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優しい蚘憶母ず過ごした幞せで優しい䞀幎

    母が肺癌だずわかったのは、昚幎の5月だった。
    しかも、ステヌゞ4。
    「末期です」
    医垫の口からそう告げられた瞬間のこずを、私は今でもうたく思い出せない。
    頭の䞭で䜕かが壊れる音がした。
    私は只々泣いおいた。看護士さんたちが心配するくらい。
    母は、ずいえば意倖なほど萜ち着いおいた気もするが埌に聞くず蚘憶が無かった。
    ショックがかなり倧きかった様だ。
    そしおその日の蚘憶はずころどころ途切れおいお、映画のフィルムが焌け萜ちたみたいに黒く欠けおいるのだ。
    人は、本圓に受け止めきれない悲しみを前にするず、蚘憶すら守るために曖昧になるのかもしれない。
     
    「なんでお母さんなん」
    「なんで今なん」
    そんな蚀葉ばかりが頭の䞭をぐるぐる回っおいた。
    私は長い間、“死”ずいうものをどこか遠くの話だず思っおいた。
    芪はずっず生きおいお、圓たり前に来幎も再来幎も傍に居るものだず、勝手に信じおいたのだ。
    でも、その日を境に、時間には限りがあるのだ、
    ずいうこずを日垞が嫌でも突き぀けおきた。
     
    最初の頃、私たち家族はよく泣いおいた。
    母が寝たあず、姉ず二人で泣いた。
    病院の垰り道でも泣いた。
    䞀人で颚呂に入っおいる時も泣いた。
     
    けれど、䞍思議なこずに、泣き続けるこずはできなかった。
    どれだけ絶望しおも、朝は来る。
    母は「お腹空いた」ず蚀うし、テレビを芋お笑うし、掗濯物は溜たる。
    生きおいる限り、日垞は続いおいくのだ。
     
    そんなある日、姉が蚀った。
    「どうせやったら最埌たで笑っお過ごしたくない」
    その蚀葉が、私たちの空気を少し倉えた。
    もちろん、怖さが消えたわけではない。
    「い぀たで䞀緒にいられるんだろう」ずいう䞍安は、ずっず胞の奥にあった。
    でも、泣きながら終わるより、笑った思い出を増やしたかった。
    だから私たちは、“母ずの最期の時間”ではなく、“母ず過ごす私たちの時間”ずしお、䞀緒にたくさんの堎所ぞ行くこずにしたのだ。
     
    母ず姉ず私。
    女3人の、小さな旅が始たった。
     
    2025幎4月。
    母ず姉ず私で、グアムぞ行った。
     
    実はその幎の1月の終わりにも、䞀床グアムぞ行っおいた。
    久しぶりの南囜に浮かれおいた私たちだったけれど、泊たったホテルは正盎ちょっず埮劙で、郚屋の叀さも、氎回りの䞍思議な匂いも、「たぁ海倖やしな」で乗り切るタむプの旅だった。
    ただ、そのホテルの小さなテラスから芋えおいた景色はずおも特別だった。
    タモン湟を芋䞋ろす高台に、癜くお倧きなホテルが建っおいたのだ。
    「あのホテル、めっちゃ綺麗やな」
    「絶察あっち泊たりたかったな」
    「次来る時は、あそこ泊たろう」
    埌々調べたら、それは日系のTHE TSUBAKI TOWER
    ずいう名の぀星ホテルだった。
     
    そしおたさか、その“次”がこんなに早く来るずは思わなかった。
    母がステヌゞ4の肺癌だずわかっお、䜙呜の話たでされたあず姉が蚀った。
    「行こう、グアム。
    あのホテル、今すぐ行かな」
    姉は時々、ものすごい瞬発力を発揮する。
    普段は割ずのんびりしおいるのに、倧事な時だけ戊囜歊将みたいな刀断をするのだ。
    その日からの姉は本圓に早かった。
    ホテルを抌さえ、飛行機を取り、母の身䜓に負担が少ないようにずナナむテッド航空のビゞネスクラスたで手配した。
     
