
雨上がりの水たまり。
雨上がりの夕方だった。
雲の切れ間から差し込む薄い陽射しが、アスファルトに点々と残る水たまりを鈍く光らせている。
私は買い物帰りの道を歩いていた。
その子供に気付いたのは、少し離れた場所からだった。
小学校に上がる前くらいだろうか。
ひとりでしゃがみ込み、水たまりを木の枝でかき回している。
ぐちゃぐちゃと。
泥を巻き上げるように。
しばらくすると枝を止め、水面を覗き込む。
何かを待つように。
何かの変化を確認するように。
しかし数秒後には不満そうな顔になり、枝で勢いよく水面を叩く。
そしてまたかき混ぜる。
その繰り返しだった。
私は少し気味が悪くなった。
虫でも探しているのだろうか。
そう思いながら横を通り過ぎる。
そのときだった。
子供が独り言を漏らした。
「あーあ」
疲れた大人のような声だった。
「また失敗した」
私は思わず足を止めた。
「これじゃ人類なんか生まれないんだよ」
背筋に冷たいものが走る。
子供は私など見えていないようだった。
泥水をかき混ぜながら続ける。
「海の塩分が多すぎたかな」
「いや、違うか」
「大陸の配置かな」
枝先で水面に線を引く。
泥がゆっくり動き、奇妙な形を作った。
地図のようにも見えた。
「今度はもっと長く恐竜を残してみよう」
子供は呟く。
「そのほうが面白いかもしれない」
私は笑うべきか迷った。
冗談だろう。
子供の空想だ。
そう思った。
だがその瞬間、水たまりの中に目を奪われた。
泥水の表面。
そこに小さな光の粒が無数に瞬いていた。
まるで夜空の星々のように。
その光は渦を描きながら集まり、離れ、形を変える。
銀河のように。
私は目をこすった。
見間違いだ。
そうであってほしかった。
子供はため息をつく。
「前のも失敗だったな」
「核なんて発明させるんじゃなかった」
心臓が嫌な音を立てた。
「あいつらは、力を手に入れると駄目だ」
子供は泥水を見つめたまま呟く。
「火を与えれば焼き払う」
「鉄を与えれば殺し合う」
「空を飛ばせば爆弾を落とす」
「戦争なんてものを、毎回よく思いつく」
そして少しだけ笑った。
「でも、人類が滅んだ世界は綺麗だったな」
「静かで」
「誰もいなくて」
子供は少し笑った。
懐かしむように。
愛おしむように。
そして枝を高く持ち上げる。
「じゃあ消そうか」
枝先が水面に触れた。
その瞬間。
世界が揺れた。
遠くで雷が鳴った気がした。
いや。
違う。
空そのものが軋んだのだ。
私は反射的に見上げる。
雲が割れていた。
まるで誰かが上から泥水をかき混ぜているみたいに。
巨大な渦を描きながら。
恐怖で動けなくなった私の横を、子供が通り過ぎる。
その顔を見ようとした。
しかし見えなかった。
なぜか認識できない。
顔だけがぼやけている。
いや。
ぼやけているのではない。
見てはいけないものを脳が拒絶しているのだ。
子供は立ち去りながら言った。
「今度は君を残してみようかな」
私は振り返る。
子供はもういなかった。
ただ一つ。
さっきまであった水たまりだけが残されている。
その水面に映っていたのは私ではなかった。
見知らぬ星だった。
そしてその星には、まだ誰も住んでいなかった。