった。お葬式のことはほとんど記憶にないが、祖母の生前私は手紙を書いては祖母に送っていたのでそれを同僚に見せていたらしい。葬儀場で一人ぽつんとしていた私に同僚らしき人たちが「あなたが加奈ちゃん?いつもおばあちゃん嬉しそうに手紙見せてたよ」とそっと話しかけてきた。それしか葬儀のことは覚えていない。

    それから母は徐々におかしくなり始めた。一人になった祖父を引き取るも、不自由だと出ていかれ、祖母が亡くなってからそんなに長い時間をまたずして、自然に亡くなった。私は子供を育てたことがないが、頼る親がいなくなったまだ幼い2人の子育ては想像を絶するほど大変だったのであろう。まだ母は30代だった。一生懸命お弁当を作ってくれたり、焼き肉に数年に一回行けば、焼くだけでなく皿にまでいれてくれた。暴言や暴力を振るう父親の陰に隠れて何も言えない様子だった。私が実家暮らしで公務員をしていたある春の日、桜見に行かない?と私の部屋がある2階に階段で上がってきてはそういった。それから母手製の即興手作り弁当をもって花見に行ったが、覚えているのはその桜よりもお弁当のおいしさだった。母は祖母の血を受け継いでとても料理が上手だった。そんな母も54歳の若さで亡くなった。乳がんだった

    それから私たち家族の一家離散が始まった。私はまだ28歳でそんな母の死が受け止めきれずうつ状態となり毎日涙で枕を濡らしては、料理が全くできないので、食べるのにも困るようになった。妹とは、母の介護の件でもめて、深い亀裂が入っていた。彼女は留学ののち外務省に就職したが、母のことより、外務省に入るための勉強を優先させて、あまりお見舞いにもこないことが私には理解できなかった。就職で上京する日の彼女の見送りにも応えられなかった。父と二人暮らしになった私だが、うつ状態で休職して昼間寝ていただけで、「人間のダニ」と言われたこともあった。強烈すぎて私は父のもとを離れ、長年交際していた関東に住む今の夫のところに上京することを決めた。彼もまた大きな私のキーパーソンとなる。

    家事も何もできない私に夫は優しかった。まだ上京したころは健常者でパートをしたりしていたが献身的に支えてくれた。義母も多少認知症があったが人畜無害の優しいひとだった。パート先で人生初めての解雇にあったり、先輩から殺人予告みたいなものを受けてやめざるをえなかった。そんなこともあり、2009年に重い精神病になって不自由になってしまった。そんな私を夫は仕事の有給がなくなるまで限界のところで必死に支えてくれた。今はそのような症状もなく定期的な通院のみだが、あちこち病気だらけで経過観察中のためあまり働けない私を一度も責めることなく、私がやる気はあってもできない家事を帰ってきてから一度も座ることなく料理を作ってくれたりする。歳は18歳離れているが、その分一緒にいる時間を大切にしてきた。遠い病院や休みの日は送り迎えしてくれる。

    誕生日には休みを取って食事や日帰り旅行につれていってくれる。結婚記念日も決まった食事処につれていってくれる。亡くなった母が成人してもひな祭りには、大きな丸いケーキなどを買ってお祝いしてくれたことを伝えると、本当にケーキやひなあらえを買ってきてくれる。父親に辞めさせられた部活でやっていたクラリネットや、ピアノも自分のお金で買ったりすることを条件に自由にやらせてくれている。悩み事も真剣に受け止めてくれて考えたり助言してくれ、私の一番のお医者さんになった。ある日の休日遅く起きると台所からトントントンと包丁で料理する音が聞こえる。まるで母が近くにいるようで本当に嬉しかったし安堵の気持ちだった。そう今の私は昔の私と違って夫の優しさで守られている。もし夫がいなくなったらと考えるとぞっとするが、この頃は道で歩いていたり、電車に乗っているだけでも殺されてしまうこともある時代だ。いつどちらが先に亡くなるのかもわからないのだから、あまり考えないようにしている。将来や過去を嘆くよりも、今この時、この瞬間を生きていきたい。大切な存在だということを折に触れて伝えているつもりだ。行動でもこの先伝えていかねばならないだろう。

     

    妹は私が結婚したのち行方不明になり、失踪した。父からの連絡で親戚にも親にも兄弟にもいわず結婚出産しているようだということしか知らない。父とも絶縁状態である私にとって家族といえるのはたった一人、夫である。夫の存在だけが希望の光を灯している。

     

    私は不自由さと自由さ両極端なものを味わい持ち合わせながらこれからも生きていく。そんな私の今の自由さや幸せは祖母や母や夫の深い博愛のもとに成り立っている。

    #創作大賞2026
    #エッセイ部門

     
     

    眞奈

     
     
    奈良県出身。高校時代色々あって心を病みまさかの浪人生活で復活をする。大学卒業の後、某自動車メーカーに就職、その後公務員に転職するもまたも心を病み、結婚で上京する。日々の気付きや、感じたことをブログ形式にて発信していきます✨ライター目指し日々精進中美容オタクで音楽は人生の糧となる。

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