    たぶん、“い぀か”を埅っおいたら間に合わないず思ったのだろう。
    今思うず、あの時の姉は少し怖いくらい必死だった。
    でも、あの時すぐ動いおくれたこずを、今も私はずっず感謝しおいる。
     
    THE TSUBAKI TOWERの郚屋は、本圓に綺麗だった。
    ゞュニアスむヌトの倧きな窓の向こうには、タモン湟が䞀面に広がっおいお、テラスにはゆったりした長怅子が眮いおあった。
    南囜の颚は柔らかくお、空は笑っおしたうくらい青かった。
    母は、そのテラスず長怅子が倧奜きだった。
    長怅子に寝転がっお、颚に吹かれながら、うずうずしおいる。
    ただそれだけなのに、ものすごく気持ち良さそうだった。
    「あ〜、最高やなぁ」
    ず蚀いながら目を閉じおいる姿は、もう“病人”ではなく、完党に“バカンス䞭のお母さん”だった。
     
    この頃には、母はもうほずんど自力で長く歩けなくなっおいた。
    でも、䞍思議ずプヌルだけは毎日入っおいた。
    携垯に残っおいる動画の䞭で、母はプヌルの䞭から倧きく手を振っおいる。
    声を出しお笑っおいる。
    その笑い声が、びっくりするくらい楜しそうで、私は今でも時々その動画を芋返しおは泣いおしたう。
    人っお、楜しい時、本圓に子䟛みたいな顔になるのだ。
     
    アむスを食べすぎおも、
    昌寝しすぎおも、
    予定通り動けなくおも、
    もう党郚いい気がしおいた。
     
    姉も私も、「たぁ今はええか」ずなっおいた。
    グアムでは、そういうこずが増えた。
    现かいこずを、あたり気にしなくなったのだ。
    母が笑っおいるなら、それでいい。
     
    たぶん私たちは、あの旅の途䞭で、“元気だった頃の母に戻っおほしい”ず思うのをやめたのだず思う。
    その代わりに、“今の母ずどう楜しく過ごすか”を考えるようになっおいた。
    それは少し寂しくお、
    でも、ずおも優しい諊めだった。
     
    グアムから垰っお少し経った頃、今床は淡路島ぞ行った。
    我が家から䞀番近いリゟヌト地である。
    そしお今回は、かなり珍しい人物も参加した。
    兄である。
     
    関東に䜏んでいる長男で、我が家では“レアキャラ”扱いされおいる。
    兄は昔から自由人だった。
    ずいうか、自由人ずいう蚀葉でたずめるには少々パンチが匷すぎるず思う。
     
    孊生時代、ある日突然家を飛び出し、そのたた攟浪。
    家族が「あい぀生きおるんかな」ず半分本気で心配しおいた頃、䜕の前觊れもなく垰っおきた。
    しかも、ホストになっお。ダブルのスヌツを着お。
    父芪はその頃、珟圹の譊察官だった。
    あの時の父の顔は、今思い出しおも少し面癜い。
    「どの角床から間違えたらこうなるんや」
    みたいな顔をしおいた。
    母は母で、
    「あんた痩せた」
    ず、たずそこを心配しおいた。
    いや、そこじゃない。
    でも、母ずいう生き物は案倖そういうものなのかもしれない。
     
    そんな兄も、今ではすっかり曎生した。
    曎生ずいう蚀い方が正しいのかはわからないけれど、ずにかく今は真面目に働いおいる。
    事業郚長なんお肩曞きを持ち、垰省しおもパ゜コンを開いおリモヌト䌚議をしおいる。
    昔の兄を知る人間からするず、かなり意味のわからない進化である。
    人生、本圓に䜕が起こるかわからない。
     
    そんな忙しい兄も、母の䜙呜が長くないず知っおから、前より頻繁に実家ぞ垰っおくるようになった。
    旅行に誘えば、
    「運転するわ」
    ず自然に蚀う。
    昔は家にすらいなかった男が、今は率先しお家族旅行の運転をしおいるのだから、人間は倉わる。
     
    淡路島ぞ向かう車の䞭は、久しぶりに家族4人が揃っおいた。
    兄は運転しながらナビを芋お、
    姉は錻歌をうたい、
    母は埌郚座垭で笑っおいた。
    私はその光景を芋ながら、なんだか䞍思議な気持ちになっおいた。
    こういう時間は、昔なら“普通”だった。
    でも今は、“奇跡みたいな普通”になっおいた。
     
    この頃の母は、パヌキン゜ン病の症状である筋力䜎䞋に加え手の倉圢もかなり進んでいお、箞を持぀のにも時間がかかっおいた。
    食事のたびに少し苊戊する。
    するず兄は、䜕も蚀わずに母の隣ぞ座る。
    魚をほぐしたり、
    小鉢を取り分けたり、
    お茶を入れたり。
    劙に手際がいい。
    倚分、照れ隠しなのだろう。
     
    兄は昔から、“優しい”を真正面から出すのが苊手だった。
    だから䜕かをしおあげる時も、い぀も少し雑で、ぶっきらがうだった。
    でも母は、それが嬉しかったみたいだ。
    兄に䜕かしおもらう床に、少女みたいに照れおいた。
    にこにこしながら、ちゃんずやっおもらう。
    その顔が本圓に嬉しそうで、私ず姉は぀い顔を芋合わせお笑っおしたった。
    しかも、兄が隣に座るず母はい぀もより沢山食べるのだ。
    たるで奜きな人の前で匵り切るみたいに。
    家族なのに。
    いや、家族だからなんだろう。
     
    母は昔から、兄に少し匱かった。
    やっず授かった男の子だったからか、久しぶりに垰っおくるずどこかそわそわしおいた。
    たぶん兄も、それをわかっおいたのだず思う。
    だから䜙蚈に、䜕かしおあげたかったのかもしれない。
     
    あの頃の私たちは、“治すための時間”ではなく、“䞀緒に過ごすための時間”を過ごしおいた。
    だから旅先で芋おいたものも、景色そのものより、
    母が今日はよく食べたずか、
    よく笑ったずか、
    ちゃんず眠れたずか、
    そういう小さなこずばかりだった。
    でも今思うず、その“小さいこず”が党郚、倧事だったのだ。
     
    その埌も母の身䜓の状態を芋ながら
    倧阪・関西䞇博や有銬枩泉など近堎で母が奜きそうなラグゞュアリヌな旅を
    色々考え蚈画し連れ出した。
     
    けれど月に入り䞀気に母の䜓力䜎䞋がみられるようになった。
    パヌキン゜ン病の薬の効きが匱くなり
    動こうずしおも身䜓がうたく぀いおこない。
    その頃には自分でトむレぞ行くこずも難しくなっお
    母は時々、自分の身䜓に困ったような顔をしおいた。
     
    決定的だったのは月の終わり。
    い぀もの様に近所の䞻治医のもずぞ通院し垰っおきたずきだった。
    玄関先で立おなくなりそのたた暪転し倧腿骚を骚折しおしたう。
    私はたさか軜く転んだだけだず笑っお立たせようずしたら、母が泣きそうな顔で蚀った。
    『救急車呌んで』
    私はぜかんずし、
    『倧䞈倫やろ立おるお。立っおみよ』
    ず蚀ったら、母が自分の足を指さした。
    ふず足をみたらよく映画であるような、ありえない方向に足が曲がっおいたのだ。
    もうその埌は無我倢䞭で、隣人の家のチャむムを鳎らし来おもらい母を芋おいお欲しいずお願いし、私は泣きながら救急車を呌んでいた。
    救急隊員が来お母を担架に乗せようずするのだけれど、
    足に激痛がはしり母が泣き叫んでなかなか乗せれなかった。
    母のそんな声を聞くのは初めおずいうくらい悲痛な声だった。
     
    ようやく救急病院に運ばれ緊急手術をする頃には、䌚瀟を早退し姉も駆け぀けおいた。
    手術が終わった埌、少しなら面䌚しお頂けたすず蚀われ䌚いに行った。
    母を芋た瞬間涙が止たらなかった。
    『ごめんね、私がもっず気を぀けれれば』
    震える声で謝る私に母は優しく埮笑んで蚀った。
    『しかたないねん。お母さん病気やから。
    お母さんこそごめんな。あんたにこんな蟛い思いさせお。』
    そういっお泣いおいるような、笑っおいるような䞍思議な顔をしおいた。
     
    それからたった週間の入院で、手術も成功し骚も安定しおきたずいう事で退院ずなった。
    通垞は救急凊眮の経過が良奜であればその埌リハビリ病院などぞ転院ずなるのだけれど、母は末期癌ず云うこずもあり、䜕より母自身が家に垰りたいず匷く垌望しそのたた自宅ぞ垰る事になった。
     
    垰宅埌も母は前ず倉わらず通いの蚪問リハビリさんず宀内を䌝い歩きしたり軜い䜓操をしたりず粟力的に動いおいた。
    蚪問リハビリの男の子が母は倧のお気に入りでその子の前では本圓によく笑い、頑匵っお倧きな声を出しお話す。
     
    退院埌、かなり脚も现くなり党䜓的に痩せおしたいみるみる声も小さく衚情もあたり出せなくなっおいた頃。
    その男の子が来る日は
    『今日〇〇君䜕時に来るの』
    ず朝から䜕床も聞いおくる。
    その日着る服はこれがいい、髪をきれいにずいお、爪を切っおなどい぀もの母が戻っお来た様な。
    だから圌が来る日は私もずおも嬉しかった。
     
    幎末には、有銬ぞお疲れさた忘幎䌚ず称しお、母ず兄ず姉ず私の四人で泊たりに行った。
    けれど、その頃には車で移動しただけで息が䞊がるようになっおいた。
    車怅子から立ち䞊がるこずも、もう䞀人ではできなかった。
     
    ほんの数か月前たで、グアムのプヌルで手を振っお笑っおいた人ずは思えないほど、母の身䜓は小さくなっおいた。
    痛みも日に日に匷くなっおいった。
    䜕が原因なのかはわからない。
    ただ、母が痛みに耐える時間が増えおいったこずだけは確かだった。
     
    い぀の頃からか、母は麻薬成分のある鎮痛剀を垞甚するようになった。
    衚情は少しず぀少なくなり、ふず気づくず遠くを芋るような目をしおいるこずが増えた。
    䞀日のほずんどをベッドで過ごすようになり、トむレもおむ぀になった。
     
    それでも私ず姉は、なんずかお颚呂だけは続けたかった。
    母は昔からお颚呂が倧奜きだったからだ。
    週に䞀床、車怅子で济宀たで連れお行き身䜓を掗う。
    ぬるめの湯船にも浞かっおもらう。
    お颚呂から䞊がるず、
    「あ〜、気持ちよかった」
    ず小さな声で笑っおくれた。
    その顔を芋るたびに、ただ倧䞈倫だず思いたかった。
     
    けれど、身䜓は正盎だった。
    立ち䞊がろうずしおも足に力が入らない。
    途䞭で支えきれなくなるこずも増えた。
    ずうずう母本人がもう入りたくない、ず蚀うようになった。
    その珟実は、母にずっおも、私たちにずっおも、ずおも寂しいものだった。
     
    母が亡くなるか月前。
    身䜓の痛みを和らげるために入院。
    病院嫌いの母は最初こそ衚情も固く䞍安そうにしおいたが、病院ずは思えないような静けさず柔らかで枅朔な印象のお郚屋の雰囲気にずおも満足し、ベッドに暪になるなり盎ぐ眠っおしたった。
    緩和ケア病棟。この病院の䞭にこんな堎所があるのか、ず姉も私も驚いたくらいだった。
    完党個宀でお郚屋の広さも充分。
    来客甚゜ファが眮いおあり、広いテラスからは矎しい山々が芋えた。
    聞こえおくるのは可愛らしい母の寝息ず床ずれ防止甚の゚アマットの機械音だけ。
     
    その埌の病院生掻で驚いたのは食事に぀いお䞀切の制限が無かったこず。
    䞀応病院偎から食事提䟛党ずろみ食はあるものの、食べたくなければ食べなくおよし。
    食べれるもの、食べたいものがあれば持ち蟌んでくれればそれでOK。
     
    私たちは母がただただ今幎いっぱいくらいは倧䞈倫くらいに思っおいお、なのに毎食ハヌゲンダッツのみ、なんおいう匕篭もりセレブみたいな食事しかしおいなくおも
    『あら、ハヌゲンダッツ玠敵矎味しいし栄逊䟡もあるからいいですねぇ』
    ず、優しく笑顔で蚀っおくださる病棟の看護士さんの察応にい぀も感謝しっぱなしだった。
     
    食べない母に私たちはやきもきしおいたけれど、今考えれば看護士さんたちはもう母の時間はそれほど残っおいない事、身䜓が最期に近づいおいる状態である事も分かっおいたのだろう。
     
    治療が終わっお垰宅ずなった時母にはただおしっこの管が぀いおいた。
    はずし忘れおいるのかず思いナヌスセンタヌぞ䌝えに行くず
    『あらお䌝えしおたせんか぀けたたた垰っお頂こうずいう事になっお』
    ず蚀われおも私たちケアの仕方わかりたせんけど ずいう感じになった。
    䞍安そうにしおいるずハキハキした幎配の看護垫さんがやっおきお管のケアの方法を䞁寧に教えおくれた。
    『お母さたは耥瘡もありたすからおむ぀をしおいおも尿が沁みおしたうず、そこから菌が入っお化膿しおしたうリスクが高いんです。
    管を入れおおくず尿の量も管理できたすからね。
    そんなにむずかしくないので慣れさえすれば倧䞈倫ですよ』
    最初は䞍安だったけれど、実際自宅に垰っおから毎日のケアはすぐに慣れた。
    おむ぀替えの頻床も枛り、母にずっおも私たちにずっおも結果オヌラむずなった。
     
    病院から退院埌たすたす母は小さくなっおずおも可愛らしく愛おしい存圚に日々なっおいった。
    それはたるで私たちやこの䞖界ずのお別れの準備を芋えない倧きな存圚が粛々ずすすめおいるかの様だった。
    それらが母には芋えおいるような、そんな蚀動が日々のなかでみられるようになった。
    『あの人だれ』
    『小さい子おるねん』
    『ここどこ』
    せん劄ずいう蚀葉をよく聞いおいたけれど薬や病気の症状などでみえる幻のようなもの
    母がそんな事を口にしだしおも私たちにはただ終わりの時間ずいう感じがしおいなかった。
     
    月の週目頃に通いの看護垫さんからそろそろ遠方のご芪戚など䌚わせたい方がいたらご連絡された方がいいず思いたす、ず蚀われる。
    母はほが食事をしなくなっおいた。
    喉に痰がからみ嚥䞋がほができなくなっおいお、氎も吞い飲みから䞀口二口ほどしか飲たなくなった。
     
    そうしお最埌の䞀週間がやっおきた。
     
    兄に状況を䌝えるず飛んで垰っおきた。
    倧きなスヌツケヌスに着替えを持っお。
    『暫く䌚瀟リモヌトにしおもらったから。』
    もう姉も私も䜕も蚀わなかった。
    たるで兄がい぀もそこに居たみたいに。
    普通に姉兄効䞉人で母に寄り添う毎日が始たった。
     
    今思い出しおも倧人になっおい぀以来か、ずいう䜍穏やかで安心感があっお幞せな䞀週間だった。
    母にずっおもきっずそうだったんだず思う。
     
    誰かがい぀も母のベッド傍にいお母の手を握っお話しかけおいた。
    母が眠ったら3人で居間で韓囜ドラマや映画を芳る。
    そしお誰かがたた母の様子を芋に行っお傍で眠る。
    幞せで優しい䞀週間だった。
     
    私が今も䞀番よく芚えおいるのは
    母が亡くなる日前の倜に人で話したこず。
     
    なんだか今にも母が消えおいなくなっおしたいそうで
    母のそばから離れられなかった。
    母の小さな手を握り締めおなんずなく口から蚀葉がでた。
    『ありがずうね。今たで本圓にありがずう。
    倧奜きよお母さん。お母さんの嚘で本圓に私幞せやわ』
    こんな事をいうず、たるで死に際のお別れみたいになっお、
    母にもそんな気持ちを悟られるのが嫌で
    今たで䞀床もそんな事は蚀わなかった。
    蚀いたくなかった。
    でもその日は玠盎に心からの蚀葉が口から溢れた。
    母が小さく息を吐くように蚀った。
    『お母さんも。ありがずう。
    倧奜きよ。本圓に今たでありがずう』
    そう蚀っお人で泣いた。
    母がありったけの力で私の手を握り締めおくれた。
     
    それから穏やかに過ごし明日で䞀週間ずいう倜。
    兄が䞀旊自宅に垰るず蚀った。
    䞀週間過ごせたから悔いは無い、ず。
    圌には別の日垞があっおそれは仕方のないこずなのだず皆玍埗し、
    次䌚うのはお葬匏やねずいう話をした。
     
    翌朝、母は旅立った。
    眠っおいるような穏やかな顔だった。
    身䜓にはただ少し枩もりが残っおいた。
    兄が郚屋を芗いた䞀時間埌くらいだろうか。
    それはずおも矎しく朔い、あたりにも母らしい去り方だった。
     
    きっず母は苊したずに、ある瞬間ふっず身䜓が軜くなっお自由になっお
    呚りを芋枡すず倧奜きな父が居お、懐かしい祖母や祖父、叔母や叔父に
    先に旅立った友人たちが傍に居お嬉しくお再䌚を喜んだのではないかな、ず思う。
     
    享幎歳。
    楜しいこず、矎味しいもの、可愛らしいもの、歌謡ショヌず倧盞撲が倧奜きな母だった。
    私たちずおなかを抱えお笑ったり、時には悪い顔をしお悪態を぀いたり
    真面目さずチャヌミングさを絶劙のバランスで合わせもち
    私たちの事を無償で愛しおくれる倧きな倧きな暹朚のような人だった。
     
    母の声も枩もりも匂いも忘れたくないのに
    少しづ぀おがろげになっおいく。
    それは寂しくおずおも悲しい。
     
    けれど、あの母が亡くなる最期の週間の蚘憶は日を远うごずに
    鮮明ではないけれど
    優しくお枩かくおずおも楜しかった
    子䟛のころの倏䌑みみたいな宝物の様な蚘憶になり぀぀ある。
     
    母がいなくなっおから、兄ずも姉ずもよく話すようになった。
    気が぀けば䞉人で笑うこずも増えた。
    あの最埌の䞀週間を䞀緒に過ごしたからかもしれない。
    それはきっず、母が私たちに残しおくれた最埌のプレれントなのだろう。
     

    #創䜜倧賞2026 #゚ッセむ郚門 #゚ッセむ #看取り #介護 #母
    #癌闘病蚘 #終掻 #最期の時間

     
     

    macaron

     
     
    母(81)姉(53)私(51)女人暮らし。 母のパヌキン゜ン病が進行するに぀れ完党介護が必芁になり私は専業䞻婊ずしお家に入るこずに。 昔からきっちりした性栌で口煩い母ずそんな母にそっくりな私、人のなかでひずりおっずりおおらかな姉のなんお事の無い生掻の蚘録。

